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こんにちは、インフルエンザに罹り社会から隔離されることで、パッドマンの偉大さを改めて理解するに至ったワタリ(@wataridley)です。
今回はインド映画『バジュランギおじさんと、小さな迷子(原題: Bajrangi Bhaijaan)』の感想です。
不運にもインドに置き去りにされてしまった失語症の少女と、彼女をなんとか隣国パキスタンに返そうと奮闘する”バジュランギおじさん”の2人を描いたロードムービーです。
国境を越えるために四苦八苦する彼らの姿を通じて、国と国の関係がいかに個人を苦しめているのかを理解できます。無意味で不毛な障壁を出来る限りなくしていこう、といった現代的なグローバリゼーションの観点からいっても、真っ当なメッセージを届けてくれる作品でもありました。
『バジュランギおじさんと、小さな迷子』鑑了。まっすぐな心を持った男が国境、文化、宗教を越えて迷子を送り届ける過程は、微笑ましく賑やかで、時にハラハラさせてくれる。多用されるスロー演出や直情的な音楽に集中を遮られるのが難点。「いい話」ではあるが、「いい映画」かと言うと引っかかる。
— ワタリdley (@wataridley) 2019年1月20日
以下、細かな感想をネタバレして語っていきますので、未見の方はご注意くださいませ。
68/100
インドとパキスタンの溝
インドとパキスタンは隣接する国同士ということもあってか摩擦が生じることもある。
国際問題にまで発展している事象を挙げるなら、両国は核不拡散条約に批准せず、核開発および実験を行っている。隣接する国どうしで競争的なニュアンスがあるのやもしれないという程度に見ていたが、今作を見る限りでも競争心を持たざるを得ない溝は大いに映し出されている。
スポーツ観戦において、自分の国を応援することはごく自然なことである。冒頭、カシミール地方にある山村にて、クリケットの試合で一喜一憂する村の人々の姿は見覚えがある。ラスィカーたち家族がインド人選手の活躍に喜び、パキスタン人選手の猛攻に落ち込むというのも、自分たちと国の代表の間にナショナリティという繋がりがあると信じていられるからだろう。
そうした繋がりは言ってしまえばフィクションだ。片や鍛錬を積んで大舞台に立つクリケットの選手、片や遠く離れた町に住まう市民。関係など皆無で、ばったり会ったところで友人のようにくだけて話すこともない。
だが、フィクションのもつ力はたしかに大きい。それ次第で、本質的に違いがあるはずのない人間を異物とみなすことだってできてしまえるし、あるいはまったく境遇の異なるもの同士でも「同じ神を崇めているから」とすぐに慣れ親しむことだってできる。
今作では、そうした国家幻想および文化幻想がしばしば顔を出す。
ラスィカーの厳格な父は鶏肉を食すことも、異教徒を家に立ち入らせることも許さない。隣の家から匂いが漂ってくるだけでもしかめっ面になる。
ムンニーことシャヒーダーを拾った気のいい青年パワンでさえ、彼女が鶏肉を食べているのを見るや否や条件反射で外へ連れ出そうとしていたし、異教徒であるとわかった時には戸惑いを見せている。それ以前では、そもそも彼女が異教徒である可能性もあまり考慮せず、家に上がらせていたことから見ても、彼の中に在る先入観の根は深い。
とうとうムンニーがパキスタン人であると露呈したときには、ラスィカーの父は激しく怒り、幼い子ども相手でも容赦しないが、この背後にあるパキスタンとインドの分離・独立の歴史と両国におけるヒンドゥーとイスラムの事情を以下の記事で改めて知った。
もともとはイギリスの領地であったインドが1947年に独立するにあたって、ヒンドゥー教徒をインドに、イスラム教徒を新たな国のパキスタンに分けたことがきっかけで、混乱が発生。1200万もの難民が発生し、この時期の紛争や衝突で50万~100万人が犠牲になったとも言われている。多くの女性が誘拐されるという事態まであった。
これらの凄惨な事件の数々は、今もなおインドの首都デリーからパキスタンの首都イスラマバードの間に空路がないことや、先述した核開発を促すような緊張関係に繋がっているとみることができる。
作中においても、パキスタン大使館が反パキスタン活動家たちに襲撃されるという危険な出来事が描かれていた。
人の感情の因果で言えば、むしろラスィカーやパワンのように疑いや偏見を持つことなく歩み寄ることのほうが難しいのかもしれない。
しかし、パワンは彼が信仰するハヌマーンの言いつけに従い、たとえ相手が国境警備隊であっても正直であろうとする。ヒンドゥーとイスラムという2つの宗教は対立の道具とすることもできれば、また一方でパワンのように相手を信頼し、人間愛に溢れる結果を導き出すことだってできるというのだ。
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“バジュランギおじさん”とムンニーに国境なし
パワンは、敬虔なヒンドゥー教のハヌマーン信者である。伝承によるとハヌマーンは猿の顔かたちを持っており、故にパワンは作中何度も野生の猿を見かけるたびに手を合わせていた。ちなみに、ハヌマーンに因んだハヌマンラングールという種の猿が存在する。
彼は自身の信仰を他者を助けるために行使することもある。迷子のシャヒーダーを保護し、やがて国を越える苦労も厭わずパキスタンへ足を踏み入れる。シャヒーダーもまた自分を拾い面倒を見てくれた彼に懐く。
2人の旅路は、パワンの正直者な性格が功を奏すこともあれば、ピンチを招くこともある。暖かみのある彼らの旅は心地いいと思えるし、そうしたトラブルに対処する様子は息を飲んで見守ることになる。
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パキスタンの街並みや風景も魅力的だ。殺風景な砂漠を超えると、石で出来た建物、カラフルな屋根、土が剥き出しの地面、そこを好き好きに行き交う人やバイクなど、都会に慣れきった自分には新鮮に映る。屋台がそこかしこに立ち並び、夜には頭上でネオンが灯り、人がごったがえす、猥雑な味わいを楽しめる前半のクルクシェートラとは対比的だ。
2人の旅をする姿は、純粋に絵だけを切り取れば、まるで観光を楽しむ親娘のようにも見える。トウモロコシの上で寝るシーンは、伸び伸びと寝転がれて気持ち良さそうで、相撲に挑み笑ってしまうパワンを見守るシャヒーダーは娘みたいである。
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そんな自然体な2人の旅の中で、警察の手を逃れるというサスペンス要素も絡んで、観客のうまく興味を引きつけてくれる。インドからやってきたパワンがモスクで身を隠したり、ムスリムの装いをして目を逃れたりと、うまく宗教的な特性を利用する場面もあり、独自の面白さがあった。
そうしたエンタメ要素を披露する一方で、人と人が国境を越えて繋がることのできる可能性を示してくれてもいた。女の子1人を届けるために危険を顧みずにやってきたパワンに共感し、手助けしてくれるナワーブとアサドとの出会いは、例え国が違えど、誰かを助けるためにという人の道の上でならば同じ目線になれるのだという教訓になっている。ムスリムであるアサドが別れ際にヒンドゥーの挨拶をして去っていく姿は、今も心に引っかかっている。
作品の主題に反するパワンからシャヒーダーへの一方通行
シャヒーダーの未熟さを理由に何度かトラブルメイカーをやらせるのも個人的には首を傾げてしまう。失語症であることや幼いながら見知らぬ土地での慣れない旅路にいるために、強く責められる謂れは確かに無い。
しかし、これは彼女の持つ属性や性質が何もかもパワンに対して理不尽な仕打ちを与えるための理由付けにされてしまっているように思えてならず、まるでキャラクターとして魅力的には思えなかった。演じた子役の女の子の表情や仕草は可愛らしいだけに、それが作劇上意味を持つこともなく、マスコット的な役割に留まっているのが惜しい。
それどころか手錠を窃盗するなどしてトラブルを生み出してもいて、悪印象を受ける時もあった。
パワンとの交流によって、彼にとっての精神的な変化のきっかけになるといったシーンがあればまだムンニーの役割も感じられたかもしれない。だが、メインテーマの表象であるインドとパキスタンをパワンとシャヒーダに当てはめた際、ほとんどパワン=インド側の苦労に比重が傾いていたのは個人的には、歪な形に見えてしまった。
パワンの行いに対する”報い”は、彼を国境へ返すために国境に集うパキスタンの国民達といった形で描かれてはいる。だが、国民がネットの情報を理由に急速に心変わりする様は、それまでの話の展開とは繋がりが弱く、あまりカタルシスを得られない。
インドとパキスタン、ヒンドゥーとイスラムという二項を異なる性質でありながら平等であると描きたいのであれば、パワン対シャヒーダーの関係にも相互に支えあい、影響しあう場面がどこかで必要だったのではないだろうか。
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その他、演出面について
およそ2時間半という長い上映時間の中で集中できない部分も多々あった。
第一に音楽。今作で用いられているBGMは、とくに感動的な場面における主張が強く、また該当のシーンが訴えかけようとしている喜怒哀楽を直に表現しすぎるきらいがあった。登場人物がせっかく演技をしてくれているのだから、それを信頼して抑えめにしてもいいのではないかと思うのだ。
付随して、踊りのシーンもミュージカル映画にしばしば見られる物語の一時停止がなされてりまう点も見ていて気になった。前半において、パワンとシャヒーダーが邂逅する場面は視覚で豪華にしたいという意図もわかるのだが、尺の長さ故に途中に集中が切れた。鶏肉を食べるシーンにおける踊りはもはや踊りと歌に託す必要性が感じられなかった。『バーフバリ』と『パッドマン』はこの点をうまくクリアし、むしろ説明的で退屈になりがちな場面を華美に変換できていたため、余計に気になってしまう。
第二にスローモーションの多用がある。今作ではとにかくスローによってその場面のエモーションを煽ろうとすることが多く、どうにも一本調子に映る。最後の場面において「パワンに駆け寄るシャヒーダー」など効果的であっても時間が間延びしてしまって、見ている自分の頭ではとっくに整理がついているのに、画面はなかなか進まないという事態が起こっていた。
これらの音楽や編集といった部分において過剰さを感じてしまい、2時間半集中して物語に臨むことはかなわなかった。
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まとめ: 曇った目を晴らす「いい話」
過去の傷跡に苛まれ続けているインドとパキスタン両国の違いと歩み寄りを物語に託し、だれでも入り込めるように映画にしてくれたというだけでも意義がある作品だ。
対立関係にある相手の国の良さや自国の非を認めることは、とても難しい。
今作はなるべく描写を均等に分けることで、そのハードルを飛び越えている。
前半において外国人が紛れ込んできた時の反応をパワンやラスィカーの受容で表現する一方で、父親の拒絶、大使館への暴動などデリケートな事柄まで触れている。
後半では不法入国者になってしまったパワンが理不尽な目に遭いながらも、共感してくれる協力者を得て、最終的には彼の善意に呼応して多くの人が動き、国境のない瞬間が実現される。
国や宗教、人種や生まれなどで目を曇らせてしまうことの多い中、それでも誰もが持っている根源的な強かさを目の当たりにできる映画である。
間延びした演出が多く、実際に時間も長めとあって「いい映画」とはならなかったが、こうありたいと思える「いい話」であった。