アイキャッチ画像: (C)バードスタジオ/集英社 (C)「2018ドラゴンボール超」製作委員会
こんにちは、マッチョな男性の腕の血管はたしかに芸術的だと思うワタリ(@wataridley)です。
今回はドラゴンボール初心者の自分が『ドラゴンボール超 ブロリー』を観た感想を書いています。
鑑賞直後の感想は以下の通り。
『ドラゴンボール超 ブロリー』鑑了。後半はひたすらバトルという振り切った構成は、ともすれば安直にみなされかねない。そんな先入観を跳ね除けるほどの画力、騒々しい破壊と攻撃の音、激昂を響かすボイスアクトが無機物たる静止画の連続を最強同士の激突たらしめている。劇場版アニメの底力を見た。
— ワタリdley (@wataridley) January 14, 2019
ネタバレを交えていますので、未見の方はご注意ください。
目次
はじめに: ドラゴンボールとの距離感
80年代以降、その名を聞かずに育った者はいないであろう作品が『ドラゴンボール』『スラムダンク』。両者ともあの人気週刊マンガ雑誌、週刊少年ジャンプの発行部数最高到達時に連載されていた人気漫画。
自分はまだ生まれていなかったため、連載時の両作品を知らない。しかしそれでも、一度は「かめはめ波」の真似をするのがオトコノコの通過儀礼としてわが国では定着していたし、バスケやったことがなくてもスポーツ漫画の話題があれば『スラムダンク』は必ず挙がっていた。
とくに『ドラゴンボール』は日本国内のみならず海外においても人気のようで、コメディ映画『TED2』にあったコミコンのシーンでは超サイヤ人の悟空のコスプレが映り込んでいた記憶がある。あのツンツン頭は世界的に知られているらしい。
鳥山明氏による漫画の連載が終わってもなお、繰り返しアニメは再放送され、『銀河パトロール ジャコ』『CROSS EPOCH』といった外伝や関連作がジャンプに載り、再編版『ドランゴンボール改』が放送。遂には作者監修の続編『ドランゴンボール超』が2015年から2018年まで放送されていた。まだまだ『ドランゴンボール』熱は収まるところを知らないようだ。
そんな時代にあって、自分は『ドランゴンボール』本編を直接じっくり観読んだことも、観たこともない。知っているのは悟空という能天気なバトル好きの主人公が、ライバルのベジータや宇宙の帝王フリーザといった敵たちと壮絶な戦いを繰り広げる王道少年漫画であるということだけ。
自分には縁遠い人気者が、クラスの中心でみんなから注目を浴びている。そして自分はというと、賑わう教室の隅で『HUNTER×HUNTER』を読んで過ごす。
それが自分と『ドラゴンボール』の間にある距離であり、ドランゴンボール観でもある。
自分が『ブロリー』を観に行ったきっかけは、とうとう人気者に対する声援の大きさに耐えきれなくなったから…ではない。むしろそうした黄色い声援に裏付けられるほどの『ドランゴンボール』の魅力とは何なのか、気になって仕方がなかったのだ。
そして、バトル漫画界の王座に堂々居座ってるからには、半端なもの見せてきたら承知しないぞと独りでにハードルをあげてもいた。
さて、ドラゴンボール初心者がいきなり『ブロリー』を観たらどうなったのかについて、語ろう。前置きはここまでにして、本筋に入っていく。
ドラゴンボールの魅力はわかりやすい
『ドラゴンボール』というコンテンツは、老若男女問わず、どこに注目すればいいのかがわかりやすく出来ている。
この『ブロリー』がシリーズ中異質な話であるとの評判を特に耳にしないことからも、この映画はそうした作品のエッセンスを取り入れられているようだ。
その上で言わせてもらうと、『ドラゴンボール』はこの上なく単純明快だ。前述した『HUNTER×HUNTER』はもちろん、使い古されたの点である桃太郎や浦島太郎ほども教訓めいた何かを作品から読み取ることは出来なかった。小難しいメタファーだの、ひと回り先を行くようなアップデートされた価値観だの、制作された時代背景や文化の再定義だのをつらつら述べるような真似はしない。
だからこそ、最強のサイヤ人ブロリーとの戦いを描くにあたって、世界的な映画会社20世紀フォックスにお金を出してもらうことが出来たのだろう。この映画のわかりやすさは、故に文化を飛び越えて通じうる魅力なのかもしれない。
(C)バードスタジオ/集英社 (C)「2018ドラゴンボール超」製作委員会
あまりにシンプルなストーリー
まず、ストーリーがわかりやすい。前半ではブロリー、カカロット、ベジータの3人の生い立ちが描かれ、後半にて成長した彼らが拳を交える。それだけ。至極単純である。
一応、ここにサイヤ人を支配していた帝王フリーザが後半の一悶着に寄与してはいるのだが、正直なところ今作では彼には全く活躍の機会がない。
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サイヤ人を支配し、彼らに他の星々の侵略を代行させていたという話も、3人の生き残ったサイヤ人たちのドラマに従属する。
フリーザ軍とサイヤ人の関係は第一次大戦などで徴用されたイギリス領インド軍を彷彿とさせるし、帝国主義下で行われた植民地支配や冷戦下における代理戦争などにも幾分似通ってはいるものの、そうした歴史的事象に対するアンチテーゼとしての意図は読み取れない。フリーザが惑星ベジータを支配し、脅威とみなし滅ぼした前半の出来事には何ら反省されることはなく、事の重大さもあっさりと流されてしまう。冒頭のシークエンスは、ただ単に悟空たちが戦うためのキッカケや準備段階に過ぎないのだ。
現に前半あれだけ尺をあてられていたカカロット達の生い立ちも、ほとんど後半では語られることなく、バトルのための導線程度に留まっている。悟空とベジータが死に別れた両親を想い、胸を痛めるといった描写も一切なし。
(C)バードスタジオ/集英社 (C)「2018ドラゴンボール超」製作委員会
今作では、フリーザの狙いを察知した父親のバーダックによってカカロットが地球へ送られるまでが描かれている。ベジータ王の寵愛の下、他の惑星で侵略を行なっていたベジータもまた奇しくもフリーザによる攻撃を逃れていた。両者違いはあれど、親の愛を身に受けて生き延びたのだ。
他方、今作のタイトルロールであるブロリーは、そんな彼ら2人とは真逆の幼少を過ごしていた。突然変異としか思えない突出した素質からベジータ王に危険視され、惑星を追放されたブロリーは、父パラガスと共に過酷な惑星バンパで戦いに明け暮れる日々を送る。実父が間近にいながら、その身に受けるのは親からの愛ではなくベジータ王への復讐心。
繰り返しになるが、こうした三者三様の生い立ちは決して彼らの内面性を語るための準備ではない。あくまで同種でありながら異なった境遇にあることを印象付け、その後の戦いのための火種を撒くことに徹している。
序盤が終わると、フリーザに焚きつけられ、3人のサイヤ人はストレートに戦いの方向へと進んでいく。
こうした割り切ったストーリーの流れを追っていくと、『ドラゴンボール』はバトルこそメインディッシュであり、それ以外のものはほとんどすべてがバトルへ寄与するために存在しているかのようだ。復讐心の芽生えや利害の対立といったプロセスを経たキャラクターは戦闘においてその感情を爆発させ、観衆はそれを楽しむ。この超単純な構造は、大衆娯楽としてはこの上なく親切だ。
極端な話、純粋なブロリーが父親に抱く愛情やフリーザの惑星支配などは、全くその意味を深掘りすることなく、ひたすら衝突を激化させるための道具でしかない。
そしてこの単純さこそ、わかりやすくバトルに入っていける助けになっている。『ドラゴンボール』は、いちいち登場人物がうじうじと禅問答や葛藤を繰り広げて、地味な見た目に陥ったり、こちらをダウナーな気分にさせるといった野暮なことはせず、ただ純粋にバトルを楽しめと悟空達が背中を押してくれる筋書きなのだ。
強大な敵が現れたから倒す。ただそれだけの、じつにシンプルでワクワクするストーリーだ。
(C)バードスタジオ/集英社 (C)「2018ドラゴンボール超」製作委員会
あまりにくだらないギャグ
そんな入りやすいストーリーの中にいるキャラクター達の軽々しい言動も、物語から息苦しい深刻さを排除してくれている。
ベジータ王とその息子に私怨を募らせてきたパラガス達との対面は、シリアスになってしかるべき場面だ。しかしここで、「カコク」の意味すらわからない悟空のあまりに気の抜けるような問いによって緊迫感は一定のラインを超えては来ない。
未知の惑星に追いやられたパラガス達のいる状況も、ビーツのおどおどした俗っぽい言動によって緩和されていた。また、ドラゴンボールをフリーザ軍に集められてしまえば、何をされるかわからないという不安な事態に際しても、ブルマとフリーザがあまりにくだらない胸中の悩みを吐露するため、こちらの口角は思わず上がってしまった。
キャラクター達の安否はもちろん、地球が滅亡するかもしれないという危機感でさえ、適度にギャグがお披露目あれることで、ガス抜きされる。だからこっちとしては平然とポップコーンを頬張りながら見ていられる。
ブロリーがいよいよ手がつけられなくなった時に、フュージョンの練習を小一時間も続ける悟空たちはあまりにくだらなすぎて、敵の脅威を一旦忘れて笑っていられる小休止になっていた。
ただ猪突猛進に振り切るのではなく、こうした気の緩みどころを配置してくれているおかげで、より本格的なバトルの魅力は引き立てられている。
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あまりにド迫力なバトル
今作の主役である悟空のスタンスが物語っているように、『ドラゴンボール』はとにかくバトルを楽しむ作品だと思い知らされた。
シンプルでわかりやすいとはいっても、前半はほとんど会話やバンパの探索といった形でブロリー周りの設定を積み上げ、後半にブロリーと戦うという構成は、ともすれば安易にとられかねない。
しかし、今作の戦闘シーンはそんな批判的な見方さえ跳ね除けてしまうパワーがあった。
とにかくひたすら飛ぶ、殴る、避ける、放つといった行動を細かく掻き分けながらも、目にも留まらぬ速さで氷山が崩れ、地球の核に到達するほどのスケールを演出する作画に圧倒されるばかりだった。
(C)バードスタジオ/集英社 (C)「2018ドラゴンボール超」製作委員会
最初は、ベジータがブロリーの力量を指導碁でもするかのように測ろうとする緩やかなスタートを切る。しかし、徐々に戦いの中で学習するブロリーに実力差を縮められてしまい、ベジータの動きも激しさを増していく。手ほどきの域を越えたあたりで、超サイヤ人化、超サイヤ人ゴッドへとエスカレートし、そのパワーをブロリーに浴びせる。
強化形態というアドバンテージを活用したのだから勝てるだろうという演出面での前振りを経て、それが全く通用しないブロリーの姿をダイナミックに立ち振舞わせる。このあたりからは、もはやブロリーの強さに興奮を覚えていた。
いよいよベジータでは歯が立たないとなってから、いよいよ本命登場といった形で悟空が戦闘態勢に入る。コートを脱ぎ捨てるというあまりにベタベタな姿は、その直前のベジータVSブロリーの派手な戦いで熱せられた自分にとっては一時の清涼剤になっていた。
悟空もまた、通常時、超サイヤ人、超サイヤ人ゴッド、超サイヤ人ゴッドSSと段階的にパワーを引き上げていく。途中、ただ力にもの言わせるばかりではなく、金縛りのようなテクニカルな戦法を交える。しかし、これさえ圧倒的パワーで振りほどき、脅威的学習能力で切り返すブロリーの優位性を訴えかける格好の材料になっていたのだから恐ろしい。
悟空たちの放つビームは、お馴染みの直線状のものから波状のもの、粒状の弾丸の連射などバリエーションに富んでいるのも見応えがあった。雪山や地面に当たった様子からは必殺技級の威力を誇るであろうことがわかる。それを力押しで身に受けても平然としているブロリーの強靭性が際立っている一方、悟空たちもビームを利用し動きを構築する駆け引きが高速の切れ間に示されており、圧巻のアニメーション表現であった。とにかくスピーディに動き回るので、見逃してしまう動作などもあった。
悟空、ベジータ、ブロリーが強さを増していくにつれて外見を変えていくという表現も、視覚的に変化がみられ、長時間同じ相手と戦っているにも関わらず、見る側をマンネリズムに陥らせない。
(C)バードスタジオ/集英社 (C)「2018ドラゴンボール超」製作委員会
最後に登場したゴジータは2人の特徴を混ぜこぜにしながらも、強者感漂うシャープなデザインがインパクトを残す。悟空とベジータを掛け合わせることによって、ブロリーとの戦いはより高次元に移り、謎の空間演出が入るあたりになると、感極まって笑ってしまう自分がいた。荒々しく暴れまわるブロリーとは対照的に洗練された動きを見せ、ビームの放出量も特盛となり圧倒していく迫力のバトルシーンは、一目では脳の処理が追いついていなかった。
2人の強さを掛け合わせてもなお善戦できるブロリーの強さも同時に引き立てられている。
殴り合いやビーム、破壊が起こるたびに耳に響く「音」の表現も、この超次元のバトル作画・動画に命を吹き込んでいた立役者だ。その中でも特に耳に残るのは、キャストによるボイスアクトである。
野沢雅子による悟空の掛け声は、単に迫力があるだけではなく、耳への快感をもたらしてくれる。ラッシュにおいて彼女が声を小刻みに連続させるたびに、リズムゲームのエクストリーム難易度を駆け抜けているような快楽があり、同時にその場面の悟空の情動を伝えてくれる。
堀川りょうのベジータも同様にすばらしい。普段は落ち着いたキャラクターのベジータが、脅威を前にした時にこぼす焦燥や感情の高まりが、こちらに事態の深刻さを適切に届けてくれていた。ついでにフュージョンの馬鹿馬鹿しさも共感した。
そして、島田敏の「叫び」には触れないわけにはいかない。もはやふつうにしゃべっているシーンと叫んでいるシーンの比率は1:9だろうというほどに、終始叫び通していた。戦いの中で初めて強敵と手合わせをし、急成長で渡り合い、そして父親の死などを経験し、その気を昂らせていくブロリーの底の見えない末恐ろしい可能性が、ほぼ「叫び」に託されている。それでいてまるで単調には思えず、しかと叫びも激化していくのだから、演じた氏の喉が心配にもなる。
どれほどの時間と枚数を割いたのかを考えるだけでも作り手を慮りたくなる動的な作画。それが表現する激しさを、耳に届けてくれる音。これらは無機物であるはずのバトルを激しい死闘に仕立て上げており、見ているこちらの体温を上げてきた。
予定調和な物語を生きたパフォーマンスに見せ、スクリーンを通じて画面外にまでパワーが伝播してくるようなアニメだ。
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弱点: あくまで端に追いやられるストーリー
『ドラゴンボール』というコンテンツの持つパワーを一身に受けたわけだが、一方で弱点も如実に浮かび上がってきた。
やはり『ドラゴンボール』はバトルこそ全てだと言わんばかりな割り切った構成である都合上、ストーリーのディティールに目を向けると物足りない部分はある。
見終わってまず思ったのは、今作における「サイヤ人の激突」は一体何をもたらしたのだろうかということだ。
先述した通り、フリーザ軍のサイヤ人に対する暴虐は、史実の植民地支配などにも適用できる対する批判的メッセージのようには思えず、結果として彼の悪行も見逃されている。そもそも今作においては、フリーザは完全にサイヤ人を引き合わせる役でしかない。パラガスを殺害した彼の行いもどさくさに紛れて一切咎められていない。今作の発端である彼がほとんど脇に徹しているため、冒頭の侵略劇は物語において単なる動機付けでしかない。
前半部分であれだけ描写していたフリーザ軍によって滅ぼされたサイヤ人達、故郷を失ってしまった悟空達の落とし所も、今作限りでは特に描かれていないのだ。ひたすら生き残りのサイヤ人達が戦う有様を見せつけられたところで、彼らへの救済にはなりえない。フリーザという発端の悪やブロリーを辺境の星へ追いやったベジータ王も、悟空&ベジータVSブロリーという構図にとって全く重要ではない。
強敵ブロリーは純真な心を持ったサイヤ人であり、自身に暴力を強制する父親さえも愛しているという設定もドラマを起こすことなく、ただ超サイヤ人化のきっかけにされてしまう。おまけに戦いが終わった後、何十年も共に過ごした愛する父親の死をどう乗り越えたのかについては、完全にスルーされてしまっている。
彼らは戦いを通じて何を得たのだろう。何を解決したのだろう。
ひとつあるとするなら、強敵ブロリーという(実際にはリメイクだが)新キャラクターを悟空と鉢合わせ、『ドラゴンボール超』の今後に向けての準備をひとつ終えたことだろう。
しかしそれは極めて商業的かつメタフィクショナルな達成事項でしかない。
『ドラゴンボール超 ブロリー』は、少年漫画であるならば期待されて然るべき登場人物達の変化や成長を描く物語として見ると、あまりに魅力が感じられなかったというのがはっきりとした自分の感想である。
ブロリーに同情し、結果的に彼を救ったチライとレモも、ブロリーに対するアクションが一方通行であり、彼との相互的な関係性を構築する部分にまで描写は及んでいない。このあたりも物語の不完全燃焼さを感じてしまう要因だった。
(C)バードスタジオ/集英社 (C)「2018ドラゴンボール超」製作委員会
まとめ: これからのDBにワクワクすっぞ
『ドラゴンボール』の魅力はとてもわかりやすいが故に多くの人の心を掴み、またワールドワイドに共有されているのだろう。
戦闘シーンの面白さは、たしかにずば抜けている。金髪になることでパワーの増幅をアピールする超サイヤ人といったアイデアは、誰にでも理解しやすい。激しいバトルを高度なアニメーションで表現し、そこに至るまでのストーリーも迷いがない。ちょうどいい塩梅で肩の力を抜いてくれるギャグや個性がはっきりしたキャラクターを追っているだけでも楽しいと思えるものだ。
今作『ブロリー』は、潤沢な人手と資本で端的に『ドラゴンボール』の武器を表現しきった作品なのだろう。全く縁遠かった自分が、原作漫画やアニメに手を出そうとしているほどに、楽しむことができた。
終わり方を見るに、続編は確実だろう。
ブロリー以上の強敵の出現も、バトル描写のインフレも今の自分には予想がつかない。
しかし、心はとてもワクワクしている。今作の成功を受けて、レベルアップした次回作に会えることを願って、感想を締めさせていただく。
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