こんにちは、おせちと言えば数の子、ワタリ(@wataridley)です。
今回レビューするのはレディ・ガガ主演、ブラッドリー・クーパーが監督及びキャストを務める『アリー/スター誕生(原題:A Star Is Born)』です。
今作は、やはりキャストの目新しさと話題性がなによりも目に付きますね。レディ・ガガは個性派な音楽アーティストとしての顔しか知らなかったため、今回の素顔が見える装いは驚きでした。また、『アメリカン・スナイパー』『ハングオーバー!』シリーズに出ていたブラッドリー・クーパーは、ガガ演じるアリーのパートナーを務めると同時に今作の監督もしているとあって、見るからに興味がそそられる制作体制です。
本国では賞レースにおいても有力視されているようで、(受賞は逃しましたが)ゴールデングローブ賞といった権威にノミネートされています。IMDbやRotten Tomatoesにおける評価も高く、レディ・ガガの女優デビューとブラッドリー・クーパーの初監督は拍手で迎え入れられたようです。
しかしそんな前評判とは裏腹に、自分はあまり入り込むことができませんでした。
ガガの歌唱力、ブラッドリーの熟達した立ち回りはたしかに素晴らしく、画面に映る2人の微妙な揺れ動きには注目せざるを得ませんでした。
何が引っかかったのか。ひとつに見る前に想像していたこととのギャップを感じる内容だったこと。2つに歌唱パフォーマンスに乗り切れないほどに低空飛行を続ける物語が挙げられます。
以降、物語を思い出しつつ映画の感想を書きます。ネタバレを含みますのでご注意ください。
60/100
大胆で繊細なキャストのパフォーマンス
『アリー/スター誕生』を語る上でレディ・ガガとブラッドリー・クーパーのパフォーマンスは外せない。タイトルに恥じぬブリリアンスをガガ=アリーは見せつけ、彼女の光と呼応して陰りを帯びていくブラッドリー=ジャックの弱々しさにセンチメンタリズムを起こされた。
レディ・ガガ演じるアリーの普段の装いは質素だ。だが、どこにでもいそうでありながらも、歌を歌う時には彼女の得意とするモードに入り込む。
歌声に関しては言うまでもないが、それ以上に素晴らしいのは表情だ。アーティストは自身の作品に没頭し、歌詞に偲ばせられた感情を面に発露させる。パッションがその場を支配するには、声のみならず表情も重要なのだとレディ・ガガの顔を見て思い知った。ライヴシーンはもちろんのこと、ジャックとふたり、駐車場でいる時のささやかなパフォーマンスにもそうした歌のモードに入り込んでおり、胸に迫るものがあった。
ジャックを演じたブラッドリー・クーパーは、物慣れていてこちらに語りかけるような歌唱力を冒頭から惜しげなく披露してくれる。
反面、その慣れきったスターの姿にはどこか諦観を思わせる。サインや写真を求められた時の飄々としたやり取り、写真を勝手に撮られた時の気に留めない様子からは、今の生活に浸るうちに感覚がいくぶん麻痺しているような印象も受ける。煌びやか人気歌手が人知れず抱える悲哀をブラッドリーは巧みに表現しており、『ハングオーバー!』シリーズでのバカバカしさは一体なんだったのかと思うぐらいだ。
この映画の軸となっている2人の掛け合いの中でも、自分は特に初対面の楽屋のシーンが好きかもしれない。化粧を剥がすジャックのテンダーな手つき、アリーの動揺する瞼、ゆっくり剥がれるつけ眉毛は、とても穏やかに2人の接近を印象づける。余計な音楽や雑音もなくクローズアップで映し出されるからこそ、いっそう注意を引かれるシーンになっていた。
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC
同じ場所にいながら違う方向を見るふたり
昼はレストランの裏で雑用をこなし、夜はドラァグ・バーで歌うアリーは真正面から陽を浴びることがない。卓越した歌唱力を持ちながらも、顔のパーツを理由に音楽の表舞台からは弾かれてしまう。ゴミを捨てて独り歌いながら歩く彼女の後ろ姿は素朴で飾り気がない。
しかし、そこでぼんやりと浮かび上がる「A Star Is Born」が示すように、輝きをその内に秘めている。家庭、仕事、バーの三重生活を送りながら彼女は歌を作り、歌を歌い続けている。バーでのパフォーマンスも決して投げやりではなく、その時その時の外国語の歌を熱を入れて歌いこなす。発揮する場がないだけでポテンシャルは一流なのだ。
かたや既に成功を収めたミュージシャンのジャクソンは一見スポットライトを浴びる側のようでいて、実は病的に神経をすり減らして生きている。映画のファーストカットから酒を飲み、ことあるごとに薬に頼る破滅的な生き方は、彼の生い立ちに起因する。
彼が歌う曲“Maybe It’s Time”は過去を追想する曲になってるのも、今もなお後ろ髪を引かれる彼の心情を表してるように見える。父親との思い出である牧場を巡っては、年の離れた腹違いの兄と確執が生まれてしまいもする。彼は過去に囚われた存在だ。
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC
アリーとジャック。2人がお互いに交わり始めることで、アリーはまさしくスターの如き輝きを得ていく一方、ジャクソンは凋落していってしまう。
アリーは過去を振り返り、頭を悩ますことはない。彼女にとっての専らの心配事は常にその時その時に直面している問題だ。ファンションやダンサー、ツアーのアイデアに関してマネージャーと意見を衝突させるし、みるみると悪化していくジャックに苛立ちを見せる。
惹かれ合った2人は残酷にもライフスタイルが異なっている。出自に端を発した苦悩から、ドラッグやアルコールに手を染めるジャック。日陰者だったかもしれないが不貞腐れることなく日々を生きていたアリー。
アリーがスター街道に乗ると、ジャックにとってその志向の違いは如実に目を背けたくなる苦しみに変わっていく。余計に酒に逃げていき、挙げ句の果てにはアリーに自身の過ちの肩代わりをさせてしまう。
最期に彼が取った選択は、苦しみから手っ取り早く逃れる唯一の方法だったのかもしれない。しかし、その行いは残された者たちを傷つける。アリーはジャックが感じていた痛みを終ぞ知ることなく、行き場のない苦しみに折り合いをつけるべく自身を責める。ジャックの選択がいかにアリーのためのものだったとしても、今を滅してはどうしようもなくなってしまう。
皮肉にもアリーは最後、彼との日々を2人で作った曲に乗せて回想する。過去に苦しめられていたジャックの死によって、アリーもまた過去に苦しむ。彼女の瞳から涙が控えめに溢れかけるところで幕を閉じるラストカットが目に焼きついている。
あのラストカットの後、追悼式のパフォーマンスによってその苦衷が晴らされ、彼女の潤んだ瞳からは大量の涙が溢れることを願うしかない。
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC
キャッチーでメタフォリカルな楽曲
今作の目玉としてPRにおいてよく耳にする”Shallow”は、劇中意外と早くにその萌芽と結実が訪れる。
ジャックからのアプローチも酔っ払いに絡まれた程度に捉えていたアリーがレストランでの上司の態度に反発したことから、ジャックのコンサートへ赴くテンポ良いシークエンスを経て、それまで日の目を浴びることのなかったアリーが堂々と自らの歌を自らの手で歌い出すシーンは、ベタな流れを吹き飛ばして余りあるほどに昂ぶった感情の発散場となっていた。
溜めに溜めた上で高音に転じていくあのサビを聞いて、自分の気持ちも昂った。それまで望みをかなえられない場所で燻っていたアリーが、ひとつの境を超えて、深いところへ落ちていく。その決意を力強い歌声で語ってくれるのだから、こちらの気持ちも俄然高まるものだ。
ジャック、アリーの2人のデュオは喜ばしい多幸感に満ちており、序盤らしからぬ盛り上がりがあった。歌詞もboy、girlと呼びかけるフレーズがあるように、2人のプライベートな関係がパブリックなパフォーマンスとして表現される様はじつに大胆だ。
終盤の”I’ll Never Love Again”は序盤の”Shallow”とのコントラストを生んでいる。ジャックの呼び止めに対してWhat?と振り返るアリーの姿が2度描かれているが、それぞれで全く関係性やその後の楽曲の持つ意味は異なる。2人で作り上げた曲を2人で喜び合いながら晴れ舞台で歌う”Shallow”と、2人で作り上げた曲を1人亡き夫を悼みながら追悼式で歌う”I’ll Never Love Again”。
喜びと悲しみの対比が高度な歌唱パフォーマンスに託されている。映画がもつ音や映像を文脈に結び付けて表現したという技術的な観点では、話の文脈はもはや飾りに近く終始楽曲に頼りきりな印象を受ける『ボヘミアン・ラプソディ』よりも真っ当に映画としての堅実さが感じられた。
しかし、思っていたほどの情動はなく
『アリー/スター誕生』にあるスターが誕生する光景自体は序盤のシークエンスで果たされ、後は2人のすれ違っていく過程をじっくりと追っていく構成を取っている。
果実の実の部分は、このダウナーなドラマにある。そこに個人的に期待していた物語とのギャップを感じた。
この構成上、アリーはもはや主役とは呼べず、見るからに凋落していくジャックにこそ物語の重要度は偏っている。結果として、序盤のアリーの大出世に至るまでのパートはジャックにとっての転機としての側面が強く、アリーの人物像は思いのほか表面的に済まされてしまってもいる。だから、レディ・ガガの誇る歌声がいくら強く響いたとしても、アリーの人物像があまり深堀されていない以上、当人の胸の内を探りたくなる追求意欲には駆られなかった。
スターとなってからの彼女の悩みは、マネージャーとの意見の違いやジャックへの憂慮など単純化されてしまっている一方、ジャックには自らの出自に対する負い目や片耳が聞こえないハンディキャップ、兄との確執、アルコールやドラッグから抜け出すことのできない体たらくが密に描かれている。
その割には、彼の苦悩にまつわる原因は、口頭での説明に終始しており、画面には映らない。酒やドラッグに依存する病的な姿こそブラッドリー・クーパーの迫真の演技には見ごたえがあったものの、その背景にあるものに実感が伴わないためか、どうしてここまで堕落してしまうのかがつかめなかった。
振り返ってみると、終始彼が落ちていく過程が物語の大半を占めており、あの結末に向かってのツイストもない。一向に改善する兆しの見えない暗い状況を見続けているうちに、酒に溺れる彼に少々苛立ってしまいもしたし、結末が結末なだけにジャックのドラマについては後味の悪さだけが強く残ってしまった。
(C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC
また、この作品は4度目のリメイクとあって物語自体は古典的だ。スターが埋もれていたダイヤの原石を掘り当て、輝きを与えるなんてストレートに言ってありふれている。
この映画はどうも大胆な脚色を物語上は施すことなく、楽曲に注力しているようだ。その曲をスクリーンで奏でたレディ・ガガとブラッドリー・クーパーはたしかに素晴らしかった。
しかし、王道的な話と音楽にある意外性の欠如を埋め合わせるのは、レディ・ガガとブラッドリー・クーパーであり、その意味でスターありきの物語になってしまっている感じは否めない。2人が大衆に広く知られている本国における評判と自分自身の評価の差異はここに由来するのだろうと思われる。
恋愛ドラマを楽しもうとすると、序盤の入り込みがスピーディすぎることやあまりにありきたりな話仕立てであることから集中が削がれてしまう。音楽映画とみなそうにも、やはりそこに至るまでのドラマの軸足の弱さが気になってくる。最後の結末も気が滅入ってしまい、エンドロールの後にこの物語から何を得られたのかについて苦心してしまった。
また、今作は2人の物語という面を強く押し出すためかアリーとジャックへの寄りのカットが多く、その単調さも観ている最中気になった。ライヴシーンなどでは寄りの状態でカメラが揺れ動くものの、観客席や全体像といったカットはないため、もどかしく感じた。
まとめ: レディ・ガガという映画スター誕生の映画
レディ・ガガ、ブラッドリー・クーパーの両名のパフォーマンスには目を見張るに値する魅力があるのは間違いない。スクリーンで観察しがいのある微妙な揺れ動きを演技面で表現していると同時に、音楽シーンにおいては派手さもある。
気になってくるのは、音楽やスター2人の煌めきから期待されるほど物語に魅力が感じられない点である。
ジャックという人物に共感できる画が作中あったのなら、彼が溺れる様子にも胸を痛めただろう。アリーの人物描写により立ち入っていたのなら、落ちぶれていくジャックと躍進していく自らへの不安に囚われたかもしれない。
今作は、長所と短所がはっきりと分かれている。自分にはレディ・ガガとブラッドリー・クーパーが輝いて映る一方で、物語や人物描写の影は濃く感じられる。
そのため、どちらに比重を置くかによって評価は異なってくる。本国においてはまず間違いなくレディ・ガガのキャリアを踏まえた見方があるだろうし、ブラッドリー・クーパーの初監督作という記念碑的な目でも見られていることだろう。
かくいう自分も大仕事を終えた2人に拍手を送りたくなっている。今作はやや好みに合わなかったが、両名の映画界での活躍にこれからも目を向けたいと思った。