小説『すずめの戸締まり』感想:脱・ボーイミーツガールの代わりに見せた震災映画としての微かな進展

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『君の名は。』『天気の子』に続く新海誠による長編アニメーション作品『すずめの戸締まり』。11月11日の公開を控え、一足先に小説版を読了したので、その感想を認めておこうと思う。

新海誠は『君の名は。』で、邦画史上歴代最高(当時)の興行収入を上げていた『千と千尋の神隠し』に迫る250億を記録し、国民的映像作家としての認知を得たのは、各々その評価に差異あれど、概ね共通の認識で間違いないだろう。

新海誠の代表的な要素として、しばし妙齢の少年少女によるボーイミーツガールや、超自然現象をそのラブロマンスに絡めたファンタジー、そしてそれらを取り巻く都会や自然風景を緻密なタッチで描画した背景美術(およびそれを強調する撮影)といったパーツが挙げられると思う。

『君の名は。』以降で、良くも悪くもそういったモチーフを模倣した、ないし偶然にせよそれに似通った要素を持ったアニメーション作品は増えた。ここではそれらの作品の評価については語らないが、ともかく大衆作品の流れを新海誠は形成し、隆盛は多少落ち着いてもまだそのフェーズの次が見えてこない状況にあると考えている。

そこにきて新海誠最新作『すずめの戸締まり』である。自分は以下の二点に期待を寄せて、物語の意図を言語で汲み取れる小説版を手にとった。

  • 確立された既存の作品イメージを覆せるか否か
  • 大衆作家として実際の問題にまつわるノーブレス・オブリージュを履行できるか否か

一点目は監督が自身の作り上げた「ポスト新海誠フェーズ(仮称)」を次の局面へ移行させられるかどうか、と言い換えても良い。二点目は、これは『君の名は。』『天気の子』でとりわけ賛否を分けたであろうアクチュアルな問題に対する作品内での向き合い方が、それらへの批判や反応を経て今作でどのように変化したかを指している。

結論から言えば、上記二点とも自分の期待していた水準は上回らなかった。

以下に細かく感想を述べていく。なお、映画は公開前ではあるが、小説版に基づいた感想として物語の核心に触れるネタバレを含むので閲覧にはご注意を。また、あくまで小説版についての感想であるため、実際の映画版と何ら下差異が生じている可能性も考慮されたし。(といっても過去の映画版・小説版の傾向からして大いに描写・展開が異なることはないと思うが)

 

説明的な上に後景化されたファンタジー

『すずめの戸締まり』の主人公は、地方の港町に住む―例によって―高校生の少女・岩戸鈴芽はある日”閉じ師”の青年・宗像草太と出会う。偶然に居合わせた二人は廃墟に佇む扉から現れては現世に厄災をもたらすという巨大な物の怪”ミミズ”を封じる。しかし、すべての時間が行き交う”常世”への出入り口”後ろ戸”を封じていたはずの”要石”は猫へと姿を変え、猫は草太を椅子へと変えてしまう。各地で出没し、ダイジンと呼ばれる逃げた猫を追いかける二人。それは、九州から東京へと続く、”後ろ戸”を閉じて回る旅の始まりだった。

以上が大まかなあらすじである。かように、今作は(主に神道に絡めたものではあるが)専門用語が多く、劇中で起こる事件・事象も一般的なファンタジーと比べて独自色が強い。個人的にはこれは美点というよりも、導入部分から変に理屈っぽい印象を強めてしまっているように感じる。

直近の『君の名は。』『天気の子』における超常現象というのは、いずれも言語の上での説明はそこそこに、起こってしまった現象を前提として、少年少女がどのように目の前の困難に立ち向かうかという行動が前面に出ていた。ロジックに着目すれば、なぜその現象が起こるのかといった必然性や理屈はぼかされたままにも関わらず、とにかく観客は隕石の落下にって落命する定めにあった三葉を救おうと行動を起こす瀧や、晴れ女としての宿命を背負わされ天上の世界に連れ去られた陽菜を求めひた走る帆高らの感情の発露に触れ、物語のカタルシスを得ることになる。『君の名は。』で指摘される「西暦問題」は有名だが、極端な話、同作で重視されているのがそうした緻密な整合性ではなく、映像作品としてのテンポや展開面での快楽の方であることを如実に示しているといえる。

『すずめの戸締まり』の中盤では、鈴芽と旅をともにし数回に渡り後ろ戸を閉じて回った草太の身に異変が起こる。逃げ回っていた猫のダイジンは実は要石としての能力を失っており、椅子になっていた草太自身が要石に成り代わっていたという事実が明かされる。厄災を阻止するべく、鈴芽はやむを得ず草太を要石としミミズを封印するが、それは草太との永久の別れを意味していた。

これはそのまま『君の名は。』『天気の子』と同様に犠牲となった片割れを救う展開の繰り返しになる。今回は男女の役割を逆転させているという表層に変化は見られるが、その点も新たな疑問を生じさせている。それについては後述するとして、ともかくこの中盤の展開については唐突さが否めない。

要石や後ろ戸の存在と役割については、序盤に草太の口からの言及か中盤に宗像の家に伝わる書物などで示されるのみで、それらがどう生活に関与していたのかといった具体的描写に乏しいために、よくわからないファンタジー要素をトリガーに中盤よくわからないまま草太にその役割が移譲したという印象を強めている。

『君の名は。』の入れ替わり現象にしろ『天気の子』の晴れ女にしろその詳細は深くは掘り下げられてはいなかったじゃないかという反論はあるのかもしれない。ただ、これらは劇中で段取りを組んだ上でその不可思議な事象に慣れていく様子を物語の中に組み込んでいた。比較すると、『すずめの戸締まり』は、超常現象が超常現象のまま取り置かれ、ロードムービーやアクションといったメインの軸が先行していくために、物語も折り返しとなってそこで急に要石を転機としたピンチを招かれたとしても飲み込みづらさのほうが勝っている。

付け加えると、「要石の役割を別の物体に移し替えることができる」(※)という設定もここで初めて出てくるので、その展開に至る道筋もない。

※草太が要石になる事件の直前に鈴芽達が読んだ古書「閉ジ師秘伝ノ抄」と「要石目録」にて、要石は本来剣の形をしており、時代によって設置場所を変え、何十年、何百年とその土地を癒やし続けるといった記載は見られるが、要石の機能の移譲については少なくとも小説版では見られない。

 

アクション、ロードムービー要素から見える手慣れなさ

厄災の出入り口たる後ろ戸、そこから去来する厄災の元凶ミミズ、それを封じ込めるための要石。こうした諸要素が説明的で、なおかつ過去作と比べてもやけに後景化されている点を述べたが、極端な話、それらは主軸たるロードムービーさえ説得的であれば、あまり気にならなかったのかもしれない。

ただ、案の定というべきか、今作は一人の少女・鈴芽がそういったマクガフィンを契機に日本各地を巡り成長していく冒険譚とみても疑問が多い。

唐突に椅子になってしまった草太と協力して各地に出現する後ろ戸を閉じる旅に出ることになる鈴芽。彼女はその旅先で現地の人と知り合いながら、やがてもうひとつの要石のある東京へと向かっていくのだが、この道中出会う人々との交流が問題に思える。

旅先で鈴芽と知り合う人々はみな概して善良すぎるのだ。それも不自然なくらいに。身一つ、着の身着のままで家を飛び出し、一介の女子高生が九州から東京まで移動するにあたって、少々無理のある描写が散見される。出会う人々は鈴芽が明らかに不審な行動を取っているにもかかわらず、そうした事情には深入りせず、ただ衣食住を与え、親切に接してくれる。これらの旅先で会う人々の描写は、その土地にかつて住んでいた人々や在りし日の景色に思い巡らせる閉じ師が、後ろ戸を閉じる際の鍵になっているように扱われている。ただ、いまいち説得力をもって感じられないのは、肝心のエピソードが魅力に乏しいことに加えて、その肝心の人物描写が書き割り的であり、あまり日常から着想されたような叙情も感じ取れない点に原因がある。

宮崎から愛媛へと到着した鈴芽は、同年齢の千夏と出会う。家業の手伝いで運んでいたみかんを坂道で落としてしまったところを、鈴芽(と椅子姿の草太)に助けられたことをきっかけに知り合うことになる。このエピソード自体があまりに偶然の産物で面白みに欠けるのは看過するとして、この後千夏はみかんをお礼に渡すにとどまらず、宿を営んでいる家に招き入れ鈴芽をもてなす。子供椅子を抱え、飼い猫でもない猫を追って九州までやってきた高校生の少女が、あまつさえ急に土砂災害で通行止めになっている悪路を軽装で走っていき、みすぼらしい格好で夜中に戻ってくる。かようにも不審な行動を取り、その事情についても十分な説明をしていないにも関わらず、千夏はそんな鈴芽を日が落ちるまで待っていてくれるし、宿に泊めた夜には「大事なことをしとるような気がするよ」という台詞までかけてくれるし、しかも翌日には着替えまでくれるのだ。深入りせず、旅路に必要な手段は提供してくれる、あまりにも主人公に好都合なキャラクターではないだろうか。

はたまた、明石海峡大を渡る前に知り合ったスナックママのルミにも同じことが言える。こちらは家出少女であることについて、千夏よりも経験上察知しているような様子があるが、それでもたまたま見かけた子供を目的地まで乗せてくれる。一応、見返りとして子供の世話やスナックの手伝いを鈴芽に頼む分、千夏よりはご都合主義感は薄れているが、結局エピソードとしては偶然知り合った人との交流を経て近くにあった廃墟へミミズを封じに行く流れで重複している。鈴芽達のドラマの進展は、ここでは子供をうまいことあやした草太が教職を志望していることが判明するぐらいで、そこへの繋ぎが作業的な廃墟の紹介やお決まり的なスナック描写しかないので、面白味に欠けるのが正直な感想だった。

こうした都合のいい助っ人キャラはたしかに『君の名は。』における勅使河原などがいたが、たとえば彼の場合、序盤の時点で三葉に気があること、薄っすらとした父親への反発心、都市伝説や怪奇現象への興味といった描写によってクライマックスで三葉(瀧)の与太話とも取れる救出作戦に協力くれることへの説得材料を用意していた。対照的に、鈴芽が旅先で出会う人たちは、唐突に出てきては急拵えな理由を仄めかすのみだ。

クライマックスに差し掛かって鈴芽と環の二人に関与してくる芹澤も事情には深入りしてこず、ただ親友である草太のためだからと昨日今日顔を知ったばかりの素性のわからない女の子とさっき出会ったばかりの女性を乗せてはるばる県境を越えて運転する役所で、もはやお人好しというレベルを越えている。そもそも親友とは言うものの草太と芹澤がどのような間柄なのか、直接言葉を交わすシーンがないため、読んでるこっちとしては想像のしようもないのだ。

結果、物語上、唯一鈴芽の一人旅に物申す大人は、環しかいないのだが、これも鈴芽が今どういう状況に立ち合っているのか具体的に把握しないままに最後の実家への旅路を共にすることになる。当初こそ娘の行動を訝しみ、衝突もするのだが、結局重要な情報を持たない環と鈴芽の問答が公平であるはずもなく、わからず屋な印象さえ抱かれかねない立ち位置になってしまっている。引き取った子供の面倒を見ているうちに婚期を逃したというようなこの手のキャラクターにありがちな本音の吐露をさせるぐらいなら、きちんと物語に介入させて、大人としての役割を果たさせる方がよっぽど、閉鎖的な物語の印象を改善できたような気がしてくる。

鈴芽が閉じ師の仕事を初めて代行する際、草太からは、その土地に暮らしていた人々や景色・感情に耳を傾けるよう指示される。かように、これらの登場人物との交流を、今作は閉じ師の役目を果たす上で重要な位置付けにしているのは自明なのだが、各エピソードが偶然知り合う良心的な人々に頼りすぎていることや、各人と廃墟の結びつきが口頭で言及されるぐらいで具体的にはあまり描写されないせいで、危機的状況の鍵としての現地人との交流・好感に説得力をあまり感じられない。

例として、千夏と知り合った後に向かった廃校では、ミミズを封じる際に、鈴芽は在りし日のそこに通う生徒の様子に思いを馳せ、千夏のことも想像するのだが、しかし鈴芽はその時点では千夏と出会って蜜柑を食べながら軽く自己紹介と雑談をした程度の仲でしかない。しかもその廃校がかつて千夏が通っていた中学校であることを知るのは、その後であり知る由もない。ここでは「取り急ぎ想像したら何故かうまくいってしまった」というようなシーンになってしまっている。せっかく見せ場たり得るアクションシーンでも、その解決のための理屈が不明瞭な情緒に委ねられ暈されているが故に、少なくとも文字を追っている上ではあまり没入できなかった。結果、作業的に現地人と交流→事件発生→事後処理という工程がむき出しになり、ゲームのクエストのような印象に終始している。

この辺りは映像化された際に補強ないし補完されることを望む。

 

衣装を変えただけのボーイミーツガール

ロングシャツ姿に長髪をなびかせる旅人風の青年・宗像草太はこれまでのボーイミーツガールにおける「制服を着る年頃の男女」からの脱却を感じさせるデザインではある。ただ、劇中での立ち位置はそうした期待感を裏切って、なかなかどうして典型的なボーイミーツガールにおけるロマンス相手の造形に思えた。

主人公との間に運命的な縁や絆を持ち、超常的な力や現象に通じており、それ故物語の佳境において苦難に見舞われる。これはそっくりそのまま前作、前々作における所謂ヒロインキャラの役割を男性へと反転させたような印象を受ける。実際、草太は鈴芽の目線から神秘的・魅力的な存在として捉えられる描写がいくつかあるし、草太の側も成り行きとはいえ自身の家業へと踏み込んできた闖入者の鈴芽をあっさりと受け入れる。

今回は草太の側にあまり恋愛的なニュアンスを強調して描いていない点だけは安心できるのだが、立ち位置を総括してみると、ラブロマンスの相手役として口当たりの良い設定に押し込まれているような当たり障りのなさを感じる。草太には一応、由緒ある家系に生まれながら教職志望というバックグラウンドを設定されてはいるが、ここがあまり深掘りされず、中盤からクライマックスまではほとんど人質のような役回りに限定される。彼はダイジンにより椅子にされてしまった結果、教職試験を受けられなかったという不幸に見舞われており、それが鈴芽や芹澤にも動揺をもたらす描写もあるのだが、その解決が描かれないのも消化不良だ。

ともあれ、男女の役割を反転させたという点だけは進歩的という意見もあるのかもしれないが、個人的にあまり支持しない。救う側と救われる側の不均衡な関係が残置されてしまっているという点では、前作、前々作から変わっていないとも言えるからだ。

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そして何より、今作の鈴芽のキャラクターに関しても、既往の「女子高生」キャラをほとんど逸脱しない造形に留まっているのが残念だった。今時、「キスで眠りから目覚める」というコテコテな入れ知恵をそのまま信じて実践しようとする純真無垢さ加減、そして知り合って数日間しか共に過ごしていない男性に対して急速的かつ強固なまでに芽生える恋愛感情、そして苦境に追いやられたパートナーのために発揮される健気さと直向きさなど、どれを取っても(主に男性によって)若い女性に求められる清廉潔白な要件を投影しているような感じであり、正直目新しさもない。実像の女性から得られた着想や特徴よりも、そこへ向けられる眼差しの方が優先されているのではという疑念は結局今作でも晴れなかった。

有り体に言って、アニメ的な純真無垢な女子高生と、ヒロイン的な役どころに収まる青年の組み合わせは単純な反転であるし、意識変革を感じ取ることが難しい。むしろ女子高生と年上の男性という組み合わせは、既往の作品でも散々見られた表象である。物語の最後をこれまでと同様に、「苦難を共にした男女が再会する」というラストシーンで締めくくっているところまで含めて、妙なところで踏みとどまっている印象だった。

 

『君の名は。』から尾を引く災害とロマンス要素の不整合

新海誠を国民的作家と呼べる地位に押し上げた言える『君の名は。』も、絶賛一色と言うわけにもいかず、賛否を分けた部分もいくつか見られた。よく槍玉に挙げられているのが、直前の項にあるような女性キャラクターの表象なのは今更言うに及ばないだろう。直接的な性描写はともかくとしても、「女子高生の口噛み酒の商品価値に言及する女子小学生」「身体を勝手に触られたことをジョークとして受け流す軽々しさ」といった大衆向けの作品にそぐわない眉をひそめるような表現について様々論議があったが、今作では見られなかったこともあり、ここではそうした不味さについては割愛する。

ただ、依然として残っている不味さはある。具体的に言えば、震災モチーフと物語に内在する精神性の分離である。

『君の名は。』では隕石落下を震災とみなすと、こうした問題点が浮き彫りになっていた。理不尽な災害で失われた景色=糸守町は結局その運命を回避できなかった、という所には現実的な因果と惨禍を重ねることはできても、被災者としての象徴たる糸守町の人々はその運命を回避し、糸守町の記憶を抱えて生還するという結末は、どうしても取り消すことのできない理不尽な現実を前にすれば相容れない後味を残していたように思う。しかも、そうした震災映画としてのスキンを被せて締めくくられるのが、震災とは無関係のボーイミーツガール文脈の再会である。被災地とそれを傍観する都市、生者と死者、過去と現在という距離に隔てられていた二人が、(劇中では「結び」なる言葉で説明されるが)神秘的な現象とラブロマンス的な情緒によってそれを乗り越え結ばれる展開に、快楽を見出すことは容易いのかもしれないが、果たしてそれが語られる表象と調和していたと言えるのか。そうした懸念が思い浮かんだ。

この噛み合わせの悪さは、小説版を読んだ限りでは、今作『すずめの戸締まり』においても残置されているように見えた。

閉じ師である草太は要石と化した自身の運命を受け入れ、鈴芽の手によって一度はミミズの封印に成功する。しかし、全体の安寧のために犠牲になった草太の運命を拒絶し、鈴芽はけっきょくは草太の救出へと乗り出す。これが後半の展開である。

展開的な唐突さや都合よく現れる助っ人のご都合主義的な様はすでに述べた通りだが、それを抜きにしても引っかる所は多い。

後半、鈴芽は自身を追って宮崎から東京へとやってきた叔母の環と旅路を共にする。その過程で今度は訪れた先の人々の声やかつてあった景色に思いを馳せる閉じ師としての旅ではなく、亡き母の思い出や自身を育ててくれた環と向き合い自身を省みるという本来的な意味でのロードムービーへと変遷を遂げるのだが、この接続があまりうまくいっているようには思えないのだ。

この展開の折、幼少の頃に鈴芽の住んでいた土地は被災し、働きに出ていた母親は終ぞ帰ってこなかったことが明らかになる。鈴芽自身、前半で訪れていた場所のように、今では変わり果ててしまった土地に由縁を持つ存在というわけだ。千夏の通っていた中学校は土砂崩れにより廃校を余儀なくされ、ルミが幼少期に通っていた遊園地も倒産により今は廃墟と化していた。いずれも人々に放棄された景色である。その点では確かに通じるところもあるのかもしれない。

ただ、前半と後半を繋ぐ要素として「人のいなくなった場所」という項はやや結びつきが弱く、鈴芽自身が草太を救おうとする動機としても説得力に欠けるように感じられる。それらが例えば同じ震災を起因として放棄された場所であるかといえばそうではない。鈴芽の実家はややぼかされているが年齢的に3.11で間違いないだろうが、千夏の学校はそれとは無関係の土砂崩れ、遊園地に至っては災害ではなく経営上の都合とあまり一貫性がない。

どちらかといえば、後半の舞台骨となっているのは前半の閉じ師のクエストをこなしていくパートを共にした草太との絆の印象が強い。しかし、そうしてみた際に、やはり震災のモチーフと草太を救おうと奔走する鈴芽の間には齟齬があって、鈴芽が母親との死別を受け入れるというドラマが展開されるクライマックスでは、今度は草太が鈴芽と母親のドラマに対してそれほど密接な関わりを持てないというジレンマが発生している。物語後半をリードする「草太を救わなければならない」という鈴芽の動機と被災により親を失った子供という震災映画がつながりを持てないままに、救える確証もないままひた走る少女に気持ちを乗せる気は起きなかった。

草太自身は廃墟をめぐる閉じ師であり、その使命に対しては忠実である一方で、震災との関与を特に語られていない人物であるし、教職試験の一件や芹澤との関係などただでさえ語りが不足しているために、鈴芽がその救出に向かうための動機としてはいささか説得力を欠いている。一応は、鈴芽が草太を助けようとする行動の核心には母親を失ってしまった一件が絡んでいるという見せ方にはなってはいるが、草太とは出会ってまだ一週間も経っていない成り行きの旅の同伴者である以上、やはりこの後半の物語の足腰は弱いように感じられた。それこそ「草太さんのいない世界が、私は怖いです」という迫真めいた台詞が、妙に空々しくページの上を滑ってしまった。

つまるところ、少女が過去の喪失から立ち直るドラマに向かうための原動力が、ラブロマンス的な匂わせを絡めたとにかく助けたい一心に向かってしまう。しかしそれは震災を『君の名は。』以上に直接的に表現した作品において、ややも素直に承服できないぎこちなさを感じさせるのであった。

 

以下、細かな気になった点

ダイジン、サダイジンについて

どういうわけか要石から猫に変化し、中盤まで元凶・悪役然と振る舞うダイジン。思わせぶりに立ち回る割に蓋を開けてみれば動機は単純に愛に飢えた子供というキャラクターである。では、なぜあのように露悪的な台詞を吐いたり、ろくに説明もせず鈴芽を精神的に追い詰めるような立ち回りをしたのかについては、読み終えてなおしこりが残る。サダイジンに至ってはこれまた唐突に姿を現し、やはりなぜ要石から猫の姿になったのかの理由らしきものは描写されない。

鈴芽のことを(実際にはそうでないにもかかわらず)母親のように見做すダイジンの立ち位置は、そのまま幼少期に自分自身に母親の幻影を見出していた鈴芽自身と重なる造形となってはいるのだが、結局ダイジンは要石としての役割を果たし、ミミズと共に常世に封印されるという「収まるべき所に丸く収まる」結末なので、心理や状況変化の唐突さと相まって素直に受け取りにくい話になっている。

 

鈴芽の特異性について

なぜ鈴芽だけにミミズが見えるのかといった点を中心に度々見せる鈴芽の特異性について明確には語られず、作品の根幹をなす設定があまり釈然としない。宮水神社という特殊な家系の生まれという訳でもなさそうであるし、(着の身着のままで旅に出る度胸があるぐらいで)彼女自身の精神性や立ち位置に至っても一介の女子高生という枠を出てこないので、かなり謎が多い。一応、劇中の描写から推測すると、幼い頃に母親を探し求めているうちに常世へと迷い込んだことが原因のように解釈できる。ただ、劇中草太が語るように本来は生者は立ち寄れない世界となっているので、なぜ幼少期の鈴芽が彷徨い込んだのかという疑問も生じてくる。あるいは、常世に迷い込む条件を近親者を亡くした者としても、被災者は鈴芽以外にも数多くいるわけで、やはり鈴芽(と草太)だけが今回の事件に関与できた理由付けとしては少々弱いように思える。そのせいで、この事件や世界観そのものが、二人のために用意されたいかにも閉じた感じを放っている。

 

閉じ師という職業の都合の良さ

閉じ師が秘匿されるべき必然性が感じられない。過去に関東大震災などの天災の原因として描かれるミミズ。そしてミミズの蹂躙を防ぐべく日本各地の廃墟に出現する後ろ戸を閉じて回る自警団とも言うべき存在が閉じ師とされる。この閉じ師にまつわる詳細はやはり明らかとは言い難く、劇中でも最低限の説明で済まされているのだが、流し見ていてもふと疑問に思うことがいくつかある。劇中では宗像の家系に生まれた者がその技術を継承し、主業(草太の場合は教師)を行う傍らで生涯副業的に生業としていくように描写されているのだが、国民の人命に関わる重要な任務が専業で行われないのはやや不自然だ。そもそも全国を宗像の当代担当が一人で回っているとは考えにくい。何より、科学的に証明できずとも厄災と後ろ戸の因果が明らかな以上、それを政府非公認の組織・一族が人知れず、しかもこれといった補助や支援もなし(見る限り草太は公共交通機関を利用して単独で宮崎に訪れている)に行なっているのだろうか?物語を通して、閉じ師という職業が秘匿されている必然性が感じられず、草太と鈴芽という子供たちが大人の見ず知らずの所で物事を成し遂げるということを優先した世界観のように感じられてしまうのだ。

 

震災は「がんばり」で防げるものなのか

そもそも天災を人為的な建造物に依拠する現象として描くことの是非もあるだろう。常世よりミミズが這い出る現世への出入り口の後ろ戸は、単に無作為に全国各地に出現するのではなく、人々が忘れ去った土地に出現するという説明がなされる。言い換えれば、天災は無意識的にではあるが人為的な行いの結果であるというように描かれており、しかも本作の世界観では、名前こそ伏せてはいるものの、過去起こった天災をそれによって説明をつけている。震災映画として見做した際に、『君の名は。』における時間遡行や死者を蘇らせる行いが齟齬をきたしていたように、『すずめの戸締まり』も同様に、実際の震災を扱いながら劇中のファンタジーの理屈で説明をつける手つきにともすれば危なっかしさを覚えてしまった。

 

草太と鈴芽の関係の希薄さについて

すべての時間が行き交う常世にて、実は草太のことを幼少の頃に見ていたという事実が明かされる。なんだか『ハウルの動く城』を彷彿とさせる設定ではあるが、それはいいとしても前述したように二人が旅を通じて、終盤に鈴芽自身が危険を顧みずに助けに行くほどの関係をあまり感じさせてくれない。草太からすれば、身体が椅子になった弊害から満足に閉じ師の役目を果たせなくなった協力者という認識であろうし、互いにたった一週間も共に過ごしてはいないので、それほど深入りした関係とも呼べない。終盤は鈴芽の側が一方的に淡い恋愛感情で動いただけにも思えるし、幼少期にひと目会ったという事実を持ってその感情に説明をつけようにも、それが草太である必然性がわからない。

言ってしまえば、近しくなることを宿命付けられていただけの関係とも言いかえられてしまう。旅で出会う登場人物について述べたようにロマンスに依拠しない領域での人間関係の機微は薄味で、その上主軸の二人でさえロマンスを絡めてなお因縁も深まっていく様子も不足している。

 

まとめ:唯一進歩を感じさせた点

小説版のあとがきにおいて述べられている内容が象徴的だった。

自分の底に流れる音は、2011年に固着してしまったような気がしている。

その音を今も聞きながら、僕はこの物語を書いた。そしてたぶんこれからも、ぐるぐると同じようなことを考えながら、あまり代わり映えしない話を(代わり映えさせようと努力してはいるんですが)今度こそもうすこし上手く語ろうと、次こそはもっと観客や読者に楽しんでもらえるようにと、作り続けていくのだと思う。

(角川文庫「小説 すずめの戸締まり」369−370ページより引用)

読み進めている最中に抱いた引っかかりが妙に腑に落ちてしまった。引き出しの少ないことを自覚し、それでもなんとか変奏を試みている際のぎこちなさを、読んでいて随所に感じていたからだ。

今作はボーイミーツガール脱却の苦労の跡をそこかしこに認めつつも、『君の名は。』から拭いきれずにいる文脈や手付きを大いに残した作風に感じられた。新たな試みであるアクションとロードムービーも強い新規性を感じさせるには至らず、また個々のエピソード・登場人物もまるでゲームのサブクエストをこなしていくような紋切り型な印象が目につく。クライマックスにいたっても、大切な人を助けるべく走る少女(少年)という点にやはり見覚えがあり、しかも大空から落ちていく絵にしろ、最後の再会にしろ、過去作もそうだし、既往の作品からの引用をはみ出てこない画ばかりで、読んでいる限り脳裏にはさほど面白みのある映像は書き起こされなかった。

見返してみても、今作『すずめの戸締まり』の小説版から汲み取れた物語そのものは、高く評価できるものではなかった。

ただ、一点だけ『君の名は。』以降の明確にここは歩を進めたと言えるのは、鈴芽が母親だと思っていた人物が実は自分自身だったと発覚する展開だろう。物語の冒頭から、しきりに母親がいた景色への郷愁に駆られ夢にまで見るほどだった鈴芽は、失われた景色や人の象徴たる母親と言葉を交わしたりするのではなく、常世にさまよいこんでいた自分と再会し励ます。喪失感に襲われた人が立ち直るきっかけはいつか訪れる未来への想像であり、今の自分もまた過去の自分を救うことによって救われるのかもしれない。『君の名は。』で糸守町の人々が蘇ってしまったこととは対象的に、亡き母を蘇らせるのではなく、時空を超えた人の再起を描くこの結末は、ファンタジーを介在させながらもすこし不思議な身近な体験のように感じられる。

失われたものを取り戻すことはできないという一線を引き、その上で立ち直る姿を描きたかったというのであれば、自分は今作の進歩はまさにそこに見出せるのではないかと思った。

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