アイキャッチ画像: (C)2018 Twentieth Century Fox
こんにちは、43インチのPCモニターを最近購入したワタリ(@wataridley)です。
今回は伝説的音楽グループ”Queen“を扱う映画『ボヘミアン・ラプソディ(原題: Bohemian Rhapsody)』のレビューを書き記します。
まず前提として、自分はQueenをリアルタイムで追ったことはありません。生まれた時点でボーカルのフレディ・マーキュリーは既にこの世を去っていたからです。
ただ、その絶大な人気ぶりは世代を超えて、自分の耳にこれまで何度も聞こえてきました。大人気の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』において、”Killer Queen”、”Another One Bites the Dust”、”Bohemian Rhapsody”といった彼らの人気曲がそのまま借用された(作中の特殊能力)スタンドの名前が妙に印象に残っています。カップヌードルのCMで流れた”I was born to love you”の一度聴いたら忘れられないリズムも気に入っていました。
今もなお至る所で豪快に抉ったような爪痕を残すバンドQueenが映画になるというのは、ごく自然なことでしょう。誰もが人気曲の裏側や彼らの人となりを覗いてみたくて仕方ないはずです。
活動当時から追っているファンに比べると、自分は純粋に人気曲だけを掬い上げて聞いてきた身なので拘りも期待感も薄いのですが、それでも映画館であの音楽を聴くことができるとなると、心拍数も高まるものです。
実在する音楽バンドの内実と映画館で流すにあたって優先されるであろうダイナミズムをうまく組み合わせることができたなら、きっとそれはこれまでにない興奮をもたらすことまちがいない。
そう思って劇場に行きました。
そして宣伝が喧伝するクライマックスの伝説的ライヴを目にした自分の手には汗が滲み、劇場を出るときに外気の寒さを強く感じるほど体温が上がっていました。
そうした熱を体に宿す一方で、頭はどこか冷めてしまった部分もあります。
今作最大の見所は観た人にとっては言うまでもなくラストのライヴエイドにあり、その他のシーンはそこへと収束していくように作られています。言わば、ラスト以前のシーンはすべて前振りと表現しても過言ではありません。
自分はこの構成についてどうしても考えてしまうんですよね。
以降では今作の長所、およびその長所を活かすべく生じてしまった弱点についてネタバレを交えて語っていきます。
67/100
キャストの異様な再現度
フレディ・マーキュリーを断片的に記録映像でしか見たことのない自分の目には、ラミ・マレックは完璧な再現に見えた。
(C)2018 Twentieth Century Fox
活動初期の柔和そうな印象を与えるロン毛、エキゾキックな顔立ちといった外見的要素はもちろんのこと、仕草や振る舞いが生粋のパフォーマーらしく堂々としているのも唸らされる点だった。
トレードマークとして多くの人に記憶される整った髭と短髪、白のタンクトップで腕を振り上げる姿なんかは、フレディ本人とのシンクロが際立っていた。とくべつ顔が似ているわけではないはずなのに、ここまでオーバーラップするなんて不気味でさえある。
成功していくにつれて我々の知る彼に近づきつつ、メンバーに対して傲慢さを出してしまう変化を出す一方で、スターらしからぬ孤独感をも演じきっている。
メアリーに夜な夜な電話をかけ、精神的な依存対象として彼女に縋る様は子犬のようでいたたまれない気分にさせられる。彼女にボーイフレンドができたと知った時の表に出さぬ動揺と苛立ちも見事だ。
ステージ上に君臨するスターたる面と、人間的な弱さのどちらをも同じ映画で表現する彼の器量には心底感服した。ついでに薄着故に度々見える胸毛や脇毛がとてもセクシーだった。
他に特筆すべきは、グウィリム・リー演じるブライアン・メイの激似っぷりだろう。お恥ずかしながら自分は彼のことをよく知らないで鑑賞したのだが、ラミ・マレックのフレディとの掛け合いがごく自然で驚かされた。本当に長い時を共にした家族に見えた上に、劇場を出た後に観た写真がそっくりそのままで更に驚愕だった.
↑ブライアン・メイ本人
(C)2018 Twentieth Century Fox
↑グウィリム・リー演じるブライアン・メイ
折々にかかるQueenの名曲
所々に流れるQueenの楽曲が耳に到達する度に体を揺らしたくなった。
この映画の幕開けではライヴエイド当日の模様が”Somebody to Love”と共に流れる。その曲名が指す通り、フレディは劇中愛を模索し、もがき苦しむ。愛を渇望する物語であることが既にこの時点で示唆されている。この曲のメロディは自分に無いものを求めることを明るく歌いながらも時折憂いを感じさせる。
ステージに入っていくフレディの後ろ姿が目に焼きつき、物語は彼の青年時代へと逆戻りする。
ブライアン、ロジャーに自身の歌詞と歌唱力を売り込みバンドに加入して最初に歌う曲”Keep Yourself Alive”は彼の漲る活力をありありと響かせ、フレディ青年の非凡さを印象付けるシーンに仕上がっている。
エージェントと契約を結び、BBCのスタジオにて披露した”Killer Queen”のミステリアスな歌詞と優雅なサウンドも素晴らしい。そんな名曲が流れれば、自然彼らが台頭していくに足るアーティストであることがわかる。”Fat Bottomed Girl”sのライブパフォーマンスも生粋のパフォーマー然としていた。
そして”Bohemian Rhapsody”だ。幻想的な歌い出しに惹かれるも歌詞は物騒。どんどんとその情緒は激しさを増していき、ついには耳をつんざくような高音でガリレオが脈絡なく叫ばれる。四方八方から襲いかかってくるようなオペラが続き、鳴り響くギターを合図にロックに転じていく急展開など、音楽に通じていない自分にも奇抜な設計であるとわかる。常軌を逸した手法を用いたレコーディングで曲が出来上がっていく過程には高揚感があったが、ついにラジオで公開となると批評家から不評を買ったというのも納得ではある。
その後Queenはそんな批判を受けつつも更に勢いを増していく。”Now I’m Here”、”Crazy Little Thing Called Love”、”Love of My Life”のライブパフォーマンスによって、時代の波にのる彼らが描かれる。観客との一体感に喜びを見出したブライアン・メイが彼らとの協奏を遂げるアイデアを形にし、”We Will Rock You”を作るシーンもここにある。
だが、フレディの孤独を契機に彼らの仲は徐々に緊張が持ち込まれていく。弁護士を勝手にクビにしたフレディとメンバーの間に生じた一触即発の気配がその場面で制作していた”Another One Bites the Dust”によって演出されるというのは思わず膝を打った。不穏なメロディ、殺伐とした内容が実に示唆的だ。”I Want To Break Free”にしても、フレディたちの疲弊した関係性を暗に示しているのではないかと思う。
このようにQueenの音楽の奏でる情景がシーンごとにマッチし、それを代表し、締めくくる要素として適切に用いられていたことには感心した。
伝聞したところ、発表した曲順は実際とは異なるらしい。しかし、この映画の限りにおいてはドラマと曲とがミュージカルのように擦りあっており、ドラマタイズは機能していたように感じた。
(C)2018 Twentieth Century Fox
ライヴエイドで巻き起こるオーガニズム
“Bohemian Rhapsody”は初めて聞いた時は、少し抵抗を感じても仕方のない曲だということは先にも述べた。これまでに聞いたことのないサウンドの転換、意味深長そうだが実体を掴ませない歌詞に誰もが理解しがたいという感情から、否定的な見方をする可能性はある。現に当時の批評家からは不評を買ったとある。
しかし、その”Bohemian Rhapsody”がライヴエイドでは劇的に異なって聞こえるのだ。
フレディが歩んできた苦楽を我々は映画でしかと目撃してきた。
メアリーとの出逢いと別れ、音楽への傾倒しやがては没頭していく様、成功と共にやって来た制御不能な人間関係の拗れ、セクシャリティの問題が絡みつき愛したくても愛せない苦衷。
どれもフレディのとっての大きな困難だったはずだ。できることなら回避し、平穏にいたいと願ったはずだ。
ライヴエイドでピアノを弾き始めるフレディの姿は大群衆を前に一瞬もの寂しげに映る。殺人を犯してしまったと告白し、始まった命を投げやってしまったとする重い歌詞と彼の歌声が通い合う。まるでそれまでの苦しみを告白しているようだ。
続く”Radio Ga Ga”もとくべつな響きをもつ。かつては栄華を極めたが、今はもう廃れてしまったメディアたるラジオへの懐古を込めたこの曲を歌うことはそれまでの過去を振り返ることを意味しているのではないかと考えてしまう。”Bohemian Rhapsody”が過ちへの後悔を表したパフォーマンスならば、”Radio Ga Ga”は楽しげに回想する賛歌だ。
何十万といる観客が手を掲げるポーズを取ると、会場では大きな波ができる。その模様がとてつもない迫力を生んでもいて、パフォーマーとオーディエンスの結びつきに圧倒された。
3曲目、”Hammer to Fall”ではアップテンポなメロディと共にテンションも上がっていく。ハンマーが振り下ろされる音というのは、戦いの火蓋を切ることのメタファーかもしれない。それを待ち構えることをポジティヴに歌いきり最後の曲へとバトンが渡される。
“We Are the Champions”は、これまでの歩み総てを踏まえて自分たちへ讃歌を送る曲にほかならない。Weの内包する人々はQueenのメンバーはもちろんのことながら、メアリーやジム、そして観客も含めて、その場に立ち会うすべての我々だ。
熱気こもったパフォーマンスの最後に、立会人全員をリスペクトするフレディが”We love you”という言葉が身にしみる。
単なるライブパフォーマンスが彼の人生の映し鏡に見えるこの感覚は、人生を追うようにして描かれた映画ならではの強みだ。実際のライブパフォーマンスももしかすると、このように各々思いを抱えながら発散しているのではないか、と思わせる舞台裏景色をこの映画は提供してくれた。
IMAX版で鑑賞したことを抜きにしても、これほどまでに映像と音楽に臨場感が宿る映画はなかなかお目にかかれない。自分たちもフレディのライフを目撃するライブ観客となれるのだ。ライヴエイドに至るまでに抑圧された感情がドバドバと放流し、スクリーンの中の人物と観客にとってのオーガニズムを起こす貴重な映像体験だ。
(C)2018 Twentieth Century Fox
堂々とフィクション然と居直ればいいのにと思ってしまった
これまでに述べて来たように、演者の渾身のパフォーマンス、もとより保証されていた楽曲の素晴らしさ、そしてライヴエイドの盛り上がりの3点から大きな満足感を得られた。
だが、今作には上記3点の長所と表裏一体の弱点も存在している。それは、Queen史上に残る最大級のライブパフォーマンスに全てを託す構造上にした結果、この映画の道中に各シーン単体のチャームが存在しない点である。もっと言えば、この映画独自のフレディの物語はQueenの楽曲に見合うだけのパワーを持っていない。
たしかにクライマックスのライヴエイドパフォーマンスは素晴らしい。ドラマの到達点に足るだけの盛り上がりがあり、おまけに当時の景色をほとんどそのまま再現しきっている。ピアノの上に置かれたペプシの紙コップまえ揃えられている。
だが、ライヴエイドの魅力を引き立てるために、それに至る過程はどれも平坦で抑圧的だ。
例えば、フレディがメンバーと出会い、Queenとして大成していくシーンには本来あるべき爽快感はあまりない。あったとしても細かなカットや唐突に挿し込まれるライヴシーンによって小出しにされてしまう。
曲目が披露される合間のシーンで繰り広げられるは、愛を手に入れたくても叶わないフレディの暗澹とした模様や、徐々に崩れていくメンバーとの関係性などだ。
そしてフラットに映画を見た時、これらに肩入れするほどの描写が映画の中には収まっていない。メンバーとの仲睦まじい光景が結成過程できちんと描かれていたのであれば、フレディがソロ活動に乗り出したと聞いた時の彼らの衝突を悲劇と捕らえられたはずだ。だが、彼らはトントン拍子に成功してしまうし、苦楽を共にしたということを訴えかける台詞やアイテムがあまりに出てこない。作中年月がどんどんと過ぎていくスタイルなのに、時の流れに沿った関係性の変化といったものがわかりづらいのである。
そんな中で、孤独を埋め合わせようとパーティを開くフレディに呆れるブライアンの様子やレコーディング時にフレディとロジャーが一触即発となる光景を見せられても同情する材料がないため、険悪なムードを傍観するほかない。
挟まれるQueenの楽曲はどれも素晴らしいのだが、それに至るまでのドラマが基本的に薄いため、楽曲が絡まない合間のシーンは退屈さを隠しきれないのである。
メアリーに至っては、描写不足が祟って、個人的には理解しがたいキャラクターとなっていた。バイセクシャルであることを告白した彼をゲイだと突き放す行動の裏には、当時マイノリティであったLGBTへの戸惑いからくるのか、純粋に心の距離を感じていたのか、考えても掴み所がない。その後も明らかに自分への未練を持っているフレディに対し、中途半端に付き合いを持っていたり、あろうことかボーイフレンドを伴って彼の前に現れる行動理由はまったく読めない。おそらくはセクシャリティを飛び越えて友人関係を形成していくドラマを描きたかったのかもしれないが、いかんせんQueenの楽曲制作ドラマなどでぶつ切りされてしまい深入りできていない。
フレディとジム・ハットンとの関係の発展も急速だ。電話帳から探り出してライヴ当日に会いにいき結ばれる、というのは流石に無理があるように思えた。それと付随して両親にセクシャリティの問題を認めてもらうという流れも処理のスピードが早すぎてこっちの思考が追いつかない。
Queenの音楽シーンについては目と耳で楽しめる工夫がなされているも、これらはあくまで前後のドラマパートの中継点であり、単体で見せ場となっているかと問われると微妙である。ドラマパートはフレディのセクシャリティに迫った点を除くと、「成功とともに周囲との軋轢が顕在化する」という鋳型にはめたような音楽ドラマ展開であり、演出面でも優れている点が見当たらない。
これが最後のライヴエイドに向けて、ずっと続いてしまうのは、個人的に短所であった。
今作は実在のバンドQueenをテーマに、フィクショナルな要素を交えたオリジナルと取ることもできる。しかし、「事実に忠実であれ」という制約を取っ払ったのであれば、もっと捻ったストーリーに加えて、アーティスティックな演出・表現を入れ込むことはできたのではないかと望んでしまう。
フレディ・マーキュリーを我が物としたラミ・マレックや実際のQueen楽曲の起用に代表されるようなノンフィクションの追求が素晴らしかっただけに、この映画のオリジナルたる物語でも魅了してほしかったと思わずにはいられなかった。
最後のライヴエイドのフレディを第三者の手によって再解釈するような冒険をしているのだから、いっそフィクションだと居直って道中でも冒険してほしかったというのが率直な感想である。
(C)2018 Twentieth Century Fox
まとめ: これはQueenの伝記などではない
今作はQueenの楽曲を効果的に使用し、メンバーを尋常ではないほどに再現し、クライマックスのライヴエイドを構成からして盛り上げていることからみても、Queenへの憧憬を大いに感じられる一作だ。
架空を交えた作りになってはいるが、それは製作者によってフレディの半生をドラマチックに描くための工夫と取ることはできる。事実、ライヴエイドパフォーマンスの裏側にはこんなことがあったのだと信じ、それに身を任せたくなる魅力はあったのだから。
ノンフィクションと銘打った作品であっても少なからず作り手の意図が反映され、事実と離れてしまう部分はある。
今作はその作為を堂々とパッショネイトなクライマックスを生み出すことに利用している。実際に公開後の観客からの評価も高く、神話の共有としての役目も持つ映画冥利につきる展開だ。
一方で、やはりこの映画が加工されたものであるという意識も捨ててはならないと思う。自分はこの映画を観てから、ライヴエイドへの興味を持たずにはいられなかった。実際にはもっと多くの曲を歌っていたことや、作中のソロ活動を巡っての衝突と和解、エイズの発症が事前になかったことについては調べて知っていった。それに、そもそもフレディ本人の人生にとってこのライヴエイドが大きな意味を持っていたかは誰にもわからない。
実際の彼らを知っていく足がかりになれば、それもまた映画の持つ「未知への道」として機能することだろう。
そうはいってもパフォーマンスからパフォーマーの人生を解釈するということはやはり止められない。『ボヘミアン・ラプソディ』は、その解釈をクライマックスという局所的にではあるが魅力的に映した映画だ。