心をキンキンに冷やす悪魔的映画『カイジ ファイナルゲーム』レビュー【ネタバレ】

スポンサードリンク

こんにちは、麻雀を知ったきっかけは『アカギ』のワタリ(@wataridley)です。

今回は福本伸行によるギャンブル漫画を原作とした映画『カイジ ファイナルゲーム』のレビューです。

今作は、2008年の『カイジ 人生逆転ゲーム』と、2011年の『カイジ 人生奪回ゲーム』に続く作品であり、タイトルの通り最終作となります。この実写『カイジ』シリーズは、人気漫画を実写化してヒットしたシリーズとして、しばしば挙げられることがあります。

実際、変則的なギャンブルを俳優が活発なリアクションで進めていく心理戦は、他の実写映画にはない持ち味です。『賭博黙示録カイジ』を原作とした第1作では、「限定ジャンケン」「鉄骨渡り」「Eカード」が、いくつかの過程を省略しながらも、大衆が2時間程度で楽しめるエンタメになっていたと思います。

文句も無いわけではありません。上映時間の都合により仕方ないとはいえ原作でじっくりあったタメを排して逆転時の爽快感が薄れていたり、鉄骨渡りにおける視覚効果が合成感丸出しでダサく見えたり、舞台のノリをそのまま持ち込んだような大仰なリアクションを大した工夫もなしに見せつけられたりと、映画そのものの作りには完璧とは程遠いです。

ただ、2時間の尺と大衆向けという条件に合わせてカスタマイズした『カイジ』としてならば、仕方のないこととして、作り手に忖度して自分を納得させることは出来るレベルでした。

一方、この『カイジ ファイナルゲーム』は、どれだけ考えても妥協できない、どうしようもない作品でした。

以降、ネタバレを含めた感想になります。未見の方はご注意ください。


15/100

ワタリ
一言あらすじ「キンキンに冷えてやがる」

カイジに社会正義を背負わせてどうする

『カイジ ファイナルゲーム』において、まず初めに違和感を抱いたのが、主人公・カイジの置かれている境遇とキャラクターとしての振る舞いだ。

なんでも東京オリンピック後の日本はハイパーインフレによって物価が上昇し、貧民は徹底して喘ぎ、富裕層はそんな彼らから徹底して搾取するという格差社会が極まったのだという。カイジもそんな資本家にこき使われながら、派遣労働をして過ごす日々を送っていた。個人ではどうにもならない不遇に耐えかねたカイジは、ある日偶然再会した旧敵の大槻に誘われ、若者救済ゲームと称して全国各地で行われる「バベルの塔」に挑戦するのだが…。

まず、この導入の時点で何を見せられているんだという気持ちになった。オリンピック後に日本経済がインフレを起こすというロジックはよくわからないし、持たざる者が持つ者に虐げられるというありきたりな対立構造を特段の映像トリックを用いずして藤原竜也の叫ばせて見せつけるあたりに辟易する。病気にかかりながらも働くしかない労働者や、1缶1000円もするビールなど、極端な貧困描写も目につき、この映画を観る客への警鐘になりきれないほど、すべてが作り物めいている。

もっと問題なのが、ハイリスクなギャンブルに挑むほどの積極的動機がカイジには全くもって存在しないことだ。

カイジは大槻に誘われるがまま、一攫千金のチャンスがある「バベルの塔」に挑む。ここまでは理解できる。事前に塔が設置される場所に関して情報アドバンテージがあったことと、給料の半分以上をピンハネされるほどの貧しい現状があったのだから。

だが、この先から底辺の人間が身を賭してギャンブルに挑むという『カイジ』シリーズの醍醐味の一切が消失することになる。

「バベルの塔」を制したカイジは、主催していた伊武雅刀演じる資産家・東郷に、預金封鎖によって国民の財産が不当に奪われ、この国が更なる不況に突入していきかねない危機を知らされ、大阪の「バベルの塔」優勝者である桐野佳奈子と共に、東郷が総資産を投じて挑む「最後の審判」に協力することになる。

日本経済の存亡をかけた戦いというわけだ。そして今作の『カイジ』としての作劇上の問題点もまさにここに集約されている。

そもそも、『カイジ』は社会正義のために戦う話ではなかったはずだ。かの有名な「金は命より重い」という利根川の台詞に代表されるように、一般的な価値観とは相反したかのような鋭い切り口で人間の本質をつくことが、同シリーズの魅力だった。ハイリスクハイリターンのギャンブルとは、人間を極限状態に追い込むことで観る側に刺激的な人間ドラマと人生訓を提供してくれる舞台なのだ。その舞台に立つのがカイジであり、クズとみなされている彼が天才的な発想と驚愕的な胆力によって困難を切り抜けていく様子こそがシリーズの醍醐味だった。

一方で、今作では、極限状態によって人間の内面を明らかにするような展開は皆無だ。「預金封鎖を阻止する」という目的は別にカイジ自身から湧き上がったものではなく、東郷による入れ知恵である。しかも、ギャンブルの賭け金も東郷の持分である。カイジ自身は、全く身を賭してなんていないし、負けたところでカイジ自身が失うものは何もない。引き受けたのは「成功したら報酬がもらえるから」という「やり得」以外の何物でもない。仮に預金封鎖が行われたとして、カイジは預金ゼロだとさらっと言ってしまっているので、切迫した状況に立たされているとは言い難い。

案の定、他人の金で行われているギャンブルに対して、カイジはたいした役割も持つことができていない。「ドリームジャンプ」に挑む一連のくだりの前までは、ただその場に居合わせて人の話を聞いていただけである。理不尽が起これば、叫んで抗議するくらいはしていたが、それが事態を変えることもないので、ただただ不毛なやりとりに終始している。カイジの行いが事態を好転ないし悪化させるのでもないため、他人の身の上話に付き合わされているだけの感覚が強い。

唯一、カイジ自身が命をかけていたはずの「ドリームジャンプ」に至っては、「最後の審判」に勝つためのサイドクエストと化しており、後述するギャンブル自体のつまらなさを抜きにしても、生きるか死ぬかという状況の扱いがこの上なく粗雑である。

建前上は日本全体が破滅するというバッドエンドを避けるために彼らは行動しているわけだが、あまりに特殊性の高い預金封鎖という悪政や前述したような作り物っぽい世界観のせいで、「失敗したらマズイ」と観客に共有することすらできていない。そもそも、作中で描かれている日本の姿が既に終末期に見えるので、カイジ達が奮闘したところで一体何が救われたというのかも、全くわからないのである。

故に今作にはシリーズが志向してきたはずの敗北即破産という緊張感に欠けてしまっていた。代わりに展開されるドラマは、さしたる演出上の工夫も展開上の意外性もない真剣佑の親子話や、日本の未来を語っておいて寧ろ破滅に追い込もうとしている福士蒼汰の暗躍といった下手くそな話でしかない。そのせいで、無駄に時間を食わされた感覚が強く残る。「鉄骨渡り」を通じて命への執着や助け合えない人間同士の孤独を浮き彫りにするとか、「Eカード」を通じて目に見えぬ相手の心の内と会話しようとするとか、「沼」の攻略を通じて負け組達が力を合わせて下克上を遂げるといった、ギャンブルと結びついたヒューマンドラマは、一体どこへ消えてしまったのか。

おまけに、日本の命運をかけた話であるはずが、物語の大半は「帝愛ランド」なる地下施設で行われているせいで、その実感が映像経由で伝わってこないという問題点もある。尺の大半を割かれている「最後の審判」は、ただでさえ密室で行われているというのに、お決まりの真正面からのカメラアングルが多すぎるので、逃げ場のないつまらなさを助長している。はたまた、喋る役者の顔を交互に映しているだけで、日本の命運を表現できるはずもない。

カイジに社会正義を背負わせた結果、かくしてシリーズが持っていた緊迫感が削がれ、全体的にどうでもいい話になっているのは残念極まりない。しかも、徹底して「らしくない」話である上、別物とみなしてもつまらない話なのである。

 

4つのギャンブルが全てつまらない

『カイジ』を観にきたはずが、日本の命運をかけて戦う話を見せられたことに対するしこりが序盤から感じられた。だが、自分としては映画『カイジ』の話がいくらつまらなかろうが、最悪オリジナルギャンブルが楽しめればそれでいいと思っていた。

そんな淡く諦念を帯びた期待感すら根こそぎ潰されることになる。今作には、原作者・福本伸行が脚本に携わり、考案したとされる4つのギャンブルが登場する。

しかし、まさかその全てがつまらないとは思わなかった。

 

バベルの塔

まず、オープニングシークエンスで行われる「バベルの塔」だが、これは日本全体が貧困に陥っているために、若者たちがこうしたギャンブルに躍起になっているという説明としての役目が強い。

ゲームとしては何の駆け引きもないただの「早い者勝ち」でしかなく、その上やたらとあざとい「鉄骨渡り」の再現までするものだから、序盤の時点で苦笑いしてしまった。

「ルール違反にしか思えないドローンの使用や、「一番に獲った人ではなく一番に触った人の勝ち」という情報の後出しが行われる等、この時点でアンフェアな描写が目につくが、この後もっと悪化して頻発することになる。

 

最後の審判

今作で最大の尺をあてがわれた「最後の審判」であるが、もはやギャンブルですらない。一切の駆け引きもなく、ルールに則った驚くべき仕掛けもないからだ。

総資産を金塊に替えて、人を秤に乗せる見た目自体は、「人の価値を金で測る」というカイジらしいコンセプトで理解はできる。しかし、勝負の有利不利は、事前の資産の持ち前で既に決まっているようなもので、ゲームに参加してからは努力で覆せる余地がまるでない。

一応、「友人」「家族」「融資者」「観客」に金品を出してもらうことで、加算はできるようになっているが、「観客」を除いては、それらの額も事前に決まっているではないか。敵の黒崎は、この資産差を覆すために、事前に相手の協力者を引き込む裏工作を行なっていたが、「Eカードにおける心拍数の盗み聴き」や「パチンコ・沼の妨害細工」とは異なり、現在進行形のイカサマなどではないため、こちらとしては一切の対抗手段を持ち得ない。故に、ただ単に理不尽な情報の後出しジャンケンを連続させられているだけなので、次第にギャンブルそのものがどうでもよくなってくる。

スポンサードリンク

こちら側から打つ手なしとなると、必然的に黒崎サイドが裏工作を行うことができない「観客」に形成逆転劇を委ねるしかないわけだが、その手法も首を傾げてしまうようなものばかりだ。「観客」の心象を良くするためにやることと言えば、相手が悪いだの自分に入れろといった欠伸が出るような演説でしかない。一方、観客からすれば、「勝った方に賭け金を投げたら倍額になる」ルールがある以上、どちらかにつくかなんて決まりきっているのだから、演説や説得はほとんど意味を成していない。

しかも、この駆け引きがない不毛な時間を誤魔化すために、藤原竜也や吉田鋼太郎に叫ばせたり、真剣佑と伊武雅刀のドラマを突っ込んでくるものだから、余計に悲惨なことになっていた。前者は驚愕のトリックも手に汗握る読み合いもない中繰り広げられる単なる雑音にしかなっていないし、後者はギャンブルの進行を遅らせているだけだ。どうやら「人の価値はお金では決まらない」というテーマを親子愛に託したかったようだが、観客のコインで形成逆転している以上、カイジが高らかに真剣佑のコインが勝敗を分けたといっても説得力がまるでない。

そもそもギャンブルと呼べる代物ではなく、しかも露骨な引き伸ばしが大半を占めているのは上記の通りだが、東郷側から取られた策も軒並みひどい。

例えば、時計の針を遅らせるトリックが、あたかも逆転劇に与したかのような物言いだったが、「当初の資産では有利だった相手に時間稼ぎをする」という状況に備えることがとくべつ得策だったとは到底思えない。もっと他にやることあっただろう。そのため、ただただ安易なトリックのひけらかしにしかなっていない。はたまた、「落ちたコインは帝愛が回収する」という暗黙の内に「コインは投げろ」と示唆しているルールがある中で、平然とドローンでコインを運んだりもする。これらは、逆転のトリックというよりもただのルール違反に見えるのだが、もはや脚本が適当すぎるので突っ込む気力すら起こってこない。

しまいには、カイジがこの状況を打破するために取った手が、「他のギャンブルで10億にしてくる」程度の策とも言えないレベルのものであり、救いようがない。

 

ドリームジャンプ

カイジが金を増やすために挑んだ「ドリームジャンプ」は、これまた駆け引きも何もない、ただの一か八か勝負である。

カイジはここで命をかけることになるのだが、「最後の審判」に勝つための副次的な手段として矮小化されており、そのクリアが主目的だった「鉄骨渡り」ほどの命の重みがまるで感じられない。

攻略法もこれ以上ないほど適当。仮にも10倍もの損失が出るほどのギャンブル施設なのにセキュリティはやたらと甘く、機械設備をいじって前回の結果からリセットされないようにしたという脚本は、本当にお金を貰って書かれたものなのだろうか。明らかにカイジに正解を伝えようとしている乱入者が出てきたのに中止されず、しかも落下直前に「待った」を聞いてくれるあたりも、絵に描いたような御都合主義である。

桐野の「キュー」も、初出の際のやり取りがあからさまに不自然で何かの伏線だと気付いてしまう。それをドヤ顔で「キューかジューか迷ったがキューだ」などと解説するカイジが間抜けに見えてくる。そもそも解説している相手は、その「キュー」発言はおろか、「ドリームジャンプ」にも立ち合っていないので、更にお間抜けである。

 

ゴールドジャンケン

ジャンケンをベースにしているため、これまでのギャンブルと比較すれば、辛うじて駆け引きがあるように見えるのが、この「ゴールドジャンケン」。しかし、実際には、小学生が休み時間に考えたような雑で穴だらけのゲームだった。

「3回ジャンケンを行い、内1回は必ず金塊を握ってグーを出さなければいけない。金塊を握ったグーに勝てば、自分のものにできる。(これを3回勝負で行う)」といったルール説明がとっとと済まされているが、要するに「必ず1回はグーを出さないといけないジャンケン」でしかない。なんで大の大人が、こんなものに真剣に取り組んでいるのか?

そもそも「金塊を獲得できる要素」が作中では完全に無意味なものと化しているのがひどい。序盤で政治家相手に勝負をしていた時など、普段の勝負においては金塊が報酬としての側面を持っていたのかもしれない。しかし、カイジとの対決は、預金封鎖を阻止するためにロックした設備のパスワードをかけているために、金塊がただ「1回のグーを強制するだけ」の空虚なアイテムと化している。

そのため、金塊の内実は「高倉がグーを見破るための判別基準」であり、それはゲームとしての面白味ではなく、一方的に高倉に有利をもたらす要素でしかない。そのため、挑戦者からすれば、「なんで金塊を握らねばならないのか」という当然の疑問が湧いてくる。「限定ジャンケン」や「Eカード」の独自ルールは、それ自体が駆け引きを生んでいたから、そんな疑問には及ぶべくもなかったのだが、「ゴールドジャンケン」は本当に不自由なジャンケンにしかなっていない。

しかも、高倉は「相手が金塊を握っていなかったらグーじゃない」と思い込む思考に唖然とする。一度も「グーを出すには金塊を握らないといけない」と説明していないため、その動きはカイジにさしたる企みがなかったとしても、当然ありえるパターンである。

「ゴールドジャンケン」における金塊は、何やら普通のジャンケン勝負とは異なる駆け引きが生まれるのだろうと思っていたが、実際には存在意義が全くわからなかったし、おそらく考案者である高倉もラスボスとは思えない単純思考の持ち主で、さっぱり何が面白いのかわからなかった。

良かった点をひとつだけ挙げるとするなら、「最後の審判」「ドリームジャンプ」ほど無駄に尺を取らずに、あっさり終わってくれたことだ。

 

ひっくり返すことしか考えない安易な脚本と安い演出

ギャンブルがつまらないという問題と絡めて、その場しのぎのウケを狙った安易なプロットと、取り立てて面白みのない演出もひどい。

脚本として、昨年『翔んで埼玉』でその名を印象付けた徳永友一と原作者である福本伸行がクレジットされているが、どうあがいても面白いと思えない。

まず、「預金封鎖を止められるか」という社会的弱者VS支配階級という構図の中でカイジ達が勝利をもぎ取るプロットが、「らしくない」のは先に述べた通りだが、それを抜きにして、そもそも何がしたいのかわからない。

高倉は預金封鎖と新札発行によって日本を再生すると宣っているが、経済の下支えをしている低所得者を切り捨てるような真似をすれば、そのまま日本は滅んでいくしかないはずだ。もしかすると、何か彼なりの考えがあったのかもしれないが、カイジをはじめとした人々をクズ呼ばわりしているだけの悪役にしかなれていないため、物語には一切の厚みも感じられない。利根川を演じた香川照之や、一条役の伊勢谷友介などと比較しても、福士蒼汰自身の若さが、あまり物語に有効に機能していたとも思えなかった。

それに相対するカイジにしても、「悪行を止めただけ」であり、結局のところ日本の貧困問題は延々と続いている。「自分の人生を何にベットするかは自分で決める」という台詞を吐いて人生訓を語るが、イカサマをした「ドリームジャンプ」を含めて、さして体を張っていないカイジには不釣り合いな台詞である。

こうした一見すると社会派なテーマを立てておきながら、脚本の話の流れが軽薄なので、まったく響いてこないのだ。

「最後の審判」に勝利したはいいものの、けっきょく預金封鎖は止められず。その預金封鎖を止めるため高倉に挑んだ「ゴールドジャンケン」に勝ったはいいものの、けっきょくトランクのロックは24時間で解除されるため無意味。しかし事前に東郷が印刷局を買収していたため、偽札とすり替えることに成功しており、預金封鎖を取り下げることに成功。

こうしたちゃぶ台返しがもたらすのは驚きというよりも、呆れだ。要するに、観客達は既に仕組まれていた勝負を見させられていただけであり、登場人物がそこで四苦八苦するドラマには何ら意味はないのである。これを茶番と言わずしてなんと申すか。

観客を裏切るだけの展開を詰め込んだ脚本の適当さは、他にもいくつか見えてくる。例えば、「最後の審判」にあたって、真剣佑がカイジに東郷の子供の存在を内緒で教える意味は全くない。あるとすれば、「実は東郷の子供でした」というあのシーンをやるための前振り程度のものである。

また、印刷局の件を知ったカイジが高倉に勝負を挑む理由もない。寧ろ敵と接触するのは、いたずらにこちらの手の内を明かしかねないリスクがあるため、最初っからトランクだけロックしておきのらりくらりやり過ごせばいいだけの話である。

これらを鑑みて、脚本はもはやキャラクターの心理やテーマを尊重しているというより、安易に観客の興味を引こうとために作られたかののようにしか思えない。自分からすれば、ここぞとばかりに見せつけるように登場する大槻、坂崎、遠藤などのシリーズのキャラクターは、そうした安っぽい脚本によるファンサービスの象徴である。

 

まとめ: キンキンに冷えたビールに覚えたシンパシー

この映画を見終えて、何も得られるものはなかったとまず第一に思った。カイジは結局無一文のまま冷えたビールを口にし、こう叫ぶ。「キンキンに冷えてやがる」と。それは、まさにこの映画を見た自分の気持ちを代弁してくれるかのようである。

一体何の為に、不景気の日本を舞台に、カイジという作品をバックさせたのか。その疑問を解消してくれるのは、どうやら商業主義の4文字だけらしい。

個人的には、ギャンブルがいずれもつまらないのが一番衝撃的だったが、腑に落ちる部分もあった。

というのも、近年の福本伸行は『アカギ 闇に降り立った天才』における「鷲巣麻雀」や『賭博堕天録カイジ』以降の「17歩」などにおける執拗な間延びをファンから指摘されていた。また、和也編の「救出」「愛よりも剣」に至ってはカイジ本人がギャンブルをしないにも関わらず、やはりしっかり尺を取る点については疑問を抱いていた。

今作『カイジ ファイナルゲーム』に登場するギャンブルはそうした氏の悪癖をそのまま反映したかのような作りになっている上に、ギャンブルそのものが面白くない。ギャンブルが面白くないカイジなんて、寿司ネタのない寿司、肉抜きの牛丼に等しいではないか。

正直、今作は映像は役者に頼りきりで退屈、演出も安っぽい、脚本も安易ときて、何も良いところが見当たらない。辛うじて、藤原竜也をはじめとした役者によって、映像作品の体裁を保っているようなものだ。

ハッキリ言って今まで見た映画の中で、1、2を争うくらいにつまらなかった。

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です