アイキャッチ画像: (C)2018映画「ニセコイ」製作委員会
こんにちは、親知らず抜いたばっかりのワタリ(@wataridley)です。
今回は週刊少年ジャンプにおいてラブコメ最長連載の記録を持つ同名漫画を実写化した映画『ニセコイ』の感想・考察になります。監督は河合勇人、主演を中島健人と中条あやみの2人が務めています。
映画の内容に踏み込んで語っておりますのでご注意ください。
※今回の記事を書いた後、「カゲヒナタの映画レビュー」の管理人で映画ライターのヒナタカさんと映画の感想を語り合いました。よろしければこちらも合わせてどうぞ。16分30秒ごろからネタバレあり。
目次
映画『ニセコイ』の社会的に形成されたロールへの批判的態度
漫画と同様映画『ニセコイ』のあらすじは、些か強引ではあるが、何に注力すべきかという点がわかりやすい。
ヤクザ「集英組」の将来の若頭になることを期待されている一条楽は、ある日の登校中にとび膝蹴りを喰らう。その膝の主は楽が通う学校への転校生であり、しかも「集英組」と縄張り争いをしているギャング「ビーハイブ」のボスの一人娘の霧崎千棘だった。2人は両勢力の和平を保つべく、半ば強引に恋人のフリ=ニセコイを演じることになる…といった導入だ。
その後に続く、騒がしくも妬ましい女性キャラたちとの恋愛狂騒が今作の主力武器であり、観客もそれを望んでいるはずだ。映画『ニセコイ』はそうした展開をきちんと描かれており、演じているキャストも限定した客層に向けた知名度を重視した人選になっている。
そこへ批判的な目線を向けると、それらはいかにも商業的な香りを発している。話題性を優先した映画において、キャストの適性や映画との相性などの面で不足が見られる傾向は強い。物語の面においても、とりわけ今作のような人気漫画原作では、省略や強引なつじつま合わせの憂き目に逢うことが多い。一本の作品として、文化や時間を飛び越えて支持されうるほどの魅力を担保できている作品は数少ないのだ。この手の実写映画の大半はワンシーズンで楽みつつも次のシーズンには記憶のかなたへ、という消費物に留まっている。
だがしかし、この映画『ニセコイ』はそんな消費物たるルックスを取る中、我々人類がこの歴史、この社会において直面してきた苦悩を暴き出さんとしている。それは一条楽と霧崎千棘というフィルターを通じてスクリーンに投影されている。
2人が形成する「ニセコイ」という関係は周囲から望まぬ形で押し付けられた役割である。2人は周囲の目を誤魔化すべく奔走することになる。本当の想い人とのすれ違いや快く思わない者からの妨害に遭うなど、苦難に次々と見舞われる。
その特殊状況はまさしく、社会的役割を意識するがゆえに雁字搦めにされていく我々の姿そのものではないか。これは人類が背負った原罪を皮肉交じりに描いた映画なのだ。
非常に些細なのだが、作中千棘が「男なんだからちゃんとエスコートして」という場面があったことを覚えているだろうか。このシーンは現代的ジェンダー価値観に照らし合わせると、なかなか逆流した台詞である。この発言は、千棘がデート(のフリ)をしている中で楽に対して積極的な行動を要請するという表面的ニュアンスがあったが、それ以上に今作の持つテーマを象徴する台詞に思えてならない。
2人に課せられているノルマは「年頃の男と女なのだから、恋愛をしているフリをしなさい」という極めて安易で当人の意を軽視したものである。楽と千棘には、このような意に反した行いをさせられるに足る理由は存在しない。ただ彼らがヤクザの息子とギャングの娘、男と女という自らの意思では変え難い先天的な要因を持っていたからに過ぎない。
『ニセコイ』とは、その理不尽な役割への従事に加えて、あまつさえそれによって引き起こされる不幸も彼らはその身に受けざるを得ない悲哀なのだ。
過剰に映る演出が訴える作り物めいた作品世界
そんな深刻な問題を、今作はきわめてばかばかしく映すことに傾倒している。
娯楽作然としているこの映画を見に来た人を深刻にさせないための工夫ともとれるが、自分はこれらの作為的な演出の数々こそ、今作のテーマを浮き彫りにする重要要素であるとみている。
テロップによる情報の限定
今作では河合勇人監督の『俺物語!!』『チア☆ダン』を彷彿とさせるテロップ演出があった。それはキャラクターの台詞を画面上に文字で起こし、視聴者に鮮烈なインパクトを与えてくる。
映画というメディアは説明過多であってはならず、かといって説明不足であれば要領を得ない作品鑑賞に陥ってしまいかねない、繊細なバランスが要求されているのは、よく知られているところだろう。例えばナレーションで逐一状況説明をしてしまうと、観る側としてはその内容をそのまま受け取るしかなくなり、こちらから思考を巡らせる機会が減ってしまう。
(C)2018映画「ニセコイ」製作委員会
そこでいくと、この『ニセコイ』はとてつもないまでにデリカシーを欠いたテロップ起こしがかなりの回数使われている。
だがしかし、もはや映画館に来ている人間の心に冷風を吹かすほどに一見安直なそれは、実は高度な意図が潜んでいるように思えてならない。
というのも、この映画はスクリーン内に留まらず、我々の側に越境してくる壮大なテーマを扱っている。強制的に恋人のフリをさせられるなどという「試練」を通じて、周囲から押し付けられる役割の辛さだ。このようなテロップをなくし、他の安っぽい演出までも排除した場合、後に残るのは男女が期待される行動様式のえぐい味わいだけだ。
テロップを用いることによって画面に造花が添えられると同時に、「それはとどのつまり作り出されたものに過ぎないのだ」と語ってくれているように感じた。
我々が本質的に従事せねばならない理由はない。役割とは常に周囲の価値観や期待が人工的に生み出されるものであって、生来のものではないのだ、と。
「FREEZ」「ラブラブ」といったこれらの言葉は「ヤクザとギャングの命の取り合い」という殺伐とした場面から一切の緊張感をすっぱ抜き、あくまで学芸会的ルックスに押しとどめようとする作品テーマを語る上での意図があったのである。
中盤、楽と千棘が物置に閉じ込められたシークエンスにおいていきなり画面中央に「提供 集英組」と表示されたこともこの製作者による粋な計らいが見て取れる。
テレビを見てきた者たちにとって見慣れたその光景は我々の日常とこの物語が無関係ではないことをありありと示しつつも、この映画そのものは作り物であり、テーマが社会派だからといって深刻に捉えすぎないでくれという配慮にほかならない。
ありえないキャストの装い
今作のキャストはすさまじい正統派美少女の破壊力をこちらの脳に焼き付けた池間夏海を除くと、だいたい現実離れしたルックスになっている。
一条楽について、「主演の中島健人くんは見るからにふつうじゃないか」という指摘もあるかもしれない。しかし、髪の毛につけているバッテンのアクセサリーが「なんだこれ」という小さな違和感を常に植え付けてくる。また、彼が頻繁に披露する大胆通り越してわざとらしい台詞読みも虚構らしさを振りまいていた。
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中条あやみ演じる桐崎千棘の造形も強烈だ。彼女はイギリス人の父と日本人の母の間に生まれたというルーツを持ちながらも、黒いロングストレートが印象的なモデル・女優である。そんな彼女にこの映画はあろうことか金髪を強いる。初めてその姿を見た時は、こぶしに力が入り、こめかみが痛くなって仕方なかった。
だが、映画を観るとそれは非常に巧妙な計算の上で形作られた装いなのだと気づかされた。まず、この無理のある外見について言うと、無理やりニセの恋人同士を演じさせられているストーリーと通底している。千棘が好きでもない人物と付き合うことと、黒髪が似合う中条あやみがゴリゴリ(ゴリラゴリラの略ではない)のパツキンに染めるという2つはねつ造という点でリンクしている。
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この作り物めいた感じは、島崎遥香演じる橘万里花にも当然ある。島崎遥香はアイドル時代にファンに対してアイドルらしからぬ素っ気ない対応をする「塩対応」という個性で知られていたが、それはすなわち「建前の本音」である。いくら「猫を被らない」と公言していたとしても、それは公に向けた本音に過ぎない。つまり、作られたものに過ぎないのだ。島崎遥香のほんとうの腹積もりというものは、そうした言動をもってしても依然心の中にしまわれている。
この彼女のパブリックイメージを映画『ニセコイ』は思いっきり利用している。とにかく一面的なキャラクターと化した彼女は、島崎遥香の装い演技の巧さによって、更にでっち上げられた架空の人物感を押し上げられていた。
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DAIGOが演じるクロードもフィクション満載のキャラクターだ。こちらも銀髪にピンクのスーツなどという渋谷のハロウィンにでもいそうな外見だ。更に、敢えて演技面に不安のあるDAIGOというタレントを起用することにより、「これは実在する人物じゃなくDAIGOが演じているだけなんだ」と観客に共有させることに成功している。DAIGOが演じていることと、この映画で一貫して押し出されている「不条理な役割」は通じ合っているのだ。
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キャラクターの役割
以上に挙げてきたのはキャストのビジュアルについてであったが、そのキャラクターが担っている役割こそ、人類の誕生以降もれなく見られてきた社会的「らしさ」の風刺である。
今作の結末は、単純だ。楽と千棘が結ばれ、物語の幕は閉じられる。
この結末について、原作の連載が終了したときに、多くの批判的意見が噴出したことを今でも覚えている。漫画『ニセコイ』の概要を知っている程度の自分にも聞こえてきたほどだ。要は、「運命の人」である小野寺小咲と一条楽が結ばれず、途中乱入してきた桐崎千棘が結ばれるのはおかしいという趣旨だ。
驚いたことに、映画はその批判さえも逆手に取り、役目を全うすることの不条理さを物語っている。
池間夏海演じる小野寺小咲は今作のどぎつい外見をした登場人物たちの中で、その正統派な魅力をかえって異彩になっていた。作中の「特別が普通で、普通が特別」という台詞がまさにこれである。その小咲は、楽に思いを寄せられているどころか、幼い日に永遠の愛を誓ったという切り札まで持っていた。誰がどう見ても正統派ヒロインである。
一方、そこへ乱入してきた桐崎千棘はむしろ楽とは犬猿の仲であった。当然、はじめは楽への恋愛感情は微塵もない。しかし、彼女は「楽の恋人」という機能を作品上あてがわれることとなる。
この役割の持つ力は強烈だ。フィクションの登場人物はこれに振り回され、ときに生死をさまよい、ときに人生の重要な決定事項までも左右されてしまう。
今作では原作においてはヒロインの1人であった鶫誠士郎がただのモブキャラと化し、橘万里花が楽との過去を匂わせつつも単純化されたキャラクターとなっていた。橘万里花はいくら原作で楽とのドラマを展開していようとも、この映画では梯子を外され、ただの賑やかしに堕す。鶫もまた、台詞さえまともに喋ることのできないちょっと個性的な部下程度の扱いになっている。彼女らを見ていると、原作からのファンは怒りさえ覚えるだろうし、そうでない観客も扱いの不憫さは理解できるはずだ。
だが、これはひとえに役割の恐ろしさを観客に訴えかけるための手段だ。鶫は楽と千棘の邪魔をするクロードの補助員、橘万里花は最後の見せ場に代表されるようどれだけあがいても結局は彼らの関係を手助けするキャラクターでしかいられない。我々が営む社会生活で味わう苦汁を凝縮し、戯画化したかのようだ。
「見えざる手」ならぬ「クリエイターの手」はキャラクターからすれば、絶対服従すべき君主だ。小野寺小咲は、見るからに正統派ヒロインたる要素を持っていても、楽と手をつなぐことさえかなわない。逆に桐崎千棘はいくら楽にとび膝蹴りや鉄拳を喰らわせようとも、最終的には結ばれる。
本来ならば結ばれるべきだった楽と小咲が結ばれなかったことはとても興味深い。彼らは約束を交わしていたにも関わらず、その約束をついには履行できなかった。これが意味するところは、定められたロールからの解放ではないか。
あれだけ大事そうに約束の錠を身に着けていた楽が、千棘と上っ面の関係を構築することで、そちらに傾倒してしまうプロセスは、人間の定めが絶対のものではないという示し合わせになっている。逆に形から入ったとしても、それはいつしか中身が伴うものになっていくということも提示されている。ロミオとジュリエットという演劇は、まさしく対立する両家に振り回されるお話であり、楽と千棘の関係にオーバーラップしている。だが、彼らはその役目を超えて、自らの台詞を語り、自らの物語を紡ごうとした。
映画『ニセコイ』は、自身に課せられたロールに愚かしい外見で四苦八苦し、やがてそれを超えて結ばれる物語になっている。禁断の果実に手を出す役目を負ったアダムとイヴ。神の言いつけに背いたことで人類に課せられた原罪。この雁字搦めにされた我々をほんのひと時解放させてくれる極めて意義深い作品だ。
更にそれらを包み込むもっとも外側のレイヤー
アダムとイヴによって端を発したとされる原罪を背景に、我々の今いる社会的ロールの非合理性を暗に主張しているとこれまでは述べてきた。それを描くため、極度に誇張された演劇、キャラクター、演出を用いて、作為的なものへ対する嫌悪感や違和感を洗いざらい観客に味合わせようとしているのだ。
だが、それだけでは終わらない。今作は更に独自的な方法で内包するテーマを見せている。
それは『カメラを止めるな!』を彷彿とさせるエンドロールにおけるメイキング映像である。どうやらこれはNG集や撮影時の現場風景らしく、キャラクターを演じる役割から解放されたキャストのリラックスした様子が映っている。
これを映画の最後に持ってくるところに、今作の巧妙な計算が隠されている。
映画『ニセコイ』がテーマに据えている「役目の理不尽さ」とそれを超えていく物語は、この直前で「fin」の文字とともに閉じられている。楽は、小咲との「運命の人」という関係から脱し、また千棘との「ニセコイ」関係を本物の恋へと発展させた。これによって、人類が直面してきた窮屈な役目に幾分かの救いが与えられた。そう、そのはずだった。
しかし、このエンドロール映像が「所詮これは虚構である」という事実を観客に提示してくる。稚拙なキャラクタービジュアルやテロップ演出で散々虚構と意識しながらも、メッセージに関しては信じたくなる夢が入れ込まれていたのだ。そのメッセージの着地の後に、この映像を差し込む行為は、それすらも虚構であったという大どんでん返しだ。
エンドロールをしっかり最後まで見届けた観客が目にするのは、一条楽と桐崎千棘ではない。海辺を歩く中島健人と中条あやみだ。
結局この物語は何もかもが作り物であり、この広い宇宙、悠久の時の中の幽かな茶番でしかない。役目を超えていけるという幻想を抱かせておきながら、結局役目に従事するキャスト達を更に外側のレイヤー(=作品の外側)で見せつける手法はどうしようもない現実を思い知らせる。
神の言いつけに背いたアダムとイヴという役目に終わりなどないのだ。
まとめ: 創世記から脈々と続く人の原罪を捉えなおす作品だ
虚構の世界の中で学芸会のような演技、演出、筋書きを展開し、神の視点から人間社会の役目の苦しさを見せようとする作品、それが『ニセコイ』である。決して安っぽいと切って捨てられる実写映画化などではない。壮大なテーマであるがために、理解しきれない側面があるのだ。
旧約聖書の創世記から人類は無垢とは真反対の感情、嫉妬や羞恥心などを抱き、存在してきたとされている。それが事実かどうかはさておいたとしても、人間は各々気づかぬうちに感情の奴隷と化し、周囲からの要求に従ったり、あるいは反発してしまうことは紛れもない事実だ。
社会的機能としての人間を、卑近な高校生カップルというイメージに託し、深刻になりすぎないよう最大限配慮した結果生み出されたのが映画『ニセコイ』である。
さて、このブログでは映画にスコア評価をつける決まりになっている。いつもは冒頭につけているのだが、最後に点数をつけて『ニセコイ』感想・考察を締めることにする。
けっきょく映画の評価は…
37/100
(C)2018映画「ニセコイ」製作委員会