アイキャッチ画像: (C)2018 Production I.G/東宝
こんにちは、最近は専らthe pillowsのSpiky Seedsに病みつきのワタリ(@wataridley)です。
今回は2000年に発表された人気オリジナル・ビデオ・アニメーション『フリクリ』の続編、『フリクリ プログレ』をレビュー。(以下オリジナルを『フリクリ』、今作を『プログレ』と表記)
6話分のアニメをひとまとめにして劇場版として公開するのは、先に公開された『フリクリ オルタナ』(以下『オルタナ』と表記)と同様です。
前回のレビューでは『オルタナ』にはフリクリに求める要素が数多く欠けていることを指摘し、辛辣な感想となってしまいました。
『プログレ』に対して抱いていた期待値が幾分低くはなったものの、『オルタナ』の最後に流れた予告編のSpiky Seedsには相変わらず心掴まれましたし、ハル子から分裂したというラハルとジンユがどのような関係を築くのかについても興味津々でした。
さて、今作を観た後の感想は、ひとまずフリクリらしい作風であったことに安堵しました。不安からの解放ばかりではなく、作画や音楽といった表層的なパーツもきちんと劇場に相応しいもので、満足感を持って劇場や後に出来ました。
一方で、やはり『フリクリ』とは何かひとつでも欠けたら大きく印象が変わってしまうほどに緻密な作りだったのだと思わされる場面もありました。
フリクリらしい作品であること、劇場で観るに値する質であること、そしてそれでも尚オリジナル版に比べると引っかかる部分について、レビューしていきます。
ネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。
65/100
フリクリ的要素の回帰
『オルタナ』はお世辞にも「これぞフリクリ」とは口が裂けても言うことのできない作風・物語となっていました。それに比べて『プログレ』は『フリクリ』の基本を一通り抑えていました。OVAシリーズだった『フリクリ』がスクリーンに映っているのを見ていると、それだけでも満足感があります。
キャラクター
『フリクリ』に倣った部分で最初に目につくのがキャラクターの造形ですね。
前回の『オルタナ』では青春真っ只中の女子高生を物語の軸に据えた結果陰りを感じさせないキャラクターばかりでしたが、『プログレ』は無口で無表情で無感動なヒドミを中心に、愛するがゆえに相手と距離を取ろうとするジンユ、敷かれたレールから飛び出すためにレンタル彼女に勤しむアイコといった複雑な境遇にいるキャラクターがいくらか出てきました。
このあたりからは『フリクリ』のナオ太やマミ美らのような叶えたいけど叶えられない抑圧された心理が、『プログレ』でも再現されていると感じました。
そして何よりも、ハル子から分裂した2体のうち色濃く彼女の性質を引き継いだラハルのお陰で、『フリクリ』のハル子を再びスクリーンで体感できました。自分の目的のためなら周囲を利用することも厭わず、引っ掻き回す様は、見ていてサディスティックな気持ちよさがあります。それに、各々のドラマを浮き彫りにするためには、彼女のような利己心に正直なキャラクターが不可欠だと思います。
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ストーリー
『プログレ(Progressive=進歩的な)』という名前の通り、作中の時系列では『フリクリ』の後であることが明らかになっています。
ジンユが口にした「一度は願いが叶った」という台詞は『フリクリ』でアトムスクと逢瀬を果たしたことを示しています。カンチやアマラオの息子マスラオの登場は、今作をポスト『フリクリ』作品であるように位置づけています。1話のエンディング映像でも『フリクリ』のキャラクターが描かれ、ハル子から分裂して生まれたラハルがそれらをバックにベスパを乗り進め、背景がヒドミ達へと移り変わっていく過程が示すように、『プログレ』は紛れもなく続編です。
また、話の構成も1話につき1人のキャラクターをフォーカスしていた『オルタナ』と異なり、『プログレ』は心を閉ざしたヒドミと彼女を気にかける井出という2人をベースに、アトムスクを追い求めるラハルとそれを阻ばもうとするジンユのドラマが6話全体をリードする構成をとっていました。ラハルの行動がヒドミと井出の各々の日常を一変させていく過程を含めて、『フリクリ』のナオ太とマミ美とハル子のモデル替えのようです。
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演出
ジンユがヒドミを車でひいた時の白抜きの映像は、そのまんまハル子がナオ太にしていた光景を思い出しました。
5話の漫画のコマを模した映像も、『フリクリ』でも強烈なインパクトを残した1話と6話で用いられていましたね。こちらはやや少女漫画風の色合いが強いルックで、湿っぽい回想に合った演出として機能していました。
こうした元祖に似た演出を用いるのと同時に、5話全体の作画がそれまでと大きく変化するといった大胆な緩急のつけ方もありました。こうした作画の変化は、監督が回ごとに異なるが故だそうですが、極端な変わり様もフリクリ的演出と受け取れました。
真っ黒なゴム人形と化した井出が空に浮かび上がっていく不思議な不安を感じる画や、ロボットにキスを迫る2人の女性といった荒唐無稽なシチュエーションもあり、『オルタナ』が中庸な映像表現に終始していたのに比べると、はるかに新鮮味を感じる映画になっていたと思います。
旧作をリスペクトしつつ、今作独自の表現も追求していたため、視覚面ではそれなりに満足しました。(但し2話を除く)
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作画
演出の項で触れたように、作画面では5話は見ごたえがありましたし、全体的な満足度も『オルタナ』よりずっと高いです。BDを購入したり、作画監督の名前をチェックするといった習慣はないため、アニメの作画に対する自分の目線は一般層のそれに近いと思います。自分から見た感じでは、劇場のスケールにふさわしいシーン、また劇場で流れたからこそ迫力を増幅させたと思しきシーンは主に1話と5話にありました。
5話については太めの力強い線が、4話から引き継がれた緊張感を煽り立てる演出になっていました。キャラクターの表情も心持ちをストレートに表していて、見応えがありました。とくに、不敵な笑みを浮かべるラハルと義憤に駆られた井出がプールで果たし合いをする場面は熱かったです。演出的にも有効だったという話は先に述べた通りです。
1話はヒドミが見る荒廃した世界の夢から始まるわけですが、ここでの退廃的な空気、黒い空に白い地平という不気味なコントラストが目を引きます。肉体がボロボロと崩れていく様子は、デフォルメされていながらもグロテスクな映像です。
ここの機械化はPVでもインパクトを与える描写でした。実際、勢いがあり、硬質的な物体が次々と蠢いていく様子はついつい見入ってしまう滑らかさでした。額から伸びていく突起がやがて傘となり、傘が身体を包み、トランスフォームする画は単なる格好いいに留まらない、不気味な印象もあって、奥深い変身シーンでした。ロボット自体の造形も格好良かったです。
冒頭に夢オチを持ってくるありきたりな手法を、アニメーションの力と風景の特異さで誤魔化し切るというあたりは、『フリクリ』にも通じる点だと思いました。
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ピロウズの楽曲
『オルタナ』のクライマックスに用いられていたThank you, my twilightが、『プログレ』では対照的に幕明けから使われていたのは意外でした。イントロで流れる電子音はヒドミの夢の寂寥感を、その後に続くバラードが力に目覚めゆく高揚感を引き立てており、冒頭での取っ掛かりとして機能していました。サビに合わせて上がっていく調子に合わせて、目の前に広がる巨大な瞳、ヒドミのロボット化、襲い来る巨大アイロン、そのうちの一機を阻止するアクションといった見せ場がひっきりなしに連続していました。
このシーン以外では、『フリクリ』ほどのインパクトを残したとは言い難いものの、「静から動」へのシーンの転換を示す合図にFreebee Honeyを流し始めるといった企みが感じられたのは、『オルタナ』と大幅に差をつけている点でした。
I think I canやLAST DINOSAURも終盤の見せ場に用いることで手堅い効果を発揮していました。ただ、これらは終盤にそれぞれ2度用いられていたため、くどいと感じる方も出てきてしまうでしょう。個人的には気にはなりませんでしたが、2度の使用の間に対比や類似といった関係性も見えません。このあたりからは、全6話のうち楽曲の配分やレパートリーの検討不足が見て取れます。
とはいえ、ひとまずBGMとして違和感なく用いられていましたし、劇場の設備から響いてくるピロウズの曲に浸れるだけの効果は発揮されていたと思います。
FLCLの中心で愛を叫ぶ
以上に挙げてきた諸要素から、作り手は紛れもなく『フリクリ』の続きを描こうとしているのだという意図が伝わってきました。それをテレビではなく映画館で見ることができたのは、純粋に迫力の面で得をしたと感じました。
ただ、フリクリっぽさに熱を上げる一方で、『プログレ』は核となるドラマについてはひどく単純だと言わざるを得ません。単刀直入に言うと、物語における「愛」の比重があまりに大きく、それが『フリクリ』に存在した多面・多層の性質を薄めてしまっているのです。
筆者はハル子がハル子じゃないと『オルタナ』の記事で書きました。ただ、あの作品はもうひとつのフリクリを作ろうとしたのだと解すれば、オリジナルと全く異なるキャラクターや要素の使い方もある程度は許容できてしまえます。なぜなら、どれだけ『オルタナ』のハル子が面倒見のいいお姉さんであっても、『フリクリ』のハル子は依然としてそこにあるのですから。
他方、『プログレ』は「もうひとつのフリクリ」といった言い訳は通用しないくらい、『フリクリ』の正式な続編として作られています。
『オルタナ』が『フリクリ』のあくまでコピー分を改変した作品だとすると、『プログレ』は『フリクリ』の内容に追記をして上書き保存したものなのです。
そこで繰り広げられるドラマは、一言にボーイミーツガールと説明できてしまうものでした。『プログレ』に否定的な見方の多くは、根っこにこの問題を持つのだと考えています。
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ナオ太とマミ美の日常にある日突然ぶつかってきて、同居しだす非日常のハル子という構図が『フリクリ』では1話から6話まで貫かれていました。そして、そこに広がる派手な演出とピロウズの楽曲で見栄え良くカムフラージュされた雑多な要素群は一見では理解しずらいほどに複雑です。単に「ナオ太の成長劇である」と表そうにも、他の登場人物の独立したドラマの存在がそれを阻みますし、最後に発されたナオ太の独白を聞くと、成長の一語にあてはめるのも正答とは思えません。
どういう話なのかと聞かれた際に、人それぞれに答えようのある空白の大きさこそが『フリクリ』なのだといえるかもしれません。
対照的に、『プログレ』はわかりやすいほどにヒドミと井出の関係性の変化がストーリーに直接的な影響を与えています。
序盤では周囲の男子から漏れ出す正直な欲望をヘッドホンでシャットアウトするかのようにふるまっていた彼女が、最終的にヘッドホンを外し、井出との恋が成就することによって幕が閉じられる。明快なラブストーリーは、明快な問いを出し、そして回りくどい変化球を生むことなく、答えを導き出してしまいます。
ストーリーはたしかに6話を通じて複数の要素が提示され、交錯する形式をとってはいますが、本筋の提示はあからさまです。第1話ではヒドミの日常、第2話では井出の人柄、第3話では双方の接近という具合に、ヒドミと井出の物語が大きな扱いを受けています。
その犠牲を被って描写不足に陥ってしまったのが、アイコやマルコといったサブキャラクターです。アイコに関しては3話の時点で登場していたにも関わらず、続く4話と5話では殆ど素性を明らかにせず、唐突に6話で自身の抱えていた自由への渇望とマスラオとの疑似的な親子愛を見せてしまう。『フリクリ』のニナモリを思わせるN.Oの伝播により、ジンユVSラハルの戦いにギミックを提供したマルコにしても、抱えた恋心はいつの間にやら流され、フェードアウト。
「家では過酷な労働をしているのに学校では平然としている」と過多な説明台詞で人物像をアピールされた井出に比べると、扱いには歴然とした差があるとしかいいようがありません。この台詞があった2話で井出が外国人に虐められるという振り返ってみるとなんの意味もない嗜虐的ギャグに執拗な時間をかける割に、井出とヒドミ以外の登場人物は薄味なのです。
(C)2018 Production I.G/東宝
ハル子から分裂し、理性的な性格を持つジンユと本能に忠実なラハルが対立するといったプロットも、結局はヒドミと井出のドラマに引っ張られる形で愛について語ってしまうのがとても惜しいです。同一人物でありながら相反する思想を持つ2人を通じて、人に眠るアンビバレントな思考や感情を語ったり、純粋にハル子が2人分という特異なシチュエーションで緊張感と娯楽性をもたらすといったこともできたはず。
しかし、彼女たちは『フリクリ』のハル子が敢えてぼかしていたアトムスクへの悲願というものを、恋愛感情として捉えて、対立してしまう。恋慕を思わす描写がある一方で、「その力はあたしンだ!」と叫び、ナオ太に襲い掛かるような強欲を発露していた『フリクリ』からは、アトムスクへの感情が限定的になったと言えます。ヒドミの言う通り、ラハルは「変な鳥に恋する乙女」なのです。
アトムスクを巡るラブストーリーをラハル達が派手な痴話喧嘩のように繰り広げるというプロット自体には、自分は肯定的な立場でした。問題なのは、アトムスクが愛の対象としてはひどく抽象的で謎に覆われた存在であるが故に、ラハルとジンユの敵対関係に説得力を感じられない点です。
「愛しているから自由にしておきたい」というジンユと「愛しているから手に入れたい」というラハルたちには、興味深い対立構造を見出すことはできても、その愛の根源に共感や実感を観客が覚えられる機会が作中にはありません。強大な存在感を示しつつも大いなる謎のまま去っていった『フリクリ』のアトムスクを、『プログレ』でははっきりとした実体のあるかのような口ぶりで語るものの、アトムスクというキャラクターは肝心の部分で雲隠れしてしまいます。尚且つ『フリクリ』最大の謎であるからこそ成り立っていたキャラクターのはずが、『プログレ』ではラハルとジンユを対立させる理由として堂々と語られる様には、違和感を隠せません。
そんな中で戦いを繰り広げるものだから、物語から疎まれたような気分にもなってしまいます。特にこうした問題が浮き彫りになったのが、ヒドミのヘッドホンを治すために共にアイロンへ赴いたシーンです。彼女たちの争いの種が、観客に共有しきれていないために、激しい口論を繰り広げても観ているこっちとしては引き気味に眺めているほかありません。更に言うと、共同戦線を張ったはずの彼女たちが、ジンユのノープランによっていとも簡単に険悪になり、その戦いの末にラハルがジンユを食ってしまうという流れは、不自然なくらい唐突でした。
そうして理性的役割だったジンユが消えてから、ラハルはアトムスクとの再会に向けて邁進していく。その中で井出とヒドミを引き裂き、ヒドミの中に燻っていた井出への想いを噴出させる。
N.Oで自らを御していた箍を外した彼女がラハルと戦うシーン自体は、熱かったです。ただ、この戦闘の背景にある動機が非常に単純で、よくあるバトルものに留まってしまっているんですよね。井出への淡い恋愛感情が裏切られたことのほかにも、父親を待つための場所だった喫茶店を閉じようとした母親との衝突もありましたが、最終決戦前の会話でいとも簡単に解決してしまいます。
せっかくマスラオやアイコ、森が裏で動き回っていても、直接的には彼女たちの物語には噛んでこないもどかしさもありました。
カンチやリッケンバッカー登場といったイベントに胸が熱くなる一方で、ラハルとの因縁が一旦鎮火してしまったり、最終決戦のシチュエーションがその前の戦闘と被っていたりするあたりも、若干乗り切れなかったです。
人型となったアトムスクに拒まれたラハル、そして井出を見事に助け出したヒドミという対比は、ひどくラハル(ハル子)のキャラクターを矮小化させてしまっており、恐らく『プログレ』に対する否定的な意見というものもここに集中すると思われます。ボーイミーツガール、ガールミーツボーイのお話としては、自身の欲望を満たすために相手を手に入れようとするラハルが痛手を負い、ヒドミ達が結ばれるというのは至極まっとうな結末ではあります。
しかしながら、こうした白黒でケリをつけるラブストーリーは『フリクリ』で我々がみた苦味のあるラストに比べてしまうと、単純に映るかもしれません。
『プログレ』はヒドミと井出のストーリーが極めて高い強度を持ちながら中心に居座っており、ラハルとジンユはそれを支えるために配置されていることが、とてもはっきりとわかります。折角懐かしい匂いのするアマラオの息子マスラオやアイコの話は、外縁部分にぽつんと置かれてしまっているだけの構図は本当に惜しいです。
このように、『プログレ』はラハルとアトムスクを恋愛関係上のルパンと銭形と定義し、ヒドミと井出という主役キャラに意図せず献身するという見やすいボーイミーツガールものとなっています。
『フリクリ』が一口では味わいきれない独特な風味のコーヒーとすると、『プログレ』はちょっと風変わりな味をしているものの飲みやすいドクターペッパーのようになっており、そこが賛否分かれる点だろうと思いました。
まとめ: FLCLの続編にあーだこーだ言うこともまた愛
伝説的な作品の続編ということもあって、様々な期待が寄せられていたことだろうと思います。
ハードルは人によっては容易に飛び越えられないほど高く設定されていたでしょうし、とにかくフリクリが劇場で見られればいいという方もいたでしょう。
自分は、直前に予習をして臨んだがゆえにフリクリ像がカチコチに固まってはいない状態でした。そのため、『プログレ』は賛否で言えば賛寄りです。『フリクリ』をリスペクトした演出は随所にありましたし、力及んでいないとしても1話のED映像や作中のヒントが示すように今作は紛れもない続編として作られており、それを見ているということ自体を楽しんだ節があります。
自分は先に公開された『オルタナ』より『プログレ』の方が正統にフリクリを作ろうとしているので好きですね。
とはいえ、『フリクリ』の続編が明快なラブストーリー要素を持ち出したことで、少なからずハル子のイメージに影響が及びました。これを巡って多くの議論が巻き起こることは必至でしょう。
ただ、18年もの間続編が製作されてこなかったことや、OVAというコアなファンを獲得しやすいメディアであることを考えると、賛否両論あって当然ですし、こうした議論を積み重ねることが『フリクリ』への愛情表現となるのかなと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
いろいろな人の感想やレビュー 評価を読みましたが僕の感じたことにいちばん近く「それそれ!」と頷くところ多々ありました (^O^)b
「フリクリ 」の破天荒な人物像 奇抜な演出 視る者の想像力に丸投げされた設定 劇伴音楽とは言えない主役級のPillowsのロック という多面体な魅力が薄まったか或いはこちらが慣れてしまったのかもう少し香辛料が欲しかった というのが僕の感想です
その理由の一つがヒドミと井出にFocusが集中してしまったこと(と解釈しました)との言及に「その通りだ!」と言わずにはおられません 同感です