果たして「全編スクリーン」である必要はあったのか?『search/サーチ』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: © 2018 SONY PICTURES DIGITAL PRODUCTIONS INC. ALL RIGHTS RESERVED

こんにちは、ハロウィンにコスプレはクリスマスに恋人と過ごす並みに意味がわかっていないワタリ(@wataridley)です。

今回はアニーシュ・チャガンティ監督の映画『search/サーチ(原題: searching)』をレビュー。

この映画を語る上で全編モニターのみを映す演出は触れないわけにはいきません。公開前からその特殊な作りについて、SNS上で評判を聞いていました。

もはやトイレやキッチンと並び我々の生活に結びついているスマートフォンやPCなどが主題であるというのは見るからに現代的です。インターネットが普及して以降、アニメで言えば『サマーウォーズ』のように、電子の世界をデフォルメ化し、映像に起こすという作品自体は多く見られてきましたが、そのまんまモニターを映す演出がフルに用いられた映画となると、まったく思いつきません。想像したこともありません。

そんな好奇心をそそられ鑑賞したところ、実際にストーリーテリングにおいて未開拓な領域を堂々と行く内容となっており、まだまだフィクションの可能性はふんだんに残されているのだなと思わせられました。

また、この映画ではスクリーンに限定したこによる利点というものを全てカバーしているわけではなく、ある程度の漏れも確認できました。そこがこの映画の欠点であり、初の長編監督を務めたアニーシュ・チャガンティ氏のこれからへの宿題になっているように映りました。

PC、スマホといったスクリーンを介した物語に抱いた感想を以下にネタバレ交じりに書いていきます。


75/100

ワタリ
一言あらすじ「消えた娘を探すべく、ネットの海を泳ぎまわる」

インターネットだから面白い捜査劇

今作のプロット自体は至ってオーソドックスな捜索サスペンスとなっている。娘が失踪したから親が探す。ただ、それだけだ。

ある日突然失踪した人物の本性が明らかになっていくプロットはぴったりと『ゴーン・ガール』にも当てはまるものであり、このジャンルにおいてそれほど新鮮味があるとは言い難い。

そこで今作を革新的たらしめているのが、全編に渡って電子機器のモニターを映すという手法だ。

従来のフィクションにおけるPC、スマートホンといったものは舞台に立つ登場人物が使うワンアイテムでしかなかった。例えば、ハッカーが登場し、彼が高度なセキュリティをかいくぐって…という筋書きがあったとしてもPCで何をやっているのかについてまでは詳細に描かれることはなく、それっぽく設えられた小道具に留まっていた。

『search』は今まで軽んじられがちだったその中身にむしろフォーカスし、それゆえに単純な捜索劇を見応えあるようにしている。

娘のノートPCを使うにあたっての金庫破り描写は、誰しも身に覚えのあるメール確認を経るパスワード変更手続きや名前と誕生日を足しただけという安直なパスワード設定が入れ込まれている。女子高生のPCを盗み見るだけならば、それこそ従来のフィクショナルなハッカーに任せれば一瞬で済むはずだ。それを今作は我々の目におなじみの光景を撫で付けながら、順々に攻略していく気持ち良さへとコンバートしているのだ。これは紛れもなくPC画面を中心に描写しているからこそ成せた技である。

SNSで「友達」となっている人物を洗い出し、過激な言葉をかけている不審な人物を犯人と疑うような人間関係の仮説の組み立てにしても、誰もが日常的に行なっている。SNSによって可視化された人間関係の糸を辿っていくことは決して専門性の高い作業ではない。何も顔写真と調査結果をエクセルにまとめるまではしなくとも、自分たちだってTwitterのタイムラインに流れてくる個々の言動やFacebookやInstagramで見られるアクティビティからその人のパーソナリティと所属コミュニティを類推しているではないか。

そう、こうしたパスワードの“金庫破り”やSNSの“探偵”は、デビッドと我々の共通点だ。普遍的なツールを用いて、これほどまでにわかりやすく捜査過程を見せる今作の演出には奇妙な親近感が沸く。

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機械上で表現される作品世界と人の感情

この映画で用いられている言外で語る演出の数々は実に巧妙であると同時にインターネットの実相を捉えてもいる。

冒頭いきなり劇場のスクリーンに映り込むのが緑の芝に青い空。映画館に相応しくないWindowsのデスクトップ画面が一気に観客の興味を引き込む。

その後流れるようにしてPCのユーザー登録によって家族構成を明らかにし、彼らの日常風景が保存された動画ファイルを介して観客に伝えられる。その間に映るパソコンの基本機能からYouTubeに至るまでが古めかしいユーザーインタフェースである。ワンクリック詐欺のやかましいポップ画面には懐かしい気持ちにもなった。そうした在りし日の景色が徐々に最新式へと変わり、遂には2018年にいる我々が飽きるほど見ている画面となる。これによって物の見事に時間経過が情報共有され、おまけにこの作品世界への親近感もわいてしまうという一石二鳥。ファーストインプレッションの観点で言えば、間違いなく今年観た映画で最高クラスだ。

それに、マウスカーソルの動きで動揺や逡巡を示す映画は初めてだ。たしかに我々はこうした挙措をモニター上で無意識のうちに取っているのだとはっとさせられた。

一度入力してみた言葉をふと見返し、ポストを中止するという一連の流れを目で追っているだけで、その登場人物の内情が手に取るようにわかる。この不思議なシンパシーには今まで感じたことのない不気味な気持ち良さがあった。母親のことを辛いこととして彼方に放り話題に出せなかったデビッドがついにそれを娘のマーゴットに語る瞬間は、複雑な形状をした知恵の輪がすっと解けるような納得感を覚えて仕方がなかった。

ヴィック刑事が捜査チームの主任だと聞かされた際、デビッドは彼女の名前を即座にGoogle検索にかけ、素性を探る。こうした動作からは、娘を探すのに必死で刑事の聞こえの良さすら疑ってかかるデビッドの気心を知ることができる。あるいは、彼は元から娘にゴミ捨ての注意をしていたように几帳面な性格で、何かにつけてタブで調べ物をキープしておくPCの使い方をしていたのかもしれない。亡き母親がいる娘のノートパソコンのデスクトップ画面や、それがデビッドの必死な捜査の手にかかりファルダで散らかってしまう様子など、とにかく画面に映る情報が逐一観客の想像を動かしてくる。

我々がふだん何気なく使っているスマートフォンやPCといった端末は、無機質な機械などでは決してなく、使う者の感情がたしかに宿っていることを認識させられた。この何気ない日常景色に隠されたミーニングを浮き彫りにすることによって、観客の意識にはちょっとした変革が起こる。

映画に限らずあらゆる体験は、それを経る前と後とで考え方や感じ方が変わる可能性を持っている。本を読んで知見を得れば、社会の仕組みを理解し見方が変わるように、この映画はコミュニケーションの媒体として頒布したインターネットが孕む人の実態を我々に気づかせる面があった。

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ネットに転がる嘘と欺瞞

とはいえ、インターネットはありありと事実だけを伝える道具ではもちろんない。

作中デビッドは娘の人間関係を知らないがためにフェイスブックに頼って友人探しをする。しかし、行き着く先は娘のことをまるで知らない人ばかり。フェイスブックの「友達」とはなんと脆く、疑わしい関係性なのかということを捜査線上で明かにする仕掛けが面白い。

そんな「友達」はマーゴットの身に危険があると大々的に報じられた途端に、「友達」面をする。良き友人像が多くの再生数を獲得する一方で、SNS上では娘を探し回る父親に対する疑惑や批判なども持ち上がる。ここにはフラットな父と娘の実像など存在しないも同然だ。不特定多数の第三者がいかにも真実然とした情報を垂れ流し、あるいは自らの好奇心を消費するために嘘をでっちあげる。広範に誰でも利用できるからこそ生じうるインターネットの欺瞞がここに描かれている。

更にはデビッド自身も娘の交友関係についてヴィックに問われた時、娘への理解について弟から疑問を呈された時、亡き妻のユーザーIDを使い、娘のノートPCを盗み見ている。皮肉なことに、彼が必死に娘のことを探ろうとすればするほど、彼の無知があらわになっていく。

そうして嘘を転々と探った末にやっと真相が明らかになる。娘は自分の与り知らぬ間に母親の不在に苦しみ、共感してくれたどこの誰ともわらかぬ者へ思いやりを分け与えていた。粗雑に情報が散らばるネット上では、本当に大切なことはそうとはわからない形で転がっていたりするものだ。父親に話せないことも少し距離のある叔父やネットでふと知り合った顔も知らない人には話せる。一見些細なことに思える「好きなポケモン」の話題の中で記憶を消してくれるユクシーを口にしたり、姿を隠すカクレオンを挙げたりするその言動に事実が隠されていたというのが、なんとも人間らしいとも言える。

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「友達」などというお題目でつながっているからといって深い関係性とは限らない。反対にネットの片隅で繰り広げられていた戯れが当人にとっては重大な意味を持つ現象は自分にだって思い当たる節があり、だからこそ今作でインターネットを介して描かれる人間の真実と嘘を興味深く追うことができた。

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全編フルスクリーンである理由が見当たらない

これまでは今作が持つ独自性に裏付けられた興味深い人間模様と目を惹く作品世界の長所を述べてきた。

しかし、自分は根本的にこの映画が貫いた「全編スクリーンのみ」という縛りに強い必然性を感じることができなかった。

従来の映画とは一線を画すこの作りのおかげで話題を呼び、当初は本国アメリカで小規模だった公開規模が拡大して、日本にまで輸入されてきたという流れは理解している。何より、自分自身がそうした宣伝文句に心を掴まれ、劇場に足を運んだのだ。「全編がスクリーン」というキャッチーさを担保するべく、作り手もそこに拘るのは当然である。

それでも納得できない理由のひとつはー前述してきた優れた演出と表現が数多く披露される前半はともかくー後半になるにつれて、目に見えてその革新性が損なわれていくことにある。

具体的に指摘すると、デビッドがtumblerとユーキャストから導き出した娘の憩いの場でキーホルダーを見つけ、車両の発見へと繋がるあのシークエンス以降、顕著にスクリーン縛りが形骸化していった。

このシーンの直後、いよいよマーゴットの身に降りかかった深刻な事態にメディアは一挙に注目し始める。マーゴットのフェイスブック上の「友達」は、親友を名乗り彼女の安全を願わんとする姿勢をアップロードする。それは多くの再生と反応を得ていく。誰でも作り手が狙ったであろう手のひら返しに対する嫌悪感をひとまずは抱くはずだ。

しかし、こうした描写はそそくさと流される細かなカットの連続によって軽く扱われてしまう。並んでいくネットの光景の切り貼りは、どこか整然としていて、その内容も表面的なように思えた。当の本人もその後出番はなく、けっきょく序盤にデビッドと会話を交わした時とこのシーンのみの存在だ。知人から親友に急変する描写もあまりにカリカチュアライズされているものだから、リアリティに欠けており、いかにも類型的な無知蒙昧なモブという感じがしてしまう。要するに、今作におけるネットの炎上描写そのものには、新鮮味がなく、これまで幾度となく見られてきたものにすぎないのだ。

その後に続くシーンもたしかにスクリーン上で繰り広げられてはいるものの、「隠しカメラ」「ニュース映像」「取調室の記録」「配信」といった薄味な画面ばかりが並ぶ。

取調室に備えられた監視カメラ映像というと、自分が思い浮かべるのは『ナイトクローラー』だ。

ネタバレは避けるが、とある場面でカメラを通じて「こちら側」に語り掛けるシーンが秀逸で、主演ジェイク・ジレンホールを見るたびにフラッシュバックするほどだ。先に名前の挙がった『ゴーン・ガール』にしてもメディアの取材映像といった形で我々に異様な後味の悪さを残す場面がある。そうした鮮烈なインパクトを与えるサスペンス映画の手法に慣れていると、この映画の後半にある上記の映像表現はどれも中庸で、自ら課した制限に首輪を繋がれているだけのように思えてしまう。

終盤に追悼式にて繰り広げられる逮捕の瞬間も非常に歯がゆい思いをしながら観ていた。前半部分であれほど観客にデビッドが操作する機器の画面を見せて、「自分たちも物語に参加している」という実感を与えてきたというのに、一転してこの場面ではだれのものなのかわからないスクリーンを通じて「傍観」を強いられる。このような映像を追うだけの後半部分は画面上の操作を追っていく楽しみが薄く、スクリーン縛りの独自性が無に等しくなっている。

加えて、観客を傍観者にしたことによる弊害も見過ごすことができない。この配信映像ののちに時間は一足飛んで、ヴィックは容疑者として取り調べられている場面から始まる。そこで彼女がこれまでの伏線を回収していく過程は自分もパズルのピースが見事にはまっていく快感を覚えていたが、肝心の逮捕に至る過程がやや粗雑にも思えた。というのも、ヴィックが自殺した前科者との繋がりがあることに気づいたデビッドの告発であれほど急速に事態が進展するとは思えないからだ。

そもそも、ヴィックと前科者の関係は昨今のネット社会であれば容易に指摘され、デビッドの眼前にやってきたはずだ。特に、決定打となったあの写真は、検索してすぐにヒットするものである。

そして、だからといって直ちに彼女が犯人となるロジックがこの逮捕の場面では存在せず、情報が恣意的に制限されている印象が拭いえない。スクリーンに限定したが故に詳細な捜査プロセスは省かれてしまっている。酷なことを言ってしまえば、この場面に限ってはこの手法は寧ろ邪魔でさえある。

ここまで述べてきたのは、主にビジュアル面における革新性についての不満である。一言でいえば、前半は魅力的だが、後半はそうではないためスクリーンに限定する必要性がないというわけだ。

更に指摘しておきたいのが、この映画における主たるメッセージとインターネット上の出来事の可分性だ。単刀直入に言ってしまうと、今作の主題たる「父と娘のディスコミュニケーション問題」とこれまでに述べた「インターネットにまつわる問題」は実はそれほど密な関係にないように映った。

例えば、先述した手のひら返しの描写はやはりその場面限りの印象を与えるものであり、不特定多数が好き勝手にものを言えていしまう問題に触れてはいても、深入りするところまではできていない。ネット上で祭りになる展開も、単なる周辺情報に過ぎず、激情に駆られたデビッドが過激な言動を取っていた男子学生に食って掛かる場面もそのシーン単体では緊張感が得られる一方、俯瞰してみると何ら結果に寄与しない行為だ。前半部分の捜索過程においてデビッドと我々の不安と焦燥を煽っていたSNSの人間関係の空虚さについても同様で、それによって娘と父の関係性に何かしらの影響を与えたとは言い難い。

事件の犯人だったヴィックの息子はネットを介してマーゴットと知り合い、誤解から悲劇を生んでしまったという。これはネット上で形成される人間関係の危険性といったものを示していたのだろう。しかし、ここでのすれ違いは、ヴィックの口から突然にかつ淡々と語られてしまっており、ネットを利用するリスクを訴えかけるには画的な力が欠けてしまっている。後半でモニターを活用した演出が息切れをしてしまったが故に歪な形になっているのである。

今作のテーマは最終的に「父と娘」に回帰する。だから、道中で語られるインテーネットにまつわるあれやこれというのは結局のところただの「寄り道」である。インターネットを駆使しているうちに、娘の実態を理解していくというプロットそのものはとても魅力的ではあるのだが、結果的に娘の本心を語ったのはデビッドの弟であるし、事件の真相は物理的に近いところにあったという展開も乱雑にネットの性質に触れていった割には肩透かしな気がしないでもない。

振り返ってみると、映像に徹頭徹尾の革新性があったとは言いずらく、加えて映像演出とテーマが完全にかみ合っているとも言い難く、その場その場の面白さが連続していた印象だ。以上のことから『search』が全編丸ごとをスクリーンに映す理由は、観客の興味を引くことができるといったプロデュース上の理由が主立ってしまうのである。

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まとめ: 間違いなくまだ可能性が眠っているジャンルだ

最初から目を引くビジュアルが始まり、最後には観客の腹に落ちる見事な幕引きが待っている。目新しい面白さ故に、多くの人におすすめできる映画だと思う。

今作は映画では主役になりづらかったコンピューターの画面を中心にしたという点で、映画界に転換点や新発想を持ち込んだ作品になっている。しかし、地中に眠っているすべての金を掘りつくしたとは言い難く、まだまだ多くの掘り残しが見られるジャンルであるとも感じた。

前半は未知の演出や表現の目白押しで、目で追うだけで色々考えさせられるカーソルの動きや入力文字、ネットに転がる情報に心地いい脳の疲労感を覚えた。

一方で、後半になると前半で語られていた個々の要素があまりうまく結びつかない解へと進んでしまったり、純粋に画の魅力が薄れてしまった点が実に惜しい。

しかし全体としてみると、先駆的な試みを形にした上質な作品であることに間違いはない。かくいう自分も、劇場公開中にまた鑑賞する機会を設けたいと思う。その時、もしかしたら不満点についての考えも幾分か変化するかもしれない。

今キーボードを打っている手が登場人物とオーバーラップするぐらいに楽しんだ映画体験であった。

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