勧善懲悪に留まらない「居場所」探しを描いた傑作『羅小黒戦記』レビュー・考察【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)北京寒木春華動画技術有限会社

こんにちは、『羅小黒戦記』をまだ7回しか観られていないワタリ(@wataridley)です。

今回はMTJJ監督によるアニメーション映画『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ/THE LEGEND OF HEI)』のネタバレありの感想・考察を書いていきます。

既にネタバレ無しという形で紹介寄りの感想を書いているので、未見の方はそちらをどうぞ。今回はぐっと内容の詳細に触れていきたいと思います。

▼前回の感想(ネタバレ無し)はこちらから。

※今作は現時点で「①2019年公開当初の字幕版」「②さらに再公開時に改訂を加えた字幕版」があり、それぞれ作中用語の訳し方や台詞回しが異なっています。今後も改訂が行われたり、吹き替え版が制作されたりする場合にも、言葉遣いは変更される可能性がありますが、以降の感想は②に準拠している点をご留意されたし。


88/100

ワタリ
一言あらすじ「黒猫の居場所探し」

シャオヘイを介して世界を知る

『羅小黒戦記』は、時折の視点遷移を除いては、始まりから終わりまで一貫して、妖精の子どもシャオヘイ(小黒)の目線に沿った物語になっている。今作を語る上ではなくてはならないこの基本構造が、単純に善悪に二分され得ないとする人と妖精(異種)の関係や、そこから連想されるあらゆる困難についてのヒントをくれるのだ。

 

居場所を求めて旅に出る導入

森で妖精たちと平和に暮らしていたシャオヘイ。そこに突如として不穏な銃声がこだまする。「何か」から必死に逃げてくる動物達の流れに逆らって、シャオヘイはそれに立ち向かおうとするが、その甲斐もなく、彼の体は空を切り、大きな穴へと落ちていく。その時シャオヘイの目に映ったのは、森を開発するために投入されたと思しきショベルカーであった…。

この冒頭から、画面で起こった出来事に注意を引き寄せられる。緑豊かな森を崩壊させた張本人は「未知の敵」などではない。自然を拓き、開発を進める人類である。森に住む幼き妖精にとっては、平穏な時間を奪った彼ら(我々)は、恨むべき対象になってしまうことだろう。

そうしてシャオヘイは人を嫌い、「居場所」を求めて旅に出る。彼の旅風景は、郷愁溢れる音楽と数々のカットによって描写される。この台詞のないサイレント形式のオープニングはこちらの想像を掻き立て、彼の味わっているであろう寂寥感をひしひしと感じることができる。温かみのある色合いで表現された中国の田園風景の中を、ポツンと歩く黒猫は、孤独の二文字を形にしたといっても過言ではない。夜空に浮かぶ沢山の凧を見上げる彼の後ろ姿が映り、シンパシィが頂点に達したところでタイトルが表示される。まともな台詞が殆どないこの時点で、感情をここまで動かされてしまったのだから、これはもうはっとしてしまうものだ。

自分は絵の心得があまりないのだが、今作の背景の美術はこうした非言語で訴えかけるシーンへの情緒を引き立てているように感じられる。森の場面における茶や緑の落ち着いた色味は目に安らぎを与えてくれるし、木の幹を構成する線の太さは一定ではなく揺らぎがあって画面越しに感触が伝わってくるかのようでもある。

シャオヘイが流れ着いていた雨の降る裏路地は寒色系のコンクリートの地面や壁で構成され、不良少年達に追い詰められた先では人工的なオレンジの照明を用いる一方で、フーシー達の住む孤島では暖かい緑や地面に降り注ぐ太陽光を描くといった色彩の変化も場面ごとにつけている。おかげで、観客にもそのシーンの空気感が明瞭にわかるようになっているし、何より画面が変化に富んでいるから面白い。今作は森で始まり、途中海を経由し、牧歌的な田園や石造りの家が並ぶ町、そして都会と、常に移動をし続けており、各場面で異なった顔を見せてくれるので、ロードムービーとしても見応え抜群である。

 

フーシーという居場所、ムゲンという敵

独りぼっちの境遇にあったシャオヘイは、ある日出会った妖精フーシー(風息)に誘われるがまま彼らの仲間になる。人間との関わりを持たずに、同種たちと霊力に満ちた森で暮らすことは、シャオヘイにとって何よりもの望みだった。

フーシーとその仲間たちはシャオヘイを歓迎してくれ、衣食住まで与えてくれる。気さくで朗らかな性格のロジュ、クールで物静かな雰囲気のシューファイ、お肉の焼き方が巧みなまん丸の獣のテンフーといった個性的な面々との出会いもまた、直前まで独りだったシャオヘイの精神に安らぎとなったはずだ。

故に、館から遣わせられた執行人ムゲン(無限)は、はじめはシャオヘイの目に脅威として映ることになる。フーシーを捕らえようとする彼は、シャオヘイからすれば、やっと手に入れた平穏な日々をまたしても奪おうとしてくる邪魔者であり敵というわけだ。このようにして、「フーシー達=シャオヘイの居場所」「ムゲン=忌むべき敵」という二項が見る側にもごく自然と刷り込まれていく。

またフーシーはシャオヘイが追い求める居場所であると同時に、シャオヘイの未来の姿とも言える。後に明らかになるように、彼もまた人間達の開発によって居場所を追われ、人間を憎むようになった過去を持っている。作中様々な妖精が登場する中、シャオヘイ以外では、フーシーだけが本来の姿に戻るのだが、黒猫のシャオヘイに近い黒色系統の体を持った獣であることもそれを示唆しているように思える。

最初のうちは、横槍を入れる形で介入してきたムゲンを不安視せざるを得ず、見る側としてもシャオヘイと同類のフーシー達との合流を期待する。だが、こうした見方はまだ世界を知らないシャオヘイと同じ目線に立っていることを意味している。

 

パラダイムシフトをさりげなく描く旅路の一風景

当初はフーシー達を善良な仲間だと信じて疑わなかったシャオヘイだったが、人間であるムゲンとの旅を通じて世界の捉え方が変わっていく。海の上では金属性の術を彼から教わり、上陸後は人間の文化に触れて、特に料理の美味しさを知る。そうした体験を経て、ムゲンと過ごす時間が蓄積するうち、彼の中にあった「妖精対人間」の境界線が曖昧になる。この過程こそが今作の肝である。

ムゲンと距離を近づけていく様子は、楽しげなカットの数々でふんだんに表現される。中でも演出面で目を見張るのが、食事をとるシーンや床につくシーンでさりげなく彼らの距離感を描いているところである。

当初、互いに警戒していたシャオヘイとムゲンは、同じ筏の上にいるにもかかわらず、互いに別々の方を向き、別々に食事を取っている。陸地に到達すると、向き合いながら海沿いのレストランで同じ家庭料理を口にする。そして、本格的に始まった館への旅の中で、ムゲンはシャオヘイに(下手なりに)料理を振る舞う場面もある。こういった具合に、その関係性の変化が段階を丁寧に踏んで描かれているのだ。

他の執行人達を交えて食卓を囲うシーンでは、様々な種類のお菓子をならべ、多人数で語らい合うという画が広がる。画面に映り込むお菓子や、多様なキャラクターのアンサンブルによって贅沢な多幸感が醸し出されており、シャオヘイが人間との共存を明確に意識し始める場面としての説得力に満ちている。

就寝の描写も同様に、そこから関係性の変化を見出せる。海のパートでは、シャオヘイとムゲンは夜も互いに近寄らず筏の対極位置に座っており、警戒心を漂わせている。そこから飛んで、石窟で野宿をしている場面では、ムゲンが焚き火をおこす傍ら、シャオヘイは先に横になっていて、警戒心をある程度解いていることが読み取れる。そして、同じモーテルの一室で枕を並べて寝ている時には、決定的な雪解けが描かれ、以降逃走を図ろうとする天丼ギャグは鳴りを潜めることになる。このように、旅における食事と就寝にフォーカスしてみるだけでも、さりげないが緻密な演出によって、関係性の深度を見る側の感覚に訴えかけていることがわかる。

そして、2人の関係が密になるにしたがって、妖精と人との共存が説得力をもって捉えられるようにもなっていく。ムゲンに対するシャオヘイの心情から敵意が消えていくことは、イコール人間へのバイアスが解けていくことを意味しているからだ。

 

偏見や先入観を超える「知ること」

フーシー達を捕らえるはずが失敗し、シャオヘイを連行することになったムゲン。彼がシャオヘイを館へ連れて行く動機には、執行人としての責務に加えて、おそらくはシャオヘイという極めて不安定な存在への憂慮があるように見受けられる。

何しろシャオヘイはまだ善悪観念が身についていない子供である。確たる価値基準がなく、それを打ち立てるに足るほどの経験もないために、物事の良し悪しを肌合い感覚で判断するしかない。現に、館の執行人であるキョウ爺に対しても、つんけんな態度をとりながら、居場所を奪った人間はみな悪い奴らだという極端な考えを特段の疑いもなく口にするほどだ。そのままではフーシーが画策していたような、人間の排除に加担しかねない存在なのだ。

海の上では「陸地に着いたら解放する」と言っていたムゲンだったが、上陸後の別れ際「フーシーを探す」というシャオヘイの言葉を受けて、彼は館に来るよう諭し、半ば強制的に連行する。もしフーシー達と合流してしまったら、人間を忌み嫌う彼らの価値基準をそのまま受け入れ、ついには「領界」の力を悪用するかもしれない。モーテルで一緒に寝ている場面で「その力を悪しきことに使って欲しくない」と口にしたのも、善悪を分けられないシャオヘイの将来を案じていたからこそである。

ムゲンからシャオヘイへの「お前に善悪が分かるのか」という問いかけは、今作の異種共存のテーマにも絡んだ、鋭い切り込みである。何が正しく何が間違っているのかを先天的な人の属性によって判断してしまうことは、シャオヘイに限らず、自分にだって当てはまるではないか。

だが、そうした思考の大半は無知がもたらすものだ。シャオヘイが人間への不信を「知ること」によって克服していく描写の数々が、それを逆説的に物語っている。

シャオヘイは人間も住んでいるという館に連行されることを激しく拒否していたが、道中で合流した執行人達に人間の功罪両面を教わりつつも、共存を模索している館の実情も垣間見ることになる。

執行人の1人であるキョウ爺は、かつて住んでいた故郷が観光地にされてしまい、お金を払わなければ立ち入れなくなってしまったという苦々しい思い出を語っていた。ただその一方で、彼の弟子であるシュイ(若水)の言う通り、スマートフォンのように人間の作ったものを享受して生きている面もある。ムゲンに敵意剥き出しで離れた位置に座っていた2人の執行人も人間の1から100までを受け入れているわけではないけれど、部分的には許容し、貰うものは貰うというふうに折り合いをつけているようだ。共存と一言にまとめても、実際には色々な態度がある。妖精達の生き方が一枚岩でないように、妖精だから善良で人間だから悪いと言い切れないという発想は、それまでのシャオヘイにはないものだった。

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そして、地下鉄で誘拐された際にその場に居合わせた人々に助けてもらうことで、シャオヘイはそのことを身をもって体験することになる。自分と同じ妖精に拐われ、疎んでいた人間達に救われるのは、以前の彼には考えられない出来事だったことだろう。だが、逆に成り行きで周囲の人々を救い、女の子からの感謝の言葉に応えることで、シャオヘイは人間との間に設けていた壁が幾分取り払われる。この瞬間、トンネルを抜けて窓から差し込んできた光は、彼の心情変化を巧妙に捉えていた。

 

鏡像からifの関係に

そのように変化を遂げたシャオヘイは、人を徹底して憎むフーシーにとっては、もはや相容れない存在である。彼は「領界」をシャオヘイから強奪するという過激な手段に出ることになる。

後戻りできなくなるという時に、フーシーはシャオヘイに謝意を口にし、その後にムゲンからシャオヘイへ危害を加えた事をを咎められた際にも「言い訳はしない」と言い切る。このことからわかるように、フーシーは望んで人間の排除を目論んだわけではない。彼も人間が森へとやってきたかつての時には、共存関係を受け入れていた。だが、人間による自然破壊が許容できる範囲を超えたことで、滅ぼされるかもしれないという危機感に追い立てられ、今へと至ってしまう。

今作の人間と妖精の関係は、人類による開発に伴う自然破壊の言い換えになっているのはもちろんだが、現代の中国や世界の諸問題を踏まえれば、民族と民族、宗教と宗教といったモチーフにもじゅうぶん繋げられるだろう。フーシーは言わば弾圧を受けている側のように見えるし、それをきっかけとしてテロリズムに走る様は、能力バトルというアニメ的表象を取り除いてしまえば、生々しい社会の縮図にも見える。

だが、自衛という大義の下にしたところで、相手側を排斥して自分たちだけ生き延びようとする行為は、多様性を否定した、孤独な生き方にほかならない。周囲を「霊域」化する術として語られている「領界」は、そのメタファーに見える。

ムゲン曰く、「霊域」は自然から集められた気を集める場であり、すべての生命と力の源になっているという。『鋼の錬金術師』の「真理の扉」にも似た内的宇宙を暗に示した空間に思えてくるが、ムゲンはそこに生家を置いている。他の妖精たちよりも飛び抜けて強く、100年以上生きているという彼は明らかに狭義の人間をやめているし、かといって館の妖精たちからも歓迎されていないという、人と妖精の間の微妙な立場にいる。そんな帰るべき場所のない彼にとって、ふるさとである家を置いておくことが、精神の拠り所になっているということなのかもしれない。その反対に、まだ子供であるシャオヘイの「霊域」には何もなかった。だが、映画の最後には、ムゲンとの旅で使った筏とバイクが置かれている様子が映し出されている。これらから推測するに、「霊域」とはその人の心の拠り所であるような気がしてくる。

つまり、その「霊域」を外部に表出させ、拡大していくのは、自己中心と異論排除のダイナミックな映像化とも言える。自分の仲間である妖精達だけを許し、敵は立ち寄らせないというのはそのままフーシーの思想に基づくものだ。

一方で、「霊域」の拡大に対処する館は、内側に閉じこもっていくフーシーと異なり、多種多様なキャラクター達を登壇させ、多様性をアピールしてくる。電波を遮断して後処理に備える者がいれば、市民を一斉に別地点に転送するという驚きの避難方法をする者もいる。密室にいて転送しきれなかった市民は、空間認知能力を持った者が情報を送り対処する。はたまた、本部からの応援としてやってきてそれまで手こずっていたシューファイを瞬殺する強キャラのナタはツインテールの男の子という飛び抜けた個性を発揮している。かくも様々な能力を持ち、様々なデザインのキャラクターが画面を賑わせている様子を見れば、館が目指している調和の意義は言葉にせずとも強く首肯したくなる。

そして、極め付けがクライマックスにおけるシャオヘイとムゲンの共闘である。

シャオヘイははじめはフーシーとの鏡像の関係にあった。フーシーの言う通り、本来ならあの日以降、同じく人間に居場所を奪われた者として一緒に暮らし、自らの意思で「領界」を使い、妖精の楽園を作っていたのかもしれない。

しかし、ムゲンの介入により、彼の運命は別方向に逸れていく。ムゲンと共に旅をし、人間との共存を模索する方向を見始めた彼は、孤独に自らの領域に閉じこもるフーシーではなく、人と妖精の共存のために尽力するムゲンと手を取り、領域を解き放つべく向かうのだ。このクライマックスの「シャオヘイ&ムゲンVSフーシー」という構図は、そっくりそのまま共存と排除の闘いに見立てることができる。また、それ自体が勝敗の分け目で、種族を超えて手を取り合ったシャオヘイ達が、仲間も逮捕されて孤立化したフーシーに勝つのは、必然の結果である。

この闘いによって、フーシーとシャオヘイは決定的に異なる存在となる。同じ過去を持ち、先に待ち受ける未来も同じだったはずのシャオヘイとフーシーは、最終的に袂を分かち、それぞれ別の道を行ってしまった者同士である。シャオヘイからすれば、フーシーは自分の未来の姿ではなく、ありえたかもしれないifの姿になっているというわけだ。

 

困難を超えて最後に辿り着いた「居場所」

冒頭に襲ってきた不良少年には目に生気がなく、地下鉄の時と同様に操られていたことがわかるように、フーシーは「領界」を持つシャオヘイを最初から狙っていたわけだが、彼が人間、妖精、館等の争いに翻弄されるきっけかを作っている。フーシーが最後にシャオヘイに向けた「ごめん」という言葉には、そのことへの後悔があると考えられる。

また、フーシー自身も冷酷にならざるをえなかった背景には人間の自然破壊があり、結局彼もまた犠牲者としての一面はある。上記の謝罪の言葉や、ムゲンに対してシャオヘイを傷つけたことに対する言い訳をしていないことを考えても、自身の加害性は否定していないことから、やむにやまれず今回の強行に出たことが垣間見える。

結局、モーテルの一室でムゲンからシャオヘイに「お前に善悪がわかるのか?」という問いかけには、明確な答えが存在しないのだ。故郷への執着心を捨てきれずに大樹になる形で自害したフーシーを前に、シャオヘイがフーシーは悪い人なのかという疑問に対し、「答えはお前の中にあるはずだ」と答えているのも、善と悪は単純に分けることができず、自分で模索しなければならないことを意味している。

また、勝負の上では館がフーシーの一派を鎮圧する形で勝ったわけだが、だからといってすべての問題が解決したわけではない。一部始終を見ていたナタがフーシーの成れの果てである大樹を指して「また伐採される」とボヤいているのを聞けば、マイノリティが声を上げたところでマジョリティに黙殺されうる現実の残酷さを思い知らされる。更には、自身が住んでいた仙境を観光地にされ、観光料を払わないと帰れないと言っていたキョウ爺の口から出る「公園になるかもしれん。有料のな」という言葉は鋭利に響き、見ている自分にも苦々しい情感を後に残す。

そのため、シャオヘイが体制側に傾いたからめでたしという単純なハッピーエンドにはなっていないように感じられる。この匙加減の絶妙さは、善悪を問いかける視座を内包している話として相応しく、複雑な問題が存在する現実と照らしても全くチープにはなっていない。

最後に、シャオヘイが居場所として選んだ先が、人里離れた森でも、妖精と人間が暮らす館でもなく、ムゲンその人というのも居場所探しのプロットとして美しい着地だ。道中では人間と妖精の分断と共存といった壮大なテーマを示しておきながら、最終的にシャオヘイとムゲンという1対1の関係に帰結する。居場所とは目に見える理想郷ではなく、それを目指す過程で苦楽を共にしたその人だったのだ。

 

まとめ: すべてにおいて高水準なアニメーション

今作がシャオヘイという子供の目線を生かした話であるというのは冒頭述べた通りである。物語が進んでいくにつれて、様々な出来事や人々に出会し、その主観が変化していく様を観る側に体感させているのだ。

故に、「異種との共存をかけた闘い」というドでかいスケールの話に置いてけぼりを食らうことなく、身をもってシャオヘイの闘いに感情移入することができるようになっている。シャオヘイの目に映るフーシーはマイノリティを象徴し、ムゲンと手を取り合うことは種族を超えた結託を意味している。

積み上げの過程におけるアクションやコメディはいずれもが適切にキャラクターの性質を表している。食い逃げや料理下手といったコメディシーンは、ムゲンという強い敵が徐々にその隙を見せて、親近感を覚えさせる装置として機能している。はたまた、館の執行人たちがごぞって出てくるクライマックスは色々な人々が協力してひとつの社会を作っている景色を派手に言い換えているかのようである。つまるところ、これらのアニメ的表象は単なる戯れに終わらず、裏の意味を伴っている。だから、観客はシャオヘイとムゲンの旅に様々な想像を働かせるし、導き出されるテーマに圧倒的な説得力を感じるのだ。

日本のアニメーション映画でも、こうしたファンタジーの世界観や、個性的な能力を活用した能力バトルがジャンルとして持て囃されてはいる。しかし、映画において、そうした設定の数々を巧く活用している例は、近年ではかなり少なくなってきているというのが、個人的な印象だ。

そんな中にあって、今作は個性溢れるキャラクター、全編に渡ってキャラの表情と感情を丁寧に描く作画、中国の広大な風景を鮮やかな色味と温かみのある線で描いた美術、シーン毎にニュアンスを引き立てる音楽、ふっと気を緩められる適材適所なユーモア、機敏でアイデア豊富でしかも見やすいアクション、どの国や地域にも通ずる普遍的なテーマとロジカルなストーリー等のどれもが高水準で、初見時には強い衝撃を受けた。

強いて、今作に不満を述べるとすれば、シャオヘイとムゲンが直面した問題を、今回ですべてカバーしきれたとは言えないところだろうか。ムゲンは妖精たちのために尽力し、その上人格面においてもシャオヘイを保護するなど高徳な人物として描かれているが、実際にはなかなかできないことである。寧ろ、残念ながら、自分を含めて多くの人が無自覚なままにマイノリティを虐げていたり、あるいは明確に攻撃的であったりする。

そういった描写は、ひとまず今作では省略されているものの、シャオヘイとムゲンの旅の続きを描くのであれば、避けられない問題である。つまりどういうことかというと、結局のところこの映画の続きが観られる将来を所望しているということだ。

今作の配給を務めるチームジョイ代表の白金氏によると今夏にはより公開規模を広げる準備があり、吹き替え版の制作にも取り組んでいるとのことなので、『羅小黒戦記』が引き続き起こすであろう波も期待したい。

 

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