承認を払いのけて自立するヒーローを描いたオリジン『キャプテン・マーベル』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: ©︎2019 MARVEL

こんにちは、ウエストが細いせいで毎回買ったベルトをちょん切らないといけないワタリ(@wataridley)です。

今回は『アベンジャーズ』等で知られる大人気アメコミ実写化映画シリーズ「マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)」の21作目となる『キャプテン・マーベル(原題: Captain Marvel)』をレビューします。

以降、ネタバレで語っていますので、未見の方はご注意ください。


63/100

ワタリ
一言あらすじ「挫折から立ち上がれ」

キャロル・ダンヴァースが再定義するシンプルなヒーロー像

MCUは今や作品数が20を超え、世界的な支持も得た巨大ブランドだ。世界に通用する作品を志向しているとあって、単なる娯楽に傾倒したヒーロー映画に留まらない、文化の映し鏡になっている面はあるだろう。

2000年代のヒーロー映画というと、ソニー・ピクチャーズの『スパイダーマン』などがヒットする一方で、ワーナー・ブラザーズでクリストファー・ノーランが監督した『ダークナイト』3部作も記憶に残っている。ヒーローの正義に疑問や揺さぶりを投げかけ、それに抗していく形で描かれるバットマンのドラマは、手放しに賛美されがちな以前のヒーロー映画のそれとは異なり、陰りを帯びた変化球のように映った。

初期のMCU作品は、どちらかというと『ダークナイト』3部作よりも既往のヒーロー映画に近いように思う。アイアンマンもキャプテン・アメリカも第1作では、ヒーローの誕生する過程を娯楽性十分に活写し、悪に立ち向かっていくヒーローを肯定的に描いている。斬新だったのは『アベンジャーズ』という形で同一ユニバース要素を取り入れ、個性もバックボーンも異なる複数のヒーローが入り乱れて戦うことのできる土壌であり、各作品においてはヒーロー映画に対するメタ的視点はまだ強くは出ていなかった。自分は前作を観てきた熱心なファンというわけではないが、深刻さは差し色程度に抑え、受けやすい明るさを重視する作風がMCUの初期特有のものだったと思う。

これが『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』の前後から変化し始める。必ずしもヒーローが掲げる正義が普遍のものとは限らないという視点が立ち現れ、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』では正義の違いからヒーロー達が対立するところまでが描かれた。そして2018年『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』にて、分裂していたヒーロー達は強敵サノスによる正義の履行に抗った。結果は知っての通りである。

続く『アントマン&ワスプ』では『インフィニティ・ウォー』とはえらく無関係な事件が描かれていたものの、それにすらサノスによる正義の余波が襲いかかってきた。

錯綜する各々の正義、強敵によってもたらされた大混乱。そんな暗澹とした様相を呈する今のMCUは、既往のヒーロー映画から発展し、複雑化してきた結果のものと言えるだろう。

そこへきてこの『キャプテン・マーベル』という作品は、これまでの流れを断ち切るかのようにして、純然たるヒーロー映画的側面を強く持っている。MCU史上初の単独女性主人公、サノスとの闘いに終止符を打つ『エンドゲーム』の前哨戦的立ち位置といった情報から降り注ぐ重たいプレッシャーを感じさせることのないシンプルなヒーロービギンズがここにあったのだ。

(C)2019 MARVEL

 

失われた記憶、欠落した名前が示す「檻の中」

スターフォースに所属するヴァースは、上司であるヨンロッグの下でクリー星の平和を守るべく任務に従事する日々を送っている。

のちに明らかになるところでは、ヨン・ロッグ率いるスターフォースは正当なる大義を持たずして他の惑星を侵攻しにかかっており、スクラル人からすれば紛れも無い侵略者だった。つまり面白いことに、主人公ヴァースは最初はヴィランズの一員としての身分を持っているというわけだ。

ここに本作独自の構造が見出せる。青い鼻血を流す偽りの記憶を植え付けられた彼女は、能力を誤用している段階に踏みとどまっている状態にある。キャロル・ダンヴァースという名前から剥がれ落ちたヴァースという名前もヨン・ロッグに与えられたものであり、奪われた本来の記憶の代わりにグリー星を取り巻く嘘の情報を教え込まれている。

フォトンブラスターを制御するための装置を取り付けられ、言われるがままに能力を行使する彼女は従順なクリー人兵隊であっても、本源的に自らの意思で行動を決定しているわけではない。まるで自分が檻に入れられていることさえ気づいていない動物園の動物だ。彼女は最初から異能に目覚めた状態で物語がスタートしている点において、他の人間のヒーロー達とは一線を画した存在だが、それを以ってヒーローとみなすことはできなのだ。

(C)2019 MARVEL

だが、キャロル・ダンヴァースという名前、空軍に所属していた本来の記憶を取り戻し、クリー星の実態を把握した彼女は、それまで敵対していたスクラル星人たちのために自らの能力を行使する。自分が敵対していたスクラル星人は、侵略行為など及んでおらず、ただ自分たちが安住できる地を探していただけだったと気づき、また宇宙船内で家族と再会する姿を目の当たりにし、彼女の心は虐げられし者たちへの救済に向かう。

ヒーローとは決して先天的能力に由来するのではなく、後天的に「なれる」ものなのだという事を、『キャプテン・マーベル』の構造は浮き彫りにしているといえよう。同時に、悪によっていいように利用され囚われていた自分の解放をヒーローの目覚めとすることで、ヴィランとヒーローは紙一重な存在なのだと思い知らされる。

この覚醒は「大いなる力には大いなる責任が伴う」という一文が有名な『スパイダーマン』を思い起こさせるものでありながら、もっと明確に力の使い方に裏付けられた個人の意思を尊重したメッセージを訴えているように思えた。

 

ヨン・ロッグという強権政治家の支配

ジュード・ロウが演じた今作のヴィランのヨン・ロッグは都合のいい言葉をかけてヴァースをコントロールしており、彼女とは事実上の支配関係にあるといって差し支えない。

彼女が本来の記憶に目覚めかけそうなきっかけを得るたびに真実を誤魔化し、手合わせの際に自らの技量を上回りかねない彼女に対して、フォトンブラスターを封じて自分を倒すよう提言する。そして、クリー星の実情を覆い隠しながら、正義は自分たちに在ることを植え付ける。

こうした描写の数々は現実にある大小ざまざま社会すべてに思い当たる節がある。

例えば、親と子の関係がそうだ。親は子が生きる上で必要な社会生活に係る知識を伝授し、時に子を危険から身をもって守る存在でもある。しかし、いざ子が成長して自らの制御が効かない存在になった時には、不服を表すものはいる。受験や就職、結婚などにおいて、親が望む道を子どもに押し付けるということが、悩みとして語られることは少なくない。そうならないよう、過激な方向に進んでしまった親は無垢な子どもを守るためという題目の下、都合のいい情報を供与し、自分の手元に置いておこうと試みる。また、家庭内の価値観においても親が子どもを「承認する」ということを褒美として設定することで、子の動きをコントロールしようとする傾向もしばしば見られるものである。

もちろん、この従属関係は親と子だけに限った問題ではない。それは国家と国民にもあてはまる。端的な例は、戦時におけるプロパガンダだろう。悪しき敵対国、大義を持つ自国というフィクションを国民に植え付け、連帯感や敵愾心を煽り、徴兵や協力を強いる。強制的な手段によって従わせることもあるが、何より戦争において厄介なのは、こうした思想・価値観にまで踏み込んで、支配者が被支配者を利用することなのだ。

先程述べたヨン・ロッグとヴァースの関係は、こうした支配関係のメタファーになっている。記憶の改竄というSFチックなプロセスを経てはいるものの、クリー星にとって好都合な情報を教え込まれたヴァースは、自分がキャロル・ダンヴァースであることも思い出せないまま、戦争に従事する。一個人の内面を操作し、自立を妨げるヨン・ロッグという男は、まさに過保護な親であり、また過度な全体主義とも言い表せるキャラクターなのである。

率直に言って、ヨン・ロッグという人物はヴィランとしては思いのほか小粒に映ってしまった部分はある。序盤におけるヴァースとの組手の時点で言動からは彼女と本気でやり合えるほどの戦闘能力を有しているわけでないことは察せられるし、劇中披露する戦闘スタイルも銃を使用する、戦闘機を操縦するといったものばかりで、はっきりと地味である。

だが、戦闘面でヴァースを上回るほどの人物と設定されてしまったのなら、上記に挙げてきたような精神的支配関係というニュアンスは崩れてしまいかねない。

殴り合うと見せかけてあっさりとやられてしまった呆気ない最終決戦に際しての彼の台詞からは、自らの価値観で彼女を値踏みしようとする思惑が見える。彼曰くフォトンブラスターに頼らず、自分を倒さなければ「承認」は与えないというのである。

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つまり、これを無視してブラスターを放ったのは、ヴァース、ではなくキャロル・ダンヴァースがヨン・ロッグが差し伸べた手を払いのけ、自らの意思を押し通すという「自立」の意味が込められている。自分が正しいと思ったことをする上で、他者からの承認など不要なのだ。

(C)2019 MARVEL

 

挫折から立ち上がりヒーローとなる1人の人間

自分が行使していた力を自分が守るべきもののために使うようになるという点が、これまでのヒーロー映画とは形の違うヒーロービギンズとなっているというのは、先述の通りである。当初の彼女はクリー人によってその力を与えられ、調教されていた。初代『仮面ライダー』のように能力の根源は敵にあったという興味深い出自を経て、真実に直面して自らの行いを反省し、これまで縛り付けてきた枷を打ち破る姿がクライマックスの能力覚醒に重ね合わせられている。

もうひとつに、彼女がヒーローになるに至った背景にも惹かれた。実に人間的な苦労を経ていたからだ。

ローソン博士の姿をしたスプリーム・インテリジェンスによって、男性中心の社会における「女であること」は幼少より彼女の前に幾度となく立ちはだかり、また此の期に及んでもクリー人によって力を与えられなければ「ただの人間であること」を突きつけられる。

しかし、幼少の頃より父親や周囲の人間から浴びせられてきた抑圧的な言葉が彼女を挫くたびに、また立ち上がってきたという記憶が、彼女をヒーローたらしめる。もしどこかで諦めていたのなら、マリアと共に空を飛び、ローソン博士という恩師に出会うことはなかったはずだ。苦難に会うたびに立ち上がってきたからこそ、今があるという達観が記憶から導かれた時、彼女は再び立ち上がる。これはとても泥臭く、とても共感できるものである。

キャロルは、空軍という職業ではあるが、実に世俗的なことに悩まされてきた1人の人間だ。偏見からくる劣等感や現状を満足することのできない能力の不足は、誰だって思い当たる苦い経験だ。

『アントマン&ワスプ』はMCU史上初めて女性ヒーローの名前がタイトルに冠された作品であり、そこから今作は初の単独女性ヒーローとなっているが、「女性であること」は作品において強く打ち出されているわけではない。苦悩のひとつに時代背景からくる女性への偏見は差し込まれていたものの、結末部分において男性を見返すといったシーンが特にないことから見ても、特別強調されているわけではないことがわかる。

女性単独主人公のアメコミ実写映画というと『ワンダーウーマン』が、やはり思い浮かぶ。こちらではセミッシラという女性のみの社会を登場させ、外界における男中心の戦争にワンダーウーマンが切り込んでいくというプロットを取り、明確に男性と女性の概念が各自に存立していた作風となっていた。主人公ダイアナは戦禍に光をもたらす神秘的なキャラクターとして描かれ、また一方でスティーヴとのラブロマンスも差し込まれるなど、女性であるが故の要素は企みを持って活用されている印象は強く受ける。

一方で、『キャプテン・マーベル』においては、キャロルにラブロマンスは持ち込まれることなく、また輝かしいヒーローとしての一面は最終盤まで抑えられている。自らが経てきた苦悩や劣等性から立ち上がるという姿は、誰もが自分と自分の身の回りに置き換えて観ることができる。

もちろん、これは優劣の問題ではない。女性ヒーローの強みを活用してヒットを飛ばした『ワンダーウーマン』も、1人の質実な人間としてキャロルを描いた『キャプテン・マーベル』も、それぞれのカラーを持っている。ただ、それだけなのだ。

今作は複雑化したMCUシリーズにおいて、敢えてシンプルなヒーローのオリジン(出自)を描いているとも言え、一旦原点に立ち返るには最適なのかもしれない。ヒーローを我々と重ねられうる人間と捉えておくことは、『エンドゲーム』で活躍するヒーロー達へのエールを強めるだろう。

(C)2019 MARVEL

 

不足するオリジナリティと刺激

『キャプテン・マーベル』の独特な構造、承認という檻から個人を放つ物語、そして共振可能な1人のヒーローとしてのキャロルなど、その作品精神には大いに感心させられるものはあった。

しかし、試みが面白いからといって、作品そのものが面白いかは別である。面白いとは思えなかったというのが自分の率直な感想である。

まず、アクション描写については、最初から最後まで印象に残るものが見られなかったように思う。キャロルが有するフォトンブラスターに目新しさを感じることはできなかった。『ドラゴンボール超 ブロリー』のように光線を攻撃手段とする映画が溢れている中で、今作には突出したビジュアル的魅力も特殊な運用方法も見られない。

中盤の市街電車や空軍施設で繰り広げられるファイトシーンにしても、他でいくらでも見られそうなものであり、驚きがない。それこそMCUでは『キャプテン・アメリカ』シリーズで、もっと優れた武骨なアクションが提供されているのだから、独自性を出さなければ太刀打ちできないだろう。

最終盤には覚醒して空を飛び回るという映像が見せ場として用意されているものの、『マン・オブ・スティール』などの空中戦と比較して、今作が優れている点が思い浮かばない。

単純にアクション面における馬力も独創性も足りないのだ。

アクション要素面を除いても、退屈さを感じしまう場面は多い。特にヴァースの記憶を探す中盤部分は、カメラも映像も工夫がない会話シーンが増しており、地味な映像が散見される。友人のマリアの家宅で話し合うシーンなんか、もはやヒーロー映画というよりホームビデオかと思うほどである。

映画的技法を放棄し、アクターや視覚効果に頼りきりなまま、登場人物による状況・舞台説明に終始するというMCUにおける会話シーンの傾向が、そのまま今作にも当てはまってしまっている。

おまけに記憶を探る過程もブラフやミスリードといった捻りはなく、ただ真相を順繰りに開示していくだけであるため、なかなか集中力を保っていられない場面があった。

(C)2019 MARVEL

また、根本的に『キャプテン・マーベル』独自の舞台設定に魅力を感じられなかったという欠点もあるように思う。序盤に出てくる惑星クリーの風景にしろ、スクラル星人の造形にしろ、『スター・ウォーズ』をはじめとした宇宙SFで何遍も見たことがあるようなものばかりで、オリジナリティを見出すことが困難である。終盤のマリアいによるドッグファイトに至っては、ハン・ソロのミレニアムファルコンと帝国機に置き換えて仕舞えば、そのまま『スター・ウォーズ』で通用するのではないだろうか。星々の戦争を背景にしているはずのスケールに見合った映像も少なく、久々の登場となったロナンも多少ちょっかいを出して退散してしまう。これならば彼がヴィランとして出ていた『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の方がスペクタクルに満ちていて、単純に良いという感想になってしまった。

総じて、映像やアクションに『キャプテン・マーベル』独自の魅力を感じることができず、ブリー・ラーソンとサミュエル・L・ジャクソンとの細々とした掛け合いや90年代の小ネタなどの方が、笑いという形ではあるが、感動を起こされていた。

ついでに、物語の面でも描写不足は見られる。ローソン博士が何のために地球へやってきたのか、そもそも彼女はどういった人物だったのか。それらは記憶をめぐるサスペンス要素として、もっと書き込んで然るべきだったように思う。彼女の死に際の行いがキャロルの人生に大きな影響を与えることになったのであれば、尚更のことである。

(C)2019 MARVEL

 

まとめ: アベンジャーズEGへの期待は増した

いよいよ『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』から続く物語が完結する『エンドゲーム』の公開まで残すところあと1ヶ月となった。

この『キャプテン・マーベル』はこれまでのMCUが辿ってきた長い経緯からは一旦リセットして、真っ当なヒーローオリジンとして作られている。1人の人間であるキャロルを通じてヒーローを見つめ直す意義が今作には与えられていると思うし、純粋に多くの人に通じうる「困難の克服」が描かれてもいて、MCUに寄与しつつも、きちんと単作として成り立たせようと制作姿勢には賛同したい。

いかんせん、今作には既視感のある映像が散見され、ボルテージがあがりにくい欠点を抱えてしまっている点は惜しいところである。描かれているメッセージやキャプテン・マーベルというヒーローのコンセプトに感心しつつも、純粋に入り込むことができず、悔しささえ覚えている。

だが、今作のクライマックスではきちんと『エンドゲーム』への導線が引かれており、今作で慣れ親しんだキャロルがアベンジャーズの面々とどう関わっていくのかを考えると、期待はたしかに膨らむものだ。

消えてしまったフューリーの意思を継いで、彼女がサノスに一矢報いる映像を想像したりして、公開を待ちわびたい。

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