キアヌ・リーヴスがエスカレートする状況下で無双する快楽『ジョン・ウィック: パラベラム』レビュー【ネタバレ】

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こんにちは、酒もタバコも縁遠いワタリ(@wataridley)です。

今回はキアヌ・リーヴス主演、チャド・スタエルスキ監督のアクション映画『ジョン・ウィック: パラベラム(原題: John Wick: Chapter 3 – Parabellum)』をレビューします。

原題の“Chapter 3”が示す通り、『ジョン・ウィック』『ジョン・ウィック2』に続く3作目として製作された作品ですが、物語の繋がりはほどほどに、全編に渡ってアクションが見せ場になっています。物語、キャラクター、舞台のいずれもあからさまにアクションを支えるために存在しています。

一応、今作は前作の直後からスタートとなっていますが、「とある殺し屋が世界中の殺し屋から狙われている」という状況からアクションが発生していくという実にシンプルな構図です。観客がその楽しみ方に迷うことはまずないでしょう。

メインディッシュの肝となるのは、キアヌ・リーヴスの身体を張ったアクション、そして危機的状況に合った小道具や仕掛けの活用。超人的な身体能力が目まぐるしく繰り広げられながらも、明日から真似したくなる殺法が目白押し。

以降、ネタバレを含めた感想になります。未見の方はご注意ください。


69/100

一言あらすじ「狐狼の殺し屋、逃げ殺し回る」


非常識な殺し屋世界の常識

冒頭から描かれるのは、前作で殺し屋たちの掟を破ってしまった凄腕の殺し屋ジョン・ウィックが、主席連合なる殺し屋機関から指名手配され、闘争の準備を立てていく模様だ。

だが、全世界の殺し屋が従うほどの権限と存在感を持つこの主席連合が情報管理に使用している媒体は、なんと紙っぺらである。事務員がひとりひとり、数多あるタンスの中から、目的の書類を見つけ出し、歩いて上長まで提出する、あのアナログな紙っぺらである。世界中の裏社会に絶大な影響を持っていると思しき組織とは思えぬ、前時代的な仕事術に口元が綻ばずにはいられなかった。

こうした浮世離れしたアウトロー達の日常描写は他にもある。全殺し屋達へのジョンの指名手配が正式に通達されるまでの1時間、ジョンは自身の犬をタクシーで見送り、診療所で傷を癒す。ならず者たちが形成する社会にも厳格なルールがあり、例えルールに違反した人間であっても、定刻にならねば手を出してはならないし、逆にサポートしても誓いを直ちに破ったということにはならないようである。もはや一般社会よりも厳格なルールの穴を掻い潜るため、ジョンは自身の傷を塞いだ医師に弾丸を撃ち込む。これは同時にジョン自身が人体構造を適格に把握した上で、どこを撃てば相手が肉塊と化すか、どこを撃てば安全圏かがわかるというスキル描写にもなっている。一方で、殺意のない激しい銃声がこれまた可笑しいコメディになっている。開始10分程度のつかみはバッチリである。

また、そうした殺しのプロフェッショナルが跋扈する世界を成立させるためなのか、ジョン達を包んでいる背景美術も日常的な空気とはかけはなれた匂いを発している。いかにも格式高い内装のコンチネンタル・ホテルの奥深くにあるセキュリティロック万全で整然とした武器庫、眩しい映像と幾何学的な線で構成されたガラスの部屋なんてものは、穏便に生きている姿勢の人々はおいそれとお目にかかれないものだ。また、一見すると俗世間にありそうな寿司屋やバレエのホールにしても、カウンターに猫が寝転んでいて客に毒ふぐを提供するアメリカンジャパニーズな解釈がなされていたり、舞台裏で将来の稼ぎ頭たちがレスリングの訓練をする異空間が広がっていたりする。

そうした舞台仕掛と演出のおかげで、バイクチェイスにおいてなぜか他の一般市民がいなかったり、人がごった返す駅構内で殺人が発生してもそそくさと処理したとして、全く違和感を覚えることがない。なぜなら、この世界は我々が考えるリアリティというものが、通用しない殺し屋の、殺し屋による、殺し屋のための世界なのだから。

『ジョン・ウィック』シリーズを観るのはこれが初めてという自分にとっても、この奇抜な殺し屋世界の造形には笑みを誘発されてしまう。その上、この殺し屋世界はアクションシーンを派手に飾る装置としても機能しているのだから、まことに観客を楽しませることに貪欲だ。

 

エスカレーションしていくアクション

賞金をかけられ、命を狙われることとなったジョンだが、まずやることが犬を安全な場所に送り届け、図書館で思い出の品の回収するといった個人的な身の回りの整理整頓だ。ここで一気にジョン・ウィックという男の人間性を訴えかけておきながら、ルール破りの殺し屋との遭遇を機に、物語は殺しの大博覧会へと発展していく。

第一の刺客との戦いは、図書館の本棚という閉所だ。そして、相手は190cm程あるジョンを小人かと錯覚させる巨体。図書館という知的財産の宝庫で繰り出されるパワープレイは、なんとも大いに矛盾した映像である。そんな男の蛮力に対して、ジョンは知略と技巧に満ちた反撃に打って出る。なるほど、本というのは使うもの次第で凶器になりえるのだ。人間の口に挟むにはピッタリのサイズ感であるし、あの手の宗教本の装丁は高密度の織物で出来ているからぶん回しやすく、そのくせ硬い。ジョンが繰り出す知的攻撃で巨人を倒す映像は、本のポテンシャルを見事に証明してみせたと言えよう。

しかし、映像自体は本棚の付近を舞台としていたこともあって、無骨で閉塞感があることは否めない。そんなことを考えているのも計算のうちだ、と言わんばかりにジョンは次のバトルフィールドに足を踏み入れる。

医者に怪我を治してもらい、例の感謝感撃をお見舞いした後に、訪れたのは物騒な武器屋。埃っぽく、まともな照明もついていないこの店が、ところがどっこい刃物の宝石箱に見えてくる。ジョンが繰り出す掌底打撃は目にも止まらぬ疾さで、銃を構えた敵の腕を即座に打つ的確性までもがコンマ数秒という単位の中に圧縮されている様は圧巻だ。そして、両者武器がないとみるや、戦闘の勢いに任せて陳列されたナイフを獲得し、事態はナイフを使った血みどろの雪だるま合戦に変貌する。開催場所は廊下なので、避けるのは至難の技。掠めた部位からくる痛みと殺意によって歪んだ表情で、激しい身振り手振りで刃物を投げ合う様は、殺しという目的を忘れるほどにシュールな光景と化していた。男達の激しい叫び声が子供の声で、投げているのが雪玉だったらどんなに楽しいことだっただろうか。しかし、目の前の光景は弾切れを起こしたことで、殴り合いに収束していく。今作は激しい争いの中でも、きちんとほっと一息つけるような静的な場面を入れてくれるので、飽きが来ない。このシーンにおけるそれは、ゆっくりと抵抗する敵の眼球にナイフを差し入れるカットや、息の根がある敵の頭にヒュッと戦斧を投げ込むカットである。

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そんなナイフ合戦が終わるや否や、次の舞台はまったく脈略もなく厩舎に移る。殺し屋がやってきているなんていざ知らないお馬さんを縫って取っ組み合う中、いきなり馬を掴んだかと思いきや、馬の後ろ足で敵を仕留めるジョン。生命の強さを象徴する蹄の音の後に人骨が砕けて命が散るというコントラストが混ぜ込まれた、芸術性を感じて仕方がない殺法である。

お馬さんが出てきた以上は、チェーホフの銃よろしく乗らないわけにはいかない。次は騎馬戦である。ただし相手はバイクという名の鉄馬だ。馬というとてもニューヨークには似つかわしくない乗り物に跨ったジョンであるが、そんな考えは脳内にない。あるのは、ただ生存とそのための防衛策だ。追ってきた鉄馬たちの銃弾を馬を盾に回避しつつ、危なっかしい姿勢で相手に接近戦でスピーディーに蹴散らしていく。呆気なく散っていくバイカーを見ていると、これからは馬の時代だと思えてくる。

図書館の1対1から始まった殺しは、刃物の雪合戦、厩舎の競り合い、そしてホースチェイスにまで豊富な殺法と共にエスカレーションしていった。アクションに重点を置き、ほとんどノンストップで駆け抜けていくこの第一幕は、笑みを絶やさずに見ることができた。

 

アクションのためのドラマを展開すると温度が下がるというジレンマ

『ジョン・ウィック』シリーズがなぜここまで成長してきたのか。序盤の絶え間ないアクションは、その見事なデモンストレーションであった。

そしてそれは今作の弱みと一体化して切り離せないものだ。というのも、これまで述べてきたアクションシーンの凄さを引き合いに出さざるを得ないほどに、ジョン・ウィックらが繰り広げる物語には没入できないでいたのだ。

今作のプロットは単純明快だ。狐狼のジョン・ウィックが猛襲をひたすら生き延びるというものであり、そこに複雑な事情があるというふうには映らない。しかし、今作の合間合間に披露されるジョンたちのドラマパートは、その明朗なプロットをいたずらにぼかしかてしまう。

たしかに作品は裏の意味を持って入る。例えば、ジョンが生き延びようとする理由としては、モロッコの砂漠を彷徨った末、主席連合の首長に対して、亡き妻の記憶を留めるべく死ぬことができない胸中を語るシーンがあった。

だが、よくよく考えなくとも、今作の魅力は明らかにこの告白のあるなしに関わりがない。ジョン・ウィックそのもののパーソナリティに観る者の主眼が置かれているわけではないのは、アクションにかなりの長尺があてられた今作の構成、殺し屋が跋扈する舞台設定を見れば自明のことである。言ってしまえば、アクションという肉だけでは味気ないために用いられているスパイスのようなものだ。

その決して主役たりえないスパイスを、アクションシーンと同等の扱いで見せてしまっているから問題になってくる。ハル・ベリー演じるコンチネンタル・ホテル・モロッコの支配人ソフィアとジョンの間にあったただならぬ過去や、コンチネンタル・ホテル・ニューヨークの支配人ウィンストンとジョンの間にある信頼関係、裁定人や首長が誇示する主席連合の絶大な影響力などが、アクションをさて置いて語られる。アクションシーンと比較して、映像は落ち着き、台詞が中心となったドラマは、工夫を凝らさなければ合間を繋ぐためのものになってしまう。今作は、イアン・マクシェーン、ハル・ベリー、アンジェリカ・ヒューストンなど、豪華なキャストで固めてはいるものの、全体を通して特筆すべき演出や会話劇もないため、よくあるアウトローものっぽい見た目になってしまっている。次に来るアクションシーンへの期待感を持っていないと、視聴は退屈になりかねない、典型的な「繋ぎ」である。同時に、それが無ければアクションに繋がらないというジレンマに陥っているように思えてくる。

もはやアクションの理由づけを行うためのシーンとしてドラマが存在していると割り切って、ジョンを爆発させるための人間的な動機付けを行えばいいのだが、基本的にそれもない。この点では、前作でジョンが起こしたトラブルが原因で世界中から狙われているという今作の受動的なプロットのせいで、どのシーンも後手に回って対処しているだけといえばそうなのだ。モロッコのエピソードで犬が殺された時の唐突な転回に象徴されるように、アクションに入っていく流れは、大半は他の誰かが引き起こしていて、そこにジョンの作為や思考はない。そのため、ジョンは今作を通じて精神的に変化を起こすといった類の成長譚としても見ることができない。組織への忠誠を巡って見るからに残酷な仕打ちを受けるシーンが2度3度はあるが、露骨に次の舞台へ運ぶためのものであるため、そこにジョンが抱える悲劇性や葛藤を見出すことも困難である。

アクションに力を入れたのだから、ドラマがある程度予定調和になってしまうのは仕方がない。そう思って納得させることを試みはするけれど、しかし過去には『マッドマックス Fury Road』といったシンプルな筋書きの中に詰め込まれたアクションでストーリーを構成する作品や、『バーフバリ 王の凱旋』のようなアクション描写がキャラクターに対する感情に昇華する作品も見てきたのだ。その味を知ってしまった舌を巻かせるには、どうしても熱が冷めてしまうドラマパートは飛び越えるべきハードルとなる。

最後にはウィンストンに対する忠誠すら裏切られたジョンが、激しい怒りを湛えながら返事をするシーンで幕を閉じる。間違いなくあるであろう次回作では、そうしたジョンの内的感情をエンジンとして、アクションとドラマが一体となった様を見ることができたのなら、今作への不満も打ち払われるかもしれない。

 

まとめ: 眉をひそめ肩で息をするキアヌ・リーヴスから今後も目が離せない

そう、今作は“Chapter 3”なのだ。次の章が待ち構えている。果たしてジョンの復讐劇が、アクションと結びついて、派手な映像となって火花を散らしてくれるのか。それを今から期待せずにはいられない。

今作は、キアヌ・リーヴスが体を張って見せてくれるからこそ、超人的なアクションは控えめで、どれも現実的に試したくなる動きになっていた。この点は、同じくスターたるトム・クルーズが自ら危険なスタントに挑む『ミッション・インポッシブル』と趣が近い気がするが、あちらがビッグバジェットらしい大仕掛けを目玉にしている一方で、今作は人と人とが徒手格闘術を繰り広げる原始的なアクションや、小道具を生かした殺法で驚きを与えてくれる。殺し屋が当たり前にいるような世界だから、景気良く人が死んでいく様子もフィクションならではの快感がある。特に撃ち合いのシーンは、ジョンの肩越し視点で被弾する対象を見せてくれたり、1人また1人と撃っていくカットが長めに取ることで、有象無象相手に無双している感覚を味わえる。生身のアクションと無双の快感を一挙に与えてくれる作品は、他にそうそうないはずだ。

眉にシワを寄せたキアヌ・リーヴスが肩で息をしている。今作を観て以降、そんな彼の姿が目に焼き付いてしまった。彼の苦労が映画の楽しさに結びついていると思うと、次回作もきちんとお金を払って観たい。体を張っているからこその感心をキアヌに抱き、感想を締めくくらせていただく。

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