モラトリアムからの脱脚を描く学園ゾンビ映画『がっこうぐらし!』レビュー【ネタバレ】

スポンサードリンク

アイキャッチ画像: (C)2019「がっこうぐらし!」製作委員会

こんにちは、HUNTER×HUNTERで一番格好いいキャラクターはレオリオだと思うワタリ(@wataridley)です。

同名漫画を原作とし、メインキャストをラストアイドルが務めて実写化した映画『がっこうぐらし!』の感想です。

以前に映画ライターのヒナタカさんと別の映画の感想を語ったラジオで推薦されていたため、鑑賞しました。

ネタバレありで語っていきます。未見の方はご注意ください。


64/100

ワタリ
一言あらすじ「がっこうでサバイバル」

得体の知れないオープニング

思えば映画『がっこうぐらし!』は、その予告が公開された段階から、論争が起こっていた。

この映画が原作としている漫画では、序盤は『アイアムアヒーロー』のように日常的な描写に注力し、またその外装はいかにも“日常系”というジャンルに属するもののように見せかけていた。そして序章を終えると化けの皮は剥がれ、物語は生きるか死ぬかの過酷なサバイバルへ突入していく。このギャップはたしかに導入としては好奇心をそそられる。

原作を知らない自分には距離感のある問題であったが、映画の広報においてはその転換をあっけなく公開していたことから、槍玉に挙げられた。こうした議論が巻き起こるのも、ひとえに今作が持っている魅力が多くの人に認識されているからだろう。

映画では、最初にゾンビものらしからぬ体裁で等身大の女子高生たちのフラットな日常風景が映し出される。アイドルが演じているが故か、画面の中ではふにゃふにゃとした空気が流れていた。

率直に言うと、初めて『がっこうぐらし!』に触れる自分にとって、このオープニングはそれほど響くものはない。ありがちな学園もののアイドル主演映画である。

しかし、あるカットを境に時間が一気に飛ぶ。主人公の胡桃を取り巻く環境がなぜだか変わっている。友達と一緒に屋上で栽培をし、駄弁り、生活をする。

何かがおかしい。

学校ではこのような授業は見かけたことがない。放課後活動だとしても、胡桃は陸上部のはずだ。そして寝起きも学校でやっている。彼女らはその活動を合宿などではなく「学園生活部」だという。

その違和感は徐々に得体の知れない方向へ向かい、やがて壁に付着した血が映り込む。楽しそうな風景は空想で、本当はすべてが崩れ去っていた。

このオープニングシークエンスは、この映画がゾンビものであると薄々感づいていた自分にも面白い見せ方だと思った。

まず最初に本物の、他愛のない日常を。そして次にどこか得体の知れない違和感が湧き上がってくる日常を。遂には無秩序化した世界を映し、タイトルが浮かび上がる。

ゾンビ映画的要素を冒頭に持ってきていた『カメラを止めるな!』が、既に試みられていた手法を活用し、後半部分を手堅く作り上げていたのに対して、『がっこうぐらし!』の日常から非日常へのシフトはそれ自体が鮮烈にこの映画の特殊な構造を訴えかけていた。

(C)2019「がっこうぐらし!」製作委員会

 

籠城生存術から見えてくる通過儀礼としてのモラトリアム

 

学園生活部という甘い嘘

ゾンビが蔓延る校舎の中、安全な量意義確保するため、彼女たちは我々がよく知る机を積み上げ、あり合わせの道具でそれを結合する。普段は壁にぴったりくっついている非常用扉もこの事態に際して運用されている。また、チェーンソーや銃器などがない学校の中で、胡桃のメインウェポンとなるのは花壇の土を掬うはずのシャベルである。音に敏感なゾンビをおびき寄せるアイテムは、ピンポン球。

このように『がっこうぐらし!』は、卑近な学校の特性を見せつけながら、ゾンビ達を押しのけていく。“学園生活部”なる彼女たちの暮らしは、すべての用具によって賄われており、普段着は制服で、就寝時はジャージだ。学校にはなんでも揃っているという台詞の通り、衣食住は当分困らない。

学校を舞台にしたことによる非常時の生活風景がビジュアライズされていく様は、創作的でありながらそこはかとなくリアリティも感じられて面白い。

だが何よりも驚いたのは、学校と学生を主軸にすることによる確かな必然性だ。鑑賞した後は、『がっこうぐらし!』が学校暮らしでなくてはならなかったと納得できる。

ゾンビ映画ではありがちな“籠城作戦”が、こと『がっこうぐらし!』においては辛い世界から隔離されたモラトリアム期間として映るようになっている。

今作では胡桃を主役に立て、対ゾンビのアクションシーンは彼女と後々合流する美紀が担っているが、肝心なのは過酷な生存生活から目を背けさせてくれる由紀である。

由紀は、学校の友達も先生もいなくなってしまったという現実を抱えきれず、甘い幻覚を作り出し、仲間にもそのフィクションを共有する。美紀が当初はそうであったように、傍から見れば不気味で無益な状態なのかもしれない。しかし、それでも夢を見る、空想に浸るというのは、絶望を前にしても挫折しないための防衛手段として心強い。砂漠を彷徨っていても、どこかにオアシスがあると思えれば、喉の渇きは幾分気にならない。学園生活部は、そうした過酷な現実の中、彼女たちにとっての心の拠り所なのだ。

パンデミックの発生以後の時間を飛ばし、観客に学園生活部の日常風景を描写したのち、美紀という外部の存在によって一旦はその意義を揺らがせる。由紀と共に「運動会」を走った美紀は、危機を救われ、友人の喪失も乗り越える。

この一連の流れを追ううちに、我々は学園生活部の存在意義と頼もしさを知ることができるようになっているわけだ。段階的に情報を見せつつ、客観性を担保した説得力のある脚本と言えよう。

(C)2019「がっこうぐらし!」製作委員会

 

がっこうぐらしからの卒業

とはいえ、この学校生活をいつまでも続けることに意味があるのか?という美紀の指摘はもっともである。屋上のSOSは虚しく横たわり続け、助けが来る気配はまるでない。であれば、いつかは底をつく物資やこのまま留まり続けることによる閉塞感を理由に、外へ繰り出すというのも選択肢としては大いに考えられる。

スポンサードリンク

美紀は学園生活部というフィクションのおかげで心の安定を取り戻し、胡桃と悠里も極限状態を生き抜く強さを持っている。唯一の不安は、日増しに言動が浮き世を離れていく悠里だ。

未だに平和な日常幻想に囚われた彼女は、学園祭の出し物を提案する。みんな一丸となっての準備は心底楽しそうで、折に触れて自分たちの将来についても語り合う。高校を出たらどうするのか。

そう、いつかは高校は卒業しなければならないのだ。

このあたりから彼女達の心の支えである佐倉慈ことめぐねえの描写に不自然さが見られるようになっていく。悠里が学園祭の許可を得るシーンでは、一貫してめぐねえと悠里は同じ画角に収まらない。悠里が言葉を発する際には彼女のみが映る。まるで独白のようだ。

そうして学園祭の当日、教室を作り変え、将来を占い会う4人に起きた大事件の中で、めぐねえにまつわる真実が明らかになる。彼女はすでに犠牲となっていて、これまでに美紀以外の3人が語っていた彼女は回想だったのである。

めぐねえが提案したという学園生活部、そしてめぐねえ。今は亡き者を想い、今はないはずの日常を作り上げて生きてきたという事実は、彼女たちをとうとう現実へと引き合わせる。

ファイアーゾンビまでもが襲いかかってくるこのシークエンスは絵的にも派手で、それまで封じられていたゾンビたちも一斉放出する大惨事までもが引き起こる。教室からバッタバッタと扉をなぎ倒して彼女らに襲いかかるシーンは恐らくこの映画で最も力の入ったカットではないだろうか。

学校内そのものが焼け焦げてしまう大事件、そしてめぐねえとの離別を経た彼女たちは、学校を卒業し、巣立っていく。外へ出ると、彼女たちはいるかもしれない他の生存者や大学生活などを想像し、賑やかに語り合う。いつまでも同じ場所で同じ夢を見ていられるわけではなく、いつかは脱却して次へと進んでいく。

『がっこうぐらし!』における学校とゾンビを掛け合わせたことによるテーマ語りは、他の舞台ではなかなか成立しないことだろう。テーマと舞台、そして登場人物たちの機能はどれひとつとして欠けてはならない。だからこの物語はまさしく『がっこうぐらし!』である必然性があるのだ。

(C)2019「がっこうぐらし!」製作委員会

 

ゾンビ映画に不可欠なディテールの甘さ

物語の論理性や、ゾンビ×学校というシチュエーションの面白みについてここまで評価してきた。

しかし一方で、看過できない欠点によって映画の世界から意識が外れてしまったことについても言及したい。

第一に気になったのは演者である。我々はフィクションを嘘偽りと認識しておきながら、それを信じ込みたいという面倒な生き物だ。生命が危ぶまれているという状況を信じ込むためには、真に迫る演技が必要不可欠になってくる。

今作でメインキャストを務めたラストアイドルのメンバーは、徹底してゾンビから逃れる危機感を伝えてくれたかというと、個人的には些か甘さを感じてしまった。アイドルでありながら精一杯演じていることは伝わってきたし、日常生活の華やいだ雰囲気は職業上の武器を上手く活用していたと思う。しかし、命が脅かされる場面において、やや緩い喋り方やどこか抑え気味な感情表現が見られることがあり、他人であるはずの自分までもが彼女たちの感情に引っ張られるという段階にまでは達しなかった。

第二に気がかりなのは、学園生活部の暮らしぶりはいいとして、アイテムや演出。ゾンビを激しく殴る毎日を送っているにもかかわらず、武器のシャベルや釘抜きはまったく汚れがつかない点はどうしても気になってしまう。返り血を浴びる描写もなく、学校内の設備で洗濯しているとはいえ、服も真っ白。クライマックスではようやく胡桃たちの顔は煤けるなどしていたが、それでも生々しい傷や血糊はつく様子がない。ゾンビとの戦いとなると、形振り構ってはいられなくなることは想像に難くない。既往のゾンビ映画とは異なり日常を無理に演出しているという特殊な設定があるとはいえ、サバイバルについては他のゾンビ映画と変わらぬ過酷さがあるため、ビジュアルの小綺麗さを見過ごすことはできない。

第三にすんなりと受け入れられない展開もある。クライマックスにおいて、大量のゾンビに扉を破壊されてしまい、悠里と美紀が絶体絶命のピンチに、というところで視点は胡桃へと移り変わる。そして胡桃がピンチを切り抜け、2人がいた教室に向かうと2人は辛うじて生き延びていた…となる。しかし、ほとんど目の前にゾンビがいて、その後ろにも大量のゾンビが待ち構えている状況をどう切り抜けたというのだろうか。教室の出口はひとつだけで、2人も地べたに態勢を崩していた。あの状態から隠れてやり過ごすなんて明らかに無理だろう。加えて、火災によってゾンビはすべて殲滅したらしいが、流石にそんな綺麗に片付くとは思えない。最後に彼女たちが乗る車にしても何ヶ月もメンテナンスされず放置されていたわけで、ガソリンは大丈夫なのかといった考えが頭をよぎってしまう。このように、矛盾や破綻とまではいかないが、素直に受け止められない展開はままあるのだ。

ついでに引っかかった点は、主人公でありがなたテーマに密接しているわけではない胡桃である。彼女は冒頭、気になっている先輩との微妙な関係に悩むという甘酸っぱいドラマを展開したのち、その日常が惜しくも崩壊してしまう悲しみを託されたキャラクターにはなっていた。しかし、クライマックスにおいてテーマを浮き彫りにしてた主体は由紀であり、胡桃はゾンビを退治して回る役割に忠実なままである。危機を脱する際の先輩との会話は、その後明らかになる現実との直面とやや反してしまってもいる。胡桃が主人公になる理由が、ゾンビを倒すタフネス以外にあまり見当たらないのである。

鑑賞中に頭にちらついてしまった要素は以上である。

アイドルが演じるという事情からあまりえげつないビジュアルやグロテスクな表現が制限されたことは想像に難くはない。しかし、死と隣り合わせの恐怖や焦燥は、細部を詰めてこそ、画面を超えて伝わってくるものだ。『ダイ・ハード』シリーズのブルース・ウィリスのタンクトップがひどく汚れていくのを見て、テロリストとの壮絶な戦いが頭に刻まれていくように。

 

まとめ: 新鮮な学校とゾンビのコンビネーション

『がっこうぐらし!』というコンテンツに触れるのはこの映画が初めてであると冒頭述べた。鑑賞して、アニメや漫画がどうなっているのか、気になり出すくらいに楽しむことができたし、ラストアイドルとは何者なのか?という興味も出てきた。

制作費の都合か、或いはステークホルダーの事情からかディティールの詰めが甘いと思える部分はあったものの、この映画一作で『がっこうぐらし!』の持つ空想の力とそこから脱脚することの重要性について伝えようという気概は大いに感じられた。

学園モノとゾンビという意外性を求めて映画に行けば、たしかな満足感と驚きは得られる作品だ。

演技について若干不安になることはあったが、学園生活部の4人の華やかなルックスと装いにも心安らいだ。まさしく過酷なショービズに生きる彼女たちが、この映画のようにたくましく生きていけることをささやかながら応援したい。

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です