こんにちは、寝正月ならぬ寝ゴールデンウィークを過ごしたワタリ(@watari_ww)です。
50/100
一言あらすじ「儚い悦びと苦しみを経る少年の物語」
1 CMBYNに対する一般的評価
2 しかし、自分は浸れなかった
3 本作のサジェッションについて
3.1 邪な感情が生じた際に現れるベルゼブブ
3.2 オリヴァーの口癖”Later.”
3.3 星のアクセサリー
3.4 相手の体に触れること
3.5 独りで行う性的充足
5.6 君の名前で僕を呼んで
4 何故浸れない?
4.1 手法自体はありがち
4.2 「その人そのもの」と化している演者への偏り
4.3 行間や暗示の多用による輪郭の曖昧化
5 まとめ
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まず、第90回アカデミー賞で脚色賞を獲っています。受賞は逃しましたが、作品自体が作品賞で、主演のティモシー・シャラメも主演男優賞でノミネートされていました。映画大国アメリカの頂点たる映画賞で受賞&ノミネーションというだけでもたいへん栄誉があるのは誰しも認めるところだと思います。
また、批評サイトRotten TomatoesやIMDbにおいても、概ね批評家と一般ユーザーからのスコアは高いです。IMDbのユーザーレビュー平均は、これを書いている時点で8.0。Rotten Tomatoesのオーディエンススコアは85%です(良いか悪いかの二択に対し、100人いたとして85人が良いと答えているということ)。
さらに、各メディア媒体の評価を集計し加重平均をかけて算出したMetacriticのスコアも100点満点中93を出しています。
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エリオとオリヴァーがまだそれほど慣れ親しんではいない時のことです。学生同士でバレーボールをしていた時に、オリヴァーはエリオへ配慮するような言葉をかけながら背中に触れてしました。
しかし、触れた手は執拗に撫でまわすような動きをとり、エリオは後にその場を離れてしまいました。オリヴァーがエリオにしたことは表面的には親切だったのかもしれませんが、明らかに性的な興味関心がこのシーンに表れていました。
後にもこのタッチは、オリヴァーからエリオへのそれとないサインであったことを告白していました。この告白がなかったとしても、観ている自分には違和感を覚えさせるような撫で方でした。
「君の名前で僕を呼んで」の前半部分は、直接的な言い回しや挙措を避けて、彼らが距離をじわりじわりと詰めていく様子が印象的です。
エリオはオリヴァーとの性行為に及んでいない段階で、隠れて彼の下着を物色しています。泳ぎに誘われた時すでに、彼の着替えに視線を寄せていたことからも性的興味の強さが見て取れました。匂いを嗅ぐ、頭に被るといった行為を通して、満足感を得ているようでした。
オリヴァーに直接触れることができないから、こんな行為に及んだと取ることができます。助手席ではなく自分の隣にくるよう誘導したり、相手がリクエストするのとは違うピアノの弾き方をして興味を引き付けようとしていましたが、これらは極めて回りくどいアプローチでした。ディスコホールでダンスをする時にも、親しいガールフレンドと踊りながらも、体の重心はオリヴァーの側に傾いていました。これらの描写を鑑みるに、エリオの性格は素直だというわけでもないらしいです。
相手が自分を好きなのか?という不安要素を抱えたまま、想いを明らかにするなんてとても怖い。だから、それとなしにアピールしてしまう。でも、満たされぬ心を埋め合わせるために隠れてオリヴァーのアイテムを身に着けてしまう。
強い共感性がこのシーンにはありますし、故にいたたまれない気分にも陥らされます。
面白いことに、エリオのガールフレンドに対する性的興奮や興味は相手がいるその場で表現されることはあっても、相手がいない時にまで抱くような様子は一切見せることはありません。しかし、オリヴァーは相手がいる時といない時との両方において、相手の存在に欲情する素振りを見せています。
(C)Frenesy, La Cinefacture
この映画で最も衝撃的だった、アプリコットを用いた自慰も同様の意味を孕んだシーンですね。
オリヴァーとの別れが近づくにつれ、離れたくない気持ちが生じてしまうし、もっと早くに自分たちの想いを伝えあっていられたらと悔やみもする。そんな中でアプリコットをほじくり、オリヴァーの口に見立てて自らを慰む。やがて不在となってしまう恋人の代わりを探し、もがいて行き着いた行為なのかもしれません。
好きであるから一緒にいたいと明々白々に口に出来れば、なんと楽なことでしょう。しかし、現実は恥じらいや恐れが邪魔をして、回り道のようなことをしてしまう。それによって溜まった鬱憤は自己満足に過ぎない自慰に至ってしまうというのは、観ている側もいたたまれないことです。
性的な関係を結ぶことができたエリオとオリヴァーは行為の最中にタイトルとなっている「君の名前で僕を呼んで(Call me by your name.)」と口にしていました。
相手を自分の名前で呼び、自分を相手の名前で呼ぶという行為は、彼らの関係が即物的セックスに留まらない精神的な相思相愛へと昇華したことを意味しています。
名前とは、その人のアイデンティティの表象です。それを口にすることは、相手に対する原始的コミュニケーションのひとつであり、話し手が聞き手に多かれ少なかれ興味や関心を示しているのだというサインになります。
その個性を交換して呼び合うとなると、これはもう更に深化した関係性でなければ成立することはありえないでしょう。仕事上であれば、名前はあくまで仕事を進めるために必要となってくる協力関係のためのものでしかありません。友人間であったとしても、ニックネームで呼び合ったり、やくだけた態度でファーストネームを呼ぶという程度です。
これらの仕事、友人関係の名前に比べると、恋愛における名前はより深い意味を持っています。婚姻を結べば、姓を一方のものへと変えることは古今東西見られてきた風習です。最近では夫婦別姓が広がりを見せていますが、とにかくアイデンティティたる名前に介入出来うるほどの深い関係性というものが唯一恋愛なのです。
このように名前は、用いられ方が関係によって変化する大事な記号であり、オリヴァーとエリオの仲がただならぬものへ変わったことを端的に示しています。それだけに、2人きりの旅行で誰もいない大自然に囲まれた時には、周囲の目を気にすることなく自分の名前で相手を呼ぶ彼らの姿が清々しく映りました。2人だけの共有秘密を持つことで絆も深まるものです。
表沙汰に出来ない関係を彼ら二人きりで精いっぱい味わっていることが「名前」というファクターで表現していたのは興味深かったです。
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ティモシー・シャラメをはじめ、「コードネーム U.N.C.L.E.」のアーミー・ハマーや「シェイプ・オブ・ウォーター」でも重要な役どころを演じたマイケル・スタールバーグの見事な表現力と実在感には圧倒されました。
しかしながら、役者が達者であるが故に、直接的・明示的な表現があまり用いられないという点が自分の中で咀嚼しづらい障害に感じました。というのも、観客に情報を伝える上で、役者の意味深長な表情や含意あるセリフに寄りかかっている側面が強く出てしまっているのです。
(C)Frenesy, La Cinefacture
確かに役者は映画における顔のようなものであり、その良し悪しは映画全体の完成度に密接に関わってくることは間違いありません。しかし、映画を構成する要素は役者以外にも多数存在し、それぞれが複雑に絡み合って一本の映画となるわけです。
「君の名前で僕を呼んで」は役者の演技に比重が置かれている作風なのだから、そこに文句をつけるのはお門違いだという考え方もあるでしょう。
ただ、自分には、演者が他人に見事になりきり、あたかも彼らが実在するかのような物語を追っているうちに、「これは再現ドラマやドキュメンタリーの領域に片足を突っ込んでいるのではないか」「映画というメディアで表現する必要はあるのか」と感じる瞬間もありました。写実に寄っている結果、フィクショナルな映画としての色味が薄いような気がするのです。
この映画は絵に喩えるなら、くっきりとした線で描かれる活版印刷や漫画ではなく、境界線やアウトラインが敢えて曖昧に描かれた油絵のようです。もしくは、それこそギリシャ彫像の如く、彫っていくうちにやっと全体外形が浮かび上がってくるようなものなのかもしれません。
どこが強調されているのか、わかりやすい起承転結はあるのか、1つのシーンに1つの意味が限定的に存在するかといった見方を潜在的なレベルでしてきた自分にとって、ある意味衝撃的な作りでした。
明示されない人間の感情、物語の流れ、作品が隠し持つ裏の意図を完全には理解できていない自分に少々腹が立ってすらいます。カンヌ国際映画祭でパルムドールまで獲得した「アデル、ブルーは熱い色」を昔見た時にも感じた事ですが、自分の理解を超えた作品だからこそ、いつか見分けられるように目を肥やしていきたいとも感じています。
逆立ちして考えてみると、この映画と出会ったことで自分の嗜好や作品鑑賞の傾向性を少しは自覚できるようになったという点で、有意義な経験です。
つらつらと語ってしまいましたが、主演二人の芝居、日常的ながらも魅力溢れる雰囲気、恋愛の悦びと苦しみを綴じ込めた一品であることには異議はありません。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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