洗練されたアクションと危なっかしいヒーロー観『インクレディブル・ファミリー』レビュー【ネタバレ】

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こんにちは、好きな寿司ネタはエビのワタリ(@wataridley)です。

今回は14年前に公開されたフルCGのアニメ映画「Mr. インクレディブル」の続編「インクレディブル・ファミリー(原題: Incredibles 2)」のレビューを行います。

今作は、なんと前作から14年ものブランクを空けての続編。「トイ・ストーリー 2」から「3」への10年、「モンスターズインク」から「モンスターズ・ユニバーシティ」への11年以上に長く待たされたことになります。

長い時を経ての続編公開は果たして意図していたのか、「トイ・ストーリー 3」ではおもちゃに興味をなくしたアンディと視聴者が同じ目線に立つのに機能していた部分がありますし、「モンスターズ・ユニバーシティ」では久方ぶりに会うマイクとサリーの過去の時代を見るというところに感慨深いものがありました。

今回の「インクレディブル・ファミリー」は、前作のラストシーンから地続きに話がスタートしており、14年という時間の隔たりをまるで感じさせない幕開けになっています。

一点、あの時とは変わったなぁと感じさせられたのは、今回のプロットです。一家の父親ボブが子育てをし、母親のヘレンが外でヒーロー活動に勤しむというシチュエーションは、やはり世界のジェンダー観が変わってきていることが反映されているにちがいありません。

そんな新鮮味ある描写と相変わらずなボブたち家族の姿が組み合わさって、最後まで目が離せない良質なエンターテイメントになっていると思いました。

前置きは以上で、以降はネタバレを交えての感想になります。


77/100

ワタリ
一言あらすじ「家事や育児の大変さはヒーロー活動のそれと同じである」

目の保養どころか劇薬になるアクション

今作で最も特筆すべき点は、間違いなくアクションの気持ち良さです。鑑賞後の多幸感は近年のアニメーションの中でもトップクラスでした。

家事育児を任されたボブが家の中で子供たちに振り回されるスラップスティックコメディを展開する一方、ヘレンことイラスティガールは軟体を活かしたフレキシブルアクションをこれでもかと見せつけてきます。

 

スーパーヒロイン、イラスティガールの活躍

今作で最も見ごたえのあるアクションがイラスティガールのしなやかでスムーズな体使いでした。

イロモノに映りかねないゴム人間の特徴をバイクに跨っての高速チェイスやスパイダーマンライクに摩天楼をかけるスタイリッシュさで見事に上書きしています。彼女専用のバイクが分離することで「柔軟な」運用を可能にしているのが、彼女らしさに溢れていますし、ゴムの伸び縮みでビルの間を飛び移る動きは実に爽快。

(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

暴走列車を食い止めるシーンでは、風船のように形状変化し列車後方へ退いたり、トンネルで分離バイクを両側につけて危機を回避したりと、某麦わら海賊もびっくりするぐらいに一瞬一瞬にアイデアが詰め込まれています。

こうしたいくらでも語ってしまえそうなアイデア満載のアクション描写は、映画の中ではスピード感を優先してか、次々と流れていくのが本当に贅沢です。自分がブラッドバードであったなら、ひとつひとつスローモーションで見せつけたい欲に駆られると思うのですが、この映画は全編にわたってリアルタイムで動きを見せてくれるのでくどさを一切感じませんでした。

前作から14年という年月の間に様々なアイデアを蓄積することもできたのでしょうし、それを適切に配置し、楽しませ続ける技量には圧巻させられました。

 

スーパーパワーを惜しみなく披露するジャックジャック

前作のラストでスーパーパワーを開眼し、今作でボブパートの悩みのタネのひとつとなる赤ん坊ジャックジャック。

彼は、まだ物心つかないが故に自分の力を制御することなく感情に身を任せて使ってしまいます。その危なっかしさがたかが子育てされど子育てのお話をよりスリリングに引き立てていました。

(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

赤ん坊も動物が取っ組み合うというアニメでしか実現不可能な戦闘シーンは見ものでした。アントマン&ワスプに登場するゴーストもびっくりな物体透過に始まり、超能力でお馴染みの念力で物を浮かし、ヒューマントーチのような人体発火で敵に迫り、X-MENのサイクロップスばりのレーザー光線を射出し、殴られても自身を軟化させてダメージを逃すという百花繚乱ぶり。ドクター・ストレンジにも通じる異次元ワープやハルクを思わせる怪物化といい、もはや1人アベンジャーズ状態。

終盤には、上映前に流れたアントマン予告よろしく巨大化まで遂げており、出来ないことはないんじゃないかと思わせられます。力を持て余してしまう赤ちゃんだからこそ許される万能ぶりですが、果たして彼が成長したらどうなってしまうのか…。末恐ろしい赤ちゃんです。

 

アニメーションで再現される人間の可愛らしさ

「Mr, インクレディブル」は、ピクサーで人間を主軸に据えた初めての作品でした(他には「カールじいさんの空飛ぶ家」があります)。

実は、アニメーションで空想上の存在ではない人間を主軸にした話ってけっこう難しいです。観客と全く同じ生き物である以上、リアリティは重要ですし、同時にアニメとしての非俗的な面白さも必須です。

しかも、スーパーパワーなんていうものを持ってしまっている今作のヒーロー達は、なんでもありな存在なわけです。ある程度制御された世界の中で繰り広げられる「トイ・ストーリー」や「モンスターズインク」に比べて、インクレディブルシリーズは作り手にとって手綱を握りづらい暴れ馬です。

そこで「Mr. インクレディブル」と「インクレディブル・ファミリー」に与えられた制限が、ヒーロー活動が法的に禁じられているという独自の舞台設定です。

道徳的な正しさが政治的な正しさの元に抑圧されてしまう世界と力を使えないことに悩む一家をアニメーションで面白おかしく表現したことは、実に新鮮な試みだったと思います。自殺志願者を助けてしまって訴訟を起こされるなどという人間臭く生々しいはずの描写も、ピクサーの手にかかれば、臭みは消えて万人に受けるエンタメへと変容しました。

(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

序盤の一家団欒の食卓では、存続しているヒーロー活動禁止の法律に対してダッシュはフラストレーションを溜め、ボブは社会への不信を露わにし、冷静に見ていたヘレンだけがそんな家族に頭を悩ましていました。バイオレットも不条理なシステムのせいで恋愛がうまくいかなくなってしまうトラブルに直面していました。そんな種々様々なトラブルを抱えている様はアニメ的に表現されると非常に賑わいがあります。現実のドラマでこれをやってしまうとコミカルさが鼻についたり、あるいはシリアスに振り切りすぎて生々しさが全面に出てしまうリスクがあるのですが、今作にはそれがないのです。

ダッシュが算数に頭を抱えたり、バイオレットが恋愛でうまくいかずイライラを表に出したり、ジャックジャックが無邪気な赤ん坊的な可愛さを次々と見せたり、ボブがうまくいかない子育てに若干の狂い気味に壊れたりするあたりも実にコミカルでした。“Happy Plate”で鼻から水を噴射するシーンは、気合の入りようを感じました。まさかCGアニメーションで人体から液体を噴射する描写が見られるとは思いませんでした。

劇場では何度か笑いが漏れるシーンもありましたし、女性の観客がジャックジャックに惚れ惚れとした反応を示していたのも印象的です。

スーパーヒーローを家族という観客にも共感しやすい意匠に落とし込み、ヒーローが活躍できる社会にするために子育てとヒーロー活動の双方に奮闘する姿を派手に映してくれたおかげで、万人に受けるアニメーションになっていたと思います。

 

深く考えると浮上してくる今作の弱点

基本的にはさすがピクサーと言える安定したクオリティに、前作

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続投したブラッド・バード監督が手がけたアクションヒーローものとしての飛び抜けた楽しさに満腹です。

ただ、深く話に入り込むと違和感を覚える部分もありました。それらを列挙していきます。

 

アンダーマイナーどこいった

シンドロームとの因縁にけりをつけ、平和な日常に…と思われた矢先、一家の前にヴィランのアンダーマイナーが登場!というところで前作は幕を引きました。

(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

ただ、この時点では続編の構想などなかったでしょう。

ヴィランとの戦いを以って幕を引くというのは「アメイジング・スパイダーマン2」でもありました。こちらは続編の製作が頓挫し、「その後」は描かれず仕舞いでしたが、「Mr. インクレディブル」は14年の時を経て続きが描かれました。

続編が決まったということと、長年を経てもなお直後から話がスタートするということに感慨深いものがありました

しかし、アンダーマイナーとの戦いは半ばで終わってしまい、ボブたちは騒動の後処理に奔走することになりました。

その後、アンダーマイナーは一切出てきませんでした。実は裏で逮捕されていましたといった描写もとくになく、たった一言二言「逃げた」と台詞で説明された程度でした。

図らずも14年も引っ張ったヴィランだったのだから、そこは決着つけてほしかったと思います。無駄に後半の展開に絡んでくるのではと深読みしてしまいました。

 

ダッシュが脚本上明らかに持て余してる

前作ではスーパーヒーローなのにスーパーパワーを使えない!という問題を象徴する存在だったダッシュ。

(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

あの年頃で足が速いという能力を活かせないイライラは、当時同年代だった自分にも痛いくらいわかる境遇でした。

そんなダッシュが島で敵から逃げるために惜しげなく全力疾走するシーンは、気分爽快に映りました。

抑圧と解放という映画的に鉄板な展開を彼の俊足で実現したのは非常に良かったのですが、今作では特にこれといった役割がありません。

算数が出来きずに困るシーンが中盤ずっと続きましたが、とくに後半に大きな解放に繋がるわけでもなし。

スピードを活かしたアクションにしても、細々とした活用はあれど、大きく目立つ場面がなかったので肩透かしという感じです。終盤は船上が舞台だったので活かすに活かせずという都合はわかるのですが、どうにか活躍の場を与えてほしかったと思います。

 

父が子育て、母が仕事を。その先は?

今作の見どころであるボブの子育てとヘレンの社会での活躍。間違いなく現実の女性の社会進出機運の高まりを受けての描写であり、ジェンダーロールの多様化も盛り込まれているのだと思うのですが、これがラストでもこれといった結論に至らないのが気になりました。

序盤にボブとヘレンが自分と相手の役割において意識の差異を認める様子が描かれていました。

ボブはウィンストンからの依頼を受けて矢面に立つのは無論自分だという姿勢でしたし、ずっと子供達をみてきたヘレンは自分ほど活躍できないだろうと考えていた節があります。ヘレンはヘレンでボブに子供達の面倒を見るのは無理だろうと決めてかかる場面もありました。

直接的に言語化されてはいませんが、一連の彼らのすれ違いには、相手の能力を決めてかかるという一種のバイアスが存在していたことは否定できません。

我々の住む社会でも同様の事象が問題視されていますよね。女性が男性に比べて社会進出に遅れをとっているのは、能力の問題ではありません。社会において支配的な立場にある男性が女性の能力の天井を一方的に規定してしまっているのです。

最近日本で報道された、東京医科大学の入試で女子学生の受験者だけが減点調整を施されたという問題はその端的な例でしょう。

先入観や決めつけは、相手の機会を奪いかねない悲劇的な行いです。ボブは父親としての役割だからという理由でヒーローをやめてからも保険会社に勤めた結果、子育ての大変さも喜びを知る機会を損失し、他方でヘレンも家庭のことを任されて外での活躍機会を失っていたと言えます。

それだけに、互いの境遇をシャッフルするという今作のシチュエーションは、作品内外問わず非常に大きな意味を持つものです。

ただ、今作においてはそうした互いの立場の理解といった成長があまりフィーチャーされることなく、物語は幕を閉じてしまった印象を受けました。

ボブがヘレンに対して軽んじるような言動を取っていたことを本人に対して詫びるだとか、ヘレンもまた常に外で大変な思いをしていたボブに思いやるといった描写があれば良かったかなと思います。

(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 

「ヒーローに全部任せとけ」な話。本当にそれでいいのか?

今作のヴィランだったイヴリンは、過去に祖父母がヒーローを頼った結果命を落としてしまったという悲劇を再発させないために、ヒーローの評判を地に落とし、ヒーロー活動の合法化を妨害しようと試みました。

イブリンが「ヒーローは人を弱くする」と語っていたのは、「守る側」であるヒーローに「守られる側」である一般市民が依存することによって、個人の力が弱まることへの危機感故。ヒーローがいつでも味方をしてくれるとは限らない。だから、自分の身は自分で守るしかない。

つまりヒーローに危険因子の排除を全権委任すべきではないという主張には、自己決定権は個人が持つべきであるという理屈があります。イヴリンの行いがあきらかに違法であったとしても、主張には一応の筋が通っています。

(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

しかしながら、ヘレン達がイヴリンの主義主張を、まったく論理的ではないやり方で撥ね退けてしまうことが今作においては非常に問題だと感じました。

ヘレンたちは人助けがしたいがために、ヒーロー活動の合法化を推進する立場をとっていました。たしかに現実に生命の危険にさらされる人たちがいて、彼らを見過ごすことはできない。それは実に真っ当で人間的な考え方です。だから自警を合法化すべきであるという意見も理解できます。

ただ、彼らの考え方ってあまりに理想主義的で、向こう見ずなものなのです。ヒーローが人の命を守るために力を行使することを認めてほしいというのは、あくまで「ヒーローが善良な人間である」という前提ありきの発想であり、「もしそうでなかったら」というリスクをまるで考慮していません。

ボブたちパー一家は善良なのかもしれないけど、もしスーパーパワーを悪用する人間が出てきたらどうするのといった視点が作品には存在しないのです。

今作はこのように性善説的な考え方が下地に敷かれており、性悪説的な危機感といったものは一切触れられることなく幕を閉じてしまいました。

イヴリンはヒーロー達の悪行をねつ造してメディアによる印象操作によって世論をヒーロー廃止に傾けようとした一方、ウィンストン達がメディアを利用してヒーローを善き者として演出することは問題がないかのような描き方も、けっこう危なっかしいです。

イヴリンとヒーローの間にある善悪の境を明確にしないまま、ヒーローとして悪者退治してしまった点は今作の大きな欠点だと思いました。

 

まとめ

振り返ってみると不満点も多々挙がったものの、視覚的な娯楽性が尋常じゃなく高いため、観た後の満足度はとてつもなく高いことは断言できます。

14年ぶりに制作された人気作の続編として、遜色のない出来合いでした。

不満点の最後に挙げた「ヒーローが正しいのだからすべて任せてしまえ」という考え方には危なっかしさを感じずにはいられませんが、万人受けのエンタメとして気軽に観られるように作られたであろう今作に、反感を持つのも野暮な部分はあるかなと思います。

しかし、14年で技術も語り方も大きく変わったことに驚きましたし、何より楽しませてもらいましたので、さらなる次回作も期待しています。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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