万人受けするための誇張がもたらすアンバランス『ハケンアニメ!』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像:(C)2022 映画「ハケンアニメ!」製作委員会

今回は映画『ハケンアニメ!』についての感想。監督は今作でも出演している中村倫也主演『水曜日が消えた』の吉野耕平。辻村深月による同名小説を原作としたアニメーション業界のお仕事モノである。

昨今ではNetflixやAmazon Primeビデオなどのメジャーなサブスクリクションサービスを開いても真っ先に人気アニメのサジェストが飛び込んでくるほど、アニメは隆盛の折にある。劇中でも言及されているように、かつては子供や一部の愛好家が見る文字通りサブカルチャーだったそれは、今やこと日本においてはメインカルチャーの一環と呼んでも差し支えないのかもしれない。

そんな注目のアニメーション業界の裏側を扱う今作は、劇中劇の「サウンドバック 奏の石」「運命戦線 リデルライト」などのアニメーションをそれぞれアニメ制作会社である東映アニメーションとproduction I.Gが手がけ、その登場人物の声を職業声優が担当するばかりか収録シーンへの出演も務めるなど、アニメーション描写についても実際のアニメ制作に倣い、完成されたパッケージをフルで見たいと思わせる気合いの入りようである。

また、メインで登場する二人のアニメ監督は、東映アニメで『映画 ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー…ですか!?』にてシリーズ初の女性監督として起用された松本理恵と、同じく東映アニメ出身でかつて『美少女戦士セーラームーン』を手がけ『少女革命ウテナ』以降大きなブランクを経て『輪るピングドラム』にて監督復帰した幾原邦彦をモデルにしているので、両名を知っているアニメファンはその点でも語れることがあるのかもしれない。

アニメーションという題材を実写作品で扱い、かつ前述したような実際の制作進行や制作スタッフを見せる今作の試みそのものは他にはない面白さがあると言えよう。ただ、個人的には結構引っかかる部分も多く、それ故に本来熱いお仕事モノにちょっと冷ややかな目つきで見てしまうところもあった。

というのも、物語のあちこちがやたらと作為的なのである。

今作は二人のアニメ監督にそれぞれ試練を与え、それを乗り越える姿をもって観客を感動させようという流れを組んでいる。会社に抜擢された新人監督は理想と現実のギャップに苦しみながらもその殻を破るまでの流れがあり、かつて伝説的なアニメを送り出した監督もまた周囲からの期待を重圧として受けながらも再びアニメ制作を通じて再起を図る流れがある。どちらも下から上へと登って行く話なのだ。

だから物語の前半、吉岡里帆演じる斉藤瞳はとにかくうだつが上がらない人物として描写される。現場では各セクションとの連携もうまく行かず、家に帰ってからの時間も仕事に費やしベッドで寝る暇もなく(というか部屋には寝具がない)、プロデューサーが勝手に進める商談や制作と無関係な仕事に困惑する日々といった具合である。

後半へ向かうにつれて、そうして押さえつけられたバネが弾け、観客も主人公同様に気分良く劇場を後にできるというわけだ。そういう作劇はポピュラーだと思うし、アニメーション業界の裏側が、メジャーなエンタメの様式を展開する舞台として選ばれるということはやっぱり今風だと思う。

ただ、気になるのはそうした「下げ」の描写が、それほどコミカルにもトラジックにも思えない割に、相当露骨な形で執り行われるアンバランスさだ。

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「丸眼鏡をかけた吉岡里帆」の造形からして虚実が全面に出ている。大きな丸眼鏡そのものは悪ではないのだが、それを冴えない人物描写をなすためのアイテムとして体よく使っているというところと、結局それを装着するのがメディアで活躍する吉岡里帆であるというところに、既往のイメージに頼った安直さと一方で徹し切れているとも言い難い矛盾を覚えて仕方がない。彼女を「下げ」るための演出や展開は数々あるが、いずれも万事こうした調子で、露骨すぎるがその割に現実感のないイメージの表象のようなものが作品で悪目立ちする。エクレアを買いに爆走するも閉店に間に合わずガラス戸に顔を打ち付けるなんていかにもであるし、壇上に駆け上がろうとする時にコケそうになったり、あるいはその質疑応答の場で流石にしどろもどろしすぎているのも作為の表出に映る。

いや、わかる、わかるのだ。全ては後半で鬱屈とした感情を覆してカタルシスを味わわせるために仕組んでいるってことは。この場面で出てくる司会者にしろ聴衆にしろ、露骨なほど新人監督に対して軽んじているような素振りを見せるのだって、そのための演出的都合なのだろう。

つまるところ、この作品はわかりやすくアップダウンを演出するために、アニメーション制作にかかる要素を表面的なイメージに沿わせることを優先しているのだ。そして、その過程で本来あるべきディティールや事情が削ぎ落とされるのも致し方なし、というスタンスなのだろう。

しかし、物語がそうした表面的イメージで回っていく故、アニメーション業界を題材にしているところから受ける見る前に抱いた期待の数々(アニメ作りの立役者たるアニメーターの技術的あるいは就労上の苦労、普段注目されない編集や色設定、撮影などの工程の詳細など)は、勝手な期待に過ぎなかったのだと割り切るしかなくなっているのは、やはり期待はずれとなってしまう。主人公はロボットアニメを作っているというのに、その根幹をなしているはずのメカデザインに込められた拘りやフェチズムも画面を通じては見えてこない。というかメカデザイン担当は映画に映っていたかも、思い出せない。

しばしば言われている「視聴率争い」を話の軸としたことによる時代とのズレに関しても、わかりやすく二人のアニメ監督にフォーカスするためのものなのかもしれないが、その対立構図を作り出す過程で、やはり配信サイトはまるでなかったことのように削ぎ落とされている。なのに、劇中ではスマホ越しの視聴ばかりかSNS上の口コミや感想が描かれるというちぐはぐさは、やっぱり今作がイメージ優先で作っていたのだとしても、ちょっと看過できるラインを超えてしまっているように思う。劇中で二人の監督のエピソードとは別軸で描かれるアニメーターと町おこしのエピソードについては、アニメーション制作そのものではなく作ったことによる影響や余波に繋がりそうで切り口としては興味深いのに、これに至っては断片的で単体の話として成立しているわけでもなく、主軸の監督達の話に合流しているようにも見えないのが勿体ない。

色々と不満を述べてしまったが、それでも今作において最終的に主人公が苦心して作ったアニメーションが作り手の手を離れて「受け取った側の物語」へと広まっていく光景は良かったと思う。こういう結末部分を考えると、やはり「視聴率争い」をはじめとしたイメージの誇張的な表現は、劇中柄本佑演じる合理主義のプロデューサー行城の広報戦略の如く「敢えて」行ったものではないかと思いたい…のだが、一方でエンドクレジット後の締めくくりは結局円盤売上にはしゃぐ彼の姿だったり、アニメが万人受けするようになったとする司会者の発言に中村倫也演じる王子千晴が自身の学生時代を持ち出して反抗するやり取りがそのまま反論されることがなかったりするあたり、単に舵取りがうまくいっていないだけなのではという思いを強くするのであった。

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