何がしたかったのかよくわからない続編『アナと雪の女王2』レビュー【ネタバレ】

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こんにちは、アイスのフレーバーでは抹茶味が好みのワタリ(@wataridley)です。

今回はディズニーが送る3DCGアニメーション映画『アナと雪の女王2(原題: Frozen II)』の感想を書いていきます。

前作『アナと雪の女王』は2014年に日本公開されるや否や「ありのままで(Let It Go)」をはじめとしたミュージカル楽曲が流行し、その年に何度も何度も聞かされた記憶が昨日のように呼び起こされるほどの現象を巻き起こしていました。

最終的な国内興行収入は、255億円を記録。2016年に日本映画史に残るヒットを記録した『君の名は。』が最終興収250億円と、僅差で届いていないことから見ても、やはり尋常ではない人気と言えます。

そんな大ヒット作の続編ですが、単刀直入に申しますと、非常に不可解な作品になっていました。

既存のディズニープリンセス像を壊して、新しいキャラクターと物語を創造せんとしていた前作は、脚本に些か強淫な部分が見当たり、言ってしまえばミュージカルパートの音圧で目を逸らす作りになっていたように思えました。とはいえ、ミュージカルシーンは、「ありのままで(Let It Go)」を筆頭に「雪だるまつくろう」「生まれてはじめて」といったスコアが頭に残るものばかりでしたし、そうした音楽の力を用いてはっきりとしたテーマを掲げた物語からは、作り手の意図がよく伝わってきました。

一方で、続編の今作はというと、ミュージカルパートが尽くキャッチーさを欠き、冒険ファンタジーにジャンル替えしたものの特有の強みを活かし切れていないよう見受けられます。見えてくるメッセージが前作とかち合ってしまっているようにも思えて、あたかも全ての謎を解いて完結したラストとは相反して自分の頭の中では靄がかかっていました。

以降、ネタバレを含めて詳細な感想を書いていきます。未見の方はご注意ください。


58/100

ワタリ
一言あらすじ「一度はハッピーエンドを迎えた4人が、変化と成長を求めて旅に出る」

複雑でテンポが悪い群像劇

アレンデールの女王としての責務を全うするエルサ。今の平穏な日々がずっと続けばよいと願うアナとオラフ。アナへのプロポーズを計画するがなかなか踏み出せないでいるクリストフ。今作の物語構造は、4人それぞれのドラマが並行し、終盤において一気に昇華させており、群像劇に近い。

 

過去の過ちに立ち向かうエルサ

その中で根幹をなすのが、旅立ちを決意したエルサのドラマだ。前作で魔法の力を制御できるようになった彼女は、その後も複数の短編作品にて、その力を有益な形で行使する姿が描かれていた。アナ達と過ごす日々は穏やかで満ち足りているように思えたが、どこからともなく聞こえる謎の声が、彼女を冒険に駆り立てた。

エルサがハートアランに辿り着いた結果見たものは、自分たちが住んでいた地がノーサルドラの土地に建てられたダムによって守られており、一方でそのダムは自然を破壊していたという事実だった。このダム建設を指示したのは、エルサの祖父であるルナード元国王であり、彼女達は先祖が犯した罪に向き合わざるを得なくなる。

見ての通り、今作では悪役が存命する形では登場しない。ルナード国王は故人であり、過去の負の歴史こそが今作最大の争点となっている。

この構図から想起させられる現実の問題はキリがない。製作国であるアメリカであれば、先住民族から土地を奪い、主にヨーロッパからの移民が流入してきて誕生した国であり、マイノリティの排斥の上に成り立った国と言い換えられる。アジア諸国との間に尾を引く日本の戦後補償の問題にしてみても、先祖が犯した過ちの傷痕が今に至るまで続いている点において変わりがない。

ハンス王子のような明確な悪が存在していれば、それを打倒することを以てハッピーエンドとすることができた。しかし、この既に起こってしまった過ちというものは、倒すことができないのである。当事者ではないエルサ達からすれば、未然に防ぐこともできない。

負の歴史に直面する展開をクライマックスに持ってくることで、こうした過去から得る反省と教訓をテーマにしているというわけだ。これは、かつて差別や迫害の対象となっていた国、宗教、民族が、多様化によって同じ目線で話し合う仲間となってきている現代を巧く映している。

とはいえ、その解法が実に残念だ。祖父がダムを建設することで成り立っていたアレンデール=負の歴史の上に成り立っていた国は、エルサの魔法によって守られてしまう。ダムを破壊すればアレンデールへの被害も避けられない状況は、国と国の利害対立の図式にほかならない。果たして、それを魔法で解決してしまっていいのだろうか?魔法がない現実に、我々はどうすればよいのか。現実に当てはめられる道筋を示さず、過去の贖罪という理想を魔法で解決してしまったために、実態が伴わない綺麗事になってしまっているのだ。

 

無変化を望むのはいいが、前作の焼き直しが目立つアナのドラマ

今作のアナは、エルサが消えてしまうことに対して過剰なまでに敏感である。エルサが謎の声を追う旅に出ると告げた際には同行を願い出ていたし、クリストフのさりげない言葉にさえ大きく反応していた。

無変化を恐れるアナの姿もまた、現実に我々が経験していることだ。いつまでもこの生活が続けば楽だという思考に陥り、チャレンジを避けてしまう。当然、失敗もないが、成功もない。刺激がない代わりに、安定の上に胡座をかくことができる。

ただ、今作のアナに与えられたこのドラマは、どうも続編のために用意されたこじ付けに思えてならない。というのも、そもそもアナとエルサの間には、姉妹の関係を揺るがすほどの問題が存在しないのだ。前作では、アナとエルサは隔離された生活を送っていたことで、姉妹水入らずの時間を過ごすことができないという問題があり、その解決としてクライマックスの「真実の愛」があった。

一方で、今作はというと、エルサを誘う謎の声という表象は、エルサが旅立つきっけかにはなっても、アナとの間の摩擦や軋轢にはなり得ない。アナがエルサがいなくなることを恐れるというのは、極めて一方的な問題であって、しかも具体性が伴わないのだ。孤独への恐怖という一見新しい問題をこしらえたように見えて、その実、前作のエルサとのディスコミュニケーションという問題を蒸し返しているだけとも取れてしまう。

最終的に、エルサから送られた魔法によってノーサルドラとアレンデールの間に起きた事件の真相を知り、突如として行動を起こす描写にしても、アナのパーソナルな孤独の問題と負の歴史という大スケールの問題双方が有機的に結びつかないから、盛り上がりに欠ける。

 

立ち止まる役所なのはわかるが、単に話を停滞させるだけのクリストフ

プロポーズを試みる度に失敗に終わるクリストフの描写はコメディであると同時に、そこに男性の在り方を刷新しようという意図が込められているように思えた。

『アナ雪』は、かつてディズニープリンセスを幸せにする存在だった王子を悪役にし、あらゆる活劇において冒険の主役を張っていた男性をプリンセスのお供とする等、ジェンダーロールの逆転を意識した一面があった。今作でもそれが引き続き行われており、言わば格好良くプロポーズするような男性像の否定が、クリストフに託されているのだ。

中盤、クリストフがアナへのプロポーズに踏み出せない自分を歌う「恋の迷い子(Lost in the Woods)」は、彼の脆い内面を露出させる。リードするような強さを持つ男性ばかりではないと示しているのだ。

しかし、アナがピンチに陥った際には、「何かできることはある?」と彼女を手助けする。些細な描写かもしれないが、ここにも男性像の拡張が込められているように感じる。クリストフはアナの先を行き、彼女を引っ張る度量はないかもしれないが、彼女が困っている際には後から追いついて彼女の背中を支える度量は持っている。こうした描写を大作のアニメーションに入れることで、所謂「男らしさ」から解放する狙いがあったのだろう。

ただ、クリストフにまつわるエピソードは、いずれも大して面白くない。「間が悪く、重要な話が切り出せない」というやり取り自体、既往の作品で散々見たようなものである。その上、彼が立ち止まる場面は、ミュージカルパート含めて、本当に本筋が停滞しているのである。単に面白くない上に、不用意に尺を取っているだけだという批判に対する反論が正直なところ見当たらない。立ち止まるキャラクターを描くのに、本当に話をストップさせてどうするんだと思ってしまった。

 

コメディリリーフ以外の役割が希薄なオラフ

オラフに至っては、ドラマらしいドラマがない。彼の役割自体、前作の姉妹愛の物語にメリハリをつけるために創造されたコメディリリーフの側面が強かったが、それでも一応はアナとエルサを繋ぐ役目を持っていた。

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一転して今作では、単なるコメディリリーフの機能が大半を占めて、彼のミュージカルパートもドラマも印象に残らない。ハンス王子のジェスチャーやノーサルドラの民にこれまでの経緯を揶揄しながら紹介するパートなど、シリーズに対する茶々を入れる言動もさして本筋に寄与するでもないため、内輪ノリを思わせるファンサービスにしかなっていない。

結局本筋では、「水には記憶がある」というあからさまな設定紹介と、溶けることでアナに危機感を与えるという焼き直し程度の役割に留まっている。

 

不可解な設定・描写の多さと、ハリボテじみた世界観

前作『アナ雪』は、姉妹愛を中心に物語を描いていた都合上からなのか、その他の背景描写がやけに疎かになっているように感じられた。その欠点は、今作でもそのまま引き継がれるばかりでなく、むしろ悪化した。

まず、「エルサが第五の精霊である」という設定に行き着く上で描写しなくてはならない、4つの精霊の設定からして不明瞭な部分が多すぎる。風の精霊ゲイルは出会い頭に戯れてきただけ。炎の精霊サラマンダーは無駄に森を混乱に陥れ、水の精霊の馬はいきなり登場してエルサの邪魔をしたのか協力をしたのかも曖昧なまま手懐けられる。地の精霊のアースジャイアントはおどろおどろしく登場したものの、アナの挑発に乗って彼女に害をなすシーンぐらいしか目立った動きがない。これらの描写を振り返ってみて、彼らがこのノーサルドラにとってどんな存在なのかが全くわからない。凡な解釈をすれば、森を守る精霊ということなのかもしれないが、そのようなシーンは見ての通り皆無。したがって、そもそも設定の土台が貧弱なのに、そこに上乗せするようにして「第五の精霊だった」とか言われても首を傾げるしかない。

このように、序盤から設定や過去に起こった出来事を口頭で説明する回数が多く、その割に映像主体で実態を見せてくれないため、釈然としない部分だらけになっている。この物語の最終目的地アートハランも、謎の声の呼び元であることと、両親がそこを目指していたことぐらいしかわからない。これといった仄かしがあるわけでもないから、エルサが訪れてすべての元凶が判明していく展開がご都合主義に映ってしまう。結局、アートハランとは何だったのか。声の呼び元はエルサの母だったのか。モヤモヤした気持ちにさせられる。

アナとエルサの両親の真相に至っては、後付け設定ではないか。母親はノーサルドラの民でありながら、アレンデールの王子を救ったことで両陣営の架け橋となった、というところまではわかる。しかし、それがきっかけで彼女が「第五の精霊」となったのか?ならば「第五の精霊」とは彼女からエルサに引き継がれたものなのか?だとすれば、なぜ全てがわかっていながらハートアランに向かったのか?といった疑問が噴出していくが、答えを考察する材料は作中に用意されているように思えない。

考えようによっては、アナとエルサの「変化と成長」というドラマの結論だけを決め打ちして突き進んだ結果、過程が疎かになってこうした不可解な描写が生じたとみることもできてしまう。元々『アナ雪』でもアレンデールの人々の生活は書き割りで広がりを感じられず、「ミュージカル」と「ディズニープリンセスの脱構築」という目的先行に引っ張られていたような節があった。

しかし、仮にも冒険ファンタジーのテイストが強い今作にとって、アナ達以外の描写が、のっぺりして映ってしまうのは致命的である。故郷を遠く離れて、未知の領域に旅立つワクワクは、森を隔てる霧のあたりでピークに達し、その後は上記のような浅い設定と背景描写によりどんどん尻すぼみになっていった。ノーサルドラの民も、精霊達も、アレンデールの残留兵も、アートハランも、何もかもがアナとエルサの為に存在しているかのような薄っぺらさである。

映像のクオリティはこちらの方が遥かに進歩しているはずなのに、『ハリー・ポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』といったファンタジーの名作の偉大さを再認識することになった。

 

そもそもこのお話は必要だったのだろうか?

前作のエルサは、アナとの姉妹愛に絡めて、自己の特異性と向き合い、社会の中で適用して生きていく結論を導き出していた。

一方で、今作のエルサは、その特異性の根源を追求し、最終的に辿り着いた地アートハランにおいて、自身の使命を自覚する。結果として、エルサはアナと同じ場所に留まるのではなく、第五の精霊の役割に従事することを選び、物語は幕を閉じる。

『シュガー・ラッシュ: オンライン』においても同様に、親しい2人の選択が必ずしも一致しない苦悩を乗り越えて、離れ離れになっても繋がっている関係性を描いていた。フィジカルの距離こそが絆だという時代はとうに終わり、多様な関係の在り方を訴えるにあたって、この上なく真っ当な描写である。

ただし、『シュガー・ラッシュ: オンライン』は、「プレイヤーが存在するゲームキャラのヴァネロペがそんなことしてもいいのか?」と疑問に思わせる行動に出ていた点が腑に落ちなかった。そして、この『アナ雪2』のエルサの選択は、かつて『アナ雪』が志向していたビジョンと方向が異なっている。故に、腑に落ちないどころか、待ったを掛けたくなる結末なのだ。

『アナ雪』におけるエルサは、周囲の物を凍てつかせてしまいかねない自身の害性を発端として、アレンデール城から逃げ出しかの有名な「ありのままで」を歌っていた。しかし、これはどこまでも内向きな態度であり、他者との接点を絶って城に立て篭もるのは、社会との隔絶を意味しているといってよい。

だが、愛する妹のピンチに駆けつけたエルサは、「真実の愛」に目覚め、魔法の力を完全に制御できるようになった。一見他者への害性に見えていたエルサの魔法は、他者への思いやりによって、社会に活かすことのできる力となったわけだ。オラフが形を留められるようになったのも、子供の頃に彼女が身につけた想像力と、エルサ自身の個性が互いに融和したことの象徴だ。

つまり、前作で描かれたのは、「真実の愛」という姉妹愛を軸に、マイノリティが個性を生かして社会に融け合うまでの物語だと言い表せる。

たしかに、「なぜエルサに魔法の力が与えられたのか?」という根本的な疑問は残っていはいたものの、それはそれとしてエルサ自身の問題は解決していた。

にも関わらず、『アナ雪2』はそれと相反するようにして、エルサの魔法の力に外部から明確な意味が与えられてしまう。謎の声に誘われたエルサは、自身の宿命に目覚めることによって、アナとは離れて暮らし、それまで伝聞でしか知らなかった森を守護するという。

エルサが第五の精霊だったという展開は、みようによっては、先天的な役割に従う話に先祖返りしているではないか。謎の声は本人の意思とは無関係に聞こえて来るものであるし、その先に待ち受けていた真実を知ってエルサが思い立つプロセスにしても、体良く精霊によって運命付けられていただけだ。エルサにとっての生まれ育ったアレンデールからノーサルドラの森に移り住む理由は、「第五の精霊だから」に依拠している。

予め定められた役割に従うエルサは、性によって物語上の役割を規定されていた昔のディズニープリンセスと何ら変わりがない。しかし『アナ雪』で露骨なまでにその逆を行こうとしていたはずだ。シリーズの整合性が取れていないと結論づけることもできてしまう。

そもそもエルサに魔法の力は、前述したような「特異なマイノリティが思いやりによって社会性を得る物語」を描くためのものだったのではないだろうか。それをこういう形で上塗りしてしまったことにより、普遍性は格段に下がってしまった。

 

まとめ: 「前作が売れたから作った続編」以上の感想が浮かばない

『アナと雪の女王』の特大ヒットとは裏原に、その脚本の粗さ、強引さに冷静になってしまう自分は確かにいたが、一方で作品が提唱しているメッセージは十分に理解していた。ディズニーの強みである映像美に、ふとした時に反芻したくなる音楽や、お題目だけ切り取れば確かに「新しく」「正しい」主張を乗せているのだから、一定のクオリティも担保されていた。

だが、『アナと雪の女王2』は「前作が売れたから作った」とでも言わんばかりの作品になってしまっているように感じられる。エルサの顛末が前作とは相反してしまっていること、その割には前作の焼き直しになっているアナやオラフのドラマ、苦し紛れにも映るクリストフの足踏みなどは、前作からの順当な発展になっていない。それどころか皮肉にも「変化と成長」というテーマに反するかのように、無変化と後退の続編と化している。

何にも増して、ファンタジーというジャンルに属する今作にあまりトキメキを感じられなかったのが個人的には一番虚しい点である。テーマ、ストーリー、キャラクター、音楽、演出など、どれも記憶に残らない。前作からはっきりと進化したはずの映像も、中身が伴っていなければ、インパクトを残すには至らないのが非常に残念である。

昨今のディズニーのファンタジーは、実写もアニメも、世界観とキャラクターで純粋なワクワクを誘いつつ、更に映像のマジックによって強固なメッセージを訴えかけるような作品が少なくなった。ディズニーの目玉企画であるはずの『アナ雪2』『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が期待外れに終わった今、この心の靄を晴らしてくれる作品を求めてやまない。

 

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