男の支配に反抗する猛禽類『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2019 WBEI and c&TM DC Comics

こんにちは、ハイエナを飼ったことなど一度もないワタリ(@wataridley)です。

今回は『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey(原題: Birds of Prey (and the Fantabulous Emancipation of One Harley Quinn))』の感想を書きます。

今作はアメリカのDC社が発行しているヒーローコミックスの映画化企画、DC・エクステンデッド・ユニバース(DCEU)のひとつ。スーパーマンやバットマンといった人気キャラクターが同一の世界線上に置かれており、マーベル・スタジオによるマーベル・シネマティック・ユニバースに相当します。

主人公のハーレイ・クインは2016年『スーサイド・スクワッド』以来の登場となり、かつてはジョーカーにゾッコンだった彼女も、4年の時を経て破局。悪の世界の強者とは縁を切ったハーレイがタイトルにある通り華麗なる覚醒を遂げる物語が展開します。

そうした物語に相応しく、今作の監督はキャシー・ヤン、主演のハーレイを演じるマーゴット・ロビーはプロデューサーも兼任。製作面でも女性が活躍しており、抑圧からの解放という物語のコアを補強してくれています。

今まで男性ばかりが取り沙汰されていたヒーロー映画において、女性が活躍することが大きな意味を持つ作品となっており、今後益々期待がかかってくる分野だと思いました。

同時にそうした潮流があるからこそ、猛禽類たる彼女たちの物語へもう少し没入できるようにしてほしかったという思いもありました。

以降、ネタバレを含んだ感想になります。未見の方はご注意ください。


59/100

ワタリ
一言あらすじ「猛禽類を小鳥とみなし侮ることなかれ」

華麗なるアクションシーン

『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』における見所は、まずこのアクションシーンにあった。

ハーレイにとってのタイムライン上の前作『スーサイド・スクワッド』では、彼女はあくまで数あるヴィランの内の1人という扱いだった。当時見た自分としても、マーゴット・ロビーのハマり具合に見惚れながらも、メインディシュたるアクションでは、ハーレイの印象はそれほど強烈には残っていない。そもそも『スーサイド・スクワッド』自体、本来は主役になれるはずのないヴィラン達が主役になるという物々しい事前情報に反しており、印象が薄かった。

ともかく、そうした前作とは一線を画すと言わんばかりにハーレイの立ち回りは、より彼女の強さをアピールするものへと変貌していたといってよい。

特にスラリとしたシルエットをした脚が画面の中を踊る様子は、軽やかな躍動感を観客にもたらす新体操のようである。何より女性の身体的な特性を活用しているという点において、既往のアメコミ映画と一線を画しており、新たなアクション表現に挑戦していると言っても過言ではないだろう。

バットを振るう攻撃にフォーカスしてみても、力任せに振るのではなく、相手との取っ組み合いに発展した際に持ち手を柔軟に変えて、的確な箇所に攻撃してみせる。パワーでは勝てない相手に対して体捌きで拘束を逃れて後ろに回る滑らかな回避と、そこから無防備な相手の背中を脚で蹴飛ばすカウンターなどは、ハーレイの技が成しているものだ。地面に叩きつけたバットが跳ね返って相手の頭部にヒットするシーンは、一癖も二癖もあるハーレイのキャラクターを象徴するようなインパクトがある。

『ワンダーウーマン』『キャプテン・マーベル』など、女性を主人公にしたアメコミ映画では、マッチョイズムを感じさせる強いパワーをが有しているのに対して、今作では徹底して、登場人物達が女性であることを活用したアクションになっている。故に、これこそが今作の大きな武器に思える。

ハーレイの攻撃手段は蹴り以外にも、やんちゃな性格を示し合わせるかのようなバットの殴打、美的センスを投影したカラフルな煙幕が噴出するショットガン等、シチュエーションごとに変化するが、いずれもそこから彼女のアイデンティティを読み取ることができる。警察署内の押収品保管庫という場所を舞台にしても、我が物顔でそこに置かれたアイテムを活用する。果ては遊園地の中で、カーチェイスならぬローラースケートチェイスまで展開し、彼女の型破りな性分こそこの映画のテーマたる「抑圧からの解放」という文脈にもうまく則していると思えた。

こうしたアクション描写を彩るBGMと華美なエフェクトも、そうした今作のカラーに大きく貢献してしている。アクションパートを除けば、誰もが何かに支配されて生きているという息苦しい描写がドラマパートの多くを占めている。そんなフラストレーションを木っ端微塵にするようにして、ハーレイ達は襲いくるローマンの手下を往なしていくわけだ。彼女達らしい反撃と奇策がアクションとして見応えがあるのは既に述べた通りだが、オフビートなBGMによって観客の気分を乗せ、決めのショットにおける瞬間的なスーパースローや、煙やクラッカーのようなアイテム、遊園地といった奇抜な舞台装置がお披露目され、そこだけ飛ぶ抜けて華やかな様相を呈する。MVかと見紛うような映像のおかげで、見せ場の快感は増し、小鳥が猛禽の如き活力を滾らせている景色としての説得力を醸成しているのだ。

ジョーカーありきで見られることが多いハーレイ・クインというキャラクターを、きちんと単騎でも強力なのだと観客を納得させてくれる。それはこの映画のストーリーの狙いと見事に符号している。

 

小鳥として囚われし者達が猛禽の強さを露わにする

『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey』というタイトルにある通り、作中では登場人物のひとりダイナ・ランスらはローマン・シオニスによりその境遇を小鳥に喩えられている。その言葉はハーレイ達にも当てはめられる。

まず、主人公ハーレイ・クインはゴッサムシティの犯罪者達からも恐れられるジョーカーと交際していたが、その関係が破局するところから今作の物語はスタートする。モノローグにおいては強がる彼女であったものの、別れた事実は口外せず、「ジョーカーの女」という特権に寄り縋りながら、優位な立場に居続けようとしていた。実際、犯罪組織のトップであるローマン・シオニスも、ジョーカーと付き合っている彼女には、どれほど傍若無人な振る舞いをされても直接に手を出せないでいた。

しかし、そうした優位性とはハーレイの内側から沸き上がるものでは決してない。故に、ジョーカーという存在に頼れば頼るほど、虚しい気持ちに苛まれざるを得ない。それを突いた自身への陰口を耳にした彼女は、とうとうその状況から脱却しようと決意する。ジョーカーの愛称を象ったネックレスを投げ捨て、プラントの爆発と共に新しい自分の産声を上げるのだ。

この時点で今作が描かんとしているのは、男性の支配から脱却する女性だというのが、はっきりとわかる。そして、その掴みの感覚は一貫しており、一切ブレることなく終幕まで持続する。

次いで登場するゴッサムシティ警察の刑事レニーは、その卓越した洞察力と正義への執念を真っ当に評価されることなく、手柄を上司に横取りされ、今でも現場仕事に甘んじていることが提示される。片やローマンのクラブで歌手として働くダイナは、目をつけられぬようにとその特殊な能力や腕っ節の強さを意図して隠している節がある。そしてあのクロスボウキラー、ではなくハントレスことヘレナは一家全員をマフィアに皆殺しにされ、マフィアに育てられ復讐心に取り憑かれており、男にその人生を狂わせられた存在である。誰もが、自分の上に立つ支配者によってその在り方を規定されてしまっているのだ。今作で騒動の中心となってしまうカサンドラにしても、荒んだ家庭環境を背にしてスリ業に及んでいた。

一方で、今作のヴィランたるブラックマスク=ローマン・シオニスは、紛うことなきミソジニストの支配者として描かれる。元より目障りに思っていたハーレイへの嫌悪感はもちろんのこと、顔の皮を剥いだ家族の娘に対しては醜悪なルッキズムを言葉にしてぶつけ、自身が苛立っている時にたまたま笑っていた女性の素行に激怒し辱めている。手駒にしているダイナが裏切るのではないかという疑念を露わにするのだって、女が勝手なことをするのは許せないという傲慢さが根底にあるのだろう。

演じているユアン・マクレガーは、マスクを紹介する際の陽気な調子や、ポップコーンを手に残虐な光景を見る際のリラックスした仕草に至るまで、可愛げのある小物っぽさを振りまいており、終始その内面に迫らせる重厚さを意図して排しているようにも見える。故に、現実にも頭を悩ますほどいる典型的なミソジニストであるのに、愛嬌ある悪役として成立しており、氏の存在が今作にある種の安心感すらもたらしている。

しかし、そんなローマンの思惑はあらぬ方向へとズレていく。偶然にも、飼い主から小鳥呼ばわりされる者同士があの遊園地に集結して運命共同体となった瞬間、彼女達は猛禽類として覚醒するのだ。

被支配者である女性が支配者である男性に立ち向かうこのクライマックスは、悪しき父権制へのカウンターを戯画化したものであり、ハーレイ達にとっての「バスティーユ監獄の襲撃」とも言えるのだろう。

クロスボウキラー、ではなくハントレスは乱戦の中で的確にクロスボウを敵に命中させ、ダイナはその高い歌声を響かせ敵の軍勢を薙ぎ払う。はたまた、レニーの用心深さによって皆が敵の奇襲に気付いて、回避することができている一幕もあった。そして、最後にローマンの人質作戦を欺くのがカサンドラの手癖の悪さであり、ハーレイがお見舞いした足技によって彼は盛大に爆発四散する。

このように、クライマックスは気持ちがいいくらいに現実の男性社会の中で戦う女性を描いているし、もっと言うと敵役も例外なく男で構成されている。残念ながら、いまだに女性の組織政治の参画率は、男性のそれと比較し大きく水を開けられている。日本に比べて女性が生きやすそうだという印象を持つアメリカでも、S &P500社のうち女性CEOが全体に占める割合はたった5%程度。役員レベルで見ても20%ほどであり、男女平等の実現は途上も途上の段階にあることがわかる。当然、日本ではもっと露骨に差が開かれているのだから、男性優位の社会に対する疑問と反感は寧ろアメリカ以上に我が身である。

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もっと直接的にこの映画と関連づけるのであれば、現在のハリウッドにおいても女性映画監督の活躍は注目されてきているものの、メジャーとは言い難い状況にある。現在では、『ワンダーウーマン』の監督を務めたパティ・ジェンキンスが持つ約8億2184万ドルの興行収入が単独の女性監督の最高記録となっている。映画全体で最高興収をあげた『アベンジャーズ/エンドゲーム』が27億9780万ドルであること、またその下にある世界興収上位の作品はいずれも男性監督の作品であることを考えると、まだまだ成長と飛躍の余地を残していることは明白だ。

そうした業界の事情を踏まえれば、キャシー・ヤン監督、マーゴット・ロビー主演のタッグで父権政治と戦う物語を撮ったことに、かなりの意義を感じられる。小鳥として扱われているが故に、その能力に制約を課され、思うように翔けない。そんな景色は漫然と社会に存在している。だからこそ、こうした物語を女性が主導して作ることに大きな頼もしさを覚えるし、自分も切に応援したいと思うものだ。

 

足枷となる「ハーレイらしさ」と「チームもの」

今作はのっけからハーレイによる自己紹介がアニメーションで繰り広げられ、道中でも彼女のナレーションを交えて幾つかの登場人物の視点を遷移していく。少々ガサツでトリッキーな作りは、まさしくハーレイの映画らしさを演出するものであると思うし、最終的には今作は「バーズ・オブ・プレイ(猛禽類)」たるチームの誕生譚であることが判明するのだから、目まぐるしい視点の移り変わりにも納得はいく。

しかしながら、これらこそが今作の実に惜しいと感じさせる部分でもある。悠々と羽ばたこうとする女鳥達に備え付けられたこのヘンテコなアクセサリーこそが、彼女達の足を引っ張っているのだ。

 

ハーレイが神の視点に立っている必要がない

まず、ハーレイによる雄弁なナレーション、モノローグの数々に関して言えば、いずれも物語をわかりやすく観客に伝える目的があったのだと思われる。加えてその語り口に彼女らしい性格が反映されていれば、観客は「ハーレイの映画を見ている」という感覚を掴むことができるというわけだ。

だが、このナレーションの内容が全体を通してお粗末なために、かえって映画にとって最も重視すべき映像の強度が削がれていた。

彼女が他人を紹介する時、それはあまりにわかりやすい、直接的な解説になってしまっていることがその主たる原因である。例えば、オープニングシークエンスにおいて、ジョーカーと破局した直後の荒んだ生活ぶりから、その後の失恋の傷を癒すべく豪遊する様子に至る迄、全てを言葉で語ってしまっている。しかし、映像を見れば、誰もが彼女の内面を察することはできるし、むしろその方が想像を働かせる面白味があるし、それこそ映画の醍醐味というものではないだろうか。

他にも、ハーレイに対する恨みを抱えた者たちが彼女に襲いかかってくる一連のシークエンスでは、恨みの内容をそのまま文字に表し、人によっては短い回想シーンを挿入するという、これまたはっきりとした説明をしてしまっている。彼女が過去の行いが、いざという時に報いとなって返ってくるという描写にしたいのであれば、観客にも事前にさりげない形で提示しておくなどしないと、ただ後出しの情報を眺めさせられることになってしまう。

更に、こうしたナレーションの最大の問題となるのが、ハーレイが今作の物語を神の視点で語る必然性を欠いていることだ。

ナレーションとは、基本的には、その作品の物語を俯瞰視点で見つめさせるための役目を担っていることは誰もが知ることだろう。ある時はその作品の主人公の心情を語る一方で、またある時は相手の考えを語ることもする。はたまた時間や場所を超えて、主人公が知覚し得ない情報を開示することもできる。つまるところ、作品に内在する人物にその役目を担わせるとするなら、その物語にとっての傍観者やトリックスター等が適切だ。

しかし、今作のハーレイはその条件を満たしているとは言い難い。彼女は、今作におけるダイヤを巡る事件において一度はローマンの手駒になりカサンドラを誘拐するが、ローマンの思惑やダイヤを狙う人物全てを感知しているわけではないからだ。それなのに、ハントレスの過去やダイヤに隠された秘密をペラペラと語るのは不自然であるし、ハーレイが語ることで物語の緊張感を徒に削いでいるとさえ感じられる。現に、何が起こっているのか、その人物はどんな背景を持つのかを逐一説明してくれるおかげで、ミステリー要素と呼べるものがない。彼女が知り得ない情報を語る意味も、その必要性もないのだ。

ナレーションは「ハーレイらしさ」を演出するための意図があったのかもしれないが、それが作品にとってはマイナスになってしまっているのは、なんとも歯痒く感じる。

 

主軸を分かりづらくしている視点遷移

今作はタイトルにもあるように、ハーレイが主人公であることは一応理解できる。しかし、実際の本編を見ていると、どうにもそのような印象を持ちづらい。

作中では、ハーレイ以外のキャラクターに視点が移ることも多々あり、時間的にはハーレイが特別優遇されているといった風でもない。これはひとえに、「バーズ・オブ・プレイ」というチーム結成に関わる、多数の登場人物による群像劇だからだと思われる。

しかし、丁寧に全員にフォーカスしていくために、今作の主軸がかなり分かりづらいものになってしまっている。

例えば、ハーレイに着目してみるとする。ジョーカーとの破局を契機に独り立ちするぞというテーマがタイトル表示の段階で提示されるわけだが、その直後にはレニーによる現場検証のシーンが入ることで、一旦ハーレイのパートは中断される。

ハーレイとレニーがようやく対面し、逃走劇に発展した後は、またハーレイパートが中断。

レニーが仕事で不当な扱いを受けるシーンに至り、そこでハーレイが何故か警察署を襲撃してくるわけであるが、一連のアクションを挟んだ後にやはりハーレイパートは中断される。それどころか、時間を巻き戻し、ダイナの周辺話に遷移し、カサンドラやレニーとの接点が描かれる。この間、観客としては何を見せられているんだという気持ちになる。要するに、主軸だとアテをつけたハーレイの話が飛び飛びに語られ、結局本筋は先延ばしにされているのだ。

しかも、今作の露骨なマクガフィンたるダイヤの秘密をナレーションでサラッと説明したり、ダイヤにとって最も因縁があるはずのハントレスの背景も簡素なモンタージュで構成された回想シーンで済まされているために、一体どこに重点を置いてみればいいのかが分かりづらい。ハントレスは一家全員を皆殺しにされた過酷な過去を持っているにも関わらず、立ち位置がクライマックスで結託するまで定まっていないため、感情移入する場所がない。

何よりハーレイとカサンドラのシスターフッドの描写が実に勿体ない。彼女達の関係はアウトロー×少女という点で『レオン』を参考にしている節があるのだが、明らかに描写されるべきイベントが不足している。終盤、カサンドラを一度は裏切ってしまったハーレイが、自ら危険を冒してでも彼女を助けようとする。しかし、この心情の変化を生んだであろうそれまでの交流過程が希薄(一緒に万引きしてテレビ見た程度のもの)なので、単にその場のノリで助けようとしているようにも見えてしまう。

登場人物の間の視点を右往左往させた結果、とにかく何に注目すべきなのかが分かりづらいのだ。失恋からの立ち直りなのか、ダイヤ争奪戦なのか、ハーレイとカサンドラのシスターフッドなのか。それを明示した上でなら、他の登場人物に多少視点が遷移しようとも、観客側からは示されたテーマからそのシーンの持つ役割を推測して物語を追うことができたはずだ。これらの視点遷移は、分かりづらさを生むだけでなく、構成の面でも上記のように登場人物の関係を十分に描けていないという弊害を生んでしまっている。

個々の登場人物が終盤に活躍する様は魅力的だっただけに、確たる主柱を欠いた過程が惜しまれる。「チームもの」というコンセプトが、やはり脚本上マイナスに作用しているように感じられた。

 

まとめ: 次なる猛禽類を楽しみに

総括すると、『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey』はそのアクションと物語の精神性に大きく魅了されながらも、ストーリーテリングの部分で躓いてしまうこともあり、惜しい気持ちになる作品だった。

それと同時に、コロナウイルスによる世界経済の冷え込み、それによる映画興行全体の不振により、今作は興行収入の面でも前作『スーサイドスクワッド』に遠く及ばないことが確実である。その上、今作が公開される前から、DCEUにおける『スーサイドスクワッド』シリーズ自体がジェームズ・ガン監督の手によってリブートされるらしく、「バーズ・オブ・プレイ」も見納めになる可能性が高いと思われる。

ユニバースには属さない単独作『ジョーカー』のヒット以後、『スーサイドスクワッド』が引き合いに出されるなど、DCEU賭しては色々と辛酸を舐めさせられたかもしれない。しかし今作のような意欲作が作られたこと自体には、新しい風を感じることができたし、ジェームズ・ガン版『スーサイド・スクワッド』にもマーゴット・ロビーは参加するようなので、ぜひともどこかのタイミングで「バーズ・オブ・プレイ」の精神を継ぎつつ、再挑戦をしてほしいと思う。

次の猛禽類が、社会に渦巻く鬱屈とした感情を吹き飛ばしてくれることを祈って、今回の感想を終えることにする。

 

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