向こう見ずで狂った愛はこの作品そのもの『天気の子』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2019 「天気の子」製作委員会

この所、湿った気候が続いていた。雲に覆われていてもたしかに地上に降り注ぐ熱と混じり合った湿気は、逃れようのない気落ち請負人である。

そんな折に新海誠監督作『天気の子(英題: Weathering With You)』を観た。

今作はまさに雨が降りしきる東京を舞台にしている。家出少年の帆高と親なき子の陽菜の邂逅が、雨雲に覆われた街に明るい風穴を開けていく話だ。

あるところで桁外れの寒波に見舞われたかと思いきや、またあるところでは季節外れの熱波が襲いかかる現代の地球。地球温暖化によって島が海に飲まれ、人間はおろか、生きとし生けるものすべてに危機感が漂いつつある中で、「天気」をテーマに据えたからには、それはもう壮大なバックグラウンドを感じさせる作品になっている…はずだ。少なくとも観る前はそれを期待していた。

また、天気というのは人の心を左右するし、こと物語においてはその情景を映す鏡のようでもある。

気候が乱れつつある地球。不確実にみちた不安の時代。

そんな現実にこの作品はどんな風穴を開けてくれるのだろうか。その穴から何を見せてくれるのだろうか。『君の名は。』の監督による最新作であることに加えて、殊更そこが気になっていた。

映画館を出たら、外は真夜中だった。夜が明ける前に今これを書いている。パラパラと降っていた雨が、この映画を観た後の心地にふさわしいように感じられてふしぎだった。

その小雨をかき集めるようにして、この『天気の子』の感想を形にしてみようと思う。

以降、ネタバレを含む感想になるため、各自注意されたし。


ワタリ
一言あらすじ「君>世界」

天気がもたらす景色を緻密に描いたアニメーションの技

東京に降り注ぐ雨が徐々に引いていき、窓に映る少女の頰に重なる。のっけから緻密に書き込まれた東京の街並みと、この架空の涙によって、この少女・陽菜に目が釘付けになる。その後に彼女が光の水たまりに惹かれて、廃屋の屋上に向かうアクションがごく自然に追えるのも、非言語であっても涙と雨の重なりを確かに描いているからだ。

新海誠監督拘りの風景描写は、『君の名は。』に引き続き、その鑑賞が目的になるほど緻密である。

オープニングが終わった後も、美麗な風景画や降り続く雨はほとんど絶え間なくお披露目されていく。雨粒が地面に打ち付けられ、それが花のように開いて、また別の種が御構い無しにやってくる。そんなワンカットの風景には、ありふれた雨の景色を見直させるだけの魅力が宿っていた。

東京の景色を矢継ぎ早に見せる手法には、時折物語の文脈と直接結びつくわけではないというきらいはあるものの、雨が降り続く東京の空気感を描写することで作品舞台に奥行きが感じられるようになっていた。

故郷の島から出てきた帆高にとってはじめての東京は刺激に溢れていると同時に「東京ってこえーな」と呟きたくなる孤独感も与えてくる場所だ。ネットカフェに泊まる日々を過ごしていた帆高が仕事を探して新宿歌舞伎町を彷徨うシーンでは、多大な情報が詰め込まれていて、家出少年が感じる焦燥と不安を等身大のサイズで届けてくれる。歌舞伎町通りの古めかしい門構えとその奥でびっしり並ぶビル、備え付けられた主張の激しい電光看板は秩序だった街並みの中に混沌が炙り出されていて、一種のディストピアにも見える。喧しい求人広告カーや違法なキャッチセールスへの注意喚起のアナウンスにしても、東京に住む自分には新宿の日常であっても、1人の異邦人にとっては異文化なのだ。視点をずらすだけで、当たり前の景色がこうも変わり映えするものだと再認識した。

とはいえ、単にトレースしているだけではなく、ここにアニメーションならではの光や水へのフォーカスも交えているため、全く「実写でそのまま写せばいい」とはなり難い、絶妙な塩梅で実現されたルックスにもなっている。

その端的な例が、作中初めて陽菜が空を晴れさせるシーンだろう。あわや大惨事を引き起こしていたかもしれないという衝撃で気落ちし、東京に来てから雨ばかりの帆高を元気づけるために彼女が見せた空模様は人の手で制御できるアニメーションによって実現している。鉛色に淀んだ雲とそこに空いた穴から鋭く差し込んでくる薄明光線のコントラストは、空に臨んでいる彼らの心情風景にオーバーラップし、この上なく気持ちのいい場面になっていた。

上記のシーンは一見すると写実主義に類するように見えるが、彼らの足元に微かにかかっていた虹色の靄なども含めて、実写ではコントロールできない現象を一度に扱っている。この点において、志向はむしろ空想主義にも思えてくる。

また、東京に住んでいる自分にとっては、見覚えのある景色が出てくるだけで反射的に妄想意欲を掻き立てられる。新宿のランドマーク然と聳えるNTTドコモ代々木ビルが、あの鳥居のあるビル(モデルは代々木会館)を見下していている構図を見れば、人知れぬ所でこうしたドラマが潜んでいるのかもしれないと感じられる。細かいところでは、アンニュイで奇妙な模様の壁がある新宿のマクドナルドに座っていた帆高に親近感を覚えた。

(C)2019 「天気の子」製作委員会

 

現実に足をつけた大人と理想に身を投じる子供

今作において「大人」と「子供」の二項は全く対照的に描かれている。

子供である帆高、陽菜、凪は居場所がない。詳細な事情はわからないが、帆高は「親も地元も息苦しい」という理由で家を飛び出し、陽菜と凪は両親不在の孤児である。だから互いに互いの穴を埋め合い、擬似的な家族関係を結ぶ。

一見すると微笑ましい関係性だが、あるところではきわめて客観的にその身勝手さや脆さが映り込む。陽菜が帆高のために落雷を呼び起こした後のラブホテルでのやり取りは、事態の深刻さとは裏腹に気の抜けるような会話がやり交わされる。この会話は彼等から離れたところから捉えたショットになっているために、どこか冷静な視線を投げかけているように感じられる。ラブホテルで彼等が自分たちの水入らずの時間を過ごすシーンは、たしかな幸福にあふれているのと同時に、それが永くは続かない歪みであることを見え隠れさせてくる。彼らは個室に備え付けのインスタント食品で団欒とし、初めて体験するジャグジーに驚き、ダブルサイズのベッドの上で好きな曲を歌う。これらは本来子供には得られぬはずのものを身の丈に合わぬ金銭で得ただけの、一時の背伸びでしかない。金銭はすぐにでも底をつき、簡単に綻んでしまう有限の幸せだ。

案の定「何も足さず、何も引かないでください」という神様への願いは、儚く崩れ去っていく。その瓦解を彼等にもたらす存在が刑事をはじめとした大人たちであり、もっと言えば彼等の背後にある社会の秩序である。法律や規範に反した形で共同体を成している帆高達は、大人から、社会からしてみれば世界に生じた歪みにほかならない。

秩序を受け入れた大人たちにとっては帆高は矯正の対象であって、そこに感情移入の余地も、許容する理由もない。まして相手は子供である。未熟だから放っておけば何をしでかすかはわからない。尚のこと、その歪みは矯正しなくてはならないのだ。

そうした社会規範に収まった大人たちは、今作において徹底して帆高達にとっては部外者として扱われる。それによって、帆高たちの感じる主観的な幸福がいっそう浮き彫りになっており、不法行為に及んでいるはずの帆高たちがあたかも不当に虐げられし者のように映る。これを倒錯と言って済ますことは容易いのだが、映画は徹底して帆高たちの選択と行動にフォーカスし、天気という世界の現象に結びつけるから、そうはいかないのである。

 

君がいない晴天よりも、君がいる曇天を望んで走る

100%の晴れ女」稼業を始めた帆高と陽菜は、曇天の空を晴らすことで依頼者を含めた東京の人々を笑顔にしていく。

このシークエンスは後に意味合いが覆され、陽菜の犠牲の上で成り立っていたという事実が判明することとなるが、人々はそんなこともつゆ知らずに恩恵を享受する。映画を観ている自分の目にも、雲に隙間が生じて光の柱が現れてくる現象が快感を伴って届いていた。

それに帆高自身も彼女の身に差し迫っていた代償には無自覚だった。ラブホテルのベッドで「こんな雨が止んで欲しいと思う?」と陽菜に問われた時の素朴な「うん」として、それは表出する。雨が降ってばかりでは堂々と外出することはできないし、現にそういう悩みを抱えた人たちを助けてきた。雨がやめばいいという発想は、晴天を望む大多数の人々と同様に、この時点の帆高は根底では世界の調和を望んでいたことを意味している。その言葉を直後に後悔した帆高が消えかかっている陽菜と共に生きていくとしながらも、陽菜は自己犠牲によって世界を晴らす。帆高を含めた世界の調和のために。

だが、陽菜と引き換えにやってきた晴れは、帆高の目には実に不気味に映る。青々とした空が広がり、陽炎が立つほどの熱気が降り注ぐ様は、帆高の孤独感と喪失感を際立たせる。人の哀しみを託す雨、晴れやかな気分を映す青空という情景の定石がここで覆っており、そういう見方においても類稀な倒錯感を覚える場面である。

このあべこべな心情風景は、この作品における「帆高と陽菜」と「世界」の二項対立に繋がっていく。帆高は陽菜のいない青空よりも、彼女のいる雨空を望むのだ。そう決意した少年は線路を伝って、陽菜を人柱にしたあの鳥居へ直行する。

必死に走る彼の姿を見て驚き、制止しようと呼びかける駅員や作業員達は、世界の調和よりも1人の女性をめがけて走る彼の狂気を客観的に捉えさせる。有刺鉄線で顔に傷を作り、炎天下の下、周囲の声も気にかけず走る彼の姿は、傍目から見て完全に狂っていた。いやそれどころか、必死こいて走っている彼は世界における危険因子ですらある。

最終的に帆高がとった選択肢は、降り止まない雨という形で世界(=東京)を害する結果につながった。須賀、夏美、凪も、警察に捕らえられる形で被害を受けており、帆高の行為がいかに向こう見ずで、危険であるかを物語っている。そうなることは多少頭を働かせればわかるだろうに、陽菜を救おうと決めてからの帆高には一切の迷いが見られない。この作品は、1人の愛が世界の法則をも超越しうること、そして歪めてでも愛するということを肯定し、まるで悪びれることをしない。

自分の面倒を見てくれた須賀に銃口を向けてまで彼女に会いに行こうとする際の「愛にできることはまだあるかい」は、少年の真っ直ぐな叫びを体現する曲だ。銃声が響き渡り、代わりに吐息からフェードインするこの曲と共に、彼の狂いは克明に浮かび上がる。部外者であるにも関わらず自分と陽菜を引き裂くように介入してくる大人達に対する不信と苛立ちが、彼の彼女への感情を掻き立てる。息を呑みながら、そのなりふり構わない愛の発露に見入ってしまった。

この緊張の後にくる解放の瞬間も素晴らしい。劇中歌「グランドエスケープ」がバックに流れて帆高と陽菜が空を飛ぶシーンでは、世界のことなんざ知ったことかと言わんばかりに両者の主観が映像を支配しており、それを晴天と雄大な雲の景色が包み込む。三浦透子の、名前の如く透き通った声が空に溶けて、2人の情動にリンクし、「天気なんて狂ったままでいいんだ」という言葉の勢いを増幅させていた。また、それまで静的なシーンの積み重ねで成り立っていたがために、このシーンで炸裂したエモーションは一段と際立っている。

一個人の愛が世界を混乱に陥れたとしても、その人がそれでいいのならいい。我々は同じ世界を共有して生きているが、主観まで共有することは絶対にできない。誰かの幸福が誰かの不幸になってしまう悲劇に気付くまで、多大な時間をかけてしまう負の歴史がそれを物語っている。かつて垂れ流された水銀とそれが引き起こす病に目を向けることなく経済発展を享受していた公害問題などでは、露骨に世界側が少数に対して無知という構図があった。世界は須賀の言うように、たしかに「元から狂っている」のである。

過程において危うい子供達にフォーカスし、一個人の愛を世界よりも上に置いた結末は、人によっては受け入れがたいかもしれない。しかし、主観に生きる誰もが客観の世界を歪めてでも幸福を得ようとする危うさを持っているものであるし、それを否定することはできない。

(C)2019 「天気の子」製作委員会

 

大人と子供の狭間で揺れ動く須賀と夏美

愛する女性を失い、娘とも疎遠になってしまった須賀は、現実の辛酸を舐めてきた大人として描かれる。大人であるが故なのか、彼は失われたものへの執着心を言明に出すことはない。左手の薬指にはめた指輪だけが辛うじてその執着心の行き場のようにも見えた。

この指輪ひとつ取っても、帆高とは対照的だ。須賀がはめた指輪は心の中にある燻った欲求の表象であるが、帆高が持ち続けていた数千円の指輪は今愛する人へ向けた直球の気遣いである。

娘との再会のためにタバコをやめて、小綺麗な服装を着て間宮婦人に談判する彼の姿は、現実に折り合いをつけてどこかすり減らした印象さえも受ける。彼の亡き妻は、恐らくは義母である間宮婦人の装いや言動から見て、相当に暮らしぶりの良い家庭環境だったのだろう。10代で家出をし、新宿の場末のバーを使いまわした事務所を構えた彼は相手の親族からは歓迎されていない身だったことが窺える。

だから、娘を最優先にする以上、タバコを控えて、社会的に真っ当であろうとする。結果、帆高は切り捨てる対象になり、須賀は彼に家へ帰るように諭す。罪悪感から酒を飲むぐらいには帆高のことを親しく思っていたのだが、娘を最優先する上では仕方ないからそうした。この点も、社会的には日陰者であっても陽菜と共に生きようとする帆高とは真逆だ。

安井刑事に帆高が逃走したという話を聞かされた際、須賀が零した涙は、帆高と自分の差異と重複によって引き起こされたものなのだろう。世界の調和が戻ったにも関わらず、1人の愛する人のために警察を抜け出なんて、実に愚かしい。だが、それは須賀には出来ない行いでもある。娘を取り戻すために入れ替えられない優先順位、つまりは社会のしがらみに雁字搦めにされた須賀にとって、人生をかけて行動を起こせる帆高は羨ましいとさえ思ったのではないか。

須賀は一旦は大人として箍の外れた行いに出る帆高を制止し、正気に戻そうとするのだけれど、結局は彼の目的達成を幇助する。警察を相手取った帆高の咆哮は、愛する人のために人生をかける必死の訴えであり、須賀が燻らせていた後悔を燃え盛らせた。自分がみにしみて理解できる帆高の感情を何も知らない警察が抑えつけようとする光景にいてもたってもいられなくなったと考えると、納得のいく行為である。

妥協を知る大人たる須賀の存在によって、妥協を知らずに突っ走る帆高が著しく印象を強めている。そしてそんな帆高に突き動かされた須賀を見ていると、帆高の抱える願いや想いが理解されるのだと思えてくる。もしかすると、この映画を観ている人にとっても味方を得たような感覚になるかもしれない。

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もう1人、子供と大人の間で揺れ動くキャラクターとして夏美が登場する。彼女はあまり帆高や陽菜に直接的な影響を与えない役所ではあるものの、作品が描こうとしている子供と大人、理想と現実、個人と社会、主観と客観の間で揺れ動く女子大生として描かれている。

日本における就職活動とは、モラトリアムに置かれていた学生が一気に社会人へとランクアップする意味合いが強い儀式だ(制度自体に物申したいところはあるが、一旦置いておくとする)。ごく一部のスペシャリストを除いて職能を持ち得ない就活生は、我が身の有益性を、ちょうどエントリーシートを書いていた夏美のように、言葉の綾なんかでアピールしようと苦心する。帆高たちのように自分の欲求を明らかにすることもできずに「第一志望」という嘘を語らざるを得ない微妙な時期であり、そんな彼女の存在は少しばかり帆高たちの自分勝手さを補強する役割を持っている。

少々強引な見せ場になってしまっていたのは否めないが、最後のカーチェイスでキャブを走らせる彼女は、帆高に加担することでそうした社会の息苦しさから一瞬でも解放されているのかもしれない。

(C)2019 「天気の子」製作委員会

 

「天気の巫女」たる陽菜が担う母性による自己犠牲とその否定

作中では、天気を操る能力を持った人が古来より天気の治療に当たってきたという伝承が語られる。実際の歴史においても、祈祷やまじないで作物の豊穣を願う風習は日本のみならず世界各地であったとされている。

科学によって天気のメカニズムが解明される以前は、空模様の移り変わりは人々からしてみれば神秘のベールに包まれていたのだから、神様の仕業と言ってそれを恐れ敬い、特別な人間になんとかしてもらおうというのも頷ける話である。

矢面に立って人々に安寧の日々を送り届ける役目を担う「天気の巫女」のような人間は、その一身に人々からの感謝や名声を受け取る。劇中歌「祝祭」が響き渡る中、帆高と陽菜が晴れを届けた依頼人たちから報酬と共に感謝の言葉を告げられるエピソードがこれにあてはまる。ついには花火大会の運営から舞い込んだ大仕事で、世間から大注目を浴びるようにまで成功する。

だが、全体への奉仕者とは決していい事尽くしではない。その重責を1人で担わなくてはならなず、不都合が起きた場合にはその原因として指を差されることになるだろうし、人知れずに犠牲を払わされることだってある。天気を晴れにする度に水の魚(=天上の住人)に誘われる陽菜は、全体のために犠牲となる個の象徴そのものだ。

象徴としての役割は名声を得る一方でこうした不条理を味わっている事例なんて、現実にだっていくらでもあるだろう。例えば、理想の異性像を演じるアイドルという職業に向けられる憧れや熱狂の裏には、承認と引き換えにその人らしさを押し込めようとする動きが見て取れる。こと日本においてはそうした圧力は苛烈で、交遊関係や趣味趣向といった極めてプライベートな問題にまで世間の目が介入する光景は珍しいことではない。

全体の調和、すなわち自分たちの都合にばかり目を向けて、個人の幸福なんてまるで関心が向かない。「人柱で天気が元に戻るなら俺は歓迎だけどね」という台詞を放った時の須賀は、そうした「個を疎かにしうる全体」を代弁している言えよう。極めて短いカットだったが、陽菜が消えた晴れの日にSNSで「夢に出てきた晴れ女」についての能天気な話題が取り沙汰されている描写がある。ここでは個人が被った不幸にはまるで無自覚なまま幸福を享受し続ける社会が露悪的に映し出されているものだから、居心地の悪さを覚えてしまった。

そうした自身の困難を受け入れ、人々に尽くすという点において、陽菜は所謂「母性」を託されたキャラクターとして描かれている。落ち込んだ帆高に晴れ空を見せてあげるシーンを筆頭に、彼女自身が他人の幸福のために尽力する描写はしばしば見られる。マクドナルドで働いてた時は内緒でビックマックを、家を訪ねてきた時にはテキパキとした手つきで料理を帆高に振る舞っていた。また、彼の不安にもさりげなく耳を傾けていた。帆高の「もう息苦しくはない」という言葉には、須賀たちのこともあるだろうが、陽菜という同類との出逢いも含まれていると思われる。弟の凪を世話してあげていたこと、晴れ女として依頼人の願いを叶えてあげていたことも含めて、陽菜は随所で母性を発揮してるのだ。

陽菜自身も、そうした目上の人としての役割を担えるようにと気持ちが焦っている節があった。最後の晴れ女の仕事の際、公園で年齢の違いについて「変わんねーだろ」という須賀の発言に対しては彼女は反発し、夏美には「はやく大人になりたいです」と言う。15の彼女にとっては年齢はとても大きく、弟と2人で生きていくためには必要な身の丈である。今にも欲しているが故の焦りみたいなものが、初めて帆高と出会った時の、18歳という偽りの自己紹介に繋がっていたのだろうと思われる。そして、帆高自身もそれを疑うことはなく、陽菜は年上のロールを見事に演じ続けていた。

思春期の少年少女にとって、年齢は大きな意味を持つ。パトカーの後部座席で陽菜が本当は15歳であるという事実を聞かされた帆高が呆然として泣き出すのも、この思春期特有の価値観に由来している。「俺が一番年上じゃねえか」と絞り出すようにいった台詞は、自分が一番年上だったにもかかわらず、精神的に彼女の母性に寄りかかっていたという気づきと、晴れ女の役目を背負わせてしまったという後悔が折り重なって、自身の未熟さを思い知る瞬間が凝縮されている。

そしてこの年齢が炙り出した陽菜の献身的な振る舞いがあるからこそ、帆高の「全部背負わせてごめん」という言葉は強く引き立つ。陽菜はずっと自身の苦境を誰にも真に理解されぬまま、周囲のために母性を履行していた。空にひとり連れ去られた彼女の状況は、かようの孤独を示唆的に映像化したとも読み取れる。

陽菜を孤独から救い出そうとする帆高は「青空なんかより陽菜がいい」と叫ぶ。世界の調和のために自己犠牲を払った彼女にとって、自分に味方をしてくれる人が側にいることは、この上ない救いだ。

また、母性を示すためのアイテムとして、陽菜が首に身につけていたチョーカーがある。かつては病に伏していた母親が手首に身につけていたそれは、彼女の死後は陽菜の首へと渡る。この継承は、陽菜にとって亡き母親の役割を努めようとする意思の表れなのかもしれない。帆高から救い出され、あの鳥居の下へと倒れ込んでいた時、その首のチョーカーが切れていたように、1人で抱え込んでいた孤独な役目はここで終焉したのである。

『天気の子』は、多数のために犠牲となる少数に寄り添った話の上で、陽菜という少女が担わされた重責を年齢という普遍的なツールによって明瞭にしている。そればかりか、そこから年上と年下という関係性から思春期の少年少女らしい匂いを感ずることもできる。

率直に言ってしまうと、「超能力を持つ少女」「主人公の少年と恋をする」という表層的な共通点に気を取られて、最初は陽菜に対して『君の名は。』の三葉との明確なキャラクターの違いを見出せていなかった。しかし注意深く追ってみると、上記のように母性というファクターがとても重要だと気付かされた。「理想の女性像」に多く見られる母性を陽菜に託し、それによって身を滅ぼしてしまう事を帆高が否定する物語になっているというところに、新海誠監督の意図が潜んでいるようにも思う。

 

帆高の家出の理由は描かれるべきではない

今作において、あまり鮮明にされなかった描写がある。物語と発端となっている帆高の家出の原因と、陽菜が凪と児童だけの二人暮らしをしていた理由は、おそらく誰もが気にかかる部分だろう。

帆高に関しては、親も地元も息苦しいということを後ろ向きな理由として、故郷の島で心惹かれた光の行方を追って東京に来たことが前向きな理由として語られてはいた。

この情報だけでは、1人の高校生がわざわざ離島から東京に逃避行してくることに納得するに足るとは言い難いだろう。陽菜にしても、両親がいない中でどうして施設にも頼らず、わざわざ苦しい道を選ぶのかについて十分な説明はなされていない。

自分が思うに、これは帆高たちの「今現在の選択」を重んじているからこその意図的省略だ。寧ろ帆高達の過去を鮮明に描かないことによって、この物語のスポットライトは常に今に当たり続けている。

しばしばフィクションにおいて登場人物の過去を描写し、それを直接の原因として今の結果に至らせる手法はポピュラーである。例えば、「親から愛されなかった人間は、他人を愛することができない」「ショッキングな失恋を経験して、異性と話すのが苦手になった」という具合に、その因果関係は強いものとして描かれる。「過去のトラウマが今の不幸を引き起こしているのだ」とする物語は実に理解しやすく、いかにもドラマチックに感じられる。

しかし、実は人間の意思決定に過去は必ずしも影響を及ぼさない。上記の例で言えば、親との不和がきっかけで総じてネガティブな思考を持つようになる可能性も否定しきれないが、そうした過去を断ち切って明るく振る舞う人間もまたいるものである。要するに、過去の出来事を今の原因とするかしないかは、最終的に各々の不断の決意に委ねられているのであって、過去は絶対のものではないということだ。

『天気の子』の帆高と陽菜は、いちいち過去の自分を振り返るということをせず、ひたすらに今の自分たちの居場所を求めて疑似家族となっていった。2人は表向きは経済的な困窮状態から抜け出すために結託して、晴れを売る。かつては社会から冷酷な扱いを受けていた2人は、晴れ女業によって名声を得て成功する。そんな2人に対して打ち上げられたかのような花火は、まさにその絶頂を祝福しているかのようでもあった。

このように、帆高たちの行動にはいちいち過去のあれこれは絡まない。それは打算に基づかないが故に、時に危なっかしさを伴う。犠牲を伴うとも知らず、ただ生き延びるための行為に手を染め、やがて人柱として社会の成り立ちに組み入れられてしまっていたと気づく過程は、言ってしまえば青臭くて未熟だ。

しかし、その解決すらも帆高自身の「人生を棒に振るった」決意が要になってくる。周囲の視線などに目もくれず線路を突き進む姿は、過去に何かがあったからではなく、今の欲求に基づくものだ。

見る人が見れば愚かしいが、しかし憧れを抱かせる真っ直ぐさ。これは、過去に何かがあったという原因論で語ってしまえば、たちまちその普遍性が危ぶまれる。帆高が感じていた「息苦しさ」というのは、もしかすると極めてなんてことのないものだったのかもしれない。そういう余地を残しておくことで、帆高の身勝手さは様々な背景がある観客を貫くことができるようになっている。

『天気の子』では、論理武装や倫理的正しさを越えた帆高たちの決意が描かれる。過去の描写不足は、寧ろ我々が共感するためになくてはならないものなのである。

 

3年後の最後のシーンで、陽菜はどうして祈っていたのか?

帆高が身勝手を貫いて陽菜を取り戻したのと引き換えに、東京は半分が水に沈むという結果を招くこととなった。奇しくも、『君の名は。』の劇中、瀧が就職活動の面接で言っていた「東京だっていつかは消えてしまうと思うんです。」という台詞が緩やかに現実化してしまっている。

帆高が卒業式の最中に「仰げば尊し」の「おもえばいと疾し、このとし月」という歌詞に口を噤んだ様子から、故郷に戻されてからのどこか暗澹とした気分が窺える。陽菜を取り戻しても、東京が雨に見舞われ続けているという現実は、少年の肩には重くのし掛かっただろう。だから、(携帯を持っていないという理由もあるが)彼は陽菜との連絡を取らずにひっそりと島で過ごしていた。その日々は決して「いと疾し」とはいかなかったはずだ。

「世界の形を決定的に変えてしまった」という思いに気落ちしていた帆高に対して、慰めるようにして言葉を放つのは大人である立花と須賀だ。「東京はもともとは海だった」「お前たちが世界の形を変えたわけない」「世界なんてどうせ元から狂ってるんだから」といった言葉は、帆高達の身の回りの事実を知らないことから発されたものであったとしても、きっと逃げ込むのに最適な安息地になりえる。

そして陽菜に会いにいく道中の田端の坂道で、帆高はその言葉を反芻することで、東京を水に沈めたという事実を自分が安心できるよう溶かしていく。それはすなわち、自らがかつて下した、陽菜を救いたいという決意を無に帰する行為でもある。

しかし、その時に映り込んだ陽菜の姿を見て、帆高は自らの下した決断とその結果を受け止める自覚を持つ。

天気の巫女としての力を失った陽菜にはもはや天気を晴らす力はない。あの坂道の上での祈りは、その手合わせの本来の意味である単なるまじないに過ぎないのだ。それでも尚、陽菜は、東京のやまない雨空に祈る。それは、自身が乱した調和から背を向けることなく、東京がすこしでも良くなっていくように、という願いを彼女が持ち続けていた証左である。

その姿を見た帆高は、自分たちのしたことを認め、それを乗り越えて彼女と生きていくことをまたここで決意する。ここで流れ出す「大丈夫」が、そのまま帆高の陽菜に対する内情を物語っている。

東京の空が再び晴れることはあるのかはわからない。しかし、それでも空を見上げ、祈ることをやめず、2人は前を向いて生きていく。「僕達はきっと大丈夫だ」は、この不確実に満ちた閉塞感漂う日本に生きる自分にとって、我が事のように耳に響く。

(C)2019 「天気の子」製作委員会

 

まとめ: 理不尽な世界の中にある身勝手な愛を描こうとした気概ある作品

『天気の子』は、率直に言ってしまえば、新海誠監督による前作『君の名は。』に比べて、演出面・編集面での巧みさは下回っているように思う。クライマックスに至るまでの盛り上げどころは、晴れを描く天候変化程度で、中心は落ち着いた会話シーンだ。警察が帆高を狙うきっかけとなるアイテムである拳銃ひとつとっても、その出所(「シバタ」という人間が落としたのを帆高が拾ったという経緯)があっさりと済まされていたり、必要な場面に応じてひょっこりと登場するあたりの御都合主義は強く感じられる。また、編集や構成面でもハッとするような情報の開示の仕方や、興味を引かせる転換も少なかった印象を受ける。『君の名は。』における三葉が初めて瀧に会いに行くシーンや黄昏時の逢瀬と、今作における帆高と陽菜の出会いについての回想を見比べると、一目瞭然で前者の方が情報の引き出し方はうまかった。

だが、そうした拙いとも思えるひたむきな語りが、ある意味で帆高たちのなりふり構わない愛の追求にオーバーラップするようにも思えてくる。この映画が描いた主観的な愛の実現は、全体を重んじるばかりに個人を軽んじてしまう社会に蔓延る閉塞感を取り払わんする強固な姿勢が見えた。

現時点では、そうした気概に惹かれたことや、美麗なアニメーションの魔法にかかってしまい、冷静な感想を述べることができないのだが、ひとまず以上を自分の『天気の子』観とする。

 

関連記事:神秘と役割と死の超克のものがたり

▼『天気の子』との共通点が見られる世界の秘密についての物語『ペンギン・ハイウェイ』

 

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1 個のコメント

  • 自分の中では上手く言葉に出来なかったことがわかりやすく丁寧に書かれていてとてもスッキリしました。
    ありがとうございます。

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