アイキャッチ画像: (C)2020「mellow」製作委員会
こんにちは、好きなお花はオオアマナのワタリ(@wataridley)です。
今回は映画『mellow』の感想を綴っていきます。
監督は昨年『愛がなんだ』『アイネクライネナハトムジーク』を手掛け、恋愛映画の旗手とも言われる今泉力哉。主演に田中圭を迎え、昨年の2作とは異なって脚本はオリジナルとなっています。
公開初日の夜に楽しみにして都内劇場へ足を運んだところ、女性の観客が多く、主演・田中圭の力をひしひしと感じました。かくいう自分がこの映画を観ようと思ったきっかけは、監督・今泉力哉でした。直近の2作は、どちらも2019年の邦画作品の中でも指折りに好きだったので、自分の中ではその名を聞けば反射的に観に行く位置づけになっています。
実のところ、自分は『おっさんずラブ』のブームに乗っていないために、田中圭を劇場で観るのが初めて、かつ他のキャストもほとんど馴染みがありませんでした。しかし、演者本人の気色をじっくり見せてくれる映像や、どの人物の機微にも一定の焦点を合わせるあたたかい視点のおかげで、どのキャストからも目が離せませんでした。
また、そんな人々を観察するうちに浮かび上がってくる恋愛観は、誰もが抱えるわだかまりを解いてくれるかのようでした。今作では、なかなか相手に思いを伝えられずにいる人が出てきますし、また伝えたからと言ってうまくいくとは限らないシーンも出てきます。そんな時、誰もが負の面に目を向けてしまいがちですが、今作は寧ろそこから紡がれていく先にまで目が向いているのです。
それがとても心地よく、映画を観終えてみると、過去の失敗に何かしらの意味を見出せる気がしていました。
以降、ネタバレを含めた感想を語っていきます。未見の方はご注意ください。
78/100
目次
同じ場所に居合わせているかのような感覚を与える画面作り
今作は、花屋「mellow」の店主・夏目誠一と、父から継いだラーメン屋を営む古川木帆の微妙な距離が物語の軸であり、その周囲を囲うように中学生の宏美と水野、花屋の契約顧客の青木夫妻、そして木帆の父といった人々の告白がある。
この人々が思いを伝えるにあたり四苦八苦する模様は、まるで自分がその場に居合わせて観察しているような感覚を終始与えてくれる。ラーメン屋で別れ話をするカップルがいたり、お絵描きをしていたら恋話をする人と同じ空間に居合わせるといったシチュエーションは、そっくりそのまま観客が立たされているように思えるのだ。
映像の力点は演者による掛け合いと表情に委ねられており、定点カメラも話し手と受け手を同時に捉えていることが多い。悩みを打ち明けてうな垂れた妻と、予想だにしない告白を受けた夫が放つ気まずさも、両者が向き合う絵によって実寸で見せてくれる。コーヒー豆を弄る仕草が更にその場の空気を語っている。唐突な難題を前にしたらきっと自分も、手持ち無沙汰を紛らわすために、とにかく目の前のものを手に取るだろう。
水野と宏美が2人で座る場面にしても、一方は足を揃え、一方は胡座をかいた座り方に彼女達の性格の違いが表れている。その上で、宏美が他に好意を抱く人聞く時の好奇に沸いた表情や、それに対する水野のふて腐れて顔を背ける仕草があるから、彼女達が振り振られの気まずさを超え、互いに安心していることが感覚的に理解できるのだ。
その逆に、1つの画角に収めないことで話し手の切り返しが印象付けられている場面もある。青木夫妻に関する愚痴を聞いた後、さりげなく木帆が夏目のプライベートに話題を振らす一連のやりとりは、カウンターの前に立つ木帆と、奥のテーブル席に座る夏目を交互に映している。画面の遷移する度に、それぞれの表情にフォーカスし、駆け引きが行われているのだと察せられる。そして最終的に、花屋としての矜持をこぼした夏目を見つめる木帆という画がそのシーンを締めくくることで、後々の彼女の告白が際立ってくる。
今作は、演者の芝居やカメラだけではなく、構図の面でも見るものを引き込んでくる。特に向かって左手に受動者を、右手に能動者を置くという被写体の配置はそれとなく観客にそのシーンの展開を予期させるものだ。妻が夫に対して胸中を告白する場面でまず夫が右、妻が左という構図を擦り込む。そして今度は、夏目が左、夫妻が右に座ることで見る者に「夏目対夫妻」を意識させ、夏目の立たされた不利な状況を示す構図となっている。
『mellow』前半とアレと後半のアレの被写体の配置を被せて無意識に同様の展開を期待させるところとか、さりげない感じがとても好い。
— ワタリドリ(wataridley) (@wataridley) January 18, 2020
結果的に、夏目は一方的に悪者扱いされてしまう珍妙な場面であるが、これがまた後に再度繰り返される。今度は、宏美から夏目への告白の場が同様の配置を取っていて、夏目が左に、水野と宏美が右に座っている。だからこれを見た瞬間に、先の場面を思い出して思わず笑ってしまった。結局、この場面では告白はできなかったが、その後に夏目と宏美が1対1で同じ机についたシーンでは、きちんと告白することができている。
思い返せば、告白をしようとするもうまく折り合いがつかない場面は伝える側が味方をつけていて、逆に告白に至って気持ちを精算している時は1人で相手に伝えている。人に想いを伝えるにあたって重要なのは協力者の存在ではなく、最終的には自分1人で踏み出さねばならないということを示しているのかもしれない。
加えて、環境音もそのドラマが起こっている場所が、「舞台の上」ではなく「日常空間」であることを仄かしている。窓の外には行き交う人々の雑踏があるし、ある場面では工事の作業音が漏れ聞こえてくる。花屋をはじめとした室内美術が凝っているのは言うまでもないことだが、今作は周囲の環境音も取り入れてることにより、まるで演者のために用意された書き割りの背景などではなく、どこかに実在する空間のように捉えさせてくれる。
また一方で、環境音がそのシーンの情緒を引き立てることもある。水野が宏美に告白した場面においては、うっすら空から響く飛行機のエンジン音が水野達の動揺に重なるように聞こええる。演者の緊張した面持ちと相まって、その空間の息の詰まる感じが、画面越しに伝わってきた。
画面内の情報はそれぞれが自然に流れていて、我々の住む世界で起こっているように見える。各々が思いのままに生きている感じがして、人工めいた匂いがない。故に、各々が打ち明けた先にある幸福に説得力が伴い、一観客の自分をも生の目撃者にしてしまうのではないかと思うのだ。
(C)2020「mellow」製作委員会
伝える行為に潜む連鎖性を描いたドラマ
今作が取り扱う「自分の気持ちを相手に伝えること」というのは、シンプルに思えて、時にとても難易度の高い行為である。夏目と木帆のように互いに思いを打ち明けない付かず離れずの距離を保ち続ける人もいるだろうし、あるいは伝えたものの思い通りにいかずに悩む人もいるだろう。失敗への恐怖が足枷となり、踏み出したいのに踏み出せなくなる。痛いほどわかる普遍的な人間の心理である。
今作は、そうした足踏み状態のペアが、実際に踏み出そうとする場面までを描いている。
では、そのきっかけは何だったのか。今作のその答えはとてもあたたかい。足を踏み外してしまった人も、踏み出そうとしている人も、踏み出した人すべてに通ずる道理を描き出していた。
(C)2020「mellow」製作委員会
伝える行為の側面としてのエゴ
今作の前半では、夏目が契約顧客の麻里子に惚れられてしまったためにちょっとした揉め事に巻き込まれる様が展開される。既に夫がいながら他の人を好きになってしまった麻里子が、夫を巻き込み、夏目を困惑させる。ともさかりえのメルヘン混じりの柔らかな雰囲気と、田中圭が理不尽な目に遭う修羅場のギャップが、とても可笑しいシーンになってはいるが、この部分は物語においても重要である。好きだと伝えて万事解決とはならない、恋愛をとりまく人の気持ちの難しさがここで提示されているからだ。
夏目は「1対1で自分に打ち明けてくれればよかった」と言うが、夫は「夏目への思いを隠して自分と妻が過ごすのがよかったのか」と言う。各々の視点に立てば、どちらの言い分も正当だ。当の麻里子本人にしても、隠して生き続けるよりも表に出して精算したいという自分なりの筋を通しているわけだ。こうなってくると、もうエゴとエゴのぶつかりあいである。夏目は波風を立てたくない、夫は妻のために在りたい、妻は自分の気持ちを隠したくない、とそれぞれの利害が拗れて、結局夏目は家から追い出されてしまう(たぶん契約も切られてしまう)。このエピソードは、「自分のため」が「相手のため」になるとは限らないことを端的に物語っていて、告白とエゴイズムを結びつけている。
ラーメン屋を畳むことを夏目に告げた際の木帆の台詞は、まさしくこの展開を本筋にはっきりと重ねるものだ。彼女は、閉店するからといって来る客は所詮は自分のためなのだという考えを口にし、閉店告知を躊躇う。
確かに、彼女の言う通り、何かを伝える行為の裏には必ず利己的動機が潜んでいる。お店の閉店告知には「もうそろそろ終わるから来てくださいね」という示し合わせのニュアンスを少なからず持っているであろうし、閉店に駆けつける客側は相手に別れを惜しむ名目で単に自身の思い出作りがしたいだけなのかもしれない。
ちなみに、彼女がこうした発想を持つのは、この物語の最後から逆算して、形にしてしまうことで確定することを潜在意識下で恐れていたからだ。父親が病床に伏したことをきっかけに、留学という夢を終ぞ告げずにラーメン屋を継ぐ形になった彼女の境遇は、明確な意思表示をしないことで成り立っていた。その立場に甘んじていた彼女が、閉店の際にも曖昧な別れを選ぼうとするのは、自然だと言える。
(C)2020「mellow」製作委員会
想いを形にすることで生じる連鎖性
しかし、夏目は仮にそうであっても、突然の店仕舞いに悲しむ人の存在を挙げて反論する。
もし自分があのラーメン屋の常連で何も言わずに店仕舞いとなっていたら、どうだろう。そう考えると、自己満足であったとしても、感謝の気持ちを伝えたいというのが人情だ。伝える機会がそのまま訪れなかったら、そのお店を惜しむ気持ちは側から見れば無かったことになってしまうかもしれない。
大学時代の友人との会話にも出てきたように、この世の中にある「好き」という感情がすべて表沙汰なるわけではない。これを書いている自分も、なんとなく好きというレベルの好意をそれなりに持ってはきたが、手の内に隠したまま握り潰してしまったことが幾度となくある。そうなってしまえば、誰からも認識されることなく、後悔として残るのは自分という内部に限定される。
夏目に伝えず留学に発とうとしていた木帆も、その道を辿ろうとしていた。
そんな木帆と夏目とは対照的に、宏美に想いを打ち明けた水野ははっきりと振られてしまう。だが、奇しくもそれによって距離を縮めることができた。行動によって結果を得たサンプルとも言えるが、それだけに留まらず、宏美から夏目への告白へと連鎖していくことになる。
想いを伝えた相手は別の人に恋をしていて、その人もまた別の人に…という話ではあるが、それぞれが通じ合わない想いというよりかは、もっと前向きな連鎖反応である。告白を受けた人は、みないずれも「ありがとう。でも、ごめん」と口にする。応えることはできないけれど、伝えてくれたことは感謝をする。想いは受け止められ、受けた側の内に燻る火に薪をくべるのだ。
それは、時に当人達同士の枠を超えて広まりうるものとして描かれる。水野の告白を見て、いてもたってもいられず想いを打ち明けた同じ部活の子がそれを象徴している。
ラーメン屋で別れ話をしていた人が言っていたように、相手に自分の気持ちを伝える行為は、所詮「自分のため」なのかもしれない。しかし、それでも宏美達のように、伝える行為が伝播し、誰かの背中を押したり、あるいは未来の自分の一部になったりして、連綿と繋がっていくことがあるはずだ。
『mellow』、結果がどうであれ伝えることが大事なんだっていう話に留まらず、それが繋いでいく模様があるから、ああいいなって思えるのがいい。
— ワタリドリ(wataridley) (@wataridley) January 19, 2020
宏美から告白された夏目も「ありがとう。でも、ごめん」と言うが、さりとて一方的に振る側としても描いていない。彼自身もかつては好きな花屋の子に振られた経験を語っており、花屋になった理由のひとつかもしれないと話している。振られるというのはなかなかショッキングなのだが、それは不毛な失敗なんかじゃなく、細々と、形を変えてでも、連綿と今に繋がっていることを示しているのではないだろうか。夏目を含めた誰もがこの連鎖構造に入っているのだ。
オープニングで水野が花束を買って始まった告白の連鎖が、こうして店長である夏目に戻ってくる流れを取っているのが心憎い。そして最後には、ラーメン屋の亡父が生前に書いた手紙と、木帆の別れの手紙がそれぞれの本懐を明かすことによって、2人は向き合うことになる。伝える行為が折り重なって出来たのが、この2人の最後なのだ。
1対1で向き合う中、木帆が照れ隠しのような切り出しをするところで映画は幕を閉じる。今作は過程に重きを置いているから、結果は明示しない。それに、彼らを見てきた自分には、言うまでもないことのように思える。
(C)2020「mellow」製作委員会
まとめ: 過去にした失敗に優しくなりたくなる
考えていることを表に出すというのは、人間のもっとも基本的なコミュニケーションだ。けれども、そこには答えがなく、思い通りにいかないことがある。それを恐れて過剰に口に出すことを躊躇ってしまったり、逆に失敗した経験を思い出して気遅れすることもある。
今作が直接的に取り上げている恋愛なんて、結果を左右しようのない極めて不確実な賭けである。どれだけあの人に尽くしたところで、そっぽ向かれたら、それだけで世界から自分が置いてけぼりを食らったような気分になってしまう。
今作は、そんなネガティヴな気持ちを、日常の延長線上で起こっていると錯覚するようなリアリティと程よい滑稽さで紡がれたドラマで救ってくれる。
田中圭が発する文字にならなそうな「そか」とか、7×7=42とか、告白する時の表情の強張りは、自分の人生の1シーンで見たような感じがして、まるっきり他人事には思えない。部活動で「ファイト」と叫んでいる時に周囲の音が消え去るような感じが、自分の記憶を鮮明に映像に起こしているかのようにさえ感じられた。
そうした描写の数々が、まさに普遍的な人間模様を形作るコミュニケーションの正の面を心強いものにしてくれている。自分のためであっても、回り回って誰かに作用するかもしれない。花屋に振られた人のように未来にも影響するかもしれない。この映画を見て、過去の失敗に少しは優しくなれる気がする。
P.S.しかし、どう考えてもあの岡崎紗絵が店主を勤めるラーメン屋は繁盛すると思う。
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