主観の意味付けによって変容しうる愛『マチネの終わりに』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2019 フジテレビジョン アミューズ 東宝 コルク

こんにちは、ひとつ屋根の下でアサヒスーパードライを飲んだことは一度もないワタリ(@wataridley)です。

今回は平野啓一郎による同名小説を原作とした映画『マチネの終わりに』のレビューを書いていきます。

今作の主演は、人気ドラマ『ガリレオ』や是枝裕和監督作『そして父になる』を代表作に持ち、ミュージシャンとしても活動する福山雅治と、『もののけ姫』や『逃げるは恥だが役に立つ』などで話題を起こしていた石田ゆり子。監督は、『ガリレオ』の劇場版『容疑者Xの献身』『真夏の方程式』でも福山雅治とタッグを組んでいた西谷弘。

観る前から原作の名前は耳にしたことがあり、恋愛をテーマにした作品であるという情報は知っていました。ただし、この作品はどうも昨今の映画においてポピュラーなラブロマンスというよりも、「大人の恋愛」という文句が付いており、興味だけはひかれていました。今回映像化されたにあたって、2時間という制限をつけられながらも、その作品に触れることができるようになったのですから、観に行かないわけにはいきません。

大衆人気を意識した顔ぶれと、テレビ映画の企画である点だけ心配ではありましたが、映画における愛の捉え方には、隙間ない納得感を得ることになりました。

以降、映画のネタバレを含めた感想を書いていきます。未見の方はご注意ください。


63/100

ワタリ
一言あらすじ「愛の変容を、音楽と時間で浮かび上がらせる」

今作で描かれる主観主義の愛

今作は一言にラブロマンスと表現しておしまいとはできない、愛の捉え方が内包されている。クラシックギタリストの蒔野と、ジャーナリストの小峰洋子の関係性が互いの主観により左右されていく過程は、甘く、理想的なイメージが付き纏うロマンスが似合わないのである。

 

形を定めないものの象徴としての芸術

福山雅治演じる蒔野は、年齢からくる自身の技術面での衰えに焦燥を覚え、演奏後は独り鬱屈した情感に追い立てられるような表情を見せる。冒頭から蒔野が吐く水や苦悶の顔を伝う汗といったものは印象的で、形の定まらない水のように蒔野の精神は安らぎに留まるものではない。

一方で、小峰洋子は、当初は蒔野の演奏をあくまでも一観客として鑑賞していた。当時の彼女には伊勢谷友介演じる日系アメリカ人・リチャード新藤なるフィアンセがいて、蒔野との間にはクラシック音楽という媒介しか存在しえなかった。そんな蒔野が内に抱える不安といったものにも気づかない。洋子は、精神的にも経済的にもまるで不安を持たない、安定した人物なのである。演奏者と観客という対極の立場が、そのまま彼らのコントラストを浮かび上がらせる。

そうした、芸術によってでしか繋がりを持ちえない、しかも正反対の性質をもっていた彼らを結んだのは、洋子が経験したテロ事件だ。同僚がテロ事件に巻き込まれ、自身もエレベーターに閉じ込められた経験からPTSDを抱えるまでになった洋子は、もはや蒔野を遠くから眺めた観客ではいられない。彼女自身も不安定な存在になったのだ。

故に、フィアンセのリチャードから心が離れ、同じく不安を抱える蒔野に惹かれゆくのは必然とも言える。経済の顧問として大企業で勤めるリチャードはテロ事件に遭った洋子の中に巣食う怯えを体幹で理解できない。婚約者という一見強固な関係を持ってはいるが、その実は事件を境に決定的な異化を迎えていた。

対照的に蒔野は、洋子の安否がわからない中、洋子の父であるイェルコ・ソリッチ監督の劇中作品「幸福の硬貨」の登場人物の行動を引用して、彼女の安全を願うメールを送っている。

今作においては、捉え方が人の主観に依拠する芸術の変容性が、重要な位置づけを持っている。確たる方式にはまらない人の心を代弁する要素として、「幸福の硬貨」や蒔野の演奏が出てきて、それが知らず知らずのうちに誰かの心に訴えかける様子が描かれる。

作中、パリで食事をする際に、洋子は蒔野が演奏したモーツァルトの曲に救われたと口にする。ところが、蒔野は自身の音楽が誰かを救うことなど想定していおらず、モーツァルトの意図を汲んで表現することに重きを置いていたのだと言う。また、あるシーンでは、スペインのコンサートで失敗し、負傷した洋子の同僚のジャーナリストを蒔野は演奏で癒す。こうした描写は、本人の意図に関わらず、人によっては安らぎを得るという芸術の性質を物語っている。

現実にだって、こうした光景は日常茶飯事だ。作り手が作品にこめた些細な描写が、誰かにとっては強烈に響いてしまう。あるいは、丹念に描いたものが不評を買ってしまうということだってありえてしまう。定まらないものなのだ。

考えてもみれば、今作が扱う芸術という題材は、そのまま蒔野と洋子の間にある関係性、すなわち恋愛にも言い換えられる。蒔野と洋子は、冒頭は立場を違えた存在故に近しい関係ではなかったが、やがて精神不安を抱えたもの同士になれば、互いが身離せない存在となる。芸術のように、恋愛も主観によって変容しうる。

今作が描く恋愛は単なるラブロマンス的ではないと評した理由のひとつが、これまで述べてきた芸術との重ね合わだ。そしてもうひとつに、こうした変容性に過去と現在という時制を持ち込んだ語り口がある。

 

過去は絶対不変ではないという指摘

洋子が冒頭のバーで話していた石の思い出の話は、今作を語る上で欠くことができない。

かつてはその石をテーブルに見立てて遊んでいたというが、亡くなった祖母が頭をぶつけてしまったという事故が起きた途端、洋子にとってはそれは楽しい思い出ではなくなってしまった。

その話を聞いた蒔野は、「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えている」と言う。つまり、過去というものは、絶対不変の事実ではなく、それを観測する人の主観によって変わるほどに繊細なものなのだ。

これは、何も個人的な出来ごとに留まらない。歴史上初めてアメリカ大陸を“発見”したとされるクリストファー・コロンブスが、やがて既にそこに住んでいた人々を殺戮し、土地を侵略したジェノサイダーと批判されるようになった近年の歴史の捉え方にその例を見る事が可能だ。ちなみに当のコロンブスは生涯そこをインドと信じていたため、本人にはその自覚さえもない。あたかも歴史という動かしがたいかに見える事実も、常にその時代、その国の大勢、ないしは権力者によって“編集”され続けるものなのだ。

蒔野と洋子の関係も、この言葉に沿うようにして変わっていく。最初はステージ上の演奏者と観客のひとり。そして事件を経て、互いを愛し合うまでになったものの、すれ違い、別の道に分かれてしまう。互いに別のパートナーを見つけて、各々の生活を送っていた時には、すれ違った日の出来事は、おそらくは、辛くももう済んだこととして彼らの中でけじめがついていたのかもしれない。

しかし、桜井ユキ演じる元マネージャーの三谷による暴露によって、それは再燃する。家族との別離選び、今への不服が募った洋子は蒔野の曲を聞く。蒔野はステージヘの復帰を試みる中で、ブランクを飛び越え感覚を取り戻す。そうして2人の時間感覚は戻され、あの時が再びかけがえのないものへと変化した。だから、最後、マチネの終わりに蒔野は「幸福の硬貨」のテーマ曲を演奏する。

噴水を挟んだ2人が視線を交わし、同じ方向へ歩み出すシーンによって映画は幕を閉じる。最後の2人にとっては、強烈に惹かれ合った3度の邂逅も、すれ違ってしまった苦い思い出もすべてが辿ってきた過程となった。まるで全てがこの時のために存在しているかのような感覚を抱えて、2人は交わるのだろう。人生に味わう辛酸も全てこのためにあったかのように思えるこのラストシーンは、まさに「未来は常に過去を変えている」という台詞の体現なのだ。

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主観に拠るしかないからこそ愛には正しさがない

今作が、芸術と時間を用いて、主観に拠る恋愛を取り扱っていることを述べてきた。今作に眉をひそめてしまうような言動や行動が出てくることも、このテーマに則しているとも言える。

蒔野がフィアンセがいると知りながら、洋子に接近しようとするのは、倫理規範に当てはめてみれば、悪徳とされてしまうことだろう。また、最終的に蒔野は妻子がいる身なのに、洋子との関係を選択しようとしている。

痛々しいだとか、人の道を外れているといった指摘はたしかにその通りだとも思えるが、今作はこれまで述べてきたように、客観を排して主観主義的な愛の在り方を語っている。規範というものが、そもそも通用しないのである。

今作が「大人の恋愛」と評される理由も、じつはここにあるように思う。蒔野にとってみれば、洋子に接近しようとするのは、自身の欲求からではない。テロ事件による精神面での後遺症を抱えた彼女に寄り添いたいという相手ありきの感情であり、自分を本位にして動いているわけではないからだ。印象的な台詞のひとつに「洋子さんが地球のどこかで死んだって聞いたら、僕も死ぬよ」というものがある。彼女を手中に収めたいというよりも、徹底して彼女のためにあろうとする姿勢こそが、蒔野の本懐なのだ。

こうした相手ありきの恋愛というのは、学生の頃はなかなか難しいものかもしれない。学生時代、自分が観測する範囲で、どこまでも相手のためを想い、見返りを求めないという関係を見たことがない。特に学生であると、周囲からの人物評価や集団内における自分の立ち位置といったものに目を曇らせられ、相手に相応の何かを求めてしまう。人によっては、それは容姿であったり、カーストにおける階級だったり、はたまた自分に都合のいい従順さであったりするのかもしれない。しかし、相手に求めるばかりでは、相手からの信頼は得られない。最初は求められる側が妥協できたとしても、そうした関係はいずれ限界を迎えるだろう。

それと照らし合わせれば、蒔野と洋子は周囲の目をまるで気にする様子もなく、ただ相手のためになることを考える。ステージに来られなかった洋子を責めるのでもなく、彼女が心配する同僚に手料理と演奏を送る。スランプに陥っている時期にありながら、洋子を疎かにすることはない。そうした彼の愛情があるから、洋子は先の台詞に意匠返しで蒔野が死んだら彼の音楽を語り伝えると言うに至るのだ。

片方が与え、片方がそれに応じる。シンプルだが、これが恋愛の本質だ。

洋子にフィアンセがいたとして、それはさしたる問題ではない。蒔野から受ける愛情が彼女にとっての安息だから、なりふり構わずそこに飛び込んだ。ただそれだけの話だ。それがよからぬことだということは、彼らの主観には、愛には関係がない。

しかしながら、彼らの関係に割り入ってきたマネージャーの三谷は、自分の蒔野への愛情に正しさを定義しようとする。蒔野が自分の人生のすべてだと言い、洋子とのすれ違いの原因を作る。この行いは蒔野が変容してしまうことへの危機感からくるものであり、洋子に送った偽のメールにあった言葉の数々は、そのまま彼女自身が蒔野に望んでいることを言い顕しているように思える。

だが、時が経ち、蒔野が復帰に向けて動き出したことをきっかけに、彼女の中に蒔野への後悔や不安が募る。洋子を呼び出し、すべてを告白したのは、自分のしたことが正しかったのかどうかを確かめるためのものだったのだろう。

結局、彼女は蒔野と続くことはない。これは、相手に正しい像を求めることが恋愛の本質と矛盾しているが故に導き出された当然の結末のように思える。あくまでも今作の掲げる恋愛には、周囲や社会が押し付ける正しさは通用しないのだ。

劇中、イェルコ・ソリッチが洋子の母と離婚したのは、世間からの非難を回避させるためだったというエピソードが紹介される。そして、洋子の母は「会えないことがあの人の愛の証明だった」と口にする。このエピソードは、必ずしも恋愛が、周囲から見て「互いに愛し合っている」という状態でなくとも、成立するものだと教えてくれる。もっと言うと、愛情には誰もが認める正しさなど存在しない。

蒔野と洋子が惹かれ合うことに、規範を持ち出すということは、言ってしまえば野暮なのだ。愛とは、周囲に規定されず、互いが模索するものなのだから。

 

映像面の見応えには欠ける

これまで述べてきたのは、あくまで原作に由来するであろう部分だ。それを映画できちんと再現したという点では評価すべきだと思う。

ただ、今作は全体を通して、印象に残る演出・映像があまり見られないのが残念だった。いかにも映画の見所になりそうな演奏についてはカットの多用で臨場感を欠いているし、被写体を中心に置いてぐるりと回るカメラワークを除いて特段工夫が感じられない。演奏描写に関しては、同年公開の『蜜蜂と遠雷』の方に分がある。蒔野の不調を表現すべく挿し込まれるスロー気味で暗いカット演出も、下手すると滑稽にも思えてしまう。

また、今作では2時間に収める都合上、原作から間違いなく心情描写が大幅に省略されているようなのだが、その弊害から序盤に蒔野が洋子に急接近していく過程がかなり不気味なことになっている。「部隊の上からお誘いしてたんです」をはじめとして、浮いている台詞や言動は数多いのだが、演じている福山雅治はそうした浮世離れした気質を感じさせる演技にはなっていないので、原作・演出・演者のどれもがあまり噛み合っているように思えなかった。

一応、海外ロケを敢行し、フランス、スペイン、東京にまたがる話に加えて、演者もビッグネームを並べているので、映像にそれなりのリッチさはある。ただ、海外ロケをした割には、どれも些末な背景に留まっていて、その土地に対する拘りや特別な情景を映し出そうとする意図も感じられなかった。映像の美麗さはあくまで綺麗なものを映しているからというだけで、フランスやスペインの観光気分を味わうためだとか、あるいはまた違った面を見るためといった動機で今作を見ても、特に何もない。

演者を映す際も、顔のアップを交互に映すというもので、テレビドラマ的な映像が目立つ。大きなスクリーンで空間を支配するほどの価値を見出せたか、と問われるとちょっと苦しいところである。

 

まとめ: 原作の持ち味を届けることには成功している

恋愛をテーマにした物語は多いが、ここまで主観を重視した作風は意外と見られない。相手のため、ということを表現することまでは出来ても、あくまで周囲に反しない限りの、という制限が背後には潜んでいる。

しかし、単なるわがままともつかない、清々しく、解放感に満ちた感覚を今作は抱かせる。蒔野の音楽が本人も意図せぬ形で誰かに安息を与えうるのだというメッセージから、自分のしたことが反響して誰かに伝わっていくものかもしれないと再認識できる。また、そうした芸術への解釈と重ねて、愛は他の誰にも規定され得ないとする精神を内包しており、ここに今の時代性を感じとることができた。

自分にとっては、確実にメッセージを届ける映像化にはなっている。それだけに、前述したように、映像面ではあまり見応えがないのが、惜しいところでもある。

 

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