(C)2019「ダンスウィズミー」製作委員会
こんにちは、サービスも商品も良いのに人が混み合っていて利便性が損なわれているスタバはさながらディズニーの人気アトラクションのようだと感じるワタリ(@wataridley)です。
今回は矢口史靖監督の最新作『ダンスウィズミー』をレビューしていきます。
矢口史靖監督と言えば、『ウォーターボーイズ』『WOOD JOB!〜神去なあなあ日常〜』などに代表される、コミカルながらどこかチクリとする棘を含んだ作風が特徴だという印象です。単純に登場人物が愚にもつかないことをするに終わらず、ストーリーにはどこか冷静な視線を投げかけている部分があるような気がします。
そうした既往の物事に対する棘が、『ダンスウィズミー』においては「なんで登場人物がいきなり歌って踊りだすのか」というミュージカルへの疑問として出てきています。
予告編で打ち出している「ごくふつうのOLが日常で踊り出してしまったら…」というシチュエーション自体も純粋に面白そうでしたので、公開週に観に行きました。
事前に期待していたミュージカルを俯瞰する視点そのものは中盤を境に目立たなくなってしまったものの、後半の状況が次々と流転していくロードムービーも楽しく、最終的なオチもすっきりした味わいを得ることができました。総じて満足した一方で、ポツポツと浮かび上がってくる不満についても感想を書いていきます。
以降、ネタバレを含んだ感想になりますので、未見の方はご注意ください。
69/100
歌と踊りで気だるい日常を吹き飛ばす前半
丸の内の大企業に勤める鈴木静香(三吉彩花)は、周囲に協調しながらもどこか窮屈そうな日常を送っていた。社内で評判のイケメン社員からの仕事を引き受け多忙な中、偶然にも姪っ子の面倒まで見る羽目になってしまう。姪っ子を連れて、偶然拾っていたチケットを頼りに遊園地を訪れる静香だったが、そこでの催眠術師(宝田明)との出会いが彼女の生活を一変させるのだった…。
冒頭では、シュレッダーのゴミを退屈そうに処分する静香の姿が映される。業務外の仕事を引き受けてしまい缶ビールを飲みながらノートPCに硬い表情で向かうなど、とにかくそこかしこに現状の生活への不服従な気分が印象に残る。
三吉彩花の整った顔立ちは言うまでもなく美しいが、それよりも面白いのが、この映画は効果的に彼女の歪んだ不満顔を映すところである。面倒を見ることになった姪っ子に缶を投げつけるなんて意地が悪いにも程があるのだけど、三吉彩花の作る表情はどこもデフォルメ化されたものであるからか、あまり生々しくは感じられない。彼女の表情は読み取りやすく、見易いのである。矢口史靖監督の作風である(と自分が思う)欠点を明確に持っていて掴みやすいキャラクター描写とも相性がいい。
とにかく静香の日常は、高級な立地にある清潔なオフィスといい、都心にあるタワーマンションといい、見た目は華やかで満たされているのだけど、彼女の表情によって観客に対して別の価値尺度を早々に植え付けることに成功している。かつてミュージカルの主役に抜擢されながらも緊張のあまりの吐瀉物が原因とってしまい、ミュージカル離れを起こした彼女は、自己主張することを諦め、一般的な価値尺度に従うことで生きてきた身である。そこにきて「いきなり歌って踊りだすなんて変」という台詞には、ジャンルとしてのミュージカル映画へのメタ視点を語っているのと同時に、ミュージカルに未だに後ろ髪引かれている彼女の心情が内包されているというわけだ。
催眠術師の鼻毛に注目してしまったせいで誤催眠状態に陥った静香は、音楽を聞いた途端に勝手に体が踊りだすようになる。これが四六時中、所構わずに発動してしまうからさあ大変。出勤する時にかけた音楽によって、マンションのロビーで踊る静香は、人目も憚らずソファーを踏み台にし、スカートも考慮せず体をくるくる回転させる。ここのパートでは運良く清掃員も気づかず、物的損害が出ることもなかったものの、静香の危うい状態が確と観て取れるシーンである。
そして会議で踊りだしてしまう場面である。大事な決定の場ということが共有されているから、踊るんじゃないぞ…と見守りつつも、しかしそれが崩壊してしまう様を見てしまいたくもなる。観客の心配と嗜虐性を同時に誘うシーンになっている。案の定踊り出してしまうのだけれど、ここでは感情を発露することで、オフィスがみるみる様変わりしていく様子が楽しい。並んで座っているおっさん達は静香にとってはテイのいい脇役であるし、オフィス内の社員はいっしょに踊る仲間になる。退屈な作業の象徴であったシュレッダーのゴミが、ここでは空間を彩る紙吹雪と化すアイデアも奔放で実に気持ちがいいじゃないか。しかし、実際には静香が暴れまわっていただけ、というオチの落差含めてもよくできたシーンだと思う。
これは実は会議にとってプラスに働いたらしいのだが、続くエリート社員との食事ではついに経済的な損失を出してしまう。シャンデリアにぶら下がる姿などは、先程のオフィスで「これは静香の見ている景色に過ぎない」という事実を提示しているから、レストランの従業員のようにハラハラしつつ、その派手なパフォーマンスに見入ってしまう。このように段階的に日常が侵食されていくように描かれているからハラハラするし、ミュージカルの舞台装置も日常にある物事を活用しているから感嘆とさせられる。主演の三吉彩花の長身痩躯なスタイルも、これらの踊りの見応えをワンランク引き上げていた。
(C)2019「ダンスウィズミー」製作委員会
中盤部分に訪れる自己受容
静香がミュージカルを演じれば演じるほど彼女の経済的ステータスは困窮していってしまうのは、自己表現が疎まれやすい日本の生産社会に対する批判になっているのではないかと見ることもできる。
冒頭の静香は行動を周囲に合わせるし、自分の不満点を特に主張することもしない。自己を封じるから、大企業に勤める今がある。しかし、催眠にかかってからの彼女はそうした協調路線から否応無く脱せられるようになってしまう。そんな中で「ここで踊ってはいけない」という意識的ルールが、中盤以降では一転して薄れていくのは、静香が自己表現を受容していくことに重なっていくのだ。
やしろ優演じる催眠術師の元サクラ・千絵との旅を通じて、静香は周囲の目を気にすることがなくなっていく。怖い思いをした後に歌ってドライヴを楽しむその時から今作における静香のゴールは見定まっていたと言える。道中偶然出会ったchay演じるストリートミュージシャン・洋子も交えて、音楽を用いて催眠術師探しの旅が順調に運ばれていく中、楽しそうに歌う彼女たちの姿には窮屈な日常からの開放感に満ち満ちている。
率直なところ、前半部分に比べると大掛かりな仕掛けには乏しいのだが、敢えて着飾らない旅風景は、静香が音楽を肯定する舞台としては適切だ。スナック菓子まみれのボロい車内は、常に肩肘張ってしまうしまう清潔なオフィスやタワマンの一室とは対照的に描かれている。旅は自分たちのしたいようにしていい空間と時間の象徴なのだ。
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後半に向かうにつれて強引に
金銭的に満たされていても禁欲的に振る舞わざるを得ない日本人の性というものを吹き飛ばすために描いたかのような序盤、それを受け入れる過程となる中盤は、話に筋が通っていたし、やりたいことも明確に見えてくる。
しかし、静香たちが北海道に着陸して以降、物語は強引なパワープレイをかまし始めてしまうのが勿体ない。
旅路で歌って踊ることを楽しみつつも、来週の月曜日には会社に戻らないといけないことを念頭に置いている静香は千絵と親睦を深めようとも、楽観的に振る舞ってきた彼女とは根本的に相容れない部分を持っている。それが衝突という形で現れるのがフェリーにおいて車を盗まれてしまうというアクシデントである。
考えなしに行動してしまう千絵を咎め、足を取られたことで遠ざかってしまった目標に対して、静香はいっそうの切迫感を覚える。こうして幕開けとなった第三幕は、自己表現の喜びを描いた第二幕を一旦否定し、そして最後に立ち返って自己表現を肯定するという結末が訪れるんだろうなと察しがつくものである。然るに、与えられた試練をどのようにして乗り越えるのか?がこの第三幕における注目ポイントとならざるを得ない。
ところが、静香たちが最終目的地に到達する要因はどれも偶然の賜物ばかりである。静香がムロツヨシ演じる興信所の調査員と再開して同行する流れ自体はよしとしても、ここに至るまでの静香たちのドラマにはほとんど絡んでいないが故に収束感は若干弱い。千絵が、マーチン上田…ならぬマーチン名古屋の講演会に行く道筋や洋子が車を元の持ち主に届ける過程に至っては、本人たちの意思とはまるで無関係な気がしてくる。
結果に至るまでの過程は偶然が絡めど、本人たちの決断が決め手にならないと、どうしても出来過ぎという印象になってしまう。わかりやすくクライマックスとして仕立て上げられたあの講演会は、結果として主人公たちの選択によるものではなく、たまたま集められた人たちの即興みたいになってしまっていて、あまりカタルシスを感じられない。
このクライマックスのシーンはよくよく考えてみると、以下のように各登場人物たちの困難の克服の場となってはいる。
- 催眠術ができなくなったマーチン上田のスランプの克服
- かつて舞台上で失敗してしまった静香にとっての観客を前にしたミュージカル
- 舞台の上に立ちたかった千絵にとってのひと時の夢の達成
これらの現実的な問題がミュージカルによって解決が図られていくことによって、メタミュージカルの構造を取り、やや冷静な視線を投げかけていた今作は、最終的にミュージカルが持ち得るたしかな効能を描き出したと言えよう。
ただし、そうしたコンセプトを理解できても、ここに至る過程が偶然に依すぎていることに加えて、純粋にミュージカルシーンのパワーが不足しているために、どうにも消化不良に感じてしまう。観客を巻き込んでの大舞台場でのミュージカルというのであれば、やっぱり観客側の反応と、空間の全体像を見せてほしかったものであるが、こじんまりとした映像に終始してしまい、いまいちテンションが上がらない。この映画全体に言えることでもあるが、細かくカットで割ったり、リズム感に乗せる工夫がないままに歌や踊りを披露したりするせいで、せっかくの音楽映画なのに傍観する場面が多い。
序盤の「ミュージカルが現実で起こったらどうなるか」というアイデアは良かったのだが、気ままに歌い踊る様子を緩やかに肯定する中盤以降、どんどんそうした俯瞰視点のギミックが失われていき、ついには単なるミュージカル映画のようなルックスに落ち着いてしまうのは、非常に惜しい。だから、あのクライマックスのショーも中盤の変化をちょっと大げさにやっただけという印象に留まってしまう。
別の不満として、ことごとく作中で立ち現れてくる古ぼけた価値観も気にかかる。バブルなんて弾けてとうに大企業に就職しての夢物語なんて薄れつつあるというのに、静香は20代にしてタワーマンションに住んでいるようにやたら金回りの良い生活環境で、同世代の自分とのズレを大きく感じる。いくら大企業勤めだからって、都心のタワーマンションは仮に賃貸でもハードルが劇的に高いと思う。女子社員にキャーキャー言われる出世街道に乗ったエリート男性社員なんてのも、静香の世代に思い描く理想像としては今時古臭すぎる。
これらの古臭さを最も象徴するのが選曲だろう。「年下の男の子」「タイムマシンにおねがい」など、一体どの世代に向けているのかがわからない。せめて作中で登場人物の心情を代替しているのであれば、わざわざその曲を選んだ意味が伝わってくるのだが、基本的には今作はいまいち状況や心情と歌詞がリンクしないことが多い。唯一「ウエディング・ベル」だけはシチュエーション全体が合致しているからいいが、いきなり突飛な展開を見せつけられるインパクトの方が大きい。振り返ってみると、特に口ずさみたくなる曲もないという結果になってしまった。音楽映画でこれは致命的である。
(C)2019「ダンスウィズミー」製作委員会
まとめ: メタミュージカルの発想は好き
突然歌って踊り出すというミュージカル映画への素朴な疑問点、並びに現実でそれをやる際の羞恥心を、自己表現へのハードルとして設けたという点においては、かなり斬新な映画だ。
そもそもミュージカル映画というのはどうしても映像に力を入れなくてはならない以上、邦画ではハードルの高いジャンルでもある。実際、邦ミュージカルを挙げよと言われても返答に窮してしまう方も多いだろう。それを敢えてひとつのアイデアで踏み込んで映画にしたというチャレンジ精神には、まさにクライマックスの観客よろしく拍手を送りたい。
映画に華を添えた主演の三吉彩花も、今後はより大きな活躍をしてくれるのだろうと思う。やしろ優の存在もこの映画に大いに貢献している。地べたに落としたカップ焼きそばを食べようとするみすぼらしい表情からクライマックスの大舞台での輝きまでふり幅が大きく、彼女がいたからミュージカルが身近な人々によって形作られているということを肌身に感じられたと思える。そして往年のスターである宝田明がいたことで、今作のエンタメを称揚する意味合いの厚みが増している。どのキャラクターも活発で楽しいと思える人物だった。
それだけに明らかに息切れを感じてしまう後半が惜しいのだけれど、このコミカルなミュージカル弄りから始まり最終的に己を解放していく物語の道筋はとても好きだ。最後に日常的な空間に戻ってきても、心赴くまま千絵と一緒に何かを始めようとする静香を観て、心の中で何かが燻る感覚に得た。それだけでもこの映画の狙いは功を奏しているのだろう。
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