アイキャッチ画像: (C)「2019 L・DK」製作委員会
こんにちは、都市部のスターバックス混みすぎ問題に頭を悩ますワタリ(@wataridley)です。
今回は『L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。』のレビュー。今作は少女漫画『L・DK』を原作としており、2度目の実写映画化のようです。前作の映画『L・DK』に引き続き川村泰祐が監督を務めている一方、メインキャストを上白石萌音、杉野遥亮、横浜流星に一新し、今の女子中高生に新たに売り出そうという魂胆が垣間見えます。
ちなみに前作のキャストは剛力彩芽と山崎賢人だったわけですが、彼らも今となってはこうしたティーンに的を絞った映画には年々出演しなくなっている状況を見るに、日本の芸能界のイニシエーションの役目はあるのでしょうね。
話を映画に戻しますと、ストーリーは基本的にはティーンの少女たちの恋愛願望を満たしてくれる美しい異性との同居生活を軸に、恋愛のいざこざを描いております。他の少女漫画実写化と異なり、原作を1からなぞっているわけではなく、どうも途中のエピソードを拾って今回の映画のお話に仕立てているようなのです。その影響からか、最初に馴れ初めのエピソードが矢継ぎ早に紹介されはするものの、主人公と相手の男の子は既に交際をしている段階からお話がスタートし、そこに第二の男の子がやってくるという、特殊な筋書きになっています。
今回の見どころは、既に同居生活も長い主人公の葵と柊聖の密な関係と、そこに対する玲苑の割り込みにあります。これは他にはない今作の特徴で、日々を同じ屋根の下で過ごす彼らを見ているうちに、自分もその空間を見守っている楽しさを味わうことができました。
しかし、良いことばかりというわけでもありません。せっかくこうした特徴があるというのに、なんだか安易な方向に着地してしまう物語を見届けると、実写映画化の悪癖を認めざるをえませんでした。
以降、展開のネタバレも交えて感想を語っていきます。未見の方はご注意ください。
58/100
目次
フレッシュなキャストが織りなす共同生活の面白さ
「普通の女」になれる女優 上白石萌音
上白石萌音は、一線で活躍している女優の中でも特殊なスキルを持っている。それは映画やドラマなどにおいて、主人公の女性が周囲の登場人物から「普通」あるいは「ブス」と形容された際に即座に生じる違和感をまったく覚えさえない存在感である。
能年玲奈(現:のん)が朝の連続テレビ小説「あまちゃん」において、アイドル活動をする主人公の天野アキを演じた際にも、アイドルファンからはブス呼ばわりされるという一幕があった。当然、それを見ている自分はそんなわけないじゃんと思うわけだが、どうやら映像の中では彼女の容姿は大したことがないらしい。自分の感覚が通用しない世界としてドラマを認識する。それは即ちフィクションのメタ認知とも呼べる状態なのかもしれない。
我々はフィクションを見る時、嘘にだまされ、その世界の中にある価値観や現象を信じ込む。だから、肩入れしていた登場人物の身に悲劇が起こった際には自分も胸をいためるのだ。もちろん頭ではそれが架空の出来事であることは認識しているわけだが、優れた演出や映像などがその世界に、部分的にであれ、自分の意識を入れ込ませる。逆にそれがまるっきり嘘であるとわかる場合ー例えば映像が貧弱であったり、俳優のパフォーマンスが行き届いていなかったりするとー意識を作品世界に集中させることは難しくなる。
上記に挙げた能年玲奈への「ブス」評価というのは、まるっきり作品世界と現実世界の間に存在する齟齬をそのまま放置して語られてしまう。そのため、見ている側の意識は、作品内部から弾き出され、「いやそんなわけねーじゃん」というメタフィクションの視点(フィクションをフィクションと認識した視点)を持つことになるわけである。
この上白石萌音という女優は、その例にあてはまらない。作中に横浜流星演じる玲苑からは何度も巨乳のナイスバディではない「70点の女」呼ばわりされることになる。現実ではセクシャルハラスメントで訴えられること間違いない失礼な言動ではあるのだが、その言葉の裏にある意図はある程度は理解できる。彼女はたしかに目に見えた美貌で周囲をリードするような存在ではないだろう。上白石萌音の出演歴を見ても、『ちはやふる』シリーズなど、主人公を支えるサポーティングロールといった立ち位置が多い。実際今作においても、学校内ではさして注目される存在ではないことが、モブの女子生徒の発言や当初の玲苑の行動などから、幾度となく示される。上白石萌音の抑えた存在感というものが、この役所にマッチしていて、周囲からのそうした扱いに頷けてしまえる。フィクションから覚めることなく、普通の女の子として受け入れられるのである。
これはとても面白かった。だが考えてもみると、女優という職業が持つべき本来の役割は、むしろ上白石萌音にこそある。女優本人のパブリックイメージという横串で異なる作品群を貫く現象はたしかに観客を楽しませてはくれるのだけど、それは少なからず作品外の情報を持ち込んで、集中を削いでしまう側面はある。一方で、上白石萌音の作品の役所に合わせた擬態と変容は、あくまで我々に作品内の彼女を信じ込ませたまま物語に乗せてくれる。
実際、作中における葵=上白石萌音の表現には見所がたくさんあった。喜びを込めた表情を追っていると、こちらも柊聖と過ごす日々の温度が伝わってくる。だからこそ、柊聖と離れ離れになるのではないかと知った時の焦燥や不安に駆られた様子には、自分も心配させられる。杉野遥亮の腕に包まれ、ごく自然に幸福感にあふれた顔を覗かせる彼女のおかげで、好きな人と過ごす時間の楽しさを味わうことができた。
同世代にアイコニックな魅力を武器とする女優は多い。彼女たちが流行の変化や文化の違いといった外部要因によって絶えず淘汰されかねないリスクの中に置かれている中、上白石萌音の持つこの技術はしぶとく生き残ることのできる偉大な武器だ。役を役と気づかせない形で、観客に訴求する技術ほど、フィクションに頼もしい味方はいないだろうから。
(C)「2019 L・DK」製作委員会
ギャンギャン吠える子犬のような横浜流星
上白石萌音と比べてしまうと、横浜流星の演技には少々不安定さを感じてしまったのは正直なところだ。帰国子女である設定故に英語で喋るセリフも嘘臭さが隠しきれていなかっり、何度も同じセリフを繰り返す中にも単調に思えるところはあった。
しかし、話を追っていくと、こうしたぎこちなさは愛おしさに変わっていった。
玲苑のキャラクター造形はいかにも漫画的である。従兄弟の柊聖を連れ戻すと称して、アメリカから日本の学校に転校してくる。バスケットボール対決ではヒートアップするあまり大衆の前で上半身裸になり、柊聖への対抗意識とリスペクトを爆発させて周囲に対して見下しがちなことも言ってしまう。そもそも登場シーンからして、あんなジロジロ眺めてうろついていたらアメリカでも変人扱いだろうと思うし、日本の高校生に英語で職員室の場所を聞く意味もわからない。おまけに髪の毛は校則に反していそうな赤である。
だが、こうした突飛な言動を様々見せつけてくれたお陰で、彼のキャラクター性には早々に慣れることができた。その後のシーンにおける「柊聖の彼女探し」や「ナイスバディ発言」に潜む馬鹿馬鹿しさは、彼の愛嬌に転化されている。もっと他の方法があるのではないかという気持ちを抱えながら玲苑を見守る感覚は、キャンキャン吠えて走り回る子犬を見ている時のそれに近い。横の2人を気にしながら歯磨きをする風景や、アヒルのおもちゃに反応する入浴シーンなど、動物観察のような可愛げある反応は面白かった。
葵の価値を見定めてやるなどと宣っておきながら、けっきょく彼女の魅力に惚れ込んでいくという、アップダウンの激しい変化にも大いに楽しませられた。荒削りな演技ではあるのだが、大胆にギャグもシリアスもやってくれるので、そのシーンの楽しみ方に迷うことはなかった。
(C)「2019 L・DK」製作委員会
同居生活の安心感とドキドキ
『L・DK』というからには、同居生活こそこの映画の主たるお楽しみ要素である。
家庭の事情により高校生にして一人暮らしをしていた西森葵が、あるトラブルをきっかけに学校で一番のモテ男である久我山柊聖と同居生活を始める。2人の出会いは実写版『ストロボ・エッジ』よろしく序盤の回想シーンで済まされ、特異な環境に慣れきった2人の生活模様が始めは描かれる。
父親から課されたという「性交禁止」という禁足令の貼り紙が見下ろす葵たちの生活は、たしかに一線を超えない。保たれた純潔をよそに、柊聖は風呂上がりに裸で出てきたり、葵と破廉恥すれすれのコミュニケーションを取ったりするたびに、観客席にいる女子中高生の心拍数は上がるのだろう。実際、杉野遥亮が上白石萌音をバックハグする画は、こちらの妄想を大いに掻き立てる。高身長の彼は彼女の頭の上に顎を乗せることができ、体をすっかり包み込んで安心感を与えてくれる。更に多幸感に満ちた上白石萌音を目にすれば、同居生活に抱く煌びやかな面は強く感じることができるというわけだ。
そこにアメリカからやってきた玲苑が交わり、異性2人と生活するというあらすじだ。玲苑が同居生活をする理由は、葵が柊聖にふさわしいかどうかを見極めるためらしいが、事態をあっさり受け止めきれる人はいないだろう。かくいう自分もわけがわからない。
そんな気持ちにはお構いなく、3人の同居生活は始まっていく。細かなカットの連続で描かれる彼らの生活風景は、奇妙な違和感を含ませつつ、微笑ましい。3人揃って歯磨きをし、食卓を囲み、買い物をして家に帰る。夜には仕切りを隔てて3人並んで寝る姿は、修学旅行を連想させる。そんな中で玲音も徐々に葵の良さに気づいていくというベタな流れも、実際楽しげな生活が次々と見られるのだから、ごく自然に感じられる。
とはいえ、葵の気持ちは徹頭徹尾柊聖に向かっており、玲苑もまた父親の会社は柊聖が継ぐべきだと考えるぐらい彼のことを認めている。恋愛でどちらに向くか向かぬかというシーソーゲーム的な緊張感はあまりないのだ。あくまで3人が同居する中での掛け合いに重点は置かれている。
喧嘩をしてしまった夜に玲苑が我武者羅にプリン作りに励んでいたり、気落ちした葵を柊聖が慰めるという三者三様のアクションには、同居生活のドキュメンタリー的なテイストを含ませつつ、個性的なキャラクターが見られて見応えがあった。
(C)「2019 L・DK」製作委員会
掴めない柊聖の内面と安易な着地
話の中心なのにインパクトに欠ける柊聖
西森葵役の上白石萌音、久我山玲苑役の横浜流星がインパクトを残した一方で、久我山柊聖役の杉野遥亮は記憶に残りづらいと感じる。
『L・DK』におけるメインの男の子である柊聖は、当初は葵に対しても高圧的な態度を取り、いけ好かない印象を与えるキャラクターとして描かれる。それが同居生活を始めるきっかけとなった大怪我を境に、徐々にその内面に潜む親しみやすい面が見えてきて、葵との同居を始めてからすっかり打ち解けて、今や信頼関係を築いている仲となっている。こんな具合に、今作のうちに多大な変化を遂げているキャラクターではあるのだが、その変化が画面を通じてなかなk伝わってはこない。
杉野遥亮の演技面では、葵との掛け合いの中に柊聖の内面や心情をうかがわせる部分が少ないというのもあるし、純粋に表情や仕草といった外見的装いに変化が乏しいようにも感じられた。全体的に表情が硬く、幼少の頃から抱えていた孤独やアメリカへ行くと決意するに至った焦燥などが見えてこないのである。
また、単純に見映えのいい立ち回りも見られない。横浜流星が乱高下する変化を見せつけ、上白石萌音が表情や声色に繊細なニュアンスを込めていたのに対すると、彼自身に絡んだ場面で印象的なものが思い浮かばない。あるとすれば、高身長に甘いマスクという恵まれた容姿に起因するものばかりで、耳に残る台詞や見終わってから鮮明にリピートできる彼の表情もない。
脚本上の問題もあるのかもしれないが、少なくとも他の2人が印象に残るキャラクターを訴えていたのだから、どうしても匹敵する魅力は求めてしまいたくなる。物語上、最初から主人公の女の子と結ばれることを約束された役柄の枠からはみ出た彼自身の魅力を味わいたかったというのが本音だ。
少女漫画的な「甘い恋愛」を許すオチ
玲苑は作中たびたび葵に「70点」と告げていたように、女性のことを点数で測っていた。その人間を縦軸の優劣に当てはめる考え方は、少なからず自身が柊聖に対して抱える劣等感に繋がっているのではないかとみることもできる。葵の持つ魅力は自分の物差しで測ることができないと気づき、また柊聖に対する劣等感も自信が会社を継ぐと決意することでそうした考え方から解放されることとなる。
しかし、このドラマは特段物語の重要なフェーズにおいてフォーカスされることなく、「葵と柊聖」のドラマに従属する形で取り込まれてしまう。その葵達の決断は、「ずっと一緒にいる」などという安易なものである。さまざまな可能性が考えられる高校生の決断としては、あまりに窮屈で幼稚な発想に打ち立てられたその決断には、はっきり共感することができない。葵は柊聖のアメリカ行きを知った時、その意図を理解する姿勢を示すことなく、突っぱねる。文化祭の最後に話し合う機会を得てもなお理解できないと言い放ち、相手の決心を否定する。相手をリスペクトすることよりも自らの欲求を優先するという姿勢がここにはある。だが、結果的にであれ、その姿勢は何ら批判されることなく物語の幕は閉じられる。本当にこれでいいのだろうか?
柊聖が、もし今後も葵から離れざるを得ない夢や目標を抱いたらどうなるかを考えれば、この問題は浮上してくることだろう。その度に柊聖は夢を諦めるのだろうか。それが柊聖にとって最良だと心から思えるのであればそれでいい。だが、そうとは限らないだろう。この関係は「葵が望む柊聖」という一方通行な構造をとっている。常に柊聖は葵に制限された形で意思決定を行うことになる。これは果たして愛なのだうか。
本来の愛とは、相手の行いや考えを尊重し、理解を示すというところにあるはずなのだが、それとはかけ離れた「甘い愛」の匂いがして仕方ない。結局のところ柊聖というキャラクターが何を考えているのかは葵には関係がなくて、葵が望むように彼が動けばそれでいい。そうした安易な発想が根底にあって、物語のオチという形で浮き出てしまったのではないだろうか。そのせいなのか、そもそも柊聖のアメリカ行き自体の動機もひどく不鮮明ではあった。
おまけに、玲苑・柊聖・葵という3人が主軸であった物語に他の生徒達も介入してくるラストシーンには、首を傾げてしまった。全校生徒の注目を浴び、学校一のモテ男と愛を宣言する葵を映すことによって、観客の擬似的な承認欲求に働きかけたかったのかもしれないが、はっきりそれまでの流れとは無関係に思えてならなかった。
まとめ: 甘い幻想から脱却しよう
同居生活に伴うドキドキ感とワクワク感は上白石萌音の自然体な喜びによって表現され、ハラハラとした感じは横浜流星演じる玲苑の想定外な存在によってもたらされていた。3人の同居生活に寄り添っていると、自分も同世代の友達や恋人と空間を共にしてみたいなという気持ちにさせられた。過程はかなり面白かった。
だが、オチの部分でそれらすべてが自分にとって都合のいい恋愛に帰してしまう。男の子2人は葵のために存在しているかのように振舞ってしまうし、あの全校生徒も主人公たる自分に注目してくれるオーディエンスである。こうした描写はフィクションとして切り離して楽しむ分には問題ないのかもしれないが、いかんせん現実の問題と重ね合わせようとすると齟齬が生じてくる。
もちろん、現実世界の恋愛は甘いものではない。自分の好意を伝えても裏切られてしまうことはある。時に愛する人と離れ離れにならねばならないこともあるだろう。誰もが経験するであろう、苦い恋愛である。
しかし、苦い思いをするからこそ、相手との関係はより強固で大切なものになるのだろう。世界の中心でもなく、相手との考えも違う自分を受け入れてもらうために、自ら歩み寄る。それが恋愛の真理だ。
今作のラストシーンは、そうした現実の苦味から目を背けるのには最適かもしれないが、現実に立ち帰っていった後のことまで考慮されていないように思える。少女漫画の実写映画化は残念ながら、甘い恋愛を流すことに躍起で、現実を直視させてはくれない。その悪癖は今作にも感じ取ってしまった。
こう批判的になってしまうのも、ひとえに今作のコメディパートがとても面白かったからだ。特に玲苑の女性に対する見方は、もっと深掘りすれば現実における女性の多様な在り方を肯定する方向に持っていくことができたであろうだけに、葵と柊聖の引き立て役にされて幕引きとなったのは、非常に惜しい気持ちである。
上白石萌音、横浜流星、杉野遥亮の3人はこれからもどんどん力をつけていくアクターだろうから、是非とも今後も多様な作品に出演して、活躍していってほしいと思う。
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