アイキャッチ画像: (C)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
こんにちは、車も免許証も未所持のワタリ(@wataridley)です。
今回はジェームズ・マンゴールド監督の『フォードvsフェラーリ(原題: Ford v Ferrari)』の感想を書いていきます。
アメリカの自動車会社フォード社は、1903年にヘンリー・フォードによって設立されて以降、今もなお世界的な自動車メーカーとして存在感を発揮しています。今作は、そのフォード社が24時間耐久レースのル・マンでイタリアのフェラーリに勝利した1966年の出来事に至るまでの実話を基にした物語です。
こう書くと、華々しいフォード社の栄光を称揚しているような印象を持つのですが、実際の内容は複雑な利害関係が渦巻いていました。他社の買収に失敗し、プライドを傷つけられたフォードののっぴきらない政治事情を背にして、イギリス人レーサーのケン・マイルズと、元レーサーのキャロル・シェルビーらがル・マンに挑みゆく過程には、技術に限らない困難が立ちはだかっていたのです。
実は今作が自分にとっての2020年の映画初めでしたが、上層部と対立しながらも自分たちのプライドを貫くマイルズとシェルビー達の姿は、新春の清々しい空気とマッチしているように感じられました。
以降、ネタバレを含めた感想を書いていきます。未見の方はご注意ください。
78/100
目次
迫力満点のレースシーン
今作を人にお勧めするとして、最も手っ取り早くその魅力を伝えられるのが、レースシーンの迫力と臨場感だろう。
今作では、車高に合わせたショットが多用されているが、車と接地したカメラから見えてくる景色は、さながら自分自身までもがレーサーになったかのような感覚をたしかに与えてくる。
車が大破するような危険な場面に際しても、被写体をしっかりと見せてくれるが、驚くことにこれらは極力CGを用いていないという。時には、実際に車をクラッシュさせてまで撮られた映像には目を見張らせられ、車の重量感や焼け焦げたタイヤの匂いが伝わってきていると錯覚するかのようでもあった。
大画面から轟いてくる音量も、室内にいる観客なんぞお構いなしに大きく、こちらの危機意識をふんだんに煽り立ててくる。急ブレーキをかけた際の鋭いタイヤの唸り、スピードに呼応して喧しさを増していくエンジンの爆音が耳をつん裂く度、見ている自分の心拍数も上がっている感覚があった。
レースシーンにおけるリアリティと音響が素晴らしいことに加えて、編集も聴衆のテンションを引き上げてくれていた。猛スピードで走る車だけではなく、それを見守るピットで並行して進む政治的・技術的な駆け引き、そして汗が滲んだ登場者の表情が交互に切り替えられていく。これらが、スピーディで変化に富んだ編集によって、刻一刻と状況が変化していくことを適切に理解できるようになっていた。
特に、レーサーのケン・マイルズ役のクリスチャン・ベイルの顔つきは、命辛々の冒険をする人間のそれにしか思えず、画面に映る度にとてつもない色気を発していた。頬の肉の強張りや、顔をびっしょりと濡らす汗、前を見据える鋭い眼差しは、フォードの車を差し置いてスクリーンの主役だったと言えるほどだ。
実際のレース場なんて行ったことがない自分でも、こうした臨場感に興奮させられたのだから、とにかく今作の目玉として評価せざるを得ない。ソフト化されても、依然として映画館で鑑賞できる環境を求めてしまう迫力があった。
(C)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
利害のしがらみを超える7000回転の世界
心臓病を患い引退した元レーサーにしてシェルビー・アメリカンの経営者キャロル・シェルビーは、後にフォードの社長になるリー・アイアコッカにスカウトされ、ル・マン制覇を目指すことになる。しかし、この挑戦はイタリアの自動車会社フェラーリとの争いのみならず、保守主義的なフォードの社長ヘンリー・フォード2世や副社長レオ・ビーブら重役との対立も意味しているのであった…。
『フォードvsフェラーリ』は、この手の企業サクセスストーリーとしてありがちなライバル会社との対立に加えて、更に社内政治に現場が抗う、二重三重のストーリーのチャレンジがストーリーの軸になっている。
シェルビーにその才能を見込まれたマイルズだったが、当初はファミリーレストランにおいて彼からのオファーに乗り気ではなかった。彼は、前年のル・マンで完走すら出来ずに敗退したフォードを王者フェラーリに勝たせることの難かしさを説くのと同時に、大企業に属し、困難に挑む上で上層部が自分達に必ずしも協力的とは限らないと口にする。凝り固まった重役達は、「自分達とは違う」と言って自らの経歴と素行を指して邪険にするだろうというわけだ。
実際、彼の憂慮が的中するようにして、レオ・ビーブらの工作によって1965年のル・マンへの出場を阻まれてしまう。史実においては、彼はフォードが初優勝を果たす前年の1965年にもル・マンに出場しているのだが、この映画において彼を「上層部VS現場」の対立構造の中で一旦彼を抑圧するための脚色だろうと思われる。
何はともあれ、作中では、肥大化したフォード社が煩雑化した指揮系統と意思決定プロセスによって、現場の声に耳を傾けられず、シェルビーらが苦渋を味わう場面が描かれる。まさに、フォード2世の元に届くまで幾多もの人の手を渡ってきたファイルのように、会社とは資金力・組織力が優れているがために、個人のクリエイティビティが阻害されてしまうのが、この世にありふれた光景なのかもしれない。そもそもフェラーリ買収を提案していたアイアコッカが、表向きにはフォード2世ら保守層に歩調を合わせながらも、裏向きにはシェルビー達に協力している様子には、一筋縄ではいかない組織政治の辛さが見出せる。
そんな状況の中、現場監督として権限を持ったレオ・ビーブに対して、シェルビー達が取った対抗策は不利を覆すために必然的大勝負となる。ビープを事務室に閉じ込め、フォード2世にマシンスペックを見せつけ、そこからデイトナ24時間レースにて1位を獲るというプランは、マイルズのスキルを信じていなければ到底決行不可能なものだ。しかし、この荒唐無稽な賭けは功を奏し、現場の挑戦が1966年のル・マンに繋がることになる。
当のマイルズは、そのドライビングテクニックもさることながら、瞬時に車体の空気抵抗や部品についての問題を見抜いているように、テストドライバーとしても優秀な人物として描かれている。一方で、裁定員に盾付き、初対面のシェルビーにスパナを投げつけるような荒くれ者でもある。第二次世界大戦後にイギリス軍を抜けた彼は、アメリカに移住。整備工場を経営する傍らで、スポーツ・カー・クラブ・オブ・アメリカ(SCCA)に参加し、好成績を収めるなど元より優秀なレーサーであるが、映画では彼個人はレース界、車産業においては異質な天才肌として描写しようという向きがある。
こうした脚色から今作が志向しているのは、「フォード上層部VS現場の人々」であり「保守VS革新」の物語であることが読み取れる。タイトルには『フォードvsフェラーリ』とあるが、実際にはマイルズという異端が、俗臭漂うフォードの功利主義に抗う側面が強い。むしろフェラーリは、車産業においてレースに特に力を入れていた会社であり、シェルビー達のようにレースに身を投じている人物達と同類とさえ言える。
今作では、激戦を制したマイルズがエンツォ・フェラーリと静かに視線を交わす場面が印象的だ。このことからわかるように、大企業の一大プロジェクトからマイルズ、シェルビーらが得たのは、会社の利益というよりも、戦ったものにしかわからない意地と誇りなのだ。危険なレースに繰り出していくのも、マイルズが息子に告げたように、レースで見える景色のためだ。
冒頭では、ガソリンが着火するという事故にも何食わぬ顔でレースに飛び出し、また心臓病による選手生命の限界を告げられても激走するシェルビーの姿がある。そして再び、マイルズとの死別を振り切るようにして走り去る車の後ろ姿で今作は幕を閉じる。
危険を冒してまでレースを求める理由を、シェルビーとマイルズはともに7000回転の世界への渇望として表現していた。1位のまま独走状態になったマイルズが、ふと穏やかな心地を得るシーンは、それまでの競争相手との苦しい鬩ぎ合いや社内で受けた妨害工作といった俗世のしがらみから、まさに解放されていたかのように映る。そして、彼はフォード上層部の指示に従って減速し、3車同時のゴールを遂げる。様々な困難が、常人には及びもつかない高速の世界で得られる高揚は、もしかするとありとあらゆるしがらみを極小化するのかもしれない。彼がシフトレバーに手を伸ばしたのも、それまでの苦難を消化し、それまでの対立を自ら断ち切ろうという達観からきているように思う。
結局、彼はル・マンでの1位優勝、ないしはデイトナ24時間レース、セブリング12時間レースと合わせての3連覇という偉業を逃すことになってしまう。しかし、エンツォ・フェラーリとのアイコンタクトや、歓喜に沸く群衆と逆方向へ進むシェルビーとの後ろ姿を見れば、彼らが表向きの栄光とは別の次元で、確かな到達点を見出したことが理解できる。
結末には少々の苦味が混じっていたが、個人の執念が複雑な利害関係を超える熱いドラマだった。
(C)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
スリムで隈なく整備された映画とまではいかない
マイルズやシェルビーらが、会社の掲げるプライドや功利主義を颯爽と振り切っていくドラマを、凄まじい迫力の映像と轟音ひしめくサウンドで表現した作品として、今作はたしかに強烈なインパクトを残す。
一方で、キメの細かい、無欠の作品かと問われると、素直に首肯はできないかもしれない。今作は豪快で、乗り心地の良い車かもしれないが、ところどころ整備が行き届いていないようにも思えてくる。
今作は2時間33分という紛れもない長尺の部類に入る作品ではあるが、いくつかのパートは明らかに間延びして感じられる。最もそれが感じられるのが、導入の部分だ。後のフォード社長に出世するアイアコッカにまつわる描写は、フォード史、ひいてはアメリカの経済史と照らせば一見必要そうな描写には思えるものの、映画内においてシェルビー、マイルズといった男達とは一歩引いた位置にいる人物に過ぎない。
だが、フェラーリとの対立を深める描写や、フォード2世にレースを遠まわしに焚きつける描写は、かなりじっくりと描写される。その割には、後半部分において、彼は物語の中心からは明らかに遠ざかるため、わざわざ彼が登場するパートにそこまで時間を割く意味があったのだろうかと疑問符が浮かんでくる。
主役のマイルズとシェルビーに関しても、いくつかの描写は停滞を感じていたのが正直なところである。彼らが初めてレース場にて出会う一連のやり取りは、一方が一方に激怒するといったいかにも劇的な描写にされてているが、後に来るべきその溝の埋め合わせは実際には存在せず、レースを目撃したシェルビーが感心することよって解決されるほどのものだ。
フォードの上層部に弾かれてしまったマイルズがただ独り煮湯を飲まされ、ラジオから聞こえる実況にぼやきながら整備をする描写や、その後のシェルビーが再度オファーをしにきた際のケンカなどは、これまたドラマを劇的にするための創作(実際にはマイルズが1965年のル・マンに参加していたのは前述の通り)であるが故か、他のシーンとは密接に結びついてこない。例えば、あれだけ殴り合いのケンカをするのであれば、当然そこに至るまでのシェルビーからマイルズへの、あるいはその逆への思い入れを観客に理解させる必要があるはずなのだが、彼らの肝心の共同作業の様子はスピーディなカットの連続で流されてしまっている。
そのため、レオ・ビーブに「マイルズを追い出せ」と圧をかけられる場面において、わざわざシェルビーが彼に立て付くほどの動機が見えにくいのだ。シェルビーは、マイルズとは違って、直情的な人物としては描かれていない(レース場でマイルズ相手に穏便に済ませようとしていた描写や説得の際のフォード2世への態度からそれは明らかである)からこそ、彼がリスクを冒すほどの胸中を、序盤のレース場の実力を見る描写以外に必要だったはずだ。ケンカをする場面も同様にそこまで取り乱すほどの関係性をそれまでに構築しているとは思えないために、やはり間延びしていると感じられる。
これらの描写はかえって本筋を見失いそうな目眩しになってしまっているが、その上今作はもっと描写すべき点が存在していたとも思う。
見ていて最も釈然としないのが、ル・マン24時間耐久レースという題材に相応しくないほどに、技術的な課題の解決策がおざなりになっている点だ。今作の描写を鵜呑みにすれば、ル・マンで王者フェラーリを破ったのは、ケン・マイルズの功績が大半を占めているかのようだ。
だが、表彰台の上位3つをフォードの車が独占していたという事実を鑑みれば、明らかに車のスペックにこそその勝因があったはずだ。にも関わらず、今作では1964年のル・マンでは全車がリタイアしてしまった失敗が嘘だったかよようにして、全車首位独占にまで至ったのかが、ほとんど描写されていない。フェラーリの車が途中で故障し、リタイアした一方で、フォードの車がゴールまで走り続けることができたのは、間違いなくメカニック達の苦労の末の産物だろう。その代わりに今作の多くを占めるのは、マイルズとシェルビーという型破りな男達が、鼻持ちならないスーツ組の策謀を豪快な走りで潜り抜けるドラマだ。つまり、今作は「アメリカ車会社が史上初のル・マン優勝」という華々しい偉業の真因を明かすことができているとは言い難い。
マイルズを演じる俳優のクリスチャン・ベールの口の減らない様は安定して見ていられるし、レース時に露わになる凄みにも圧倒される。相棒のシェルビー役のマッド・デイモンもピットから走行車を見守る真剣な佇まいから情熱的な感性が自然と伝わってくる好演ぶりで、2人の掛け合いは、紛れもなく魅力的だ。だが、あまりにその花形スターに背負わせた結果、ドラマ部分でうまく結びつかない部分が見えてしまったように思う。
(C)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
まとめ: レースシーンと2大スターのアンサンブルに一見の価値あり
フォードとフェラーリという有名企業にまつわる歴史的な事件を描いた作品ではあるが、その中に潜んでいるマイルズとシェルビーの熱意の集積が身を結ぶドラマには、仮に歴史そのものを知らなくとも引きつけるに十分な魅力がある。
本物の車を用いて撮影されたレースシーンは、IMAXスクリーンによく映えており、耳に響き渡るエンジン音もしばらくこびりついて離れなかった。CGなどの視覚効果に頼らずとも、いや頼っていないからこそ、ここまで映像の中の出来事をリアリスティックに伝えられるのだと久々に感心させられた。
クリスチャン・ベールとマット・デイモンというスターが顔を揃え、誰もが俗世で感じる上から降り注ぐフラストレーションを軽やかに吹き飛ばしつつ、ほろ苦い感覚も同時に与えてくれるため、ドラマから得られる満足感も高い。
少々脚色に関して首をかしげる部分はあったものの、企業ドラマとして、手に汗握らせる戦いの物語として、早くも2020年にこれを超えられるものは見られるのだろうかと思うほどの作品であった。
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