アイキャッチ画像: ©2019 Sony Pictures Digital Productions
こんにちは、スパイダーマンのマスク被ったら絶対息で蒸れるだろうと思ってしまうワタリ(@wataridley)です。
今回はマーベル・シネマティック・ユニバース(以降MCU)の第23作目『スパイダーマン: ファー・フロム・ホーム(原題: Spider-Man: Far From Home)』の感想を書いていきます。
監督は前作『スパイダーマン: ホーム・カミング』から続投のジョン・ワッツ、主演も同じく続投のトム・ホランド。
今作は強大なパワーを持つインフィニティ・ストーンを巡ってヒーロー達とヴィランズが戦いを繰り広げてきた「インフィニティサーガ」の最終作と位置付けられています。
前作『アベンジャーズ/エンドゲーム』では、強敵サノスとの戦いに終止符が打たれ、そしてアイアンマン、キャプテン・アメリカらの終着点が描かれました。インフィニティ・ストーンは前作でなくなったとはいえ、傷跡までもが消え去ったわけではありません。『スパイダーマン FFH』は、そんな前作の余波を受けて、ピーター・パーカー=スパイダーマンがいかにしてアイアンマンの影を乗り越えていくのか?というのがひとつの見所となっています。
MCUは『アベンジャーズ』シリーズのように多様なヒーローが一堂に会する機会を設けつつも、『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』シリーズのようにそれぞれのヒーロー達のドラマが独立して描かれる壮大な企画です。そんなシリーズにおける締めくくりとして白羽の矢が立ったのが、今回の『スパイダーマン FFH』なのですから、責任は重大と言えましょう。
『スパイダーマン FFH』はたしかにMCUのこれまでを振り返り、そして今後に向けた意思表明にまで言及したフィナーレにふさわしい内容になっていました。前作と比較しても学生らしい親しげなキャラクター描写はしっかり続投し、アクション描写や豊富なロケーションは強化されていました。
一方で、『スパイダーマン: ホーム・カミング』に見られた覆面ヒーロー特有の葛藤はやや小ぶりになってもいます。ピーター個人の戦いを望んでいた自分には、若干不満がないわけではありません。
以降、詳細な感想をネタバレありで語っていきます。未見の方はご注意ください。
74/100
目次
Far From Home, Far From Spider-Man
『スパイダーマン: ホーム・カミング』ではマーベル・スタジオの下へ帰郷したスパイダーマン。その2作目はヨーロッパへと舞台を移すというのだから期待感は増すものだ。
そしてロケーションがいつもの舞台から異国に移り変わることでマンネリズムを打破する刺激が得られそうだという期待の裏には、舞台の変遷自体がピーターのアイデンティディを暗に揺さぶっているシナリオへの感心がある。
2000年代に製作されたサム・ライミ版、2010年代前半のマーク・ウェブ版含めて、過去作品の舞台はいずれもニューヨークであり、それこそがピーター・パーカー=スパイダーマンの「親愛なる隣人」としてのアイデンティティに結びついていた。
一転して、今作の舞台がニューヨークからヨーロッパ各国に移った背景には、トニー・スターク亡き後の後継者としての重圧から逃れ、ひとりの学生らしく旅行と恋を楽しみたいというピーター・パーカーの心情があることは自明である。せっかくの夏休みなのだから、守るべきニューヨークから離れ、スーツも置いて、旅行に行くのだ。
気になっているMJに接近するための作戦をたて、それを実行しようとする16歳の機微をありありと映すトム・ホランドの表情にはいちいち見入る。恋の相手であるゼンデイヤも立ち姿は涼しく、目つきも鋭いとあって一筋縄ではいかないと思わせる。このトムの等身大の少年っぽさとゼンデイヤのクールさの相反したチャームはシーソーゲームをハラハラしたものに変え、MJという名前が示す予定調和の退屈さを隅に追いやっていた。
こうしたキャストの掛け合いや多様な学生たちのキャラクターを見せる旅行パートを表の生活としながらも、裏ではピーターはニック・フューリーの根回しにより否応無くミステリオと協力してエレメンタルズと戦うことになる。
振り返ってみると、今作では赤を基調としたスパイダーマンのスーツを着て堂々と活躍するシーンはほとんどクライマックスに集約されている。それまでは「正体がバレるから」という理由もあって、ピーターは黒のスーツを身にまとい、後にナイト・モンキーと称される別のヒーローを装う。もちろんこれは表向きの理由であり、奥底にはピーターがスパイダーマンとしてのアイデンティティと向き合っていない彼の本音が潜んでいる。ナイト・モンキーは親愛なる隣人ではなく、仕方なくヒーロー活動に従事している時の仮の姿なのである。
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そしてヒーローとしての職責を担わず、なるべくただの学生でいたいという気持ちにつけ込まれ、ピーターはミステリオに兵器を司るイーディスを譲渡してしまう。「次のアイアンマンへ」という遺言を放棄したピーターは、スパイダーマンとしての生活よりも、自身の普通の生活を望んでホテルへ戻っていくことになる。
だが、この行為はピーター自身の平穏を脅かす結果に繋がってしまう。ミステリオを次のアイアンマンにふさわしい人物と信じ込み、ヒーローとしての責務を任せてしまうという行為は、言ってしまえば怠慢である。普段何気なく政府を信じて、全権を委任しているうちに、実は自分たちの権利が脅かされているという状況は現実にも当てはまる。この映画が面白いのは、ピーター自身のヒーローからの逃避行をそっくりそのままこうした責任の放棄に見立てていることにある。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』まではヒーローが世界を守るという理想が貫かれていたが、ピーター自身は『ホーム・カミング』でも描かれたように、「親愛なる隣人」という地に足ついた存在を選択していた。ひとっ飛びして世界を救うことはできないけれど、身の回りの物事に向き合うという彼の決断は、現実性を帯びていた。
しかし、そうした責任丸ごとを放棄したらどうなるか。アイアンマンがいなくなった世界において、ピーターはミステリオにアイアンマン像を投影するが、現実において履行すべき責任を回避し、都合のいい理想に逃げ込んでしまえば、つけ込まれてしまうのである。
このように、酒場のシーンに至るまではスパイダーマンから遠く離れようとするピーターの心の向きが描かれている。そして、この後に明かされるミステリオのキャラクター造形もまた、理想に耽溺しようとする人間につけこんでおり、面白いのである。
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まるでMCUそのものであるミステリオという虚構
ミステリオが実はヴィランであるという事実は、それほど意外でもない。原作で彼はヴィランの役所であるようだし、演じているジェイク・ジレンホールも初登場のシーンからいかにもヒーロー然とした立ち回りがかえって怪しく見える絶妙な塩梅で演じていた。
だから、ミステリオの正体に多少の予想のハズレがあっても、概ね彼が敵だとはわかる。だが、そんな予想に対して想定し得ない視点を込めて返してくるのだから驚きだ。
端的に言えば、ミステリオはMCUの再現である。
クエンティン・ベックはかつてはスターク・インダストリーズの社員で、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』にて、トニーが演説していたホログラム映像の開発者だという事実が明らかになる。それと同時に、ミステリオは個人的な活動ではなく、同じくトニー・スタークに恨みを持つ者たちが寄り集まって結成されたプロジェクトチームだとも判明するわけであるが、ここがとても斬新だ。
ミステリオを作るにあたって、ベックという演者がいれば、エレメンタルズやマルチバースといった設定を考える脚本家や、あの異世界風の鎧やマントを作る衣装係、エレメンタルズとそれが生み出すエフェクトを描画する映像制作係もいる。まさに映画制作そのものである。
ミステリオVSエレメンタルズという対立構造はフィクションに過ぎず、観客含めてピーターもそれに騙されていたと気づいた時、この事実はフィクションの外側をも含んだ反省にまで発展していく。
彼らがついていた嘘は自作自演にほかならない。エレメンタルズという恐怖を捏造し、ミステリオというヒーローを栄光へ押し上げる行いは、眺めている我々からすれば、悪どく映る。映画の中では、ベックは多大な犠牲者を出してでもミステリオを生み出そうとする。まさに狂気の沙汰である。
しかし、考えてもみると、これは今までMCUがしてきたことときれいに重なるではないか。悪を仕立て、ヒーローを活躍させ、観客を熱狂させる。現実にはアイアンマンもキャプテン・アメリカもソーもいない。ワカンダが産出することで知られるヴィブラニウムなんてものもないし、そんな国にしたってそもそも架空である。ぜんぶ想像の産物に過ぎないのだ。
だから、我々はミステリオを無下に否定することはできない。彼を否定しようものなら、一体どうしてお前はスクリーンの前に座ってこれを見ているんだ?という強烈なカウンターパンチを喰らってしまうことだろう。映画以外のシーンにおいても敵と英雄はしばしば作り上げられてきた。戦争や政治論争においては、受け入れ難い対象の中にある敵性を挙げ諛うものであるし、自分たちの共同体を象徴する人物や理想的な姿を英雄と祭り上げる。SNSにおいても仮想敵を作り上げ、自らが正論を突きつけるヒーローとなり、恍惚とした表情を浮かべていそうな投稿が頻繁に目撃されるのも、この例に当てはまるだろう。
モーションキャプチャー用のスーツを着たベックの姿は、我々がスクリーンでは見ることのない撮影の裏側だ。これを映画の中で披露されると、ヒーローの真の姿だという事実を見せつけられているようで、異様な違和感と嫌悪感が襲ってくる。自分たちが信じたい対象は所詮存在しないと言われているも同然だ。そんな彼と対峙するスパイダーマンにしても、間違いなく人の手が入っている。
つまるところ、MCUが追ってきた軌跡をヴィランに投影し、それを打倒させることで、MCUが次のフェーズへ歩みを進めようという所信表明になっている。ここが『スパイダーマン FFH』と他のヒーロー映画との特異点であり、ヒーローをより人間的に描こうという試みを予感させる。
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完璧ではない現実とその肯定
虚構の上で成り立つ「完璧なヒーロー」らしくモーションキャプチャースーツを着用していたミステリオと異なり、スパイダーマンはあくまでヒーローの形をしたまま立ち向かい、好対照を生んでいる。
意を決したスパイダーマンはナイト・モンキーとしてではなく、今度は赤いスーツを纏う。そして、大量のドローンで出来上がった見せかけの怪物の正体を暴き、自らの持てる能力でベックの幻影をかわしていく。ダイナミックなカメラワークで活写されるスパイダーマンのスイングは見応えがあり、またイギリスを代表するタワーブリッジのシンボリックな風景美と合わさって印象的なアクションシーンになっていた。序盤から言及されていたスパイダーセンスのスランプも克服し、MJ達を救うためにベックの本体に迫り、自らの欠点をも自覚することによって勝利を収めた。
どうしてミステリオに勝つことができたのか?というロジックは、スパイダーマン=ピーター自身がまるで完璧なヒーローとして描かれていない様子から見いだすことができる。
ピーターはベックから指摘されていた通り「優しすぎる」という欠点を持っており、基本的に人の言動を悪意には取らず、物事を懐疑的に取ることもしない。そのために、ドイツの廃墟ではミステリオの策略に嵌ってしまい、MJやネッドの名前を教え、自身も窮地に陥ってしまうことになった。
だが、現実にはヒーローのように欠点のない存在などあるはずがない。誰にだって弱点はあるものだと考えれば、ピーター・パーカーこそ在るべき人間の姿なのである。
旅行前にピーターがMJに接近するために考えていた6つのプランは、その象徴的なエピソードだ。旅先のヴェネチアではネックレスを購入し、それをパリのエッフェル塔で渡すという段取りは、結局のところ破綻してしまっている。ネックレスは戦いの最中に割れてしまい、MJに手渡した場所も、トラブル続きで旅程が狂った結果、瓦礫や車で埋め尽くされたタワーブリッジのど真ん中であった。それ以外でも旅の最中にはブラッドという邪魔が入り、飛行機内では望まぬ座席にされるなど、災難が続いていた。ピーターの考えた理想とはなにもかもが程遠い。
しかし、それでもMJは傷だらけの彼を抱きしめて、キスを交わすし、ネックレスだって受け入れてくれる。不完全な現実を愛するというピーターとMJのラブロマンスは、ミステリオという完璧な理想と対置され、今作の主題を浮かび上がらせる。
人間は完璧ではない。その不完全さと向き合った時にこそ、活路を見出せる。ピーターが最後の弾丸を避けることができたのも、自身の弱点から目を背けなかったことにある。
ミステリオというMCUの軌跡に立ち向かったスパイダーマンという完璧ではないヒーローの姿は、今後のヒーローの拡張性を示していると言えるだろう。欠点がある自分でも現実を受け止めて、最善を尽くそうとすれば、ピーターの姿に重なっていくのだから。
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MCUの全体構想と引き換えに失われた「スパイダーマンらしさ」
以上述べてきたように、『スパイダーマン FFH』はインフィニティサーガとMCUフェーズ3のフィナーレとして、極めて妥当で、それでいて斬新なテーマを伝えることに成功している。
しかし、そうしたMCUの枠組みを強く意識した作劇がなされたが故に、一方で重んじられるべき単独作としての核が隅に追いやられているようにも感じられた。サム・ライミ版から、スパイダーマンの映画を追ってきたからこそ、そのことも書いておきたい。
単刀直入に言うと、今作ではピーター・パーカーの葛藤が軽い扱いを受けているように見えた。
序盤、アイアンマンの後継者であるかを問いかけられたピーターはひどく動揺し、パーティを飛び出してしまう。スパイダーマンの夏休み…というキャッチーなプロットに見えるが、アイアンマンなき世界において新たなヒーローが必要とされているという状況と、自身の「ふつうの学生らしいことがしたい」という欲求の板挟みに遭うという辛いドラマが根底にはある。ピーターは旅先でもアイアンマンのウォールペイントやニュースの報道とすれ違い、渡されたイーディスによってどうしようもなく後継問題を意識する。わかりやすいぐらいに、ピーターに与えられた選択肢が提示されているのだ。
ところが、このアイアンマンの後を継ぐか?という問題は解決されないまま、スパイダーマンは最終決戦に突入してしまう。
トニーにまつわるピーターの苦悩は一応描写されてはいる。それはミステリオに見せられた偽の映像であったり、敗北を喫した後のハッピーとの会話で見られる。だが、前者はサイケデリックな映像の連続で、ピーターの心情を丹念に描こうという意図よりも、ビジュアル面での刺激と、その直後のどんでん返しのためのシーンという色が強い。後者のハッピーとのやり取りにしても、大約すれば「生前のトニーは誰よりも君を信頼していた」という当たり障りのない言葉であり、ラストバトルに向けての予定調和的な立ち直りになっているように感じられる。
もっと言うと、ピーターがロンドンに向かったのも、MJとネッドの命が狙われているからという目先の目的故であり、そこにアイアンマンの後継問題を巡っての思考プロセスが介在しているようにはどうしても思えなかった。
思えばピーターの個人的葛藤というのは、今まで観てきた『スパイダーマン』シリーズにおいては不可分のものであった。サム・ライミ版『スパイダーマン』においては、覆面ヒーロー故の苦悩をドラマの軸に据えて、トビー・マグワイア演じるピーター・パーカーの心情に迫っていた。第1作で初めて能力に気づいた時の高揚感や、第2作でスランプに陥ってしまう時の深刻さは、ひとえにトビー=ピーターに肩入れしているからこそのものである。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉を抱え、マスクをかぶってニューヨークを駆け回る中にある孤独さを、マイルス・モラレスという外部から見つめなおさせた作品が日本では今年3月に公開された『スパイダーマン: スパイダーバース』だ。この作品では、スパイダーピープル達が結集することで、孤独を埋め合いながらも、それでもマイルス個人の問題と能力の顕現を結びつけて描いていた。葛藤と戦いがリンクすれば、スパイダーマンが戦う姿には感情移入せざるを得なくなる。
『スパイダーマン FFH』において、スパイダーセンスを使いこなすシーンがいまいち乗らないのは、このシーンの前振りとなるべき序盤において、そのことをかなりジョーク交じりに語ってしまっているからであり、全体的にピーターの葛藤を丹念に描こうという姿勢が薄いからでもある。
それに今作では、基本的にピーターの周囲には理解者がいる。前作から引き続き、ネッドは協力的であるし、ハッピーも駆けつけてくれる。MJも今作で正体を知り、スムーズに理解を示してくれる。そのため、ピーターが個人で決断を下す、あるいは再起するといった見所が薄まっているように思えた。
結局、アイアンマンの後継問題はクライマックスでMCUの象徴たるミステリオを打倒することに傾いて、有耶無耶にされており、結論は映像で決定づけられはしない。『アイアンマン』で流れた
AC/DCの「Back in Black」をスーツ開発シーンで使用していることからみて、アイアンマンの意志を継いだというニュアンスが辛うじて汲み取れるぐらいである。最後にMJと共にニューヨークを駆け回る姿を見て、彼は結局「親愛なる隣人」か、それとも「次のアイアンマン」か、はたまたその両方なのかという疑問が頭に付き纏う。
前作『ホーム・カミング』では、トニー・スタークの目を盗んでヒーロー活動というプロットはMCU独自のものであったが、肝心の決断シーンはしっかりとピーター・パーカー個人にフォーカスしていただけに、今作における転換点以降のMCUへの偏りは目についてしまう。スパイダーマンを見たかった自分としては、消化不良を感じてしまったところである。
ジェイ・ジョナ・ジェイムソン役のJ・K・シモンズが登場し、さらにピーターの身に逃れようのない危険が襲うクリフハンガーも、MCUの悪癖である「次回にお預け」を露骨に表したもので、正直いってこの衝撃で本編の印象を薄めてしまったとも感じる。
早く次を見たいのはもちろんだが、次はどうかスパイダーマン単独作としてのエッセンスを重視してほしい。そして今度こそトニーの尻拭いからスパイダーマンを解き放ってほしい。そう思った。
©2019 Sony Pictures Digital Productions
まとめ: MCU、新たなフェーズへ
エンドクレジットが流れた後、今作において登場していたニック・フューリーとマリア・ロスが、『キャプテン・マーベル』タロスとその妻が擬態していた事実が明かされる。そして、本物のニック・フューリーは、スクラル星人が働いている宇宙の施設で別の仕事をしていたらしい。
この映像もまた、本筋で語られる虚構を補強している。自分たちがそうだと思っていたことだって、脚本のさじ加減で簡単にそうではないと否定できてしまうのだ。目に見えるものを信じていれば、思いもつかぬ方向から攻撃を喰らいかねない。ヒーロー映画という枠組みでありながらも、こうした描写の数々を通じて、MCUはもっと普遍的なメッセージを伝えたいという意思は感じ取ることができる。
今回はややスパイダーマンとの食い合わせが悪かったものの、これまでのインフィニティサーガで世界中の人々の心を掴んできたマーベル・スタジオは、飽くことなく作品作りを続けてくれる。できることならインフィニティサーガをも過去のものにしてしまうほどの新たなフェースを見せてもらいたいものである。