消費物映画の頂点にガラパゴス化の危険を感じた『名探偵コナン 紺青の拳(フィスト)』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2019 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会

こんにちは、ワタリ(@wataridley)です。

今回は劇場版『名探偵コナン 紺青の拳(フィスト)』のレビューを書きます。

例の如くネタバレをしながら映画の感想を書いていくわけですが、今回は特に批判的な内容にもなっております。その点を踏まえた上で、進んでください。


40/100

ワタリ
一言あらすじ「コナンがマリーナベイ・サンズを海に落とす」

「確実だから」ヒットするコナン映画

気づけば今年も劇場版『名探偵コナン』の季節。コナン映画は年々興行収入および観客動員数を伸ばし続けており、公開される4月の風物詩と化してきている。

第18作『異次元の狙撃手』ではシリーズ初となる興行収入40億円を突破し、同年に公開されていたメガヒット作『アナと雪の女王』の興収ランキング連続1位を阻止。続く『業火の向日葵』も更にヒットし、記念すべき第20作『純黒の悪夢』においては黒の組織というコナン本編の重要人物たちや安室透の初映画参戦などの目玉要素が目白押しで、興収は一気に60億円を突破。平次と和葉の恋愛要素を打ち出し、一旦は小休止に入るかと思われた第21作『から紅の恋歌』もヒットの勢いは留まることはなく、約69億円を稼ぎ出した。

そして、2018年公開の『ゼロの執行人』では多くのファンを持つ安室透がキーキャラクターに据えられ、91億という大記録を打ち立てた。これは2018年公開の作品の中では『ボヘミアン・ラプソディ』『劇場版コード・ブルー』に次ぐ数字であり、アニメーション映画では1位である。

もはやコナン映画は社会現象と呼んでも過言ではない、日本における巨大なローカルコンテンツと化している。何しろ世界中で初登場1位を打ち立てていた『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』でさえ、コナンには勝てなかったのだ。

だから『紺青の拳』がヒットするというのは、もはや既定路線だ。みんながコナンを見ているという状況は映画館になかなか足を運ばないライトな消費者にも波及し、「年に1度の映画鑑賞にコナン」というのもいるだろう。『君の名は。』や『アナと雪の女王』もほうだが、もはやここまで来ると作品の質に対する意識はあまり関係がなく、トレンドの主幹に関わりたいという好奇心の方が大きいのかもしれない。

だが、観客の関心を誘うべく数多くの映画が日々広報に励んでいる中、どうしてコナンだけが突出しているのだろうか?

コナン映画がここまでヒットするに至った要因として、個人的には以下の3つが考えられる。

  1. 爆発や巨大装置で装飾されたビッグバジェット「的な」映像
  2. 本格ミステリー「っぽい」装いのストーリー
  3. 見るだけでコンテンツ摂取した「感」を得られるコナンというアイコン

観客は①で映画館の音響とスクリーンならではの映像を、②でジャンルから予測されうる定番の展開を、③でアイドルやミュージシャンのライブに参加したかのような体験を得たような気分が味わえる。

せっかく映画館に行って世界的に高いとされる日本の映画料金を払って見る以上、映像面での派手さに欠け、どんな物語かも予想がつかず、知っているキャラクターや俳優も出てこないという不安は回避したいというのが観客の心情である。こうした保守的な思考に対して最も宥和的な映画、それが劇場版『名探偵コナン』なのである。

昨年の『ゼロの執行人』がひとっ飛びにヒットしたのは③のアイコン人気が大きかったのではないかと思う。安室透の女性ファンからの人気ぶりは傍目から見ても凄まじく、現に安室さんを応援する声出しOKの上映形態も大手映画館では組まれていた。会いに行けるアイドルならぬ会いに行ける安室透が、興行収入に影響したというわけである。

そこでいくと今年のコナン映画では③の効果が前年には及ばない懸念はある。怪盗キッドが事件において重要な役目を果たした映画はこれまでに4作が製作されているが、どれも興行収入面で飛び抜けているわけではない。だからなのか、キッド映画と打ち出すのと同時に、園子の恋人にして400戦無敗最強の空手家である京極真が劇場版初登場となっている。原作において非人間的な身体能力・戦闘能力を披露していた京極真と定番の人気キャラであるキッドを組み合わせることで、例年に負けない話題性を担保しようという意図が見える。更に舞台はコナン映画で初の海外、シンガポールときた。ヒットのために頭を働かせた製作者の姿が思い浮かぶ。

さて、ここまでがコナン映画の人気とその要因を振り返ってきた。観客の予想を裏切るべきミステリーでありながら、観客の期待を裏切らない定番の要素を提供し、観客もまたそれに乗っかるという循環構造が、雪だるま式にコナン映画を拡大させてきた。そして現在の到達点として『紺青の拳』がある。

当ブログでは、様々な映画をレビューしてきた。アニメーションといっても絵やCGによるものだけではなく、ストップモーションアニメも見てきた。全編PCなどのデバイス上で展開する変わり種のサスペンスやたかがカンニング行為で手に汗握らせてくるクライムムービーなどもあり、この世界には多種多様なクリエイターがいることをその都度実感させられてきた。

なぜこんな振り返りをしたのか?それは肥大化してきたコナン映画の現在に、そうしたクリエイターの意思がまるで感じられなかったからである。

はっきり言おう、『名探偵コナン 紺青の拳』は実に怠惰でつまらない作品だった。

 

整理されないミステリーと希薄なキャラクター

ミステリー要素におけては、情報をいかにして開示していくかが観客の興味を左右することは言うまでもない。タイトルに「名探偵」とあり、キャッチコピーにおいて「三位一体バトルミステリー」などと謳われている今作は、前半部分で謎を配置し、後半に真相を明かすオーソドックスな構成を取っている。

だが、今作の情報開示は全体的に取っつきにくい。冒頭、レオン・ローとシェリリン・タンがバーで待ち合わせ、2人の間の取引が破談となった場面から既に拙い会話が繰り広げられる。訳ありげにYESかNOかを問うシェリリンに対し、レオンは彼女が頼んだ注文を言い当てるという必要性のわからないマジックを披露する。結局この件はウエイトレスに裏打ち合わせていたことが直後に明らかになるが、意味のないやり取りに対してご丁寧に種明かしまで書き込んだ結果、2人の取り引きとやらの破断が実に粗末に扱われていて、意図がわかりかねるシーンであった。

明らかにレオンが裏で何かを企んでいるという倒叙ミステリの外見を披露する一方、バーの中で明らかに険悪な会話をしていた上に、人がたくさんいる中を瀕死の女性が助けも求めずに堂々歩くという奇妙な絵が展開される。爆発騒動においても平静を装って現場保存をするレオンといい、フィクション内のリアリティさえも放棄した現象の数々に、序盤から事件の真相そのものよりも、描写の不自然さに注意がいってしまう。

冒頭で観客を引き込むべき謎の提示に、そもそもメタフィクション的に考えて不自然な点が多すぎて、注意が散漫になる。結果、事件そのものに興味が持つことができない。劇中、シンガポールにあるマーライオンが赤い水を吐いたカットがあったことを覚えているだろうか。これはのちにコナンが「世界的にニュースになっていた」と語っていたが、観客からすると序盤のあのカットから誰かに向けたサインであることを結びつけられるほどの情報は得られない。答え合わせは論理的に導き出されるのではなく、単なる後出しジャンケンであり、情報提示はアンフェアだ。

おまけに事件の真相を明かすまでのパートも立ち話が中心で、キッドと京極のアクションパートを除くと、大半が面白みのない絵で構成されている。追い討ちをかけるかのように、今作の真相に絡む登場人物達も多く、整理しきれているとは言えないまま、情報は垂れ流される。適当なモンタージュと相俟って、情報を追うのにも一苦労である。

 

複雑なのに説明不足なシンガポールの事件関係者

冒頭から登場したレオン・ローは表向きは犯罪心理学に長けた警備会社の経営者として描写されるが、裏では紺青の青と引き換えに海賊にシンガポールを破壊させることで都市開発計画を過激に推し進めようとする野心家であった。

彼の教え子である予備警察官のリシ・ラマナサンはかつて父を殺害された恨みからレオンに復讐する機会をうかがっていた今作の黒幕であった。

殺害されたシェリリン・タンはレオンの警備会社の顧問弁護士であったが、彼の悪行に気づいており、リシと共にレオンを告発する腹積もりであった。

レオンの秘書レイチェルはレオンのシェリリン殺害のアリバイ工作に利用され、良心の呵責から小五郎に駆け込み、事件を明るみに出そうとしていた。

レオンの側近ジャマルッディンは厳格な武闘家であり、最強の京極真と戦う事を何よりも望んでいた。

そして、レオンの会社に紺青の拳の警備を依頼していた。富豪家ジョンハン・チェンは好々爺に見えて実は過去にレオンの都市開発計画を退けていた。

このようにシンガポールの事件関係者の情報を一通り列挙してみたが、彼らにまつわる「実はこうだった」という情報は、劇中で大半が説明台詞や回想シーンで後出しされれる。

物語の序盤から裏に何かあると見せかけていたレオンでさえ、その内面が充分に描写されることがないまま、後半になって海賊と取引をして街を破壊するよう持ちかけていたこと、ジョンハンにコケにされていたことが提示される。倒叙ミステリは、事件を通じて犯人側の心理に迫ることができるという利点があるにもかかわらず、彼の抱えていたシンガポールの都市への拘りやジョンハンへの恨みは全く描かれることがない。だから、いきなり事実が明らかになったとしても、「海賊に街を襲わせる」という破滅的な計画を思いつくに至る経緯がわからない以上、ひたすら困惑するほかない。

ただでさえ事件の主犯格であるレオンが描写不足であることに加えて、ここにリシというさらなる黒幕の存在が物語のサプライズとして強引に差し込まれる。リシは表向きの役割である予備警察官としても十分な活躍がないまま、中盤コナンとの会話によって実にあっさりと父親の死について触れ、クライマックスでレオンへの怨恨の原因であったことが明かされる。しかし、亡き父に関する話はコナンとの軽々しい会話にしかなく、彼自身が復讐に取り憑かれて暗躍していたことを示す描写はまるでないので、安直などんでん返しにしか思えない。ほとんどモブに近い善良な警察官としてしか描写されていなかったために、終盤で実はこう思っていたと言われても、感情移入は不可能である。どうしてキッドを巻き込こんだのか?という今作の発端についても、「計画を狂わせてくれると思ったから」などという願掛けに近い理由で説明しきる始末である。こうした杜撰な描写故に、どうしても事件のすべてを把握していたはずの彼が浅はかな人物に思えてならない。

単に人物描写が軽薄というだけならまだしも、徒らに事態を複雑に見せかけただけのキャラクターまで存在している。秘書のレイチェルに至っては登場が極端に少なく、セリフがあったのは覚えている限り、初登場時とレオン邸でジョンハンを引き止めようとしていた時、そして小五郎に名刺を渡すシーン程度だった。人物像がそもそも見えてこないので、殺害された衝撃よりも、早々に出番を終了する驚きの方が勝ってしまった。考えてみると、小五郎にタレ込もうとしていた理由もわからないままだ。なぜ現地の警察に内部告発しなかったのだろうか。

ジャマルッディンの武闘家キャラも本筋とは関係がない。紺青の拳をめぐる空手大会は、コナン達をシンガポールに誘き寄せるための作劇上の口実でしかなく、結果として彼の活躍の場はほとんどクライマックスのビルの屋上に集約される。しかし、京極真と戦いたいという武闘家精神は、京極と握手を交わした時や大会で彼が出ないと知った時の失望などごくわずかなカットでしか描かれていない。彼がそこまで強さを追い求める理由や武闘家としての美学が多少なりでも描かれていたのなら、アクションパートのボスらしい存在感を発揮できたはずである。レオンに対する不満もあの非常事態に噴出させる意味も不明。一体あれだけの危険を冒してまで京極に戦いを挑んだ彼を何が突き動かしたのだろうか?

このように今作のミステリーパートを担うシンガポールの事件関係者はいずれもコナン、キッド、京極をシンガポールに呼び寄せ、芝居を演じさせるために仕組まれた体のいい動機付けでしかないのである。見え透いた役割を持たされたキャラクターには生きていると思わせるだけの深みはない。

 

ある者は捻じ曲げられ、ある者は記号化される

では譲歩して、シンガポールの事件関係者たちがコナン、キッド、京極をおびき寄せ、彼らの活躍の場を提供するだけの存在と割り切ったとしよう。当然、そうなれば今作の見どころは我々が良く知るコナン達の掛け合いやアクションになる。

しかし、その線ですら受け入れがたい描写ばかりだった。

「江戸川コナン」としての戸籍を持たないコナンは、パスポートを持つことができない都合上、これまで正式な手段で海外にやってきたことがない。故に、今回の劇場版ではキッドに誘拐されてシンガポールにやってくる。

キッドのスーツケースがないと帰国できない弱みを握られた状態で、やむなくキッドに協力させられるコナンは、あろうことか劇中で彼の犯罪行為に加担することになる。映画の中における怪盗キッドの窃盗は、結果的に事件の黒幕の陰謀を阻止しうる行いとして描かれてはいるが、当初何も知らないコナン達からすればレオン・ローの家宅に侵入するのは京極の言う通り立派な不法侵入罪である。また、レオンは「紺青の拳」が奪われたら多大な賠償金を支払わされることになる。そんな状態でキッドの盗みを看過し、あまつさえ彼の逃走の手助けをするという書き方は、犯罪者と相容れないはずの探偵コナンのキャラクターを著しく棄損しかねない。

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「脅されて仕方なく」というエクスキュースはなされているが、キッドとの協力関係に罪悪感を抱いている描写は全く無く、代わりに「蘭に手を出すな」というような牽制や警戒が目立つのは、キャラクターが捻じ曲げられていると捉えられても仕方がないと言えよう。今作におけるコナンには、犯罪を食い止めたいという信念や謎を解かんとする好奇心さえも見えてこず、ただキッドに引きつられて都合のいい推理装置に堕していたため、全く魅力的なキャラクターに思えなかった。

他方、狙いが紺青の拳を手に入れることに集約されているキッドに関しては、活発に動いていた印象を受ける。レオン邸と大会施設に侵入するシークエンスにおいて、軽やかにセキュリティを回避していく手口といった部分的な楽しさを見出すことは出来た。だが、結局のところお宝を奪うことが目的である彼が、レオン・ローや京極真などとドラマ面での接点を持つことはほとんどない。キッドはコナンに対して謎解きの協力を要請するが、彼は紺青の拳さえ盗んでしまえばそれでお終いのはずである。事件の真相とキッドの盗みの間にある繋がりが希薄である以上、敵に対して啖呵を切ることもできない。そのため、全体的にキッドが何を考えているのかは不鮮明で、宿敵のコナンを連れてきてまで真相を解明したい理由もわからず仕舞いである。『豪華の向日葵』のような明確な目的もない。

そしてあろうことか、今作で初めて劇場版に参戦した京極真は最も見所のないキャラクターとなっていた。担わされている役割はあまりに記号的であり、内面を覗き見たいと思わせる魅力は終始感じられなかった。

紺青の拳を巡る大会に参加した京極真は、持ち前のスキルで難なく対戦相手を倒していく。彼が紺青の拳を手に入れるのも時間の問題ではあったが、レオンからの揺さぶりにより自身の力の使い方に疑問を持った京極は、園子を傷つけたという気負いから大会を途中で棄権してしまう。

概略だけ書くと至極全うな理由と流れに感じられるが、京極真が自身の力に不安を抱えているという描写は前半部分において一切ない。それどころかチンピラに襲われていた園子を救い出すといった形でその力を正しく行使しており、悩む余地はどこにもないように見える。この葛藤の原因は、大会で快勝した京極に対してレオンがそれまでの文脈を無視して語りだした欺瞞に過ぎないのである。

ところが、京極はあっさりとその言葉に不安を抱くという従順さを見せつける。彼に対して葛藤を植え付けたがっている脚本家の勝手が見えて、全く人間味を感じられない流れである。

その後に訪れる園子の危機も違和感だらけだ。またしてもチンピラから襲われそうになった園子を京極は守り、3人がかりで襲ってくる敵を傷一つ受けずに倒しきる。この時、園子がパトカーを見て逃げ出したことがきっかけで、彼女は負傷することになるが、どう見ても京極自身の過失ではないため、その後に彼が下した大会棄権ははっきりと意味が不明だった。好意的に捉えれば、恋人のことを想う責任感の強い男のストイックな決断ということなのかもしれないが、あっさりとレオンの言葉に揺さぶられている背景を考えると、一連の行動にはむしろ愚かしい印象さえ受けてしまう。

京極の内面にまつわる葛藤はかなり単純化された自身の強さへの疑念で済まされているために、どうしても肩入れすることも難しい。おまけにミサンガを取り付けられたことを以て、拳を振るうことを禁じられたかのような描写は、メタファーというにはあまりに度が過ぎた直喩である。ミサンガを通じてあからさまに大会出場者に棄権を唆す輩に対して、何の疑問も持たないというのもおかしい。終いには、キッドにミサンガを断ち切られたことによって覚醒に至るわけだが、彼の葛藤とはそんな物理的な手段で解決する問題だったのだろうか?このように彼の内面は徹底して単純化されていた。レオンの言葉やミサンガで操られる彼には到底血が通っているようには見えなかった。

京極と恋仲にある鈴木園子も脚本によって愚か者たらしめられている。彼女は京極が棄権すると知って憤慨するが、その理由は取ってつけたような不安である。彼の眉に貼ってある絆創膏と腕に巻いたミサンガの意味を教えてくれないこと、そして彼の大会棄権を招いてしまった自身に苛立ち、京極を拒絶する。これらの描写は物語の大二幕と第三幕の映り目に急速に展開する。園子が京極に対して不安を抱えていく描写は、今作の主題のひとつが彼らの関係性であるなら、序盤から積み上げていくべきである。それを圧縮された2つや3つの場面で語っているので、園子の内面に生じていた不安を観客に自然と共有しきれていない。そのために、園子がヒステリックな人物に映ってしまう。極めつけに、明らかにホテルの宿泊客が全員外に逃げているという状況下においても部屋に残ると決断するシーンにはこれまた脚本の都合が色濃く出ていて、飽き飽きしてしまった。

シンガポール関係者たちによるミステリー部分も後半部分で圧縮して語られ、コナン達のキャラクターとしての活躍の場も疑問が付きまとうような描写がとにかく。「色々手を出しすぎて整理しきれなかった」という典型的な作劇の罠にはまっているように思える。

蘭と新一のドラマもちらつかせる程度に入れられているが、やはり本筋と関係がない。今作の話には蘭というキャラクターが根本的に不要に思えてならないのだが、「コナン映画だから」という理由で登場せざるを得なかったのだろうか。そうだとすれば、作品の完成度が度外視されてまでキャラクターが駆り出されるのは、作品にとって寧ろ害であると言いたい。

 

バックボーンを欠いたアクションシーンに興奮することはできない

ミステリーもキャラクターも魅力を欠いている中、ビッグバジェット的なルックスを与えてくれるシーンは部分的にならば、たしかにある。京極真が屋台通りでチンピラを相手に本格的なアクションを披露するパートや、終盤のマリーナベイ・サンズの倒壊描写は、映像面での迫力もそこそこあり、まるっきり退屈することはまずないだろう。

今作におけるアクションパートの比重は近年に比べてもそこそこあり、キッドと京極という2人のスタントマンがいるおかげで、動的なシーンを挿入することは容易かったと推察される。

しかし、それらに心底入れ込むことができなかったのは前述した通りである。今作のアクションシーンには、その魅力を増長させる背景のドラマが薄弱で、映像単体が激しいだけなのだ。

例えば、『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』のクライマックスで、ビルに閉じ込められた少年探偵団たちが車に乗ってビルからビルへと飛び移るアクションスタントは観た人の記憶に残りやすいだろう。それは本来無力な少年少女たちがありったけの知恵と道具を用いて危機を脱しようとする背景があり、カーアクションによる飛翔は彼らが生存をかけた一か八かの大勝負なのである。車がビルを飛び移るという視覚的なインパクトは、意味付けが施されることにより、増幅する。

ところが、今作のアクション描写には意味付けを施すことが難しい。怪盗キッドがお宝を盗もうとするシークエンスにおいてでさえ、キッドがお宝を盗もうとする理由が今作限りでははっきりしないために、不明瞭な目的の下で行われるアクションに熱はこもらない。途中、キッドがレイチェル殺しの罪を着せられて逃走する最中に被弾するというシーンがあったが、特にこうした描写が後に影響することもなかった。

前後とのつながりの薄いアクションは、こちらのボルテージをあげてくれない。マリーナベイ・サンズ倒壊を引き起こす海賊は、それまでコナンとキッドが追っていた犯人たちとも別の勢力であり、物語の本筋にまるで絡んできていない。それなのにクライマックスの襲撃には堂々と関与し、場を踏み荒らすものだから、無関係な人物が本筋を停滞させていることに対しての別の苛立ちが生じてしまった。

また、混乱が起きている中のアクション描写は整理がついていない。具体的にキッドがどこを飛んでいるのかがわからないという時間は長い。蘭、小五郎、リシ、レオン等の複数のキャラクター達もぶつ切りのアクション描写で片を付けられている。

ビルが倒壊していく中でジャマルッディンと殴り合う京極には、外見上のインパクトはあった。それは園子を縛って背負いながらという奇抜なビジュアルや、そんな殴り合いしている場合ではないという周囲の状況に由来するものである。だが、京極が内面を読み取れないキャラクターであることや、園子を危険に晒しているとしか思えない状態が、やはりノイズになってしまい、集中しきれない。赤いオーラを放ちながらジャマルッディンを吹っ飛ばすシーンも、ジャマルッディンとの因縁が希薄なために、カタルシスを得ることが難しい。

また、単に映像娯楽とみなそうにも、銃を持った警備員達はキッドが発砲を受けてしまうあのシーンを除いては、勿体ぶったかのように射撃の手を休めるなど、随所に詰めの甘さを感じさせる。特に、廊下で包囲されたにもかかわらず、飛び道具でキッドが逃走できてしまうシーンは、警備員が単に間抜けなだけになってしまっている。結局ここにも脚本のご都合を隠し切れないアクション描写の力不足が見られる。終盤、園子を抱えながら海賊たちを退ける京極の映像も、ぶつ切りのカットで構成されており、肝心な部分を映してくれない。明らかに不利な中でどうやって逃げ果せることができたのだろうか。

 

消費される映画でいいのだろうか

『名探偵コナン 紺青の拳』は、ビッグバジェット「的な」映像本格ミステリー「っぽい」装いのストーリーコンテンツ摂取した「感」を得られるコナンというアイコンの3つを義務的に提供しようとする姿勢が前面に出てきており、社会的なテーマが付されていた前作『ゼロの執行人』に比べても見劣りする作品である。

シンガポールを舞台にしたプロモーションとしてみても、正直惹かれるものがない。マリーナベイ・サンズを爆破するために舞台にしたとしか思えない使われ方であった。

日本において大成功しているコナン映画に意欲を感じられず、悲しくなってきた。

世界には各々の矜持を作品に込めて、世の中の価値観を揺るがしたり、見るものを魅了する表現を成すクリエイター達が資本主義の争いの中でしのぎを削り合っている。その一方で作り上げられた作品群が相互に影響し合い、クリエイターは留まることなく変化を遂げていく。目に見える形ではなくとも、必ず経てきた出来事やその時抱いた感情は作品に反映されうるものだ。だからこそ、その不確実な変容性が面白かったりする。

しかし、劇場版『名探偵コナン 紺青の拳』には、新しい表現もなければ、社会的な問題提起も見られない。ただ定番の展開や既に人気が確立されたキャラクターを取っ替え引っ替えしながら、見栄えだけはいい舞台装置に置いているだけだ。

既存のものに寄りかかった保守的な制作姿勢は今に始まったことではないじゃないか、という反対意見もあることだろう。未だ繰り返し上演され続けているシェークスピア劇や旧作を現代で作り直した作品はたしかに多い。例としてディズニーは近年も自社作品の実写化作品を発表し続けている。しかし、それらでさえ価値観の現代的アップデートや、キャスティングの刷新や多様化、技術的な進化を作品内容に込めている。もちろん、その良し悪しはその都度批評されて然るべきだ。

革新性を欠き、退屈な保守性が蔓延した『紺青の拳』はそもそもその域に達していない。『ゼロの執行人』にさえあった、社会制度に対する批判的な見方もすっぱ抜かれ、キャラクター人気に寄りかかった創作姿勢はひたすら怠惰である。

こうした映画をヒットさせる土壌が今日本で形成されてしまっていることも残念だ。アメリカでヒットした『ブラックパンサー』や『ズートピア』には多様性を認める精神性が宿っていたし、『紺青の拳』の前週に見た『バイス』では自国の負の歴史を痛烈に映すことで「これからどうするか?」という現実的な問いを出していた。映画をはじめとした作品は単なる娯楽に留まらず、我々の意識を変革する力がある。それはかつてディズニーが「王子様に救われるお姫様」を描き、画一的なジェンダー観に寄与してしまったように、時としてマイナスな方向に左右しうる。また逆に、黒澤明の『天国と地獄』では誘拐罪の罪の軽さを劇中で鮮烈に映し、その後実際に法律の見直しがなされる要因の1つとなったとされている。

我々はお金を支払って映画を観る以上、映画も我々の欲望に応えるという面がある。言わば世の中の映し鏡となったそれは、率直に我々の価値観や文化を映し出す。日本では人種差別やフェミニズムについて語る映画があまりに少ないが、これは単一民族国家(という幻想)が未だに根強いことや女性に対して抑圧的な社会構造と繋がっている。

『名探偵コナン 紺青の拳』が売れ、作り手もこうした作品でいいのだと甘んじるようなことになってしまったら、とてもつまらないことになるだろう。主義主張のない映画は国境を飛び越えられず、どんどん世界から孤立化する。映画界がガラパゴス化するリスクは、常々の消費行動が積み重なって気づかぬうちに高まっていくものである。

ことわっておくと、『名探偵コナン』自体は自分もここ数年は毎年映画館で観てきている。だから、自分の目から見た作品の質の低下と相反して上昇し続ける興行収入にはなおのこと疑問を抱く。自分はこうした作品はあっていいと思う一方で、批判に晒されることのない人気の過熱には危うさが潜んでいることも指摘しておきたい。

赤井秀一がメインとなる次作も鑑賞するつもりだ。コナン映画が、消費されて終わるだけではない実りある鑑賞体験になることを願って筆を置く。

 

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▼2018年のコナン映画『ゼロの執行人』

 

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