アイキャッチ画像: (C)2018 Production I.G/東宝
こんにちは、人混みを避けて歩くのが下手なワタリ(@wataridley)です。
今回は2000年に発表された人気オリジナル・ビデオ・アニメーション『フリクリ』の続編、『フリクリ オルタナ』をレビュー。(以下オリジナルを『フリクリ』、『フリクリ オルタナ』を『オルタナ』と表記)
『ペンギン・ハイウェイ』を鑑賞した際、TOHOアニメーション繋がりで上映前に流れた今作の予告編を初めて目にしました。ハイテンションで独特な台詞回し、アクの強そうなキャラクター、そしてthe pillowsの楽曲に興味惹かれたため、今作の鑑賞を決意。事前予習にオリジナルの『フリクリ』をAmazonプライムビデオで一気見しました。
つまり、自分はかねてより『フリクリ』を愛好してきた熱心なファンというわけではなく、完全なる新規層です。
『フリクリ』は内容を一言で説明するのが実に難しいお話だと思います。キャラクター、アニメーション、演出、音楽など数多くの要素が重なり合った上で成り立っている作品でした。
それを何度も何度も見てきた人にくらべると、自分はまだ深層に迫ることはできていないような気がしています。しかし、かえって『オルタナ』を見るに当たって、確固としたフリクリ像を持たないことは、有利に働くこともあるんじゃないかと思っていました。
ただ、今作を実際に見た上での感想は、新規層の自分でさえ厳しくならざるを得ないところがあります。
『オルタナ』の後に公開された『プログレ』と比較すると、作画や音楽といった表面で大きく見劣りしてしまうと感じました。
以降、ネタバレになりますので、未見の方はご注意くださいませ。
55/100
目次
フリクリをフリクリたらしめる要素の欠落
鑑賞直前にOVAを全話視聴した新参者の自分にさえ、これはフリクリなのかと困惑する場面が多かったです。
『オルタナ』の名の通り、従来に代わる新しいフリクリを構築しようとした作品なのかもしれません。
しかし、今作は『フリクリ』の重要な要素があまりに零れ落ち過ぎていて、もはやタイトルにフリクリを付ける必然性さえ危ぶまれるほどです。
ひとつひとつ、フリクリの新参者なりに振り返っていきます。少し辛口になりますが、ご容赦をくださいませ。
ハル子がハル子じゃない
『フリクリ』におけるハル子というと、アトムスクを手に入れるためなら、ナオ太の心情を弄することすら厭わない危ぶなっかしい存在。かと思えば、「バットを振らない」ナオ太に対して勇気付けるような忠告を送ったりもする。
初っ端の登場シーンからして、予測不可能で掴み所のないキャラクターであることが印象付けられる。ナオ太を躊躇なくベスパで撥ね、その次に取るアクションが人工呼吸、もとい大胆キッス。
新谷真弓の独特なボイスと合わさって、他に類を見ないキャラクターです。
それが『オルタナ』では新谷真弓の声を除いて、まるまる一変してしまいました。
今作のハル子の登場シーンはというと、カナの働く蕎麦屋に一客として入店し、思わせぶりな台詞を言うだけ。『フリクリ』に比べると、インパクトがあまりに薄い。その後もガラスを突き破って登場という洋画で何遍も見たようなアクションや、自己紹介をぺらぺらと説明口調で済ませてしまう工夫のない行動を取り、お決まり的にMMのロボを倒して第1話は終わります。
以後も蕎麦屋で告げた「17歳は待ってくれないよ」といった卑近な年長者のアドバイスを毎回繰り返すだけです。ナオ太にしたように、困らせたり、葛藤を抱えさせたりするような危うさはここにはなく、ハル子は最後の最後まで頼もしいお姉さんでしかありません。
2話において大人びたカナの親友ヒジリーと大学生の彼氏を引き裂いたり、3話でモッさんが出品したファッションコンテストを荒らしたりと、確かに非常識的な言動をとりはするのですが、結局のところそれはヒジリーとモッさんにとって益となります。ヒジリーは彼氏の浅ましさに気づいて友情の温もりを再認識し、モッさんは自分の努力にスポットライトを当ててもらった。これらは「破茶滅茶な性格のキャラがとった行動が思いもがけない幸福をもたらす」系の非常に既視感満載の展開です。それをハル子というキャラクターでやる意味はあったのでしょうか?
さらに言うと、ハル子とカナ達の間にある関係性というものも非常に脆弱です。各々の物語が有機的に結びついていないのも、ハル子の薄弱なキャラクター性に拍車をかけています。
彼女がすることといえば、その「主役回」を担当するキャラクターに即席で関与するだけです。フラタニティの捜査官という説明を耳にはしていたものの、カナ達にとってみれば、ハル子はそれこそ「ケバブ屋のお姉さん」止まりでしょう。
ナオ太の家に同居することで物理的に接近し、彼の心理に波風を立たせるようなハル子の姿はここにない。あるのは、顔見知り程度の女子高生達に親切を働く都合のいいお姉さんです。
今作ではハル子自身が物語を欠いた存在であるがゆえに、カナ達に貢献する卑属性をあてがわれてしまいました。今作の彼女が何のためにメディカルメカニカ(以下MM)に抗し、地球を救おうとするのか。その理由は最後まで暗示すらされません。アトムスクのためなら地球が滅んでも知ったこっちゃないハル子の基盤がごっそり抜け落ちているとしか言いようがないのです。
鎖を着けていないあたりからも、アトムスクに対する執着心は伺えず、ただ悩みやトラブルを持つカナ達を快方に向かわせる頼れる年上的な役割が強すぎるのです。
ピンク髪、新谷真弓のボイス、ベースギター、コスプレetcといったハル子を構成する要素が、自分の目には虚しく映ってたまりませんでした。
(C)2018 Production I.G/東宝
上辺だけで済んでしまう描写や台詞
フリクリの魅力のひとつに、キャラクターが抱える暗澹とした心情というものは外せないと思います。
登場人物があっけらかんと自身の心情をさらけ出すのではなく、言葉の裏や些細なアイテムで滲ませる。それを拾い集めていくと、物語のより内側や深い部分にまで達することのできる多層的な構造が、OVAという形式にもかかわらず、多くの支持を集めたのではないでしょうか。
例えば、マミ美の「タッくん」という呼び名ひとつとっても多義的ですよね。彼女自身はハル子に対して、「ナオ太の『太』」から来ているのだと説明してはいましたが、これは「タスクの『タ』」であると取ることもできます。そうすると、ナオ太の立たされている代替的部品でしかない境遇が読み取れたりするわけです。最終回においてマミ美が別れ際にナオ太のことを「ナオ太くん」と呼んだのは、彼女の変化からくるものでしょう。
『オルタナ』には、こうした些細な描写が登場人物の胸の奥を探らせるといった体験がほとんどありませんでした。主人公の女子高生グループは、自分の喜怒哀楽をあまりに言葉に出しすぎるし、それが他の意味を持つといったこともないようでした。
序盤には懇切丁寧にカナ達がふつうの女子高生であることを、割れたスマホや履き慣れたローファーといったアイテムで伝えてくれてはいました。昼食では、モッさんは大量のパンを床に置く一方で、ヒジリーはカロリーメイトのみといった細かな描写から日常の動態を読み取ることができました。しかし、これらの描写はあくまで、彼女らのありがちな日常を映すばかりで、物語が起きる中での変化といったものに結びついてはきません。事件を通じて得た変化はだいたいが台詞で済ませれていた印象ですし、「主役回」で成長したはずのモッさんやヒジリーは、その後のエピソードでそれを活用する機会もありませんでした。
一応、途中途中にペッツが友達と物を交換しているという描写は、クライマックスのあるシーンへの伏線になっていました。ただ、これにしても単なる友情表現止まりでしかなく、ペッツ自身の心情を窺わせる描写と認めるには、あっさりしすぎています。モッさんやヒジリーとアイテムを交換するカットは、物語の本筋とはあまり関係ない部分で挿し入れられていたために、ドラマを感じろと言われても厳しいです。
しかも、後半に実はペッツが友情と相反する嫌悪感を抱えていたと露呈するまでの布石が、ほとんどその物々交換にしか感じられないのも、物語を希薄化させてしまっています。ロケットが打ち上がる風景や女性首相が何やら企んでいる様子、新聞の報道から、ペッツが火星に行く展開自体は自然ではあるのですが、そこで彼女に生じる葛藤に至るまでの経緯がすっぽ抜けてしまっているんですよね。彼女がグループの中で唯一の富裕層であったこと、母親との確執があったこと、カナを嫌悪していたことが、情報として初めて伝えられたのは5話。故に、カナが5話と6話で抱える悩みは、『オルタナ』全6話を通して積み上げたドラマがなく、たったの2話分、時間にして3、40分程度の即興的なお話に留まっています。
挙句の果てには、カナは『オルタナ』全体を通じてさも成長したかのように、彼女の胸の内を安直な「叫び」で結果発表してしまう。一体どういう気持ちでこのシーンを見ればよかったのか、未だにわかりません。このシーンでカナを後押しするハル子にしても、カナにきちんと寄り添ってきたのかと思ってしまいます。いや、そもそも人の成長を見守り、その成長を世界を救うことと理由もなく結びつけるハル子自体にも違和感があるのですが、このシーンそのものが雑にカナを擁立するための匂いに満ちていたため、それすら些細な問題と化していました。
あと、これはそもそもの話なのですが、自分はカナがN.Oを発現する理屈が最後までわかりませんでした。彼女はふつうの高校生で、ふつうの日常を謳歌していただけ。ナオ太のような抑え付けられた欲望や性欲といったものは感じられません。そんな抑圧からの解放のメタファーとして用いられていたN.Oという事象だったのではないでしょうか。それなのに、カナからは大した悩みを感じられないままに額がふくらみ、都合よくガジェットを召喚し、ハル子に解決してもらう。フリクリのお約束だからN.Oを使っただけ、と言われても仕方ない気がします。
(C)2018 Production I.G/東宝
ピロウズの曲、そんな使い方しちゃう?
フリクリと言えばthe pillows、the pillowsと言えばフリクリ。そんな切っても切り離せないタイアップは、今作でも健在。
しかし、用途があまりに稚拙でした。これを書いている時点で、印象的な曲の使い方やシーンに対するシンクロを思い出すことが難しいというレベルです。
唯一自分がノることができたのは、2話のクライマックス。カナが頭から出したケバブカーでトランスフォーマー的なロボとカーアクションを繰り広げる際にかかる「Freebee Honey」でした。ハル子に強引に引き連れられたカナがカーチェイスをする派手さだとか、車の運転に慣れて楽しげになっていく様子だとかが、勢いに任せて描かれているので、「最上級」といった歌詞のワードやテンションの高いメロディがマッチしていました。純粋に曲そのものの魅力もありました。
それ以外は、本当に記憶に残らないか、「どうしてそんな使い方をするのか」というような使い方しかされていません。
あげだしたらキリがないので、ここでは一例だけに留めておきますが、『オルタナ』で最も『フリクリ』とのセンスの差を感じた曲は「I think I can」でした。
6話の冒頭になんのタメもなく、いきなり使われていました。観る側としては、いきなり起こっている戦闘の経緯や目的がわからないまま流れ出すため、シチュエーションに乗っかれないところから始まります。それなのに曲が流れ出すものだから、当然BGMにも乗ることはできません。ついでに、上述したように、ハル子がなんでMMのアイロンを壊そうとしているのかの理由もわからないので実に釈然としない場面です。
『フリクリ』では、それまで積み重ねてきたものが一気に爆発するような場面で、ナオ太がハル子にとっての悲願=アトムスクを取り込んだ「覚醒」にて、イントロのギターが鳴り始め、高揚感が極限に高まる入り方をしていました。ナオ太VSハル子の最中もBGMの音色や歌詞が異様なまでにカタルシスを引き立て、最後にはアトムスクが空へと消えていくのに合わせてBGMは鳴りやむ、という連帯感がたまらなくクールでした。
オリジナル版でそんなインパクトを残した曲を、『オルタナ』はいくらなんでも適当に使いすぎです。「I think I can」以外も、台詞に合わせてイントロを流すといった工夫やメリハリもないままに「垂れ流されている」と形容するのが適当な用途ばかりだった気がします。
モッさんが適当な歌を歌っている時に、BGMにボーカル曲を流すセンスも悪い意味でインパクトはありました。
忙しなく多様な演出の嵐はどこへ
「フリクリっぽさ」をビジュアル面で語る時、絶対に欠かせないのがほぼ毎シーンに披露される妙な演出です。
『フリクリ』第1話では、ナオ太を撥ねたハル子による人工呼吸、もといキッスがぐるんぐるんのカメラワークで表現されていたり、ハル子が家にやってきたときには漫画のコマと化し話が進んでいくという自由奔放すぎる演出が発揮されていました。緊急時の人工呼吸や部外者が自身の生活空間にやってくるといったシチュエーション自体は、ほかのアニメ作品でいくらでも観たことのあるもののはずなのですが、『フリクリ』は演出がそれを非凡なものへと押し上げています。
今までの流れから察せられますが、『オルタナ』ではやはりそうした演出がほとんど消え去り、残ったのは「信じがたい光景を目にした時の変顔」や「乙女心を抱いた時の少女漫画風の顔」といったほかのアニメ作品でいくらでも観たことのある演出でした。
そうした平凡な表現でさえ発揮される回数はさほど多くなく、『オルタナ』は上映時間の大半が「女子高生の青春もの」としての見た目なのです。既視感の塊である風景が、創意性のない演出を合間合間に挟んで流れ続ける。そんな作品、果たしてフリクリと言えるのでしょうか。
(C)2018 Production I.G/東宝
薄れてしまったロボもの、アクションものとしての爽快感
『オルタナ』は『プログレ』ともども海外で先んじて放送されていた6話を、日本で劇場版として公開しているという経緯があります。
だからこそ、余計に映像への期待は高まってしまうものです。
大きなスクリーンで見るほどのスペクタクルがこの映画にはあったかと問われると、『オルタナ』にはないと断言できてしまいます。
『フリクリ』を構成する要素として、カンチをはじめとしたメカ・ロボットはひとつにあるでしょうし、面白いギミックを活用しつつ勢い溢れるアクションをスピーディにやってのけるアニメーションも伴ってあることだろうと思います。
今作は残念ながらそのどちらをも感じることができませんでした。
上述した「Freebee Honey」がかかる第2話も言ってしまえば単なるカーチェイスでしたし、MMのロボもまんまトランスフォーマーです。曲とシーンはそこそこ楽しめたものの、目新しさは皆無でした。
3話のモッさん回ではもはやMM製ロボが敵として出てこず、4話の佐々木回では面白みのないバスケ対決の末にあっさり破壊されてしまう具合。続く5話では、巨大なロボットがようやく登場したと思いきや、その処理はカナが生み出した穴に飲み込まれるというアクションをまるで伴わないものでした。6話に至っては、カナの叫びの引き立て役として大量の人型ロボがモブ然と襲ってくるだけ。
カナ自身が戦闘要員ではないために、戦闘シーンの幅を狭めてしまっているんですよね。ナオ太はカンチと合体することによって、敵を大破するシーンが描けていました。ナオ太自身が砲弾になるという笑ってしまうようなギミックも披露されていますし、カンチが展開変形する様も見惚れます。
カナの場合、便利な道具を額から出すだけなので、どうしてもバトルという役割はハル子のみに託されてしまい、その戦闘描写もおざなりなので、ロボもの・アクションものとしての魅力がなく、「フリクリっぽいかどうか」以前に劇場アニメたる水準に達していないと思いました。
(C)2018 Production I.G/東宝
大衆化した空気感
「フリクリっぽさ」とはこれまで述べてきたような要素のほかにも、もっと色々あります。
ヒヤヒヤするような性表現もそのひとつでしょう。いきなり第1話で「栗とリス」という単語が飛び出したり、ハル子とカンタの情事を思わせる描写が、それです。ナオ太が二次性徴を迎えようとしている年頃であることと相まって、危なっかしい性的描写は視聴者にも背徳的に感じられます。自分は、作品に流れている、決してキレイゴトで済ませられないような毒気を支えてもいるのかなと思いました。
『オルタナ』では青春を謳歌しているような女子高生を主軸に据えている関係上、案の定そうした暗部はそれほど描かれませんでした。
もうひとつ『フリクリ』に思ったのは、松尾スズキや大倉孝二をはじめとした俳優の起用が、作品の独特な空気に一役買っていたということです。
カンタは助平な性分を隠さず見せる一方で、市長批判をするような部分もあったりして、単なるギャグキャラと切り捨てるには引っかかる人間味が、ごく一部にですが、あります。ナオ太との珍妙な掛け合いにも、軽妙なテンポを感じました。
アマラオは最初はちょっとクールな装いで登場するけれど、どんどんダメな部分が表出していく、とても人間臭いキャラクターです。これを俳優の大倉孝二が個性的に演じたことによって、ダメさの中に親愛を覚えてしまいます。
また、ナオ太の同級生のガクとマサシは棒読みっぽい声が、ナオ太と対比的な子どもっぽさとして耳に残ります。
ハル子を演じた新谷真弓の声も、もちろん大きく貢献しています。
こうした個性的な声の演技といったものが『フリクリ』に独自の雰囲気を纏わせている要因なのだと自分は考えています。
その点、『オルタナ』は、基本的にアニメ慣れしている声優を起用しているためなのか、独特な空気感が薄まったように感じました。
カナを演じる美山加恋は非常にかわいらしい声ですし、モッさんの田村睦心の肝の据わった頼もしい声は、聞き心地がとてもよいです。ただ、ほかのアニメでもどこかで聞いたことのあるような声の綺麗さなんですよね。マミ美のダウナー気味な台詞に比べると、ありふれた女子高生キャラのイメージと重なってしまうのです。
そもそも脚本上、彼女らに個性が付与されていないせいでもありますが、『オルタナ』にはもう少し敢えて違和感を与えるようなキャスティングや、普段アニメで聞かないような俳優の起用をしてみても良かったのかもしれません。
まとめ: 『フリクリ オルタナ』を通じて『フリクリ』を再定義した。
『オルタナ』の名にある通り、今作はそもそも新機軸のフリクリを目指した作品だったのだと推察できます。
ただ、それにしても軸がブレすぎてフリクリの名を冠するに相応しいとは言い難い作品だと思ってしまいました。
ピロウズの曲が雑に使われていたり、目を見張るような演出が不足していたりするあたりは、『フリクリ』ファンにとって大きな不満でしょう。
特にハル子に関しては、デリケートな領域に自ら突っ込んだように映りました。極端な話、今作にハル子というフリクリの象徴たるキャラクターは出さずに、「世話好きの姉貴分の新キャラ」をフラタニティの一捜査官として出せば良かったのではと思わずにいられません。
新規参入者の自分にさえ、これは『フリクリ』とあまりに違いすぎると思ってしまいました。
女子高生を主役に据えた青春ものとして楽しもうにも、ありとあらゆる要素が既視感にあふれていて、集中力が持てません。
色々不満点を挙げてきましたが、今作はどうしようもない作品だとは思いません。
表面的な描写ばかりだ、と上でも述べましたが、それでも表面部分はきちんと描かれてはいます。女子高生らしさを演出するアイテムや、表情豊かなカナ達のキャラクターには一定の魅力が感じられました。どう考えても本筋とは関係ない駄弁り描写も面白いと思う部分はありました。
また、「フリクリとは、何か」について、非常に考えさせられる機会にもなりました。今作の存在はまるで無意味というわけではなく、各々のフリクリ像を再認識する点において、たしかに意味はあるのではないでしょうか。
冒頭も触れましたが、自分は『オルタナ』『プログレ』では、『プログレ』のほうが好みでした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。