アイキャッチ画像: (C)2019 WARNER BROS. ENTERTAIMENT INC.
こんにちは、好きなクリス・プラットはピーター・クイルのワタリ(@wataridley)です。
レゴのレゴによるレゴのための映画『レゴ®︎ ムービー2(原題: THE LEGO MOVIE 2: THE SECOND PART)』をレビューします。
今作の監督は、『シュレック フォーエバー』のマイク・ミッチェル。脚本・製作はフィル・ロードとクリストファー・ミラー。
前作『レゴムービー』では監督・脚本を務めていたロードとミラーは、これまでに『スモールフット』等に参与し、特に『スパイダーマン: スパイダーバース』では第91回アカデミー賞長編アニメ映画賞、第76回ゴールデングローブ賞アニメ映画賞を受賞するなど、今や映画ファンから多大な支持を得ている映画人です。
前作『レゴ ムービー』では、ありとあらゆるパーツが玩具のレゴで形作られている大きな特徴が見所となっていました。キャラクターから背景はもちろん、爆発や銃から放たれるビームといったエフェクトに至るまでもが、実在するレゴブロックで表現されています。
それだけでも十分に見応えがあり、更にそこにレゴでしか語ることのできないドラマが込められていたこともあって、自分は『レゴ ムービー』はアニメーション作品の中でも思い入れのある作品でした。
そんな偉大な存在に次ぐ作品と位置付けられているからには、過大な期待を向けるのは無理もないこと。5年近い年月を経たレゴブロックの世界は相変わらず高精細で遊び心に富んでいました。また、前作のラストで発生した問題を今作で解決するとあって、テーマも前作から地続きとなっています。
映像面ではよりリアルとなり、物語面でも正統にその後を見せてくれています。続編たる意義は、たしかにそこにあったのです。
以下にネタバレを含む感想を述べていきます。未見の方はご注意くださいませ。
69/100
目次
レゴから導き出される人の内面
『レゴ ムービー』の良さは、レゴで構築された世界とそこに住まう個性的なキャラクターに代表される。前作ではレゴブロック製の道路、車、電車、ビル群、広告、人々などでごった返し、緻密な書き込みがなされていたブロックシティから物語は始まり、平凡な工事現場の働き手エメットがワイルドスタイルのルーシーや気取り屋のバットマンらと共に多様なレゴ世界を旅していた。そして終盤にレゴの世界という表層が剥がれ、家族の物語という深層が見える。更に人類が等しくぶつかってきた保守と革新の対立と和解という真のテーマが最奥に待ち構えていた。
レゴの世界を活かしたストーリーテリングは、この『レゴムービー2』においても健在であった。
世紀末と化した街=作り手の闘争状態
今作では、冒頭の襲撃を経た5年後のブロックシティ=ボロボロシティが描かれる。攻撃的な外見の車が舗装されていない道を走り回り、タトゥーや傷を抱えた男たちが危険な匂いをぷんぷんさせるこの街で、エメットは相変わらずの調子でそこにいた。
この世界の景観がワーナー配給の『マッドマックス』シリーズから着想を得ていることは疑いようがない。色鮮やかなブロックシティや中つ国、雲の上の国などが登場した前作から、今作のこの荒んだ作風に変わり果てているのは、表面的にはデュプロブロックによる襲撃を受けたためとなっている。
だが、背後にはこの世界を構築しているビルダー、つまりは少年フィンの趣味がそのように変化したという意味があるのだろう。荒廃した世界では、誰もが目を鋭くし、気を休める余裕もない。妹とお互いの主義主張を衝突させてきた少年の尖った心情が造形物に転写されているのである。
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ルーシーとエメットの自己肯定
前作のクライマックスでエメットと晴れて恋人となったルーシーもそうした世界で気を張り、悩みを抱えていた。彼女は物騒な世界においても相変わらずウインカーを点滅させて車を走らせるほど平和ボケしたエメットの性格を憂い、もっとタフになるよう不満を漏らす。
彼は荒野の片隅にあった家でルーシーと幸福に暮らすことを提案し、敵であるはずの星型の玩具にさえ同情して手を差し伸べるほど穏やかな人柄である。敵襲があった時に作り上げる改造車についても、ルーシーが実用的なパーツを組み立てる最中、安全性を重視した装置を取り付ける。彼の頭の中に敵意の2文字はないのだろう。まさしくエメットは、フィンの良心を代表する存在だ。
ルーシーにも同じことが言える。そんなエメットを変えたいと願うルーシーではあったが、「わがまま女王」からの懐柔策を受ける中で、実は彼女自身が本来の姿を隠していた事実が明らかになる。黒い髪の毛に染めていたのは、ワイルドスタイルとしての自分を追求するための手段であり、ここにはありのままの自己を肯定することができない彼女の心理がくみ取れる。それは素直になりきれないすなわちフィンのもうひとつの姿なのだ。
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劣等コンプレックスたるレックス
そんな自己受容できないルーシーと今の自分からの変身を試みるエメットという2人の隙間に、レックスデンジャーベストが割り込んでくる。拳ひとつで隕石を破壊し、どこぞのジュラシックワールド職員よろしくヴェロキラプトルを使役するレックスは、まさにエメットにとって理想の自分であった。雄雄しいベストと必殺技を授かるうちに、エメットは優しい自分を徐々に捨て行くようになる。
それが決定的になったのが、結婚式場の場面である。エメットが自分を見失い理想の姿を追求する行為は、そっくりそのまま破滅的に描かれていた。ルーシーに変わるよう諭され、レックスをモデリングすることに取りつかれた彼は、結婚式場を大混乱に陥れ、和平協定をも反故にする。
式場の事件は、現実ではフィンが妹から自分の玩具を取り上げて大喧嘩に発展するという出来事であった。アルママゲドン=母親からのレゴ没収という大厄災を受け、2人の関係も一度は決裂してしまう。
フィンが式場を破壊する背景には、自己を肯定しきれない精神的不安が見て取れる。彼が遊ぶエメットもルーシーも本当の自分を偽り、理想の姿に近づけるよう苦心していた。思春期には、こういった苦悩が通過儀礼のように訪れる。誰しも鏡に映る自分を見て、違う姿を思い浮かべたはずである。もちろん、そうした不安や焦りが時に人を成長させるきっかけとなることは大いにあり得る話である。
しかし、エメットやルーシーの持つ変わりたいという願望の裏側には現在の自分自身への否定があった。エメットの常に前向きな性格とは本人が選択してきた結果そうなったものであり、他人との比較で優劣を語れるものではない。染髪していたルーシーも自らの内面を隠すために外見を装っていたにすぎず、本来の自分らしさについても自覚的であった。
こうした自分に対する自信のなさというものは、そのまま他者に対する不信に直結する。なぜなら自分の能力を過小評価してしまえば、周囲への貢献もまた難しくなるからだ。そして他者への貢献ができていないという自覚は、得てして人を不幸にする。無力感は負のスパイラルを生み、周囲との分断を生んでしまう。能力の不足を実際の行動で埋め合わせることができない場合には、劣等コンプレックスが生じることになる。劣等コンプレックスは目的の達成を諦め、他人への攻撃に走ったり、非行に及ぶといった形で行動に現れる。
未来からやってきたエメットであるレックスは、その成れの果ての姿である。仲間たちがメイヘム将軍に攫われた後、エメットは孤独なまま宇宙へ旅立ち、洗濯機の下に不時着した。そしてレックスを放置したまま、フィンは妹と長きにわたってレゴを巡る喧嘩を続け、劣等コンプレックスを募らせる。とうとう抑えがたくなったレックスは強硬な対立姿勢を取ることを決意し、暗躍を開始する。ボロボロシティのように荒れ果てたフィンの内側で唯一自然体のままそこにいたエメットを騙し、わがまま女王たちを崩壊に導こうとする。
本当は手を取り合いたいという気持ちが意固地な自己によって阻害されてしまうとうのは、心当たりがあるだろう。エメットやルーシーが自己肯定しきれない心情を表すとしたら、レックスはそれがエスカレートし、否定に走ってしまった感情の表象と言い表せる。
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サイコーじゃないからサイコーを目指せる
だが、レックスが持つ敵愾心は実に無益なものである。それはクライマックスにおけるエメットとルーシー達の闘争によって証明される。
“Everything is awesome.”と歌っていた彼らは、分断されてしまった後、ようやく”Everything is not awesome.”であることに気づき、歌い出す。人は独りでは出来ることに限りがあり、また人との協力も常にうまくいくとは限らない。
それは前作『レゴムービー』におけるおしごと大王との戦いでも示唆されていた問題である。おしごと大王にとってはすべてを自分の思い通りに治めようと構築していた世界を、エメットによってハチャメチャに作り変えられる想定外を起こされてしまったのだ。それが今度は自分の身に降りかかり、フィンは妹のあまりに無秩序な遊び方を拒む。
そして自身の緊張や強がりを街に反映させ、一方でエメットのような親切心を持ち続けていた。理想の自分に近づこうともがいても、完全にそうはなれない。また、他者が自分と同じ考えを持っているとも限らない。すべてがサイコーじゃないと悟った時、フィンは最初にハート型のプレゼントを渡したときのように、歩み寄ることを決意する。
なぜ、そのような決断に至ったのか。それはルーシーがそのままのエメットを受け入れたという景色が、彼の内面でも起こっていたからだろう。兄妹間の権力争いにおいて武器になるのはルーシーがエメットに求めていた強さである。当初はメイヘムやわがまま女王を悪者とみなしていたルーシーにとってタフさを手に入れることは喫緊の課題だったが、自分の過ちに気づき、強くあることよりも優しきエメットを肯定する。このルーシーによるエメットの肯定はフィンの自己肯定を表している。
自分に自信がない、つまり変わりたいと願う状態では、兄妹喧嘩は収まることはなかった。それどころかレックスという強い負の感情さえもが生まれていた。ひとたび他者を競争相手と捉えると、常に自分の立場を脅かすのではないかという疑心に取りつかれることになる。
逆に自分を肯定できた時にこそ、他人を受け入れようと思える余裕は育まれる。そうなった時、他者は競争相手ではなく共創の仲間となる。レックスはタイムトラベルのお約束という名目で最期を迎えることになるが、つまりは争いごとをやめたフィンにとって「強い男」のイメージが必要なくなったのだ。
人は幼少時代に自分の要求を受け入れてもらえる時間を過ごすために、なかなか次のフェーズに移り変わることができない人もいる。自己中心的な発想は、他者との衝突を生んでしまう。しかし、みな等しく他者と協力しなければならない時がやってくる。その時にエメット=フィンのように自分を肯定し、他人を仲間だとみなせるかどうかが問われる。フィンは疑心に追い立てられて求めていた強さではなく、エメットのように相手を信頼することを選択した。
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レゴを使った遊びの物足りなさ
他者との衝突や分断がごく自然とレゴに置き換えて語られる。その決着すらも兄妹が作るレゴの街で視覚化されていた。
しかし、全体を通してレゴを用いた遊びは物足りない。
前作では高速でレゴを組み立てる快活なシーンが度々挟まれていた。ルーシーとエメットがブロックシティから逃走する序盤の時点で、多数のパトカーやモブが画面を埋め尽くし、レゴで出来た家に突入して主観視点に切り替わるといった潤沢でトリッキーな映像が繰り広げられていた。道中出会うバットマンはバットモービルを展開変形させて童心をくすぐってくれたし、ベニー、ユニキャット、ロボヒゲもそれぞれの持ちネタが効果的に用いられていた。更には、エメット達が異なる国々を跨いで冒険する中で、ミケランジェロ(亀の方)やミケランジェロ(人の方)といった実在・非実在を問わず多くのレコ化されたキャラクター達が賑わいを与え、レゴ版アベンジャーズ…ではなくレゴ版ジャスティス・リーグと化していた。
これらに比べると今作では投入されているレゴの物量やバリエーションが前作に見劣りして感じられる上、宇宙を跨いだ冒険という割には映像面でのスケールは感じられない。家族の物語という構図が今作では最初から見えきっているとはいえ、あまりに刺激が足りないのである。
ビジュアル面でマンネリズムを感じてしまう一方で、ミュージカルパートは前作よりも冗長で説明的となっている。ルーシー達を懐柔する目的で彼らの好みについて触れていく場面は、単純にわかりきった情報を羅列しているだけであるし、説明した割にはルーシー以外にはさほど単体で活躍する場が設けられないため、振り返ってみると余計に無駄に思えてくる。それを差し引いても音楽面の魅力も特段感じられず、メロディは耳に残らない。だから、実際の時間以上に長く感じられ、見ている最中に早く次のシーンに移行しないかを考えてしまった。妹の趣味ということなのか、音楽は旅立ったスーパーマン達との再会や接待を受けるバットマン達を描写する際にも執拗に流れていた。作中ルーシーやレックスらの音楽に対する冷ややかな反応がエクスキュースとして用いられているにせよ、映像面での驚きも音楽面でのキャッチーさもないため、単に退屈という結果になってしまった。
バットマンととやがまま女王が接近する過程や、エメットとレックスが共に行動するパートなどもミスリード色が濃く出てしまっており、どこか予定調和的である。種明かしが待ち受けているためなのか、彼女らの人間性は深掘りされることはなかった。わがまま女王サイドは怪しげな悪役、レックスは頼もしい兄貴分的な存在に留まり、パーソナリティは詳細に語られることはない。それ故に、追っていて楽しいと思えるキャラクターは、今作の新参者に見出すことはできなかった。
前作では、レゴの世界が壮大なミスリードであり、クライマックスにて話の本髄はレゴで遊ぶ子どもと彼の父親にあったことが明かされた。だが、決してレゴ世界の描写は単なるミスリードに留まっていない。それ自体がひとつの作品として十分に自足しうる作り込みがなされていた。「上のお方」や「奇跡のパーツ」という謎の正体に驚きを得ることができたのも、レゴ世界の冒険が楽しかったからにほかならない。
その点、今作は真相が明かされるまでのパートのテンポがスローであったし、前作で肥えた目に応えてくれる映像マジックがあったかと言われると、自分としては首肯できない。
おまけに、レックスにまつわる設定なども飲み込みづらかった。タイムスリップというSF的な要素を持ち込んでしまったが、結局のところ現実的にレックスはどのような存在なのか?については曖昧にされてしまっており、腹の底から納得するには至らない。前作が親子の思惑がレゴに反映されるという形で説明がついたのとは異なり、今作のレゴ描写は兄と妹の枠の中で収拾がつかなくなっているのである。
以上で述べてきたように、今作はテーマが誠実に物語られている反面、レゴを用いた遊び心は薄れてしまったという結論になる。今作の鑑賞後に改めて『レゴムービー』を見返すと、そこにはレゴを用いたからこその気持ちいい組み立て&分解が豊富に披露されていた。魅力的なレゴ世界を散々見せつけた後に、素朴な親子の物語に回帰し、最終的に人の創造性を何もかも肯定するメッセージは5年経った今でも全く褪せておらず、この先もレゴをここまで活用した映画作品は見られないだろうという確信を持った。
偉大な前作から5年の月日を経て、『レゴムービー2』はその間に抱いていた自分の期待すべてに応えることはかなわなかった。
『レゴ(R) ムービー2』鑑了。『LEGO(R) ムービー』が恋しくなった。人類に共通する創作性という主題をレゴというサンプルに当てはめ、レゴ尽くしの映像が楽しいだけではなく全てがその主題に還元されていき、ストーリーテリングと映像表現のコンビネーションを遂げていた前作は完璧だった。
— ワタリdley (@wataridley) 2019年3月30日
まとめ: 独創から共創へ
独創を肯定した前作を継いで、今作では他者との共創を肯定する。共に作るという主題の前に立ちはだかるは、考えの異なる他者との対立だ。フィンにとってはそれが妹であったが、世界には飽きるほどこんな事が起こっている。その戦争を終わらせる糸口は、妹なりにはわがまま女王がバットマンに示していた理解であり、エメットにとってはレックスという自身のコンプレックスの克服にあった。
今作は前作において掲げられた主張のその先を描いている。「すべてがサイコー」とは限らない。始めはフィンが妹とうまくいかなかったように、むしろ現実は苦難に溢れている。現実に直面した少年はかつてのおしごと大王と同じく、自分と異なる他者を受け入れまいと一旦は心を閉ざしてしまうも、最終的に妹とアイデアを分かち合い、同じ世界を創り上げる。独創性を持った他者は争いの敵ではなく、共にサイコーへ近づくための仲間だったのだ。
レゴという玩具から、またしても社会性を持ったドラマを構築する製作者の手腕には大いに感心した。創作の苦楽をレゴで浮き彫りにした『レゴムービー』『レゴムービー2』は、セットでレゴ史に名を残すことだろう。
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