アイキャッチ画像: (C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2019
こんにちは、ドラえもん映画と言えば子供の頃に見た『のび太と銀河超特急』が強く印象に残っているワタリ(@wataridley)です。
当方10年以上前の『のび太のワンニャン時空伝』を最後にドラえもん映画とは縁切れていました。最近公開された『映画ドラえもん のび太の月面探査記』で久方ぶりに復帰というわけです。その感想を書きます。
ドラえもんって、誰もが子供のころに夢見る「空飛ぶ車」みたいな突飛な科学技術の進歩を、現実に代わって引き受けてくれる存在だと思うんです。『月面探査記』という映画は、まさにそんなコンセプトを物語る作品となっており、ドラえもんらしい題材になっていました。
ただ、テーマにおいてドラえもんらしさを発揮していた反面、窮屈であったり、物足りなさを感じる面はありました。
以下、ネタバレありで感想を語りますので、未見の方はご注意ください。
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目次
想像力というきわめてドラえもんらしい題材
「月にはうさぎがいる」。
クレーターによって出来た模様が餅をつくうさぎのように見えることから、子供の頃にこうした考えを持っていた記憶は朧げながらある。日本にはお月見といって、月を模したお団子を伴って月を眺める風習が継がれてきており、月への憧れというものもいにしえの時代から変わらない。
ニール・アームストロングが初めて月面に降り立ったのが1969年。歴史的に見れば、ごく最近である。そして、今もなお一般人がそこへ到達する事はかなわない。月はアンタッチャブルな領域としての認識されている。遥か遠く、しかも息もできない場所へ行くためには、あまりに多くの条件をクリアしなくてはならないからだ。
途方のない距離を移動できるほど体力はないし、空気がなければ生きてはいけない。そもそも真空に放り出されたら、人体はただじゃ済まない。我々人間の能力は、あらゆる困難に突き当たる度に、限りがあるのだと思い知らされる。
だが、月をこの目で確かめることができないという能力の欠如を、我々人類は想像力によって補い、世界を拡張してきた。ちょうどのび太がそうしたように、月はこうなっているああなっていると考えて、その好奇心をエネルギーにして、どうやったら月へ行けるのかを本気で考える。そうした模索を経て生まれたのがロケットや宇宙服である。そのお陰で人類が月面着陸を成し遂げたのは先述した通りだ。
作中では、ドラえもんがムービット達に火の扱い方を教え、神のように崇められるシーンがあった。火を扱うことができるのは地球上では人間だけだ。これは想像力にも同じことが言える。人間にしか持ち得ない想像力のおかげで、他の動植物が子孫を残す形で遺伝子のみを存続させる中、人類だけは遺伝子に加えて築き上げた文化的遺伝子をも後世に伝え続けてきたのだ。火の扱い方も、発明品も、言語も親から子へ引き継がれる。そしてその上で新たな発明が生まれ、また続いていく。
このように、想像力が持つ創造力は凄まじい。「こんなこといいな できたらいいな」という誰もが耳にしたことのある歌詞は、人間の特質を端的に言い表している。そして、これはドラえもんというキャラクターに託され、全45巻の漫画、1970年代から今に至るまで続くアニメ、そして劇場版と拡大してきた。
『のび太の月面探査記』では、のび太達とエスパル達が手を取り合って黒幕のディアボロを倒すドラマの中で、想像力の強かさが描き出されている。
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2019
のび太が考える「月にいるうさぎ」
いつものように遅刻しそうになっていたある朝、月面で捉えられた謎の生物の一部をテレビで見たのび太は、それは月に住まううさぎではないかと憶測する。ポピュラーな学説や噂を唱えて論争するクラスメイト達にその説を主張し、案の定バカにされてしまうものの、転校生のルカだけは彼の異説に関心を示す。
のび太は、バカにされた悔しさをドラえもんにぶつけ、異説クラブメンバーズバッジをはじめとしたひみつ道具を使って月面で異説を現実化しようと試みる。このシーンではまさしくのび太とドラえもんの想像力を形するための努力過程が描かれるわけだ。
ここで使われるドラえもんのひみつ道具の効果はどれも凄まじい。月の上に空気を作り、作物を植え、更には生命さえも産み落とすその様は、創造神にも匹敵している。ドラえもんが「アダムとイヴ」について言及していたことからみても、そのメタファーは強く想起させられる。
やがて、彼らが生み出した丸いフォルムのうさぎ・ムービットは子どもを産み、増えた個体はコミュニティーを形成し始める。数日程度でそれは類を見ない化学技術と文化を持った国にまで発展し、訪問したのび太達を大いに驚かす。
ムービットの国を探索するという体を取ってはいるが、このシーンはのび太による想像を疑似体験する面を持っていると見ることも可能だ。膨らませた想像の世界は、第三者を巻き込み、楽しいひと時を過ごさせてくれることもある。転校生のルカもまた、のび太が考えたムービットの世界に引き込まれ、距離を縮める。
のび太によく似たムービットの個体ノビットの表出のように、生み出されたフィクションは得てして想像者の影響を受けるということもここで語られている。全てをあべこべに作用する発明品ばかりを生み出すノビットは、やがて異説クラブメンバーズバッジとは真逆の効果を持つ定説クラブメンバーズバッジを作り、ディアボロとの戦いに大きく貢献する。
異説クラブメンバーズバッジが想像の世界を作り出して第三者に共有する道具だとすると、定説クラブメンバーズバッジは想像の産物が境界線を飛び越えて現実の世界にまで波及する道具である。「千のうさぎ達が降り注ぐ」というアルの予言の通りにムービット達は、定説バッジを身につけ、のび太達のピンチにやってきた。のび太の想像の落とし子たるムービット達が、同じくかぐや星人の想像によって生まれたディアボロに対抗するクライマックスは、想像が残酷な現実に光をもたらすものであると語っているといえよう。
最初はばかげているとクラスメイトに揶揄されていたのび太の異説は、遂にはかぐや星とエスパル達を救ったのだ。ドラえもんらしい奔放な想像力の肯定がここにある。
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2019
友情と愛情に救われるルカ
のび太の生み出したムービットとはまた別に、1000年もの間月の裏で隠れて過ごしてきたエスパルという一族の少年、ルカ。彼はある日、人類との接触を試みてのび太達の学校に潜り込む。
エスパル達は、1000年前にその身体に秘めた力を悪用されないようにと、生みの親によってかぐや星から追放された後ろ暗い過去を持つ。物体を浮遊させる、身体能力を強化するといった摩訶不思議な力の根源エーテルは、使うもの次第で創造的にも破壊的にもなりえる。要は、科学の発展に伴う生活水準の向上という光と、大量殺戮兵器の開発という闇を込めたメタファーこそ、エーテルを有したエスパルという存在というわけだ。
かぐや星では、資源が枯渇し、城下町の生活水準が低いという様子が描かれていた。地球を目にしたゴダートが「かつてのかぐや星のよう」と形容していたことからみて、かぐや星とは未来の地球の喩えなのだろう。
エスパルという人口の生命体を生み出せるほどに化学技術が発達した結果、他の惑星への侵攻といった争いごとにまで手を染めるようになったかぐや星人たちは、皮肉にも豊かさを失い、苦しむ。詳しくは後述するが、ディアボロという存在は、こうした退廃的な道筋を辿るかぐや星人、もとい地球人への警鐘だ。
作られた存在、両親から離れ離れになったルカは、当初は自らのアイデンティティを肯定することができずに、苦しむ様子をちらつかせる。
しかし、のび太達と交流する中で、両親の想像から生み出された自身への自信を取り戻していくことになる。ムービットの国を見て回り、そして友達という概念をのび太から教えてもらう。友達というものも、ひとつの想像だ。
本質的な違いなどない数多の人間の中から、その人をたいせつだと思うことができるのは、ある意味では幻想に過ぎないだろう。友達の特別さなど誰も科学的に証明することなんてできはしない。けれど、こうした幻想のおかげで、我々は精神的に救われ、また他人に共感を示すことができる。
そういえば漫画『寄生獣』において、地球外生命体であるミギーが「人は暇な生き物」だと語っていた。余裕があるからこそ、他の生物の痛みを理解し、我が事のように苦しむことができるのだ、と。友情というフィクションは、自分のことだけではなく他人をも気にかけ、孤独からすくい上げることのできる確かな力なのだ。
のび太が故障したレースマシーンを修理する際、ルカが敢えて自らの力を使うことなく、手伝ったシーンには、共に手を動かし、その時間を共有することの大事さが描かれていたのだと思う。
その後ゴダート達からの猛追を受けて、友情の概念を理解したルカは自らの危険を顧みず、のび太達の安全を優先する。自分は月面に残り、安全などこでもドアの向こう側へのび太を送り出した。
そう、このシーンのルカの行動はそのままかぐや星からルカ達を送り出したゴダール博士と彼の妻に置き換えることができる。想像の力を身につけ、誰かのために尽くすルカは、無意識のうちに両親の考えを理解していったのである。
終盤、1000年ものタイムラグを経て、ゴダール博士が生み出した子どもたちはかぐや星の破壊衝動の象徴たるディアボロを打ち倒し、エスパル達を待ちわびていた両親の想いが明らかとなった。
エーテルを増幅させる物質が含まれていた石のことを、ルカは「のび太のおやつと同じだね」と言っていたが、おやつを用意して我が子を待っていたのび太のママを見ていた彼らしいセリフである。ゴダール博士も、ずっと自分の息子たちの帰還を待っていたというわけだ。
やがて、離れ離れになる時、会えなくともお互いの存在を想像し続けることをのび太とルカは誓い合う。目の前に見えるものから順当に物事を考えることを論理的と言い、しばしば重要だとされるが、一方で目に見えぬものへの想像力なくして人は生きてはいかれない。月と地球、2つの別の世界に生きるのび太とルカは、その想像の力を頼りに、それぞれの日常を過ごしていくことになる。
はじめは「月のうさぎ」というのび太の空想がルカ達との交流の接点となり、やがてルカ達との間に芽生えた友情に収束していく流れは、ドラえもんらしい想像力の素晴らしさを全面的に伝えてくれている。この上なくドラえもんらしい題材だ。
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想像力の負の側面、ディアボロ
今作の黒幕、ディアボロはかぐや星人によって生み出された人工知能であった。直接的に近代のテクノロジーを登場させるあたりに、脚本家の強い意図が読み取れる。
のび太が生み出したムービットは絵に描いたような楽しげな想像を示し、ルカたちエスパルのもつエーテルは、使い方次第で益にも害にも転びうる人間の想像力の不安定さを表している。そして彼らが立ち向かうべき敵ディアボロは明確に他の惑星を侵略し、自分たちを丸ごと破滅へと追いやろうとする人の悪意そのものだ。
人工知能の台頭に代表される昨今のテクノロジー発展は、必ずしも全てを肯定しきれるわけではない。
ゲノム解読が完了したことによって、生まれる前から胎児の形質を暴き出し、思い通りでなければ堕胎するという危うい選択肢までもが浮上してくることになった。遺伝子工学の発達によってクローンを生み出すことも可能となったが、それは倫理的に許されるべきではないとして、現在ではタブー視されている。
戦争に用いられる兵器を開発した者たちも含め、テクノロジーは本来人を傷つけるために考案されたわけではないはずだ。多くは誰かのためを想って考えたり、こんなことができたらいいと頭の中で夢を膨らませる行為が起点となっているだろう。
だが、高められた技術はもはや最初に考案した人間の手元を離れて、間違った方向へ進んでしまうこともままある。今作においては、それがディアボロだ。ゴダール博士が家族とみなしていたエスパル達をディアボロは吸収し、他の惑星への侵攻を図った。人が作り出した技術はきわめて人らしい性質を持ち、人が予想だにしない損害をもたらしてしまう。
そんな矛盾を抱えた存在に、ドラえもんは叫ぶ。「想像力は人への思いやりだ!」という言葉は、ディアボロの誕生をいかにして防ぐことができるのか?という問いへの答えを導き出す。技術進歩は、それに無批判に身を委ねているばかりでは、たちまち手が付けられなくなってしまうものだ。手綱を握って便利に用いるためには、人への思いやりを持ち続け、問い続ける不断の努力が必要である。
のび太達の人への思いやりとは、友情と愛情だった。ディアボロを最終的に打ち倒すことになった決定打は、ゴダール博士がルカたちを想って残していた石であったし、ルカたちを助けようと行動したのび太達がいてこそ、この事件は解決されたのだ。
便利な仕組みに胡坐をかいて他人に関心を持たなくなったその時に、ディアボロの足音は聞こえてくる。だが、人に関心を持ち、相手の気持ちを想像することを続けられたのなら、それは社会全体にとっての有益な将来を導き出す第一歩だ。
(C)藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2019
テーマが前面に出ているが故の窮屈さ
テーマを語る上では、辻村深月による脚本はとてつもなく精巧だったと認めざるを得ない。
しかし、文筆家のスキルがここぞとばかりに発揮されている反面、『月面探査記』は胸躍るようなビジュアルに乏しいという面も目立つ。
一昨年にテレビで見かけた『のび太の南極カチコチ大冒険』では、ドラえもんのひみつ道具を駆使して、南極を遊び場に見立てて冒険していく自由奔放でアイデア満載な風景が印象に残った。まさに「あんなこといいな できたらいいな」を映画の中で実現しているわけだ。
ところが『月面探査記』はというと、映像で驚かされるシーンは少ない。ムービットの国を作っていく過程にシミュレーションゲーム的な面白さを見出すことは出来ても、前半の訪問パートはルカ達エスパルに繋げるための手順という色が強く、この国に住んでみたいと思わせるスケール感がない。書き割りの背景に留まってしまっている。
その次にやってくるエスパル達との交流も会話が中心となり、月面という舞台設定も慣れきっていることと相俟って、画的には地味である。月面レースにしても、アルが引き起こす爆発やのび太とルカの交流のために挿入されたシーンのようで、レースらしい遊びが印象に残らない。エスパル達とかぐや星の設定に至っては、口頭説明や回想でそのまま披露されていってしまう。映像演出面での妙は物足りないと言わざるを得ない。
最終決戦の舞台となるかぐや星においても、楽しい冒険風景などは描かれない。かぐや星の情勢を考えれば、どんよりとした雲に覆われている様子は妥当ではあるのだが、視覚面で楽しめるかと言われたら微妙である。
自分が昔に観たドラえもん映画は、いずれも異世界を冒険することの面白さをきちんと描いていた。『のび太と銀河超特急』の旅程やアミューズメント施設の描写は、のび太とドラえもんと一緒に異世界生活を営んでいるような楽しさに満ちていた。光年単位で距離が離れたかぐや星への旅路の様子が数カットで済まされていたことから見て、そうした世界観の書き込みや冒険の様子は今作では軽んじられがちに思える。
また、映画を観る限りでは、エスパル達が最終的に下した決断もオチへの強制力が働いている印象を受けた。ディアボロによる支配が終わったかぐや星でこれから復興しようという時に、ルカたちが共存することを選ばない理由は、はっきりいって不鮮明だ。父親が帰ってくることを願っていたと知ったのなら、子孫と一緒に復興する道を選んでもいいではないか。
また、その後月に住み続けると決めた際に、のび太達が移設メンバーズクラブバッジを放棄する流れも唐突に感じられる。ドラえもん曰く、「エスパル達が万が一にでも人類に見つかってしまわないように」とのことだが、ドラえもんの道具をもってすれば地球で共存することは可能だろう。異説マイクによって永遠の寿命とエーテルを放棄するという決意も、いきなりここで出てきてしまう。永遠の命を持ち、エーテルを悪用しようとしたディアボロとの対照性を描こうとした意図は感じ取れるのだが、尺の都合故なのか過程が省略されていて、流れが汲み取れない。
まとめると、ドラえもん映画に期待する童心をくすぐるシーンの数々は、あまり見られなかった。『月面探査記』のテーマを丁寧に語ろうとする真面目さによって、失われてしまっている。また、明確なテーマのもとに、キャラクターが配置されて動くという印象も強く、窮屈さは否めない。これは昨年鑑賞した『スモールフット』にも似た作劇上の罠であるように思う。
まとめ: ドラえもんのアイデンティティと強く結びついた作品
のび太とルカの友情を通じて、人の持つ強かな想像力を再考させられる作品となっている。そればかりではなく、人工知能ディアボロによって、想像力が陥ってしまう危険についても警鐘が鳴らされており、辻村深月の脚本の力の込みように驚かされた。ちなみに、今作は同氏による小説版も発売されている。
本文では触れられなかったキャストについても述べておく。ルカを演じた皆川純子の美しい少年声には涼やかな気持ちにさせられたし、ディアボロを演じた吉田鋼太郎の渋い大和言葉の数々も外連味があり、聞いていて楽しかった。広瀬アリスの台詞読みは若干怪しい部分もあったが、声自体はしっとりとしていて癖になりそうな質感だった。ゴダートを演じた柳楽優弥は、これがアフレコ初挑戦とのことで、少し気になる部分はあったものの、好青年らしい真っ直ぐさが伝わってきた。レギュラー陣の安定感については、言うまでもない。
白状すると、ルカという美少年キャラクターに惹かれて鑑賞に至ったわけだが、ドラえもんというコンテンツの魅力を活かしつつも、意欲的な作風に転じていると思った。ドラえもんが昨今突き詰めようとしている「大人世代の取り込み」は新しい風を感じることができるため、来年以降も注目していきたい。
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