アイキャッチ画像: (C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
こんちには、好きな漫画と言えば「恋は雨上がりのように」でお馴染みのワタリ(@wataridley)です。
今回のレビューは、その恋雨の実写映画である「恋は雨上がりのように」です。
原作は2014年から2018年まで連載されていた漫画であり、今年1月から4月にかけてアニメも放送された人気作品と言えるでしょう。
原作がすでに完結済みであること、アニメも個人的にとても満足な作品になっていたことから、実写映画にも当然期待せざるを得ないところです。
実を言うと、キャスティングが発表された時点では、小松菜奈・大泉洋両名に対して橘あきらと近藤正己(店長)のイメージを抱いたことがなかったため、少々不安を抱いたのが正直な気持ちでした。
予告編で身につけていた空手チョップTシャツなるものの存在にも眉をひそめていました。原作ではそんなアイテムは登場していなかったので、よもや妙な改変でも施されていないかと一抹の不安を覚えました。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
大泉洋に関しても好感度が高く、コミカルな風味を作品に添えてくれる名俳優だと思いながら、本人のイメージが強すぎて、店長と思えるかどうかが不安要素でした。昨冬に見た実写「鋼の錬金術師」では、キメラを研究する錬金術師という役所だったけど、まんま大泉洋だった印象が記憶に新しいです。
また、原作がきわめて繊細なタッチで登場人物の心情や挙措を描く作風であることが、映画に変換するにあたっての高いハードルなのではないかとも思っていました。漫画では気にならなかったモノローグやコミカル描写は、そのまま実写に持ってくると違和感が増すものです。
しかし観終わった後の感想としては、これらは大半が杞憂に終わりました。原作を全巻揃えて何度も読みかえし、アニメを毎週少なくとも3回は見返していた自分から見ても、恋雨を映画に変換し、独自の色付けを施した佳作であると断言できます。愚直にそのまま映画にするのではなく、漫画からの大胆な一部の改変と細かな配慮が好印象でした。
以下に作品内容に触れながら、感想を書いていきます。当然ネタバレになっていますので、未見の方はご注意ください。
80/100
目次
「もし恋雨が現実の出来事だったら」を想像させるキャスト
この映画の魅力はまず第一にキャストにあります。
怪我が原因で陸上から離れてしまった女子高生 橘あきらを小松菜奈、文学への憧れを捨てきれぬままにいる45歳のファミレス店長 近藤正己を大泉洋が演じています。
冒頭に書いたように、公開前にキャストが公表された際のファーストインプレッションとしては、正直まずまずといったところでした。原作を読んでいて自分が登場人物に抱いていたイメージが、そっくりそのままというわけでもなく、かといってまるでズレているとも思えるものではない。実力やイメージを全く無視したような流行りの芸能人をあてる映画もある中で、そこはきちんとキャストは選んだのだなとは伝わってくるものの、自分の腹にはすっぽりとは落ちない。
しかし、そんな事前の不安をあっさりと覆してくれる好演でした。今となっては、小松菜奈と大泉洋以外をあきらと店長にキャスティングするというのは考えられないくらいです。
キャストは皆それぞれ原作に合わせにいくというよりも、各々の味を発揮する方向性で演じていたようで心地よかったです。「恋雨」を再現するのではなく、「恋雨」の人々が現実に存在したらどうなるか?という想像が掻き立てられ、面白い顔ぶれとパフォーマンスでした。
純粋さからコケティッシュさまでを体現した小松菜奈
小松菜奈のあきらは、すらっとした長身に黒髪ロングストレート、原作でもおなじみの清潔感溢れる装いに関してはビジュアル上の再現度は高かったと思います。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
観る前に自分が彼女に抱いていた不安は「あきらが時折見せる子供っぽい可愛さがあまり無いのではないか?」というものでした。
小松菜奈のキャリアとしては中島哲也監督の「渇き」以降、順調に女優としての経験を積んできており、演技力に対する懸念はあまりなかったのですが、彼女の持つミステリアスさや大人びた空気感が、ちょっと不釣り合いだと感じていました。
しかし、店長へ寄せる切実な想いがしっかりと伝わってくる表現力に心を突かれました。そして、大人びた雰囲気を残しつつ、17歳という年齢が抱える脆さや未熟さを見せるギャップが非常に良い。
考えてもみると、あきらは普段はクールで表情の変化に乏しい女性です。そこは小松菜奈の得意とする領域なので、例えば店長を「ゴミを見るような目」で睨みつけるシーンにおける目力はたしかにありました。自分もあの目で迫られたら、慄くにちがいない、と。序盤の勢いよく走る姿、淡々と働く様子、店長を誤解させるような目を観ていると、中々近寄りがたい人に一旦は映ります。
それ故に、店長と触れ合うことで心ときめく様が一層可愛らしく思えるんですよね。いわゆるギャップ萌えのような感情です。
店長に返事を聞かせてほしいと顔を強張らせて聞く時と、車の中で店長の一人称の変化に微笑む時とで、表情や声色も全く異なっています。彼女の感情が店長のことで大きく揺れている様子がこっちとしても微笑ましいことこの上ないです。
雨に濡れながらの告白という現実的に考えるとあり得ないようなシチュエーションであっても、彼女のミステリアスな存在感が大きな説得力を持たせています。こればっかりは、単に可愛いさがウリのよくいる女子高生といった感じの女優ではなく、非俗的な雰囲気をまとった小松菜奈による専売特許です。
あと特筆すべき点としては、やたらとコケティッシュな魅力満載だったことでしょう。小松菜奈のキャリアにおいて、彼女の魅力を最も堪能できる作品と位置付けられること間違いなし。
恋雨は、原作が青年誌に掲載されているとあって、直接的な性表現は避けられているものの、作中紳士諸君がドキっとするような描写が所々あったりはするんですよね。とはいえ、それらは枝葉末節的な描写に過ぎないので、映画では完全に消去されても止むなしだと考えていました。
しかし、映画はやってくれた…。
大スクリーンで映える小松菜奈のルームウェア姿。ランニングシャツ姿。そこから覗く御御足。その脚線美に心臓が高鳴るばかりでした。
これらは目の保養になるのはもちろんですが、今作においてはあきらが陸上選手であることから、脚が重要な要素になっているのを示しています。怪我を写すシーンでは必然的に足に集中するカメラワークになりますし、脚を大きく動かす彼女の姿を晴空の下で爽快に映すことで、あきらにとっての「本当にやりたいこと」を自然と伝えてくれる効果もあります。
付け加えると、若い女性が脚を出すというのは、年を重ねた店長との対比的な若さの訴えにもなっていると感じました。
とにかく、体全身を使い、魅力的な表情を浮かべ、独特のオーラで作品を彩ってくれた小松菜奈には拍手を送るほかありません。
どこか愛らしく、分別ある店長像を確立した大泉洋
大泉洋演じる店長は、45歳のファミレス店長で、うだつがあがらない。小説を愛好してはいるが、それを表には出さず、日々店長としての仕事に身を入れている。そんな折に自分よりも28歳年の離れたあきらからアプローチを受けることになります。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
自分は、大泉洋演じる店長は原作の店長をトレースしているわけではないと思いました。氏のもつ味を活かしながら店長の骨子を拾い上げるアプローチに思えたのです。
今作に追加されている原作にはないセリフでは、特に氏の特色が滲んでいました。ファミレスであきらから好きだと伝えられた後のシーンなんて、大泉洋の素が出ているのではないかというぐらいのテンションで勘違いしており、思わずニヤけてしまったくらいです。その際「俺ってデリカシーがない」というセリフまで飛び出していましたが、これはアドリブか?と思いました。
それに付随して、映画の店長は漫画とアニメの「恋雨」と比べても、結構明るいイメージを持つようになっている気がします。原作の店長はあきらの持つ若さに対して時折鬱屈した感情を抱いたり、自身の持つ文学への未練にネガティブな意味づけをしていたりと、湿っぽい部分も持ち合わせています。映画では、尺の都合上そうしたシーンがカットされたことや、文学への後ろめたさを匂わせるのが旧友のちひろと居る時に限定されたことで、少々あっけらかんとしていると思いました。
そのちひろとの会話シーンもとても良かったです。大泉洋と戸次重幸は演劇ユニット チームNACCSのメンバーであり、距離の近い関係だからこそ、自然体に友人関係を演じていたように映りました。作中では、店長がちひろに対して卑屈な感情を混じらせながらも、会えば学生時代の気分に戻れるという憧れる関係でした。この2人のシーンは作中2回きりですが、どちらも大きな意味を持っています。短い時間ながらも息のあった様子を見て、温かい気持ちにさせられました。
大泉洋氏は、自然に演じている時の朗らかな表情が魅力的なアクターだと再認識させられました。ただ明るいばかりではなく、ちょっと陰の部分もあるんだというさじ加減も見事だったと思います。
脇を固める人々にもエールを送りたくなる
上記に挙げた九条ちひろ役の戸次重幸が素晴らしかったことに加えて、今作のサポーティングロールの方々はみんな個性を発揮していて、作品の厚みを増してくれていました。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
喜屋武はるか役の清野菜名は、陸上部らしい健康的で快活なイメージがあって、すんなりと入っていけました。原作でははるかは色黒なのですが、陸上から離れてしまったあきらを慮る親友というキャラクターの核をきちんと押さえているため、全く気になりませんでしたね。夏祭りの時に、あきらが独り離れて知らない人と親しげに話しているときの嫉妬交じりに当惑した表情は、とても印象深かいものでした。あきら役の小松菜奈と仲良く一緒にいるときの癒しの空気も良かった。
吉澤が描いていた力作のペラペラ漫画は、最終的にはエンドロール中の演出にも用いられていましたが、あきらに好意を抱いていた彼が、その復帰も見届けたということでしょう。
ガーデンで働くパートの久保さんを演じた濱田マリ、大学生の加瀬役の磯村勇斗も限られた時間内に人の好さが滲み出ていました。濱田マリは原作の久保さんのキャラクターをそのまま現実世界に移し替えたような女性になっており、膝を打つような配役だったと思います。
加瀬の磯村勇斗は、意地悪そうな第一印象をしっかりと見せながらも、後に思慮分別を発揮する場面でのさりげなさが良かったです。ちょっかいを出してみるものの、その人のことを知るうちに放ってはおけなくなるという彼の行いを見て、人間臭さを感じ取りました。
あきらにとっての陸上のライバル倉田みずきを演じた山本舞香は、気の強さや自信家の一面を訴えかけてきましたね。京都弁がちょっとたどたどしい気がしましたが、魅力でカバーしていました。前に観た「ひるなかの流星」でも気の強いキャラクターでしたね。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
出演時間としては僅かでしたが、吉田羊演じる母親もあきらを心配する様子が心にきましたね。スパイクを取っておいていたことを感謝された時の僅かな笑みが自分の頭に残っています。
あとは勇斗役の子役が大泉洋の天然パーマをコピーしたような髪型だったのには笑いました。
まとめると、些細な部分に至るまで個性的な演者が出てきて、あきらと店長のドラマを賑やかに支えてくれていました。
漫画・アニメとは異なるアプローチ
恋雨は、そのまま映画にしたら上手く伝わらない表現が多い漫画だと思っています。なので、映画にするにあたっては、創意工夫が不可避であることは観る前からもわかっていました。
まず度肝を抜かれたのが、主人公の少女 橘あきらがスタイリッシュなポーズをとり、颯爽と走る突飛な演出。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
吉澤を軽くあしらい、校庭からスタートをきった後に全力で道を駆け抜ける。画面端にはスタッフクレジット。BGMに勢いのあるボーカル入りの音楽が流れている。カーブを曲がるときには非現実の匂いに満ちたスライディングを披露するものだから、自分は恋雨を観にきたことを一瞬疑ってしまうほどでした。
そうして、あきらが転倒したところで夢から覚め、現実では相変わらず吉澤が話しかけてくる。
原作でもアニメでもこんな描写一切ありません。映画独自のオープニングです。
ただ、映画にするにあたっては、この掴みはとても有効だと感じました。漫画やアニメは1話ずつ時間をかけて断続的に積み重ねていく形式になっているので、徐々に引き込んでいくようになっています。一方映画は、2時間も連続的に話を展開するわけです。そのスタート部分において、観客の度肝を抜くような映像をつけたのは映画世界への誘いになってます。実際、原作・アニメともに見た自分でもこの異なる導入にはびっくりしました。
このように、単に漫画の展開をなぞっていくのではなく、映画というメディアに恋雨の話を持ち込んだらどうなるのかを考え尽くして構築している計算高さが伺えます。漫画の実写映画でありがちな、原作のシーンをそのままトレースしたような撮り方も極力抑えられていて、原作を読んだ人にとっても既視感が無いんですよね。だから、既に展開を知っていたとしても退屈しません。もちろん、初めて見る人にとっても話は楽しめるよう工夫されています。
長く対象を映し続けるカメラワーク
あきらがファミレスで働く姿を映すシーンも面白いです。最初の夢を見るシーンが終わってから、いよいよガーデンで働く彼女の後姿が映りだし、彼女が客に料理を運び、店の奥へまた料理を取りに行く様子までがワンカット。そして、そのカットの終わりに、彼女の視線が店長に移ります。ルーティーンな動きをしているあきらの姿から、興味ある対象への視点変更がカメラにより行われているということです。仮に事前知識の無い人が見ても、あきらが店長に思う所があるという情報が読み取れます。
同様の長回しの映像は、あきらが復帰したという報せを倉田みづきの同級生が彼女に伝えに行くシーンにおいても採用されています。今作は、カメラで動きを収めるからこそ生み出せるインパクトを活用しているんですよね。これはアニメでも漫画でも生み出しづらい表現です。
最後の土手のシーンにおいては、バストアップであきらの顔を捉え続けるカメラワークにより、彼女の表情変化が印象的に刻み付けられました。作中、基本的にあきらの表情は硬直的でした。店長を臭くないと励ます時の大声や、彼の一人称が「僕」となったのを聞いた時には確かに表情は変化してはいたのですが、カメラが大きく寄ったり、変化の瞬間を捉えるということはしていません。しかし、終盤になって漸く彼女の想いが溢れてしまうあきら。その様子をリアルタイムで追えるのは、当たり前ですがカメラが為せる技なんですよね。
映画であることの利点、演者が生の人間であるリアリティが活かされていたように思います。
原作の展開の巧みな再構築
全10巻の原作を、2時間の映画に収めるのは至難の業です。重要な部分を残して他はカットするか、観客が理解できないほどのスーパースピードで進行するぐらいしか手はありません。
もちろん前者が選択され、1巻から3巻ぐらいまでの内容をベースに脚本が組まれていました。ここで起こりそうな問題は、物語の希薄化です。カットした分、原作にあった重要なシーンまでもが削られる危険性があります。
しかし、映画恋雨は巧妙に「あきらと店長」の話に必要なものだけを抽出し、単作で成り立つよう細々とした工夫も加えていました。結果として、1本の映画として見事に完成されています。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
具体的に触れていくと、序盤の入りから原作とは異なっていました。
最初のガーデンのシーンから吉澤が厨房でアルバイトをし、加瀬があきらへの賄いでアプロ―チをかけていました。原作だとこれらの出来事は最初ではなく、時系列的にはもっと後から起こることなのです。
これは、純粋に短縮のためであるし、「どうしてあんな不愛想な子がここでアルバイトをしているのか」といったことを加瀬たちに語らせることで、次のあきらと店長のシーンに入り込みやすくなっている効果があります。当然あきらがここにいる理由は店長ですよね。だから、彼女が店長を見つめるのは敵意ではなく好意からであると自然にわかるようになっています。原作での該当のコマでは、声に出さない吹き出しで「好き」だと述べていますが、映画ではこれが無くとも成立しているわけです。
また、映画ではカットされてしまったやり取りとして、店長があきらに自分への無理解を告げるシーンがありました。それを気にして、いても経ってもいられなくなった彼女が店長の家を訪ねるという流れでした。
映画では、直前に「店長に『やりたいことなどない』と苛立つあきらの姿(原作ではもっと後の出来事)」が描かれ、店長の家を訪ねる動機が加瀬からの後押しに変わっています。店長が風邪で休むという出来事は、原作では二人の仲の拗れが前振りになっていましたが、映画だと繋げるために咳き込む彼の様子を映していたんですよね。これには感心しました。原作と変更したことで、些細な祖語を生じさせないよう工夫していたのです。
モノローグの排除した作りになっている点も、大いに感心しました。あきらと店長があきらの家の近くのファミレスで語り合うシーンでは、ドリンクバーから戻ってきた店長があきらをしばらく見つめる様子が映っていました。原作ではデジャヴを感じている旨をはっきり胸の内で語るのですが、映画ではありません。後に、店長は「橘さんはいつも雨の日に突然現れる」という言葉を口にしますが、もしかしたら、店長はあきらと最初に出会った日のことを思い出して見つめていたのかな、と想像できる余地を与えてくれています。
原作から作りを変えているという点では、そもそも原作のゆるい1話完結形式の内容も映画向けにアレンジしています。例えば、店長との映画館デートと図書館巡りを同じ1日に起こった事にすることで、2人が距離を詰める流れがテンポよく、見ごたえあるようになっています。
あきらを車で送る場面でもテンポ重視に話を変えられていました。映画の中では、危ない運転をした後に踏切の前で店長がデートという言葉を口にし、まださっきの焦燥が残っているうちに承諾してしまうというものになっています。原作では、木陰で休んでいる時にデートの話が決まるのですが、やや漫画的なやり取りであったことを考えると、実写映画の方では説得力のあるシチュエーションに替えられています。
あきらがはるかを夏祭りに誘うまでの過程も、上手くまとめられていました。店長とのデートを控え、恋愛成就のアイテムであるキーホルダーを手に入れるためにガチャを回す彼女のエピソードでは、あきらとはるかの友情に焦点があてられ、夏祭りへの繋がりがスムーズに運びました。夏祭りで自分が渡したキーホルダーを目にしたはるかは、あきらが店長を恋慕う象徴とみなし、仲違いへと繋がっていきます。
原作では話運びはひとつひとつゆっくり積み重ねていくスタイルでしたが、およそ2時間で次々とシーンが流れていく映画にダイナミズムを付与するよう、だいぶ手を入れていることがわかります。
自然かつ含意的な映画オリジナル描写
映画には原作にないやり取りや台詞も追加されており、どれも登場人物の感情を引き立てています。
店長とデートをし、加瀬の時と同じ映画を見た後、あきらが嬉しそうに「何回見ても面白い」と言ったのは、細かいですが実は映画での変更点です。実は同じ映画を見ていたためブルーな気持ちになっていたあきらが誤魔化すように「何回見ても面白い」と言った原作と比較すると、とにかく店長と一緒にいられることを喜ぶ様子が見て取れるようになっており、あきらの屈託のない笑顔が店長への好意を明示しています。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
また、このシーンでは次のデート、そして夏祭りの話題にも及んでいます。あきらの心の浮かれ具合が表れていると共に、店長による「夏祭りは息子と約束している」という言葉による二人の間の壁も出ているんですよね。この段階で店長にとってのあきらは息子と同列であり、恋人扱いというわけではないのだという意識が窺えます。
あきらが初めてガーデンに行き、店長と出会った際の出来事にも映画ならではのオリジナル要素がありました。一番違うのは松葉杖をついてここに訪れていたという所ですね。店長がコーヒーに入れるミクルを手品で出してくれたもてなし、そして帰り際には久保さんが扉を開けてくれる気づかいを見せ、あきらにとってガーデンが居心地のいい空間であることが観客にも共有されるようになっていました。アルバイトの面接に来たユイを見て、あきらがガーデンに来るに至った様子までも示してくれており、とても心温まる場面です。
(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん/小学館
他にも、あきらを気遣う加瀬の心根の優しさを示すアイテムとしてサンドイッチが使われている所にも注目しました。受け取る側のことを考えずに渡した賄いのオマケは拒まれたり、配慮してサラダをつけた時は受け取ってもらえたりしていました。無理やりデートに誘った後には、あきらは吉澤に賄いを頼むようになり、加瀬を徹底して避けるようになってしまいます。しかし、明らかに不味いサンドイッチを食べるあきらを心配し、彼は自分の作ったものと取り換えていました。店長とあきらの険悪な雰囲気を感じ取った後、彼なりに気遣いの姿勢を見せるようになった表象がサンドイッチというアイテムなのです。
執着を肯定することと、ラストの繋がり
今作があきらや店長へ送っているエールは「執着することへの肯定」でしょう。原作においても、小説に執着を抱く店長と陸上への執着を隠し切れないあきらの姿が描かれ、大事な要素でした。
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映画にあたっては執着という単語は、終盤の店長とちひろの会話で出てきます。
小説家として大成したちひろと比較して、店長は小説に対する自身の憧れを片思いと称し、未練を抱いているのだと言葉にしました。しかし、ちひろはそれは未練ではなく執着なのだと指摘します。前向きに進んでいくために好きなこと好きでい続ける事は執着なのだ、と。
そういう意味では、2人は全く同じです。片やファミレス店長、片や小説家であっても、小説に対する執着心をどちらも持ち続けているのですから。
友人に勇気づけられた店長は、筆を執り、自作を書き始める。その小説はある日、久保さんの目に留まり、読者がつく。
店長が書いた小説が、誰かに読まれるというシーンは、原作にもアニメにもありませんでした。些細な出来事なのですが、彼の作品が誰かの目に触れてもらえるようになっているというのは、胸の内に光がさしたような気持になりました。
未練は諦めきれないこと。執着は物事に強く惹かれること。自分の感情を前向きに捉えることで、行動に至り、それが形となって誰かに届く。ささやかながら、力強い店長の執着心が実を結ぶ様を見られて良かったです。
そして、最後に土手を走るあきらが涙を零しながら店長にメールを交わそうと吐露するのもまた執着心から来るものではないでしょうか。
陸上部への復帰を遂げ、部員たちと走っていたあきら。彼女が店長が乗る車とすれ違いそうになりながらも、互いに気づき、歩を止めます。そうして彼に発した言葉は相手にたしかに伝わりました。かつて店長に「メッセとかしていますか?」と尋ねるも「何だっけ?」と返されてしまった時とは違い、今は彼女の胸の内の真意とともに伝わったのです。
陸上に舞い戻っても、彼女は雨宿りをしていた時のたいせつな人への執着を持ち続けていた。自分はそう考えました。
そんな執着心を持ったあきらと店長。2人のこれからはどうなるのか?想像してみると、晴れ晴れとした気分になります。
▼漫画『恋雨』10巻の感想・考察