彷徨いあぐねる青年の葛藤と成長『羊と鋼の森』レビュー【ネタバレ】

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こんちには、いつも腹八分目を考えずに腹一杯になるまで食べてしまうワタリ(@wataridley)です。

今回は宮下奈都の同名小説を原作とした映画「羊と鋼の森」の感想です。

原作に関する知識は皆無、予告映像で見かけた主演の山崎賢人をはじめとしたキャストやピアノを扱っている映画だという情報だけを頭に観に行きました。

映画が包み込む静寂に浸り、そこに浮かび上がる音の描写に惚れ惚れしながら、過ごした2時間でした。

以下に詳細な感想、考察を書いていきます。

ネタバレを含みますのでご注意ください。


68/100

ワタリ
一言あらすじ「ピアノの調律師が調律をします」

目と耳に訴えかけてくる演出

今作は伝えたいことをそのまま台詞で語ることより、音や映像に託していることの方が多いです。

振り返ってみると、2時間を超え、しかも仕事人を描く映画でありながら、台詞の量はさほど多くはありませんでした。

静かな映画。ひとことで言ってしまえばそんな印象を受けます。しかし、その静けさがピアノの旋律と人々の確たる想いを浮き彫りにしています。

本当に伝えたいことを映画ならではの技法で表し、ここぞという場面で登場人物が自らの腹積もりを言葉として内面から引き出す様は、観客に多くの想像を与えてくれています。

 

「音」が伝える調律の難しさ

今作を鑑賞して最も頭に残ったのがピアノをはじめとする、作中のです。
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(C)2018「羊と鋼の森」製作委員会

タイトルにある羊と鋼というのは、ピアノに使われている材料を指し、羊の毛から出来ているフエルトが備え付けられたハンマーが鋼の弦を叩くことで我々が聞くピアノの音が生まれるのだという。外村が通っていた専門学校のインストラクターが話していたように、ピアノは尋常じゃないほど精密かつ繊細な作業工程を経て作り出されている複雑な構造物です。

外村はそれに惹かれ、羊と鋼の森に迷い込む…それが今作の導入でした。

その動機付けを与える体育館のシーンでは、暗く静寂な体育館にピアノの音を響かせ、観客に強い印象を与えています。外は雪が降りしきり、室内は静かだからこそ、板鳥がフエルトを整えるような些細な音でさえもスクリーンを通して伝わってきますし、彼が外村にかける優しい声も心を落ち着けてくれます。外村がピアノに向ける興味や初めて見る調律への戸惑いなんかも声に表れているようでした。

奥深い魅力を観客に伝えるのに、音と相反する無音を配置する演出は非常にクレバーだと思います。BGMもまったくかからないため、登場人物の胸の内に思いを巡らせ、調律器具が擦れたり、がたついたりする作業音や、ピアノの音に集中させてもらいました。

ところで、作中で調律師が弾き手のために細かく音を調整するシーンは、前後の音を聞き比べても音痴の自分にはわかりませんでした。「伸びやかで明るい音」という柳の言葉をそっくりそのまま注文する女性客は、ピアノを所持している人間でさえ、さほど音への拘りを持っていないことを示唆する描写でしょう。

ただ、これはそれだけ彼らが微妙な違いに拘りを持っていることや、調律の仕事の難しさを感じることのできる描写だと思いました。

素人にはわからないほど小さなことに身を投じる人がいる。コンサートの前に弾き手に細かな要求をされれば体を屈めもすれば、不愛想な客のいる暗い部屋の中でも長時間丁寧にピアノのケアもする調律師の姿には、一生懸命さを感じずにはいられません。

そんな厳しくも意義のある仕事の世界での迷いは森に足を踏み入れる様に喩えられていますが、そのシーンでの空気感も自然の音によって引き立てられています。野草を踏みしめる音、鳥や虫といった生き物の鳴き声、静かに吹き抜ける風といったものが交じり合い、映画館の中が自然風景に変わり果てていました。

全体的に静けさに満ちているこの映画。ピアノの調律の難しさとそのうえに成り立つ音楽の楽しさを音でしっかり伝えている点は素晴らしかったです。

 

「光」を重視する映像表現

前述した外村と板鳥の出逢いのシーンでは、空間は暗く、彼らの姿はぼんやりとしか映っていませんでした。

そして、窓から漏れる光があたる先はピアノであり、外村がピアノに触れたときに日光がさす森に誘われたのでした。彼の鉛色の日々に豊かな色彩を運んでくれた物が、によって指し示されています。

同様の演出は、外村が初めて一人で客先を訪れた場面でも用いられています。

室内に差し込んでくるはずの光はカーテンで遮られ、乱雑に散らかった室内から伝わってくる退廃的な心情。ピアノの上に被せられた掛布や冊子が、長年触れられていないであろうことを物語る。

そして、そこにやってきた外村がひたむきにピアノを手直ししていくにつれて、部屋の中に光が取り戻されていく。依頼人がピアノを弾き語ることによって、昔の楽しい日々が蘇り、今の気持ちも上向いてゆく。

そんな一連の流れの中でやはり光は重要な意味を持っています。取り払われたカーテンや弾いている最中の暖かな光は言葉で語らずとも、心の動きを示してくれていました。

この前後に映っていた風景は暖かなものでした。

一方で雪が積もる場面では登場人物は心に影を落としていたのも印象的です。外村が担当していたバーの演奏者から苦情を入れられてしまった後、外は雪景色が広がっていました。

由仁が弾くことを止めてしまったという一報を聞いた時も一面雪でしたし、時間も夜でした。道で転げてしまった外村は、それだけ強い挫折を味わっていたということでしょう。

今作に映りこむ光とは、そっくりそのまま登場人物の胸に差しているそれです。ラストのシークエンスで和音が暗く冷たげな水の中でもがき水面へとあがっていく様子も、そのままスランプからの脱出に重なっています。

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(C)2018「羊と鋼の森」製作委員会

 

今作で語られる「仕事」とは

この物語は、一見非常に地味な職業を扱っています。

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(C)2018「羊と鋼の森」製作委員会

先に述べたように、ピアノの調律は、音楽に携わる人間でなければ意識することなく一生を終えることすらあり得るでしょう。

自分の目線からで恐縮ですが、お世辞にも調律師という職業にスポットライトが当たる様を見かける機会はそうそうありません。

縁の下の力持ち的な存在である彼らにカメラを向け、この映画は何を語りたかったのだろうか。

自分が外村の葛藤と成長を目撃し、学び取ったのは「仕事とは自分の欲求に向き合い、他人を利することにあるのだ」ということでした。

 

「羊と鋼の森(=ピアノ)」に迷い込むまで

冒頭の独白では、外村はなんとなく生きていければそれだいいと考える内向的な一面を見せていました。

外は一面雪景色、教室は薄暗く、机についているのは彼一人。閉塞的な心情を窺わせるカットからこの映画は始まっているのです。

彼は学業で優秀な弟がいて家庭内での肩身は狭いようでした。

眼前に広がる将来は代々継がれている林業。このまま高校を出れば、その敷かれたレールの上を行くつもりであり、それが彼の生き方にマンネリズムを招いていたように映ります。

体育館のピアノを手入れする板鳥との出会いが、そんな内向的な青年の運命を変えてしまいます。

ピアノに組み込まれている羊の毛でできたフエルト、そして鋼の弦。林業を継いだら触れることが少ないであろう、別世界の異物。

それが織りなす音に魅せられた少年は、興味や希望を抱き引き込まれていくのでした。

 

失敗と成功の経験

そうしてピアノの調律を学び、晴れて調律師となった外村は尊敬する板鳥からアドバイスされた「こつこつと」という言葉を気掛かりにしながらも、現場に入っていきます。

柳についていき、客とのやり取りやピアノの調律について学ぶ日々を送る中、彼にはある疑問が浮かんでいました。

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(C)2018「羊と鋼の森」製作委員会

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客が望んでいる事をどのようにして汲むのか。

これについて柳はなんとも要領を得ない返答をしていましたが、つまり客商売に確たる正答はないということを意味しているのでしょう。「こつこつと」という板鳥のアドバイスにしても、はやる気持ちで知識を得たところで、経験に勝る知識はないのだという意味があったのだと思います。

調律師としてはまだひよっこである彼にとって、客の要望に応えることが第一であると考えているようでした。佐倉姉妹のピアノをダメにしてしまった際には激しい焦燥を覚え、バーのピアニストに苦情を入れられた時には自身の資質を咎めてしまうのも、それ故のことです。

初めて失敗してしまった夜に板鳥から調律の器具を渡されます。この時、彼の口から聞いた”理想の音”を外村はメモに書き留めていました。以下の原民喜の言葉です。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

この文章は、調律師が目指すべき音が非常に曖昧で矛盾を含んでいるということの示唆ではないでしょうか。そして多様な情緒を孕み、聴くものにとって十人十色の取り様がある。そのような音を目指すべきだという板鳥と、それに倣う外村は、とてつもなく繊細な仕事に取り組んでいることが伝わってきます。

ひとつでも多くのピアノに触れることが重要だという柳の勧めもあって、やっと単独で調律したピアノを奏でてもらった時の喜びに満ちた顔は印象深いものでした。

このシーンでは、映画「ちはやふる」の机君役の森永悠希氏がふさぎこんでいた青年を演じており、こちらも記憶に残っています。一言も発さず、深い傷を抱えていることがわかる佇まいが、外村の調律によって癒される変化が見て取れました。短時間ながら、見ごたえのある場面でした。

 

森の中で見つけた1本の木

そんな失敗と成長を経ながらも順調に経験を積む外村に大きな挫折が訪れました。佐倉姉妹の妹 由仁がピアノを弾けなくなったという一報が外村の心に影を落とします。

外村は取り乱し、柳に言動を咎められてしまいます。驚くべきことにこの時に柳が発した「調律師にピアニストをどうこうする力はない」という台詞は、今まで外村がやってきたことへの否定です。

調律師がいくら拘ったところで、それをピアニストが拾うかどうかわからない。調律師がうまくいかなかったと思ったとしても、ピアニストには満足な音に聞こえる。或いはその逆パターンが起こるといったことは往々にしてあることでしょう。

何も調律や芸術の世界に限りません。人はそれぞれが異なった感性と認識を持っているので、ひとつの事象を全く同じように受け取ることのほうが珍しいのです。

そこにきてあまりに微妙なレベルで音を整える調律とは、常に重んじられるほどのものでもないのかもしれません。

ここで外村は、和音のことだけを考えて調律してしまった未熟さを痛感すると同時に、調律師に抱いていた一種の幻想が打ち砕かれてしまいました。

立ち直るきっかけとなったのが、佐野勇斗演じる弟との和解。祖母が生前に明かしていた外村への強い信頼を弟から嫉妬交じりに告げられることによって、自身が進む道への迷いを棄てることができたのです。

外村は何かがあるとすぐに森に迷い込む。けれど、きちんと森を抜けることができる。

その言葉を受けて、ある日コンサートチューナーとして働く板鳥の姿は、森を彷徨う外村にとっての目指すべき一本の大樹になったのではないでしょうか。

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(C)2018「羊と鋼の森」製作委員会

外村は雪の降りしきる日に、有名なピアニストの調律を担えるのは一握りだけだという秋野の言葉に対して、どんなピアノであっても構わないという旨の返答をしていました。これは、一見耳障りの良い言葉ではあります。

限られた人間にのみ許されることだけが尊いのではなく、どんな些細なものであったとしても意味を持つ。ピアノの調律師がまさにそうした立場にありますし、きわめて正当性のある発言に思えます。

しかし、この言葉を発した外村がその直後に由仁の一報を受けてひどく取り乱したことや、そこに感じていた彼自身の責任というものは、多少なりとも彼の傲慢や思い上がりのようなものが含まれていたのです。更に言ってしまえば、コンサートチューナーに憧れないという台詞は調律の世界における目標のない彼を示すためのものにもなっています。

板鳥の調律と、それによって高名なピアニストが素晴らしいパフォーマンスを披露する様を目にした外村はいよいよ森の中に自分が到達すべき地点を意識し始めます。

由仁が柳に告げていた「ピアノを弾き始めてしまえばみんな1人」という台詞も、外村の決意に回帰するものでした。調律師がいくら調律に全身全霊を注いだところで、ピアノを弾くものの頭にあるのはその瞬間のことだけ。

調律師はある境に阻まれ、ピアニストに介入できない領域がある。これは残酷な事実なのかもしれませんが、言い換えればそれだけ調律師が「しゃしゃり出る」余地も残されていることを意味しているような気がしてなりません。

外村は最終的にコンサートチューナーになるという決意を述べました。これは、地に足ついていなかった1人の青年が、自己表現を肯定する重要なラストでした。

外村は森に彷徨うがごとく、調律師として失敗し、成功し、最後には自身の目標を定めたのです。裏方職業である調律師いえど、自分の想いや意思を仕事に込めるということは極めてたいせつなのだと理解させられました。

滅私奉公で仕事をすることばかりが素晴らしいのではなく、自身の欲求に向き合い、それが結果として相手のためになる。そうした仕事の在るべき姿を示してくれた今作は、非常に誠実な仕事映画なのだと思います。

 

今作の弱点である「わかりにくさ」

今作の弱点を挙げるとするならば、やはりわかりにくさに満ちているという事は言えます。

台詞が必要最低限に抑えられている中、含意的な映像や音が繰り広げられる様は、観客が能動的に読み取ろうとしなければ、理解できない部分も多いです。

作中印象的に映されている森なんかは、あまり工夫なく素朴に映されているだけなので、そのパートそのものに面白味を感じることはできませんし、ピアノの音や演奏は音楽に精通していない人間にはさっぱりといった部分もあります。
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(C)2018「羊と鋼の森」製作委員会

このあたりは元が小説ということもあって、恐らく原作では文学的な技法で表現されていたと思います。自分には、映像で木々や音を収めるだけという点には工夫が足りないかなと感じてしまいました。

また、登場人物たちの関係性やドラマも明示的な部分だけを拾ってしまうと、あっさり済まされています。

例えば、佐倉姉妹の間にあるピアノを介した気質の違いや気まずさといったものは、ピアノの演奏面で表現されることはあっても、直接的な衝突や摩擦といったものに表現されてはいません。非常に細かく見ていかないと、この姉妹の関係性や心情をくみ取ることはとても難しいでしょう。

静寂に満ちた映画で、情報量のコントロールにも苦労されたのだと察せられます。絵的な面白さや登場人物間のドラマの見ごたえなど、もう少し大胆なアレンジを加えてみると、受け入れやすい映画になったのではないかと思います。

興行的に苦戦を強いられているようですが、芸術性に比重を置きすぎている面があるため、一般受けしないのもやむなしといったところでしょう。

 

まとめ

音楽映画でありながら静けさにも重きを置く作りは、音を引き立てるのに有効に映りました。

一方で、意図を拾うのに四苦八苦させられる面もあり、今作は仕事の向き合い方という普遍的なメッセージを持ちながらも、人を選ぶ作風になっています。

とはいえ、音楽を奏でる人間ではなく、音楽を下支えしている人に光を当て、一音一音への拘りに焦点を絞ることで、我々観客に知らない世界を教えてくれる有意義な作品になっています。

主演の山崎賢人をはじめ、恩師役の三浦友和、先輩を演じた鈴木亮平、ストイックさを醸し出した光石研など、多くを語らないながらも伝えてくれるキャストの演技も目に心地の良いものでした。

内向的だった青年が仕事を通して「世界」とつながる。

それを余計な飾りつけをせずに、実直に2時間ちょっとにまとめたことに、仕事への誠意を感じました。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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