こんにちは、最近規則正しい生活を心がけているワタリ(@watari_ww)です。
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一言あらすじ「貪欲さが周囲を救うお話」
- バーナムは妻や家族を大事に思っている人
- マイノリティにもスポットライトを当てている
- 夢を叶えるために努力する人
- クリエイティブなパフォーマー
その一方で、彼らを快く思わない人たちだっていました。彼らのショーに美学がないのだということを訴えるために「これは偽物だ」と批判した批評家はその象徴たる存在です。
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ここで重要な言葉「偽物」についても触れておきたいです。
今作のテーマを探ると、バーナムの利己的行動の正当性の他にも、様々なものが見当たりました。「This is Me」に代表される社会的弱者の叫び、バーナムの家族愛、フィリップとアンの恋愛などは、ポピュラーなテーマだと思います。中でも、「本物と偽物」には心惹かれました。
作中、サーカス事業で一定の成功を手にしたものの、バーナムは批評家から偽物呼ばわりされていていることを暗に気にかけているようでした。当初洗濯物の干し場で夢見たように、家族を豪邸に住まわせ、娘にバレエシューズを買い与えても満たされない欲があったのです。
19世紀のアメリカで、子供にバレエを習わせるというのは、基本的に富裕層にしかできないことです。しかも、幼い頃から一貫してバレエ教育の環境に身を置かせるとなれば、生まれつき裕福でなければ到底不可能。バーナム家は、娘が「バレエを習うには遅い」年齢の時に、成功を収め、上流階級入りしました。だから、娘はバレエチームに馴染めないし、途中合流してきたバーナム一家は本物の富裕層たりえないのです。そこで、たまたま目をかけたフィリップ・カーライルと共に、上流階級向けの事業に着手します。尽きぬ欲望は次の成功を求め始めたというわけです。
今作における本物とはバーナムに批判的な批評家や上流階級が絶賛するような物を指しています。社会的有力者が形成した「こうあるべき」といった様式美を踏襲したパフォーマンスや、そこで光る先天的な才覚やスキルがまさにそれでしょう。ジェニー・リンドは、幼少よりオペラ歌手としての教育を受け、長年経験を培ってきた本物の歌手だから、上流の社会にもすんなり受け入れられるのです。
更に言えば、「グレイテスト・ショーマン」で示された本物というものは、人々の想像の範囲内にあるものだと言ってもいいでしょう。速い球を投げるピッチャー、足の速い陸上選手、写真のような絵を描く画家…こうした人たちの凄さというものは、はっきりと数字や比較で理解することが可能です。リンゴの絵を描いたとして、実物と比較すれば、その写実性や技量を評価するのは容易いことだと思います。このように、古くから形作られてきた一般常識という名の物差しで、本物の世界は成り立っているのです。
その対極にある偽物とは、勿論バーナムの思い付きで出来上がったサーカスが象徴しています。これは幼少の頃から訓練を積んだだとか、公の資格などの後ろ盾を得て作ったのではなく、フリーク達の継ぎ接ぎ・寄せ集めなのです。バーナムはあのような時代にあって、フリーク達をショービズに起用する常識破れな行動をとったがために、偽物扱いされてしまいました。
その理由は明白で、当時の上流階級層や高尚な批評家がバーナムのショーを理解できなかったからにほかなりません。バーナムらがやっているショーは、既存の物とは大きくかけ離れている。そもそも、出演者が小人症の青年、髭女、有色人種、結合双生児、巨人症といった華やかなショービズでは日の目を浴びれられない人たちです。更には、ショーマンのバーナムもアカデミックな教育を受けたわけではない貧しい仕立て屋出身の男。行われるのは、特定のジャンルに当てはまらない多様性のごった煮のようなショー。型を身に着け、それが全てだと思っている人間の理解を超えてしまっているのです。
では、本物が正義で、偽物は悪なのか?これは、明確に作中否定されています。
いくら紙面上で「これは偽物だ」と批判したところで、チケットは売れ、バーナムの事業は拡大していました。供給している物に、需要が生じ、売れ、さらに供給が増す。利潤を得るのはいつだって人が求めるものを提供した人です。
マクドナルドを例に考えてみてください。料理のプロが、これらの商品を食し、評価を下したとしましょう。有名レストランよりも高い評価をつけるなんて、皆さん想像できますか?しかし、マクドナルドチェーンは全国的に展開しているのが現実です。それは、需要があるからに他なりません。売り上げは毎期莫大で、更に多くの売り上げを出すために事業を拡大していく。その結果、全世界にチェーン店が散らばりました。
バーナムのサーカスも同じです。アートのプロがいくら喚いても、求めている人が大勢いたのはまぎれもない事実なのです。経済的には「物が売れる」ことは「価値評価をされた」という意味にもなります。1000円ならば高価に感じて手を出さないであろうペンシルも100円なら買うように、我々は「いくらなら買うか」という決定権を財布と共に持っています。バーナムのショーの成功は、観客がその価値に見合った効用を得られているという証明にもなっているわけです。
だから、「グレイテスト・ショーマン」で示されている正義とは、「価値を認める人がいるかどうか」の一点であり、批評家だとか上流階級だとか差別主義者が感じた不快は、その前には意味を為さないのです。ジェニー・リンドのような本物の歌手のパフォーマンスだって、バーナムのサーカス団だって、楽しんでいる人がいれば、それは正義。楽しむ人の心は誰にも否定できない本物なのです。
こうした思い切ったテーマはとても面白いです。
強いて不満な点を挙げると、批評家の扱いに問題があるように思います。現実には健全な経済原理が脅かされるようなアコギな商売も存在しているわけで、批判的な目線はそれらを監視する役割も担っています。今作でバーナムに苦言を呈する批評家が、一方的に悪玉のように扱われてしまった結果、客観性や中立性がやや欠けてしまったように感じました。あの批評家も最後には良い面を見せてはいたんですけどね。
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ジェニー・リンドと組んだ歌のショーは目論見通り、大成功。バーナムは上流階級の象徴たる存在であるチャリティの父に仕返しを果たし、サーカスとも距離を置くようになっていく。ところが、彼の考える本物に近づけば近づくほど、皮肉なことに自分の身の回りを制御できなくなってしまう。ジェニーとの関係をこじらせ、家族と疎遠になってしまうのは彼の意図するところではありませんでした。
人の欲望は無限である。これは経済学における原理原則です。バーナムも常に足りないものを求め続けていたから、結果として妻とサーカスの一団の意向を飛び越えて痛手を負ってしまったというわけですね。後半は主にそうした欲望の暴走と挫折を描き、最後には積み上げていたものの大きさに気づくドラマが展開しました。
終盤部分で、再起を図ろうとしたバーナムが、団員達と仲直りする展開には目を見張りました。彼らの姿勢がまさしく結果オーライだったからです。
最初のほうに述べた通り、バーナムは家族のためとはいえ、利己的な動機から団員達を巻き込みました。そうして成功を手にした後に参加した格式ばった集会では、彼らを締め出しす一面があったことからも、純然たる人道主義者ではないというのは明らかです。
しかし、団員達はそんな彼を受け入れる、というのです。バーナムは確かに、利益を追求していただけかもしれない。けれど、結果として仲間たちと引き合わせ、スポットライトを浴びられるようにしてくれた恩人なのです。小人症の青年は部屋に引きこもっているばかりの毎日だったけど、バーナムと出会い、あろうことかフランスの英雄を堂々と演じられる。美しい歌声を持て余し、隠れるようにして生きていた髭の女性も歌うことができる。
真の成功という名の欺瞞に目を曇らせて、足を踏み外してしまったバーナムは、この時になってようやく彼らの居場所を作っていたことを実感しました。当初はお金目当てであっても、その過程で出会いを作り、彼らの収入源を生み、充足を与えた行いは大いに肯定され、再起を決意します。
バーナムがやったことは人を雇って富を得る、言わば起業です。会社(Company)を立ち上げる、というと日本人にはどうも崇高な目的意識を持ったスーパーマンのような人にしかできない!というイメージが持たれることが多いようですが、アメリカでは日本以上に起業に対する意欲が高く、毎年立ち上がる数は比較になりません。(もちろん競争がその分苛烈なので潰れていく会社も多いですが)
フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグは、大学時代に女生徒の顔写真を評価するという倫理的に褒められないようなサービスをしていました。しかも本人に許諾を取っていたわけではないため、正直に言って最低な男の烙印を押されても文句は言えません。ところが、こうしたシステムを作成した経験が後に、世界中の人々を繋ぐコミュニケーションツール手段へと繋がったといいます。
ここから自分が感じるのは、「摘まみとって汚点だと糾弾できる部分があったとしても、ゆくゆくは社会のためになってしまえば、それでいいじゃないか」という考え方です。バーナムサーカス団が金儲けを企んでいたとしても、大衆を大いに沸かせ、付加価値を生み出したのは紛れもない功績です。バーナムがいたから、フリークは表に出てきて、カーライルとアンは結ばれました。
そして、最終的には成功し余裕を得たバーナムは家族と共に過ごす時間を愛するようになりました。それまでのバーナムにとっての幸せとはお金でしかありませんでした。それ故に、かえって家族と疎遠になってしまう部分もありましたが、最終的には「家族へのお金」ではなく「家族との時間」に変化し、やっとしがらみから解放されました。
最初は家族のために見せかけた自分のため。しかしそれが回りまわって周囲に好影響をもたらし、社会を動かし、最終的には真に家族を慈しむ。大胆で、人間的で、夢のある話を見せてもらいました。
今回の感想は敢えて、ミュージカル部分には触れませんでしたが、楽曲も役者も演出も大いに迫力と驚きに満ちていました。ザック・エフロンとゼンデイヤがロープを用いて互いの関係を歌うシーンや、大人数でバラエティ豊かな芸を混ぜ込んだ序盤と終盤のパフォーマンスは、目と耳に大きなインパクトを残してくれました。
今回は「経済を回す人間を肯定した作品」として感想を述べしましたが、全体的に話はすごく単調で力不足であるとも感じています。ミュージカル映画である以上、意外性を追求するのは酷だと思いながらも、ドラマパートの平淡さが目立ってしまっているな、と観ながら思いました。家族を愛する主人公、虐げられしマイノリティ、家族とのすれ違い、異人種間の男女愛など、あまりにベタな要素の目白押しなのと、登場人物の内面がミュージカル以外でフォーカスされていないのが惜しい点です。
とはいえテーマ性が大胆だったことや、ヒュー・ジャックマンを筆頭とした役者陣の大盤振る舞いは面白く、アメリカ的な価値観をポピュラーなエンタメと一緒に楽しむことができたのは新鮮でした。
歌を楽しむつもりで観るのも一興ですが、今作のテーマ性は社会派な面があるのだとお伝えして、今回の感想を締めくくります。
長々とお付き合い頂きありがとうございました!
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