こんにちは、幼い頃にサム・ライミ版スパイダーマンを観てから、あの糸の射出ポーズをしばらくしきりにやっていたワタリ(@wataridley)です。
今回は、そんなスパイダーマン好きに向けられたような夢のアニメーション映画『スパイダーマン: スパイダーバース(原題: Spider-Man: Into the Spider-Verse)』の感想です。
『スパイダーバース』を鑑賞した後に、兎にも角にも新しいものを見たという気分が湧き上がってきました。IMAX3Dで鑑賞しましたが、アニメーションに立体感が生まれ、あのアメコミの絵柄が次元を突き破って“そこにある”と思える映像が流れており、それだけで感動してしまったほど。
昨年のヴェノムのエンドロールにて流れた映像は序の口に過ぎず、味わい深い映像と感慨深い物語が広がっていました。
以降、ネタバレありで語っています。ご注意ください。
80/100
親愛なる隣人スパイダーマン
そもそもスパイダーマンとは何なのか。
それは、スーパースパイダーに噛まれたことがきっかけで超能力に目覚めた主人公がニューヨークの摩天楼を蜘蛛の如く飛び回り、悪を倒すヒーローである。今や大量生産され、珍しくも何ともなくなったスーパーヒーローの中で、彼に突出した個性を与えているのは、蜘蛛らしく糸を駆使した移動術と攻撃方法、危険を察知する超感覚スパイダーセンスや壁に張り付く特殊能力などだ。
しかし、これらはスパイダーマンを語る上で、表面に過ぎないだろう。平和を守る「親愛なる隣人」であることこそ、何よりもスパイダーマンをスパイダーマンたらしめている。これは、スパイダーマンというコンテンツに触れたことのある人ならば、薄々なりとも意識せざるを得ない、作品を構成する主要なDNAとさえ言える。
紆余曲折を経て、これまで製作されてきた実写映画は、サム・ライミが監督した『スパイダーマン』全3作、マーク・ウェブがリブートした『アメイジング・スパイダーマン』全2作、そして『アベンジャーズ』などのマーベル・シネマティック・ユニバースに合流して製作された現在進行中の『スパイダーマン』など、3シリーズが存在する。そのいずれも、多少の設定の差異はあれど、ピーター・パーカーを主人公に据え、蜘蛛の能力を駆使しているわけだが、それと同じく鑑賞者に受け入れられやすい卑近さを持ち合わせてもいる。
『スパイダーマン(2002)』において、主人公ピーターは当初は冴えない学生として描かれており、ある日突然スーパースパイダーに噛まれたことがきっかけで能力に目覚める。最初は自らの変化に戸惑い、そしてその優越性に奢ってしまう。能力に振り回される中、愛するベンおじさんとの死別を経て、彼はその大いなる力に伴う大いなる責任を全うすべく、ニューヨークの悪に立ち向かう…。
このプロットは、当時小学生だった自分も我が身と重ねて追っていた。スクリーンの中のスーパーヒーローでありながら、こちら側の世界で四苦八苦する人々と変わらない表情を見せてくる。片時ではグリーンゴブリンやドクター・オクトパスと熾烈な戦いを繰り広げ、また片時には学生生活を送り、恋人のMJとの関係に苦悩したりもする。
それに加えて、ニューヨークの平和を脅かすヴィランズがピーターと近しい関係を持っていたという事実も映画の中で明るみになる。1作目では親友の父親、2作目では尊敬の対象。そして、結果的に完結作となった『スパイダーマン3』では叔父ベンの仇と親友のハリー、更には自らに巣食う心の闇とも向き合うことになる。
『スパイダーマン』は、単にその力を振るい、敵を倒しておしまいという単純な構造に終始しない。ピーターのパーソナリティに迫り、彼の心に立つ波風を見ているうちに、感情移入せずにはいられないドラマがあるのだ。
「親愛なる隣人」スパイダーマンには、それこそ『アクアマン』や『マイティ・ソー』に見られる神秘性や権威性は無く、また近年の『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』のように高邁な思想を持つ超人ではない。スパイダーマンとは、ある日偶発的に蜘蛛に噛まれ、その運命を受け入れたもうひとりのわたしたちだ。
「わたしたちの分身」たるマイルス・モラレス
それは『スパイダーマン: スパイダーバース』においても変わらない。いや、それどころか今作は、スパイダーマンという存在は決してコミックスの中に留まることのない、超次元的なヒーローなのだということを教えてくれた。
我々はマイルス・モラレスという少年を介して、異次元からの来訪者たちとの出会いと別れに立ち会うことができる。マイルスはこの頃父親から注がれる愛情に鬱陶しさを覚え、別れ際の挨拶には“I love you”と返さず、学校でも敢えて低い成績を出して反抗を試みたりもする。IMAX3Dでは、思春期特有の周囲の目線というものも、立体的で厭な光景によって映される。まったくもって、どこにでもいそうな少年である。
鬱屈した感情を紛らわすべく、彼は慕っている叔父のアーロンを逃げ場にする。彼と一緒に、マイルスは学校の宿題に仮託けたグラフィティアートを地下鉄駅の隅に描き殴る。このストレスを発散していく過程における、滑らかに動作するマイルス達のペインティング、巧妙な構図を生み出すカメラワーク、画面の中へ手を伸ばしそうになるほど立体的に飛び散るインクなどは、映像の快感とマイルスの心情がいかにもリンクしているようで、単なる落書きをしているだけとは思えない見応えがあった。
そしてここで例の蜘蛛が忍び寄る。マイルスが物惜しそうに叔父と作り上げた宿題を撮ろうとした時に、単にその場に居合わせただけのマイルスは蜘蛛に噛まれ、たまたまスパイダーマンとしての能力を身につてしまう。
そして、突然の能力開花に戸惑うという、スパイダーマンのオリジンではお馴染みの光景が繰り広げられることになるわけだが、これもアニメーションを生かした奔放な表現によって2度目、3度目に見る過程であってもダレることがない。気になる女の子とのしどろもどろなやりとりや指導員から逃げ回るスラップティックなど、日常的な風景であるはずのそれらはマイルスの動きに連なる動的なカメラワーク、奥行きを利用したアクションなどによって、実写映画ではなかなか実現できない軽妙さを見せつけてくれた。壁に張り付いたマイルスの目線を体感すると、ライドアトラクションにでも乗ったような感覚を得られた。異次元からやってきた中年期のピーター・B・パーカーとの会話においても、超人同士の日常風景を我々にありありと見せつけてくれた。
目覚めて間もなく、マイルスは全ての能力を使いこなせるわけではなかった。彼が終盤まで着ていた身の丈に合わぬスパイダーマンスーツから見ても、それは明らかだ。この物語は、あくまでただの少年が困難に立ち向かい、苦悩し、それを乗り越え、スーツに見合うだけの成長を遂げる過程を描いている。
物語の序盤、マイルスの次元に存在していたピーター・パーカーが死亡するという衝撃的な展開があり、次元に存在するスパイダーマンはマイルス1人となってしまう。模範となるべき先人の不在によって、彼は自らの特殊な能力を孤独に抱えるしかないのだ。謎に包まれたヴィランのプロウラーに襲われた直後も、両親にそれを打ち明けられない苦境に立たされる。また未熟であるが故に、スパイダーマンから託された加速器の停止装置も壊してしまう。正直なところ、ヒーローとしてはあまりに頼りない。
しかし、考えても見ると、スパイダーマンというのは元より孤独な存在である。周囲の人間を危険に巻き込むまいと、恋人のグウェン・ステイシーやMJ、愛するメイおばさんにも最初は正体を隠し、なんら後ろ盾のないまま、別人となって悪に立ち向かわなければならないのだから。その活躍がNY市民から讃えられようとも、一方でピーター・パーカー本人が抱える個人的な苦悩が影で彼を苦しめる。そして、その克服はスパイダーマン自身がヴィランに打ち克とうとする過程で果たされることになる。
例外的に、『スパイダーマン: ホームカミング』においては、アイアンマンことトニー・スタークのバックアップを得、親友のネッドにも早々に正体を知られてしまうため、そうした切迫感はあまらないかもしれない。しかしながら、同作においてピーターが直面することになる問題は、やはり彼ひとりが決断するほかに道はなかった。まだ観ていない人に配慮して述べるが、ヴィランの本性を知った彼は、平穏な学生生活と、苦難に満ちたヒーローの二択を迫られることになる。ここで他者が介入し得ない、ピーター個人による選択が印象的に描かれていた。
スパイダーマンとは、かくも孤独な一面を持つヒーローなのだ。だからこそ、同じく社会生活で孤独を感じる場面がある我々は大いに共感し、そこから親しい存在に繋がっていくのかもしれない。
とはいえ、マイルス・モラレスという少年は、そうした独りきりの状況に耐えうるタフネスを持っている人物ではない。進学校の○×問題でわざと0点を取ることのできる頭脳を持ってはいるが、先述した通り気になるあの子の前ではあまりに頼りなく、警察官の父親に正面切って反抗することさえ出来ずに叔父のアーロンに逃げ込む、思春期の少年だ。
互いの存在を信じて飛ぶ
そのアーロンも肝心な時に姿を消してしまい、本当に拠り所がなくなってしまったマイルスの前に、もう1人のスパイダーマンが現れる。今作における彼の精神的支柱となるのは、人生の辛酸を舐めて草臥れたピーター・B・パーカーと、同世代にして既にスーパーパワーで戦ってきたグウェン・ステイシーだ。幸運にも、今までのスパイダーマンとは異なり、マイルスには同類がいたのだ。更に、白黒の世界の住人スパイダーマン・ノワール、蜘蛛型ロボットを操る少女ペニー・パーカー、豚を象ったコミカルなスパイダーハムといったメンバーが加わり、マイルス、しいては我々に頼もしい気風をもたらしてくれる。
大胆に描き分けられながらも、同じ空間に同居する彼らは、各々の個性を発揮し、共通の目的のために結託する。白黒のノワールはハードボイルドな風体とそれに見合った格闘スタイルとは裏腹に、色に強い興味を持つお茶目な一面を。ペニー・パーカーはジャパニメーションライクなキュートネスと底抜けな明るさを。スパイダーハムは作風の違いを活かした素っ頓狂なハンマーを。それぞれが自身の強みを交えて、盛大な花火を打ち上げてくれる。このマルチバースものである今作の賑やかさこそ、マイルスにとっての大切な繋がりだ。
プロウラーの正体を知ってしまい、奇しくもスパイダーマンの先人たち同様に叔父の死に向き合うこととなったマイルス。彼が立ち直ることができたきっかけには、自己犠牲も厭わずに敵に立ち向かっていくスパイダーマン達の姿があった。恋人を死なせてしまった後悔を抱えるグウェンは言わずもがな名乗りをあげていたし、メイおばさんと死別し、MJと別れてから諦念に取りつかれたピーターもすり減らしてしまった感情を多少は交じえながら、自分がこの世界に残ることを決意する。
自身よりも先に苦しみを味わってきた彼らと共に過ごすうち、マイルスは精神的な成長をその能力の開花によって顕現していくことになる。マイルスはピーターと共に行動する中でウェブスイングを会得し、スパイダーマン達が戦いに赴く最中に、ひとり叔父の死に打ちひしがれる場合ではないと電撃に目覚めていた。今思い返してみると、初めてピーターに触れられた際に発した電撃は、マイルスの成長の兆しを意味していたのかもしれない。
また、マイルスに影響を及ぼすヒーローはスパイダーマン達だけではない。あたり一面が混乱でも、警察官としての責務を全うする父親を横目に捉え、叔父のアーロンに教わった声の掛け方によって、マイルスはキングピンを打ち倒すシーンは、端的にそれを物語っている。弟が死んだ時に哀しみくれるよりも先に息子を心配していた父親もまた、気になる女の子にかける惹句を教えてくれたアーロンもまた、マイルスにとってのヒーローなのだ。去り際に、マイルス=スパイダーマンがさりげなく告げた遅めの”I love you.”に、父親へのリスペクトを感じた。
目に見える繋がりを断ち切られたにもかかわらず、全く異なる行いに出たキングピンとマイルスたちという構造も興味深い。キングピンは、自身の悪行が原因で妻子を失ったことで生じた妄執を、加速器の開発に注ぐ。混乱に陥りゆく世界には目もくれず、彼女たちと再会することを願ってやまない彼は、幼稚とさえ言い表せるが、同時に同情してしまいたくもなる。だが、果たしてこうまでして繋がりを取り戻したとして、妻と息子はウィルソン・フィスクを受け入れるだろうか?答えは誰の目にも明らかだろう。もはや、フィスクが家族に仕向ける感情を愛情と呼ぶことはできない。それは、彼自身を縛る絆しなのだ。
他方、スパイダーマンたちは仲間との絆に執着するのでもなく、自分の立たされた状況を冷静に理解し、元の世界へ戻っていく。この次元に留まり続ければ身を滅ぼしてしまうタイムリミットももちろんあるだろうが、存在を一度知りさえすれば、決して孤独ではないのだという悟りにも思えてくる。そうして、彼らにとっての繋がりは絆しなどではなく、自らの道を進む上での勇気となっていく。元いた世界に戻ったスパイダーマン達は、お互いの存在を認め合いながら、自分の役目を全うする。勇気を得たピーターが最後、MJに向き合おうとする姿は、この事件を経ていなければたぶん見られなかっただろう。
本来であれば、立ち直れなかったかもしれないほどの困難に遭遇したマイルスも、仲間たちの存在によって窮地を救われることとなった。そして一度結ばれた繋がりは、たとえ次元に分断されようとも、途切れることなく続いていく。
自分と同じ仲間がいる。そのことが、leap of faith(思い切って飛ぶこと)の助けとなる。
マイルスという我々と同じ目線の主人公を通じてそう語った今作は、スパイダーマンに入れ込んだ人間であればあるほどに、雄弁なスパイダーマン作品といえよう。
multiversalな舞台ではあるが、universalな作風ではない
スパイダーマンへの愛に呼応して、今作は深い味わいを得られる。だが、翻ってみると、今作の弱点もまたそこにあると感じた。
スパイダーマンのエッセンスは一通り入れ込まれ、その上次元を超えて終結するスパイダーマン達というゴージャスなプロットは前代未聞ではあるが、言ってしまえば「スパイダーマンを知ってこそ」という作風に終始していることは否めない。
実際、今作では基本的な設定紹介でさえ片手落ちである。映画の冒頭をはじめ、スパイダーマンが登場するたびに挿入される出自に関する説明は、それが孕むべき情緒性が排されてしまっており、どこか淡々とした印象は免れない。アメコミを活用した軽快なビジュアルや台詞回しなどのおかげで、退屈からは程遠いのだが、愛する者の死といったスパイダーマンにとっての悲劇さえも軽めに紹介され、済まされてしまっている。こればかりは、映画や原作本を見なければ真相は見えてこないだろう。
同様に、多数登場するヴィランズも基本的な設定紹介や「なぜ悪に堕ちたのか?」という箇所がすっぽりと抜け落ちてしまっており、スパイダーマンとの敵対によって浮かび上がるべきコントラストも、今作限りではぼやけてしまいがちだ。マイルスのいる次元ではドクター・オクトパス博士は女性だったというサプライズも、原案を知らなければサプライズとしての強度は低まってしまうし、そもそもなぜ彼女がフィスクについていたのか?といったこともわからず仕舞いだ。
個人的に、最も惜しいと感じられたのはアーロン=プロウラーというヴィランの描き方である。主人公ピーターが近しい人物と戦わなければならないという設定を踏襲したのが、このプロウラーであることは間違いない。ところが、やはり彼も悪行に加担していた背景が説明されることもなく、マイルスとの対立によって生じる葛藤といったドラマもほとんど生じないまま、出番を終えてしまった。これには、もっと波風を立たせてほしいと思わざるを得なかった。
また、「スパイダーマン版アベンジャーズ」とでも形容できそうな内容であるために、「ただ単に出しただけ」という色味の強いキャラクターも多数存在してしまっている。正直なところ、スパイダーマン・ノワール、ペニー・パーカー、スパイダーハムの3者に関しては、華を添えてくれてはいたものの、マイルス個人との対話もなく、「その他総勢」という役割に押し込められていた感じは否めない。
最後に、グウェン・ステイシーとのドラマも、もう少し描き込むことはできたのではないか、とちょっとした高望みもしてしまう。マイルスとの関係には思春期らしいくすぐったさもなく、先輩としての役割は中年のピーターに取られがちに映る。次元の穴に飲み込まれ、1週間前のこちら側の世界にやってきたという経緯も、序盤から登場することができた以外に、特に意味を持つこともなかった。同世代同士で、共闘か競争をして切磋琢磨しあうのだろうかと考えていたため、やや拍子抜けに感じた次第である。
このように、キャラクターの代表的な性質を並べたことで見栄えが華々しくなった一方、今作には今作のみで自足しうるドラマやキャラクターが見られないという欠点を抱える結果となってしまっている。つまり、観る側がスパイダーマンの関連作品を追い、それらから得た体験でもって補完する必要がある。
その点において、マルチバース(多次元)作品らしい楽しみはあっても、万人にとってuniversal(普遍的な)作品とは言い難いのが惜しいところだ。
まとめ: スパイダーマンとぼく
スパイダーマンという人間味の強いヒーローを1人だけではなく、複数登場させることで、彼らがスペシャルな存在ではないというメッセージが託されているように思う。
マイルスの父親のように誰かを守ろうとする人は、特殊能力がなくとも、別の形のスパイダーマンと言い表せるかもしれない。今作に出てくる「他の次元」というのも、地球上の様々な国や地域、文化圏の喩えにも思えてくる。どこにいってもヒーローは戦い、傷つき、また立ち上がっているのかもしれない。そう思いをはせると、自分の苦しみも少しは紛れる気がしてくるから不思議なものだ。
スパイダーマンとぼくは、お互いに虚構と現実という壁に隔てられている。けれど、虚構の中からエネルギーを貰い受けることは、ありえないことではない。それはまるでマイルスと他のスパイダーマン達の関係に似ている。
華々しいスパイダーマン達の顔ぶれと革新的な映像表現で、ヒーローを「どこにでもいるもの」だと語る力作。それが『スパイダーマン: スパイダーバース』である。
▼昨秋に発売されたPS4ソフト『Marvel’s Spider-Man』の感想。こちらにも誰もがスパイダーマンとなれる体験がある。