「劇的な出会い」の否定と「小さな夜」の積み重ね『アイネクライネナハトムジーク』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2019 映画「アイネクライネナハトムジーク」製作委員会

「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」

(サン=テグジュペリ(著)、河野真理子(翻訳)『星の王子さま』108、109ページより引用)

共に過ごしたバラがいる故郷の星に別れを告げ、地球にやってきた王子様が、そこで出逢ったキツネから聞かされた言葉である。この前に、王子さまは地球に沢山のバラがいることに当惑し、自分が知るあのバラとの違いを疑問に思っていた。

初めて『星の王子さま』を読んでこの一文を目にした時、それが何を伝えたいのか、よくわからなかったのを覚えている。文字は読めるが、意味はわからない。しかし不思議なもので、以来、このことは解けないパズルのようにして頭の片隅に残り続けていた。

どうしてこんなことを回想するのか。映画『アイネクライネナハトムジーク』が、そのパズルを解くためのピースをくれる作品だからである。

今作は所謂ラブストーリーというジャンルに属するのかもしれない。だが、映画が描こうとしているのはドラマチックな展開や登場人物の激しい情動といったものではなく、ありふれた日常の中で起きる物事だ。

原作は伊坂幸太郎による同名小説であり、最初から最後までひとつの話を追う長編というよりかは、様々な人物のエピソードを連続させる連作短編集という体裁をとっている。『愛がなんだ』等の今泉力哉監督によって映画化されるにあたって、複数のエピソードは並行し、密には交わらないながら、最後には長編映画らしい強かな示唆をくれるようになっている。すべてがうまく繋がって大きなドラマを生み出す、というのではなくて、あくまでそれぞれのドラマがそれぞれにあるという形は、映画を観ているはずが、まるで人の世をそのまま映しているようだとさえ思える。

こういう形になっているのは、まず原作がそうした日常の姿を見せるようにして作られているからという理由があり、次にそれを手に取った監督がやはり同様に自分たちのこととして受け取れるよう最大限気を遣ったからなのだろう。制作のプロセスなんかちっともわからない自分にも、それは手に取るようにわかった。

『アイネクライネナハトムジーク』は、この世に普く恋愛の奇跡をしっかりと浮かび上がらせている。そしれそれは劇的ではないからこそなせる業なのだ。

以降、ネタバレを含めた感想を書いてゆく。未見の方はご注意ください。


81/100

ワタリ
一言あらすじ「小さな夜の積み重ねの話」

「出会いがない」って何だ?

映画のファーストカットは、慣れない様子で街頭アンケート調査をしている青年の顔。ボクシングの試合に沸く観衆の声はまるで他人事で、誰からも見向きもされていない路上ミュージシャンに彼の目は向いていく。この映画の視線もまた、そんな大衆の興味や関心が向けられないであろう人々に投げかけられる。

三浦春馬演じる佐藤は、どことなく頼りなげな青年で、方向が見定まらない感じがする。彼は、同級生の結婚話や妻子持ちの親友・織田一真を見て、出会いに対する欲求を漠然と抱えている。彼の「出会いがない」という言葉には、実際的な方面へ踏み出せない彼の姿勢が表れているように思う。

序盤において、佐藤らと並行して描かれる美容師・美奈子もまた口を揃えるかのように「出会いがない」ときた。両者の言い分はどちらも「毎日勤め先と自宅を往復するだけだから」である。

しかし、この言葉は、矢本悠馬演じる万年適当男の織田一真によって挫かれる。自分の前に偶然何もかもが好条件の人が表れ、運命に誘われるままくっつくなんてありえないのだ、と。たしかに織田一真は奥さんにも娘にもAVを隠さないぐらい適当な男であるが、意外と恋愛の本質を突く。要するに、偶然性に身を委ねるばかりで、自分から踏み出さない人間には「出会い」なんて訪れようがないというのだ。矢本悠馬の達者な勢いの口調と強気な表情のおかげで、このあたり妙な説得力が宿っている。

常連客の弟と電話でのやり取りを続けるばかりの進展がない状態を、美奈子が「居心地が良い」と形容していたのが自分にとって印象に残る。たぶん「出会いがない」と言う人が、「ほんとうに出会いがない」という八方塞がりな状況であることは稀で、結局は「今のままでいたい」という気持ちが出会いを阻んでいるということなのだろう。「365日24時間自宅に独りで引きこもっている」というのでない限り、通行人や店員など、必ず誰かしらとどこかで「出会って」いるはずなのだから。(ついでに言うと今時ネットがある時代なので、上記の引きこもりであっても出会いを求めることは不可能ではないだろう。)

そんな彼らの事態を打開するのは、運命だとか偶然なんかではない、積極的な働きかけであった。美奈子と電話相手の弟の関係の発展のために、「挑戦者が勝ったら告白する」という一見他力本願な手段が持ち出されるものの、後になって挑戦者がその弟であるという覆しによって、小野による自力本願のアプローチへと変貌する。

他方、佐藤は、不本意な形でやる羽目になった街頭アンケート調査で、たまたま居合わせた女性に声をかけたことがきっかけになっている。後でその女性と再開した時にも、織田一真の呼びかけも、もしかすると出会いがあるかもしれない結婚式への妄念をも振り切って、彼女のもとへ走る。ここで注目に値するのは、きわめて不自然で必然性のかけらもない彼の行動である。当初の予定を遅れるかもしれないのに、彼女の手に書かれていたシャンプーを手渡し、あの時のやり取りを反復するなんて、ぎこちないにも程がある。しかし、出会いとは、得てして傍目から見ればこういう人為的な力が働くものでもある。もしも踏み出さなかったら、佐藤と紗季はもう二度と会うこともなかったのかもしれない。このシーンは、不恰好であっても自ら働きかけることの大切さを物語っているように思える。格好よくはないけど格好いいのだ。

(C)2019 映画「アイネクライネナハトムジーク」製作委員会

 

「劇的な出会い」よりも「小さな夜」

そうは言っても、「劇的な出会い(あるいは運命の出会い)」というものの持つ魔力はやはり凄まじいものがある。漫画、アニメ、ドラマ、映画、ゲームなど、諸々のメディアにおいて恋愛はメジャーな題材であり、その多くにおいて魅力的な異性と出会うことが物語の始まりで、結ばれることがゴールとされているのを見てきた。それ故、誰もが一度はそういうことを妄想するものである。

織田一真に一旦は「劇的な出会い」を否定された佐藤であったが、その後に藤間から彼の妻との出会いを聞いた彼は、やっぱり「劇的な出会い」とやらが現実に起こり得るのだと素麺をすすりながら反論する。この佐藤のように、論破されたところで、その魔力は易々とは断ち切れないものだ。

この時、またしてもグータラ旦那の織田一真は、こちらをハッとさせるようなことを言う。「『自分が好きになったのが、彼女で良かった。俺、ナイス判断だったな』って後で思えるような出会いが凄いことなんだよ」という台詞だ。誰かを愛するということの核は、出会いという特定のイベントにあるのではなく、2人で過ごした日々の蓄積にあるというのである。

とはいえ、これを聞かされた際の佐藤は「出会いは必要なの?」という論に終始していて、その言葉の真意は掴めないでいる。この台詞が彼の中で肥大化するのは、本間紗季との関係が揺らいだその時だ。

物語は一気に10年後に飛ぶわけであるが、観客の目にはその間のことが直接見えない。佐藤と紗季がどのようにしてあれから距離をさらに縮めて、同居して、そしてあの間抜けなプロポーズに至ったのか、言明に語られることはない。

しかし、佐藤たちが10年の間に積み重ねたと思しき日常は、スクリーンには細やかながらしっかりと映っていた。紗季がいなくなった時、佐藤は独りつまんなそうにそのままの食パンをかじる。家に帰っても、部屋は真っ暗。洗剤や牛乳が切れたと気づいたら、自分で買いに行かないといけない。プロポーズ前の紗季の些細なセリフから、彼女が常に冷蔵庫を気にしていたらしいことが窺える。気まずい空気の中でも、彼女が忘れず観葉植物に水をやっていたお陰で、ああして沢山の葉と花がなっていた。そのことを思い出したのか、ふと佐藤が植物に水をやるだけのシーンに自分が見入ったのは、紗季と過ごした「小さな夜」の積み重ねが、とてもさりげない形で滲んでいるからだと思う。

実家に帰った紗季に気を落とす佐藤の姿は、ちょうど10年前に妻に逃げられた藤間と重なる。ハサミをしまい忘れたという、たったそれだけかもしれないことでも、積み重なると耐えられなくなるものだという教訓めいたエピソードであるが、同時に「小さな夜」の積み重ねがそれだけ重みを持つものでもあるということへの含みになっている。

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紗季があの時素直に佐藤のプロポーズにイエスを出さなかった理由には、佐藤に対して、藤間で言うところの「ハサミのしまい忘れ」を感じ取ったことにあるのだろう。たぶん紗季はプロポーズをスマートに出来ないような彼に、常日頃からちょっとした呆れを抱いていて、それによって膨らんだ風船が弾けたのが、レストラン帰りのあの夜だったのかもしれない。

10年の積み重ねの末にかつての藤間と同じ道を辿るかと思いきや、佐藤は異なる道を進み始める。それに一役買ったのは、佐藤自身の頼りなさと表裏一体の優しさだった。

10年前と同じ、ヘビー級ボクシングの挑戦試合がモニターに流れる仙台駅前で、佐藤は試合開始を告げるゴングと同時に紗季をめがけて走り始める。挫折を味わった男が挑戦者として再び立つボクシングの試合も、恋人を求めて全力で走る佐藤も、どちらもとてつもなくドラマチックな映像だ。だがしかし、勝負の決め手は、どちらもスポットライトが当たるような勝負場ではなく、路肩にあった。枝を踏んで、Uターンして、子どもを助ける彼の姿は、紗季にとっては10年間積み重ねてきた佐藤の人となりを改めて感じさせたということなのだろう。傷心の上司にチャンピオンのサイン色紙をプレゼントしたり、彼女を実家に送るバスに乗せてくれたりする彼の親切心は、何も特別なイベントにおいて発揮されてきたのではなく、常日頃から紗季の隣にあったのだ。

大きなドラマももしかするとあったかもしれないが、2人が過ごした10年間は大半がこうした些細な出来事でできているんだと思う。その果てに、佐藤が絞り出した「あの時出会ったのが紗季ちゃんで良かった」という台詞は、人の意思が介在し得ない偶然性よりも、2人が紡いできた時間こそが、自分たちで得た幸福の正体なんだということを伝えてくれている。それはまさしく、王子さまにとって、あのバラをかけがえのないものにした時間のようである。沢山のバラの中からあのバラがいいと思えるぐらいに、佐藤と紗季は「小さな夜」を共に過ごしてきたのだ。

(C)2019 映画「アイネクライネナハトムジーク」製作委員会

 

(元)ヘビー級チャンピオンという大きなドラマ

基本的には市井の人々の営みを描いている一方で、ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンという仰々しいイベントが登場人物たちの関心ごとになっている。

ひとつに、このイベントは、他の登場人物たちのドラマをありふれたものとして描くためのコントラストを演出する役目を担っている。大きい駅前のモニターに映る試合は沢山の人の目に留まる晴れ舞台であるり、テレビに映らない我々=佐藤たちとは好対照になっている。藤間や久留米らがウィンストン小野の奮闘に感化され、己がじし元気付けられる様は、まるで映画やテレビを見ている我々そのものだ。特に、久留米による「挑戦者が勝ったら告白する」という他力本願な企みは、高校生くらいがいかにも憧れそうなロマンティシズムと、隠し持っている臆病さが見て取れて、妙に親近感がわく。

一斉に皆の注目を浴びるウィンストン小野にしても、モニターに映らないところでは、少年との交流と人知れず味わう挫折を味わっている。再挑戦試合において、彼が立ち直るきっかけは、観客席にいたかつての少年で、リングの上とはまた別の闘いがあった。試合に負けてしまっても、後味がとてもすっきりとするのは、物語の重要性があくまで小野と青年のドラマに置かれているからだ。一方が枝を折り、もう一方が「大丈夫」という手話を返して、止まっていた時間が動き出すところを見届けた後には、清々しい気分になった。

(C)2019 映画「アイネクライネナハトムジーク」製作委員会

 

世代を越えて脈々と続いていく様々な出会い

この映画は、たしかに佐藤を中心に据えてはいるが、だからといって「彼が紗季と共に生きていく決意をする話」には留まらない。

父親を反面教師に生きると息巻く高校生・久留米と織田美緒が紡ぐエピソードが、同じ時代に生きる様々な人々という横幅に加えて、世代という縦幅の概念を作品全体にもたらしている。

当初、ファミレスで注文とは別の料理が運ばれてきても文句を言わず、会社からの電話にもペコペコ対応する父親を指して、久留米は自分はああはなりたくないと口にする。それを諌める母親を演じた濱田マリが1シーンだけなのに、やたらインパクトを残すあたりが、流石の名バイプレイヤーといったところである。また、他の登場人物たちのエピソードを踏まえると、久留米の母親は、寧ろそんな彼の波風立てない対応が気に入っているように思える。「社会の歯車」として穏便に済ませられる彼と長年共に過ごした立場から、息子に「歯車舐めんな」という話をしたのかもしれない。ここにも「小さな夜」の積み重ねが読み取れる。

なにはともあれ、久留米はそんな父親に駐車場で窮状を救われ、彼を見直すことになる。それが、最後のファミレスのシーンに繋がって、父親のやり方を真似て、更には大勢の前で告白する。それまでは、ウィンストン小野が語るロマンチックなドラマに惹かれていた彼であるが、判定負けという結果に終わってしまったせいで、その一種の他人からの助力を得ることができなくなってしまっていた。それにもかかわらず、告白したのは自分の意思で手繰り寄せてでも伝えたかったからだろう。

藤間が佐藤との電話で「わざと財布を落とした」と告げることで「劇的な出会い」を決定的に否定し、この久留米の告白に繋がる構成になっている。この映画はあくまで、恋愛を成就させるのは人為的な働きかけにある、と言いたいのである。

そして最後には、路上ライブを眺める久留米をわざと横切って彼と「出会う」美緒の姿が映る。いつの世も、出会いとはこうして人の手で作られていくのだ。

「出会ったのが彼女で良かった」と言っていた先輩社員の藤間に、10年後の佐藤が重なって、更に高校生の久留米と美緒が重なる。それを見ていると、こういう出会いが脈々と続いて、幸せな時間がその時その時に形作られるんだという実感がもたらされる。

振り返ってみると、駅前で「小さな夜」を歌うストリートミュージシャンは、きわめて重要な役どころである。彼は、昼も夜も構わず、10年が過ぎても、いつも変わらぬまろ味を帯びた声で歌い続ける。佐藤と紗季の巡り合わせの場であった彼が、10年後には久留米と美緒の前で歌う。きっと彼は、劇的ではない普遍的な出会いを象徴する神さまのような存在なのかもしれない。10年、20年どころか、ずっとあそこで歌い続けている姿も想像できる。

(C)2019 映画「アイネクライネナハトムジーク」製作委員会

 

まとめ: 今泉力哉監督による日常の演出が冴え渡る

今作は、日常に起こりそうな会話と出来事で話が進んでいくので、大人数に見守られるボクシングのシーンを除いては、ドラマチックとも派手とも言い難い映画である。結婚式を止めて恋する相手を救い出すような映画に見られる大胆な展開は、考えてみると全くない。

ただ、この日常を着々と過ごしているような各シーンの程よい静けさや、自然の素ぶりや話し方までもがそのまま置かれた会話は、登場人物たちと共に過ごしている感覚が得られる。電話の向こうにいる相手を見つめているのではないかと思える貫地谷しほりの黒目の揺れ方だとか、三浦春馬が矢本悠馬にまくし立てられている時の足に肘をついて爪に目をやる動作とか、多部未華子のマグカップに視線を落としながら冷めた一言を発する挙措だとか、どれも隙間なくその人物の内面が反映されている。

そうした本当に個々人の生活風景を切り取っているんじゃないかという自然さの上に、小粋な台詞の反復や、効果的に役者の顔を映すカメラワークなどの技法も凝らされており、一見すると地味なのに全く飽きがこない映画になっている。これは派手な画をひたすらに使って観客を飽きさせないことより、よっぽど難度の高いことをやっているのではないかと思う。

『アイネクライネナハトムジーク』は、今年公開の『愛がなんだ』に続いての今泉力哉監督作であるが、それぞれ全く異なった方向性の恋愛を描いているのに、どちらも胸に迫り来る作りになっていて、感服するばかりである。日常風景を撮らせて右に出るものはいないのではないか。そう思うのは、自分があまり映画監督に詳しくないからなのだろうか、それとも本当にそうだからなのだろうか。今は後者だと頑なに信じ、来年の新作を待ちたい。

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