僕は『君の名前で僕を呼んで』の世界に浸ることができなかった。/感想・レビュー【ネタバレ】

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こんにちは、寝正月ならぬ寝ゴールデンウィークを過ごしたワタリ(@watari_ww)です。

今回は「君の名前で僕を呼んで(原題: Call Me By Your Name)」を鑑賞した上で、自分が抱いた感想をまとめます。
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50/100

一言あらすじ「儚い悦びと苦しみを経る少年の物語」

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CMBYNに対する一般的評価
今作は、公開してから批評的に成功をおさめた作品と言っていいでしょう。

 

まず、第90回アカデミー賞で脚色賞を獲っています。受賞は逃しましたが、作品自体が作品賞で、主演のティモシー・シャラメも主演男優賞でノミネートされていました。映画大国アメリカの頂点たる映画賞で受賞&ノミネーションというだけでもたいへん栄誉があるのは誰しも認めるところだと思います。

また、批評サイトRotten TomatoesやIMDbにおいても、概ね批評家と一般ユーザーからのスコアは高いです。IMDbのユーザーレビュー平均は、これを書いている時点で8.0。Rotten Tomatoesのオーディエンススコアは85%です(良いか悪いかの二択に対し、100人いたとして85人が良いと答えているということ)。
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さらに、各メディア媒体の評価を集計し加重平均をかけて算出したMetacriticのスコアも100点満点中93を出しています。

日本公開の4月27日以降、ツイッターなどのSNS上でも数多くの感想を目にするようになりました。主流な意見を拾うと、作品の空気感への称賛であったり、ティモシー・シャラメとアーミー・ハマーが演じた血の通った青年たちへの共感したり、情愛を向けたりしています。

 

今作の主たる魅了である、スクリーンに映る2人の青年の恋愛。それを目撃した観客の方々は、見終えた後もなお彼らを慈しむことで、作品世界に浸っているようです。

 

この通り、メディアからも大衆からも支持されている作品であることは疑いようがありません。
しかし、自分は浸れなかった
作り手がどのような意図を持ってこの作品を送り出したのかは、一観客でしかない自分には100%理解することはできません。しかし、どのような形であれ、観た後にオーディエンスが満足感を示し、描写の一つ一つを咀嚼するというのは、愛がないと成立しない行為です。多くの観客に支持されたこの作品は、冥利に尽きることでしょう。

 

ところが、自分はこの作品を鑑賞しても、真に作品世界に没入出来たと断言することを躊躇してしまいます。彼らの関係を追っても終ぞ涙は流れず、どこか俯瞰して眺めていたのです。

 

多くの方々が高評価をくだすこの作品に異を唱えることは、水を差す無粋な行為かもしれません。ただ、自分としては、作品を受け取った上で生じた感情や考えを明確に言語化しておくことで、気持ちに整理をつけておきたいのです。

 

本作の特徴に触れつつ、自分の感想について以下で振り返ろうと思います。
本作のサジェッションについて
今作の舞台は1983年のイタリア北部のどこかとされています。

 

そこに住まうエリオは、大学教授の父と優しき母を持つ17歳の少年。ある日やってきた大学院生のオリヴァーに徐々に引き込まれ、その恋はやがて結実する。しかし、遂には表立っては成就することはなく、押し殺されてしまう。そんな話だと捉えました。

 

今ほども同性愛について寛容ではない時代と、人と人との距離が違い田舎を舞台にしている点は、2人の恋愛が決して表沙汰にはされない状況を生み出しているようです。

 

そんな企みを感じるセットに加えて、作中では数多くの示唆的描写が見られました。まずはそれらを振り返って観てから、自分が今作についてどう感じたのかについて書くとしましょう。

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邪な感情が生じた際に現れるベルゼブブ
今作ではエリオの周りをしばしばハエが飛び回っているのが目につきました。羽虫は、そこが自然豊かな場所であることを示すと同時に、どうもエリオの内面のメタファーとしての役割も持っているようです。

 

オリヴァーが家にやってきてからの最初の朝食の場では、父親がハエについて言及していました。実際振り払うような仕草も見せています。この場面では、エリオがオリヴァーに町の案内をする旨を伝えていました。

 

この時点で既に、エリオがオリヴァーに対して、ただならぬ感情を抱いていたのではないかということが読み取れます。

 

次に印象的なのは、エリオがオリヴァーの部屋に忍び込んで彼の下着を物色するシークエンスでのことです。彼はオリヴァーの部屋に入る前に逡巡する様子を見せ、母親が洗濯物を持ってきた時には本を読むふりをしていました。これからやろうしていることが倫理的に悪だとわかっていながら、自分で抑えることができないという背徳感に満ちたシーンでした。そこでも、手にしていた本にハエが這いずっていました。

 

エリオとオリヴァーが核心を避けながらも、とうとう互いの領域を交えた時にもハエは飛んでいました。直接的なキスに及んだ時は羽音も聞こえてきて、2人の激しい感情がハエを通じて伝えられてくるような気がしました。

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(C)Frenesy, La Cinefacture

最も明示的にハエがエリオの感情に結びついているとわかるのが、ラストカットでしょう。オリヴァーとの恋がとうとう実ることなく、その悲しみを露わにすることもままならない。暖炉に向かい合い、涙を流す彼の背後にハエが現れています。

 

ハエは、エリオがオリヴァーに対しての想いが顕在化した時に飛び交うようです。さりげない暗示でありながらも、非常に重要な表現だと思いました。ハエは悪霊ベルゼブブのイメージともされています。時代的な背景からくる同性愛を抱くことの後ろめたさをベルゼブブ=ハエの出現によって黙示していたのだと思います。
オリヴァーの口癖”Later.”
エリオは自信に満ち、知識も豊富なオリヴァーを最初はいけ好かないという感情も交えて見ていたのではないかと思います。

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(C)Frenesy, La Cinefacture

最初の晩では疲れから夕食を断り、案内をしても最後は素っ気なく自分一人で街を散策するオリヴァー。しかし、父親が尋ねるアプリコットの由来は訂正できるし、いつのまにやら街の飲み場でギャンブル仲間を作り、異性からも注目の的。

 

そんな彼の姿を間近で見ていたエリオは、彼の振る舞いと口癖に関心を示しているようでした。“Later”の口癖を指摘していた時点で、エリオはオリヴァーにのめり込んでいく兆候を示していたともいえるかもしれません。

 

他者の特徴を観察するというのは、少なからず興味を持ってなければできないことなのですから。
星のアクセサリー
オリヴァーが身につけていた星のアクセサリーもエリオが彼に示す関心を表していたのだと思われます。

 

最初の朝食から、目につけていたそのアクセサリーは、後にエリオが身につけていました。

 

母親にオリヴァーが身につけているのと同じだと指摘されていたあたりからも、エリオの恋心は母にも看破されていたことがわかります。同じようなものを身につけるのは、相手と同化したい、近づきたいという姿勢の表れでしょう。母親もそうしたエリオの様子から、事を察していながらも、優しく見守っていたようです。

 

 

相手の体に触れること

エリオとオリヴァーがまだそれほど慣れ親しんではいない時のことです。学生同士でバレーボールをしていた時に、オリヴァーはエリオへ配慮するような言葉をかけながら背中に触れてしました。

しかし、触れた手は執拗に撫でまわすような動きをとり、エリオは後にその場を離れてしまいました。オリヴァーがエリオにしたことは表面的には親切だったのかもしれませんが、明らかに性的な興味関心がこのシーンに表れていました。

後にもこのタッチは、オリヴァーからエリオへのそれとないサインであったことを告白していました。この告白がなかったとしても、観ている自分には違和感を覚えさせるような撫で方でした。

「君の名前で僕を呼んで」の前半部分は、直接的な言い回しや挙措を避けて、彼らが距離をじわりじわりと詰めていく様子が印象的です。

独りで行う性的充足

エリオはオリヴァーとの性行為に及んでいない段階で、隠れて彼の下着を物色しています。泳ぎに誘われた時すでに、彼の着替えに視線を寄せていたことからも性的興味の強さが見て取れました。匂いを嗅ぐ、頭に被るといった行為を通して、満足感を得ているようでした。

オリヴァーに直接触れることができないから、こんな行為に及んだと取ることができます。助手席ではなく自分の隣にくるよう誘導したり、相手がリクエストするのとは違うピアノの弾き方をして興味を引き付けようとしていましたが、これらは極めて回りくどいアプローチでした。ディスコホールでダンスをする時にも、親しいガールフレンドと踊りながらも、体の重心はオリヴァーの側に傾いていました。これらの描写を鑑みるに、エリオの性格は素直だというわけでもないらしいです。

相手が自分を好きなのか?という不安要素を抱えたまま、想いを明らかにするなんてとても怖い。だから、それとなしにアピールしてしまう。でも、満たされぬ心を埋め合わせるために隠れてオリヴァーのアイテムを身に着けてしまう。

強い共感性がこのシーンにはありますし、故にいたたまれない気分にも陥らされます

面白いことに、エリオのガールフレンドに対する性的興奮や興味は相手がいるその場で表現されることはあっても、相手がいない時にまで抱くような様子は一切見せることはありません。しかし、オリヴァーは相手がいる時といない時との両方において、相手の存在に欲情する素振りを見せています
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(C)Frenesy, La Cinefacture

この映画で最も衝撃的だった、アプリコットを用いた自慰も同様の意味を孕んだシーンですね。

オリヴァーとの別れが近づくにつれ、離れたくない気持ちが生じてしまうし、もっと早くに自分たちの想いを伝えあっていられたらと悔やみもする。そんな中でアプリコットをほじくり、オリヴァーの口に見立てて自らを慰む。やがて不在となってしまう恋人の代わりを探し、もがいて行き着いた行為なのかもしれません

好きであるから一緒にいたいと明々白々に口に出来れば、なんと楽なことでしょう。しかし、現実は恥じらいや恐れが邪魔をして、回り道のようなことをしてしまう。それによって溜まった鬱憤は自己満足に過ぎない自慰に至ってしまうというのは、観ている側もいたたまれないことです。

 

君の名前で僕を呼んで

性的な関係を結ぶことができたエリオとオリヴァーは行為の最中にタイトルとなっている「君の名前で僕を呼んで(Call me by your name.)」と口にしていました。

相手を自分の名前で呼び、自分を相手の名前で呼ぶという行為は、彼らの関係が即物的セックスに留まらない精神的な相思相愛へと昇華したことを意味しています

名前とは、その人のアイデンティティの表象です。それを口にすることは、相手に対する原始的コミュニケーションのひとつであり、話し手が聞き手に多かれ少なかれ興味や関心を示しているのだというサインになります。

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その個性を交換して呼び合うとなると、これはもう更に深化した関係性でなければ成立することはありえないでしょう。仕事上であれば、名前はあくまで仕事を進めるために必要となってくる協力関係のためのものでしかありません。友人間であったとしても、ニックネームで呼び合ったり、やくだけた態度でファーストネームを呼ぶという程度です。

これらの仕事、友人関係の名前に比べると、恋愛における名前はより深い意味を持っています。婚姻を結べば、姓を一方のものへと変えることは古今東西見られてきた風習です。最近では夫婦別姓が広がりを見せていますが、とにかくアイデンティティたる名前に介入出来うるほどの深い関係性というものが唯一恋愛なのです。

このように名前は、用いられ方が関係によって変化する大事な記号であり、オリヴァーとエリオの仲がただならぬものへ変わったことを端的に示しています。それだけに、2人きりの旅行で誰もいない大自然に囲まれた時には、周囲の目を気にすることなく自分の名前で相手を呼ぶ彼らの姿が清々しく映りました。2人だけの共有秘密を持つことで絆も深まるものです。

表沙汰に出来ない関係を彼ら二人きりで精いっぱい味わっていることが「名前」というファクターで表現していたのは興味深かったです。

 

何故浸れない?
これまで書いてきたように今作では、恋愛を通じてだれもが感じるであろう恥じらいともどかしさ、実った時の喜びを美しくも生々しく描いています。そうして辿り着いた先の痛みまでをも含んでいて、観た人は何かしらの共感をこの物語に見出すのではないかと思います。

 

上記に挙げたような数々の示唆的描写が、物語を追う上での導となってくれることでしょう。

 

自分もその導を追い、映画の始まりから終わりまでを体験しました。

 

しかし、今作に高評価をつけるにあたって、(作品世界に没入するという意味で)楽しめたとは言えません。どうもこの物語は自分の肌に合わなかったのです。

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手法自体はありがち
繰り返しですが、この映画は17歳のひと夏の恋愛を映しています。物語の終わり、エリオの恋が終わるのは銀世界が広がる真冬であり、オリヴァーとの恋は短く儚いひと時であり、そこで経た体験と感情にフォーカスした作品なのだということが伝わってきました。

 

しかし、言ってしまえば、これは今までに数多も試みられてきたアプローチで新鮮味があまりないと感じました。

 

日本の恋愛テーマの作品でもしばしば登場人物に設定される年齢として17歳はポピュラーです。学生という一期間の輝きに重きを置いた演出やストーリーなどもよく目にします。若さ故に犯してしまう過ちや未知なる恋愛に飛び出していく冒険、そこから得られる成長を描くにあたってこれほどマッチした世代はほかにありません。

 

筆者が最近見た作品「恋は雨上がりのように」では、17歳の少女橘あきらが、45歳のファミレス店長に恋をし、陸上での挫折から再起していく様子が描かれていました。この作品では明確に若さと老いが対比され描かれています。エリオとオリヴァーの少年と成人の関係と重なってくる関係性です。
「君の名前で僕を呼んで」は、「若い時に経験したことが重要な意味をもつ」というメッセージ性を持っていることはエリオの父親のセリフからも読み取れます。

 

ただ、未熟な若人を映像に収め、青春の重要性や時限性を訴えかけるアプローチは、今まで自分が見てきた作品とあまりに似通いすぎていて、そこに斬新さを認めることはできなかったというのが自分の本音です。
「その人そのもの」と化している演者への偏り

ティモシー・シャラメをはじめ、「コードネーム U.N.C.L.E.」のアーミー・ハマーや「シェイプ・オブ・ウォーター」でも重要な役どころを演じたマイケル・スタールバーグの見事な表現力と実在感には圧倒されました。

しかしながら、役者が達者であるが故に、直接的・明示的な表現があまり用いられないという点が自分の中で咀嚼しづらい障害に感じました。というのも、観客に情報を伝える上で、役者の意味深長な表情や含意あるセリフに寄りかかっている側面が強く出てしまっているのです。
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(C)Frenesy, La Cinefacture

確かに役者は映画における顔のようなものであり、その良し悪しは映画全体の完成度に密接に関わってくることは間違いありません。しかし、映画を構成する要素は役者以外にも多数存在し、それぞれが複雑に絡み合って一本の映画となるわけです。

 

「君の名前で僕を呼んで」は役者の演技に比重が置かれている作風なのだから、そこに文句をつけるのはお門違いだという考え方もあるでしょう。

ただ、自分には、演者が他人に見事になりきり、あたかも彼らが実在するかのような物語を追っているうちに、「これは再現ドラマやドキュメンタリーの領域に片足を突っ込んでいるのではないか」「映画というメディアで表現する必要はあるのか」と感じる瞬間もありました。写実に寄っている結果、フィクショナルな映画としての色味が薄いような気がするのです。

 

ちょっと穿った見方であることは自分も承知しています。映画とはカメラワーク・脚本・演出・音楽などを組み合わせた総合芸術だと考えている者のひとつの意見として、今作はキャストのパフォーマンスばかりが印象に残ってしまった部分については首をひねっているということです。
行間や暗示の多用による輪郭の曖昧化
本作を鑑賞するうえで避けられないのが、毎シーンに込められているメタファー(暗喩)や登場人物が発するセリフの裏を読み取ることです。表面的に話をなぞるだけでは、よくわからないまま終わってしまうのではないかと思います。

 

話自体に奇抜さやド派手なダイナミズムがあるわけではない今作は、行間に示唆される人の心情をいかに読み取れるかで得られる情報量も大きく変わってしまいます。自分はさほど読解力面で自信があるほうではなく、今作における重要なアイテムとみられる「ギリシャ彫刻」についての知識も皆無に等しいです。なので、当該のシーンにおける意味が今一わからず、それがノイズとなって降りかかってきてしまいました。

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(C)Frenesy, La Cinefacture

エリオとオリヴァーが初めてキスに及ぶ直前のやり取りは、シチュエーションとして回りくどいアプローチをかけながら互いにすり寄っていくことを示しているようです。結果として、自分にもそれがわかりづらいまま伝わってきてしまい、これから何が起ころうとしているのかといった見立てもつけられず、浮足立っていました。

 

過度な説明によって想像の余地が奪われてしまうという作品がある一方で、空白部分が多く取られているとそもそも何を読み取ったらいいのか迷う危険性もあることを、再認識しました。自分が見た「君の名前で僕を呼んで」は、輪郭が見えないまま、断片的な情報をせわしなく追う時間がとても多かったのです。
まとめ
今作は観た人の多くにとって心に残る作品となっているようです。自分もイタリアの開放的でゆるやかに時間の流れる空気感はたしかにあこがれを抱きました。なにより主演二人の見せる演技とは思えない素朴な表情に恐ろしさすら覚えたほどです。

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(C)Frenesy, La Cinefacture

しかし、自分とはそりが合わなかったのです。上映中、座席を何度も座りなおしてしまうぐらいに集中できない自分がいました。

 

これは作品に対する自分の好き嫌いの問題になってくると思います。

 

この映画は絵に喩えるなら、くっきりとした線で描かれる活版印刷や漫画ではなく、境界線やアウトラインが敢えて曖昧に描かれた油絵のようです。もしくは、それこそギリシャ彫像の如く、彫っていくうちにやっと全体外形が浮かび上がってくるようなものなのかもしれません。

どこが強調されているのか、わかりやすい起承転結はあるのか、1つのシーンに1つの意味が限定的に存在するかといった見方を潜在的なレベルでしてきた自分にとって、ある意味衝撃的な作りでした。

 

明示されない人間の感情、物語の流れ、作品が隠し持つ裏の意図を完全には理解できていない自分に少々腹が立ってすらいます。カンヌ国際映画祭でパルムドールまで獲得した「アデル、ブルーは熱い色」を昔見た時にも感じた事ですが、自分の理解を超えた作品だからこそ、いつか見分けられるように目を肥やしていきたいとも感じています。

アデル、ブルーは熱い色(字幕版)
アデル・エグザルコプロス
2014-11-26

 

 

逆立ちして考えてみると、この映画と出会ったことで自分の嗜好や作品鑑賞の傾向性を少しは自覚できるようになったという点で、有意義な経験です。

つらつらと語ってしまいましたが、主演二人の芝居、日常的ながらも魅力溢れる雰囲気、恋愛の悦びと苦しみを綴じ込めた一品であることには異議はありません。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)
アンドレ・アシマン
オークラ出版
2018-04-20

 

「君の名前で僕を呼んで」オリジナル・サウンドトラック
オリジナル・サウンドトラック
SMJ
2018-03-21

 

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