社会問題への言及が、絵に描いたような付け焼き刃『ぼくらの7日間戦争』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2019 宗田理・KADOKAWA/ぼくらの7日間戦争製作委員会

こんにちは、レッドブルとモンスターエナジーで1週間を乗り切ろうとしているワタリ(@wataridley)です。

今回はアニメ映画『ぼくらの7日間戦争』をレビューしていきます。

この『ぼくらの7日間戦争』は、1988年に同名小説を原作とした『ぼくらの七日間戦争』のリメイク・精神的続編の位置づけにあるようです。

「子供達が力を合わせて大人達に抗う」というプロットを流用しつつ、タイトルの漢数字「七」がアラビア数字「7」になっているところに、多少現代に合わせようという匂いを感じます。また、予告編にも映っている通り、旧作にも出演していた宮沢りえが今作では同一人物に声をあてています。

パッと見たところ、『スター・ウォーズ』や『ターミネーター』といった過去の人気作を現代向けにリメイクして興行を賑わせようとする製作スタイルの日本版という印象を受けますね。

こうした作品で避けられない議論が、「今になって作る意味」だと思います。とくに今作の場合、流用された「子供VS大人」という構図は、大いに当時の価値観が反映されたものになっています。そのために、作品のテーマに何かしらの改変を施すのは必須なのです。

更に、今作はアニメーション映画として制作されています。旧作が今ではすっかり珍しくなってしまった子役が活躍する実写作品だったのに対して、トレンドに則って高校生を主軸に据えた青春アニメ然としたルックにしているからには、その表現性の違いに何かしらの意味があるのだろうと考えずにはいられません。そうでなくとも、アニメを見にくる観客は実写ではありえない景色が見たはずです。

しかし、残念なことに、今作はそうした時代性・表現性のどちらも大した驚きを与えてくれませんでした。自分としては、今作が陳列する重大な問題の数々とその解に筋が通っているようには到底思えませんでした。更には、テレビとは桁外れに潤沢な資金や時間を投入できるはずのアニメ映画に当然求められるハードルを全く超えてこないのです。最近観た作品の中でも、これは厳しい評価にならざるをえません。

以降はネタバレを含めて感想を書いていきますので、未見の方はご注意ください。


48/100

ワタリ
一言あらすじ「人気作をアニメでリメイクして、現代社会の問題を盛り込んでヒットを狙う企画書が終始ちらつく」

アニメーションでやる必然性の欠如

端的に言って、今作は映像面における見応えが全くない。アニメーションであることを活かしたダイナミックなカメラワークや動き、緻密なキャラクターの表情、臨場感を呼び起こす背景美術といった大作アニメに当然求められる要件をどれも満たしていない。

北海道内にあるという、彼らの住んでいる街の空気や、あの廃工場に漂うであろう寂しい情景もまるで伝わってこない。初めて工場の作業場に足を踏み入れる時も、単純な引き絵と単調なリアクションで済ませるだけだ。あの空間に反響するであろう声や、廃材を踏み締める足音によって寂れた空気を演出するといった工夫は見られない。内部構造についての具体的な説明もないため、彼らの「砦」に全く愛着が沸いてこない有様だ。少年少女が迷い込んだ廃ビルで、滴が落ちる音がこだまし、周囲の水溜りが灰色の屋内を静かに写す様子によって、空間の孤立性・静寂性を伝えていた『天気の子』とは大きな隔たりがある。

今作の目玉とも言える、大人相手に知恵を振り絞って争っていく『ホーム。アローン』的なアクションにしたって、さして現実離れした動きや誇張されたリアクションがあるわけでもない。見る限り、狭い廃工場内をちょっと走ったり、物を乗り越えたりするだけだった。そこにアニメで再現された人間動作のリアリティに凝るなり、アクションにおけるキャラクター性の表出なりがあれば、ひとまずは映像作品としての評価もできたかもしれない。だが、それすらほとんど見えてこないのだ。

強いていうのであれば、「梯子に登り切った高所から突き落とされてもなんとか無事で済んだ」「大の大人がトロッコに不意に身を攫われ、運良く怪我もしない」「即席で作った熱気球で脱出して逃げ果せる」といった詰めが甘い描写は、実写でやると無視できない違和感があっただろうから、その言い訳としてアニメ表現が機能していたとは言える。しかし、アニメーションに求める表現の利点ってそんなに地味でいいのだろうか。わざわざアニメでやるほどの必然性を感じられない、という不満点ばかりが浮かび上がってくる。

登場人物の心情描写を丹念に描いたというのなら、上記のような空間演出やアクション描写の物足りなさを補うことができただろうが、今作は残念ながらそれもない。まずキャラクターデザインの段階から、アニメやドラマに出てきそうな学生たちの定型をなぞっているだけで、印象に残るものがない。そして演出面でも「本を読んでいる大人しい子」「教室でボール遊びする陽キャ」「親の都合で振り回される子」「親友にべったりな子」といった凡な描写を積み重ねるばかりなので、作り物めいたこの子たちにどうやって感情移入すればいいのかがわからない。追い討ちをかけるようにして、キャラクターの表情は線が安定しておらず、喜怒哀楽の際の動きもはねていない。終盤の暴露大会において感情が発露するシーンとか、アニメ故にただでさえ実写作品に比べて抽象度が高く、表情に拘らないといけない場面においても、テレビアニメの平均に留まっている。

振り返ってみると、わざわざアニメでやる必然性を感じられない。「若い世代に受け入れられやすい「アニメ」と、昔『ぼくらの七日間戦争』という旧作を組み合わせて、冬休みと年末年始のヒットを見込む」といった感じの文が企画書にでも載っているんじゃないだろうかと、冷めた気持ちになる。

 

せっかくの自己内在的な問題を薄める定型的な「大人」描写

旧作から引き継がれた「子供VS大人」の構図は、やはりというべきか、アップデートの余波を喰らって、クライマックスが明確な自己内省に置き換えられている。

内在するカッコ付きの「大人」との決別は、現代的だと思う。現代において「子供VS大人」といった単純化された対立構造は成立しえないからだ。戦中のプロパガンダ映画における敵国兵や、かつて西部劇に出てきたという悪しき先住民といったアイコンは、現代ではとっくに古びている。多様性が意識されると、それらが批判の対象となったように、現代においてどちらかを「悪」と断じることができないからこそ、物語の解決を自己の精神的な葛藤に委ねたのだろう。その解決をクライマックスの暴露シーンに配置し、映画の真の主題としたのはたしかに時代に即している。

ただし、結局、子供側も大人側も描写に違和感を覚える部分は多い。大人は単純化され、子供は大人に抗うことを運命づけられているかのような描き方になっているのだ。

子供達は、よくよく考えなくとも、大人と敵対する理由が希薄である。物語の発端は、綾に恋い焦がれる守が彼女の「誕生日は地元で過ごしたい」という願いに加担するというものだ。

しかし、綾が「誕生日だけは地元で過ごす」ことができないのかが全く描写されていない。政治家の父親が東京で有力者から後ろ盾を得て、選挙に立候補するという事情は、綾が誕生日を地元で迎えることと全く矛盾していないではないか。

核となる動機からして、書き込みが甘いのに、守とクラスメイトは引っ張られるようにしてバースデーキャンプに加担していく。だから、彼らの多くは物語を突き動かす主体性や、裏の意味を付与しうる意思が根本に存在しない。そもそも大人に反抗しようという意図はまるでなく、成り行きでマレットという不法滞在者と出会ってしまったがために、籠城さざるをえなくなっただけの話である。実際、博人のように、「本当に巻き込まれただけ」のキャラクターもいる。わざわざ群像劇的な作りになっているのに、各々にドラマを見出せない。物語への引き込みが、動機付けの段階で失策しているように見受けられる。

大人側もデフォルメ化が甚だしく、見ていて現実感がない。表面上の主な敵として描写される綾の父親は、「目上の者に従うのが大人だ」という主張を再三に渡って繰り広げる。そして、周囲の人間は立場上、目上の者たる彼に従わざるを得ないという描写が延々続く。いくらなんでもこんな人達が、大人の生態を言い表しているとは思えないのが正直なところだ。もちろん、従わざるを得ない時や言いたいことが言えない時というのは誰しもあるが、流石にパワハラまがいの行為や明らかな不正・不道徳を見逃す人達ばかりではないだろう。

反面、こうした綾の父親周りの他に、大人の実態が描かれることはない。結果的に、「ただ抑圧にまみれた社会を生きる人」程度でしかないのが窮屈で退屈だ。一言に大人と言っても、色々な人種がいるはずなのに、どうして権力に屈する人に押し込めようとするのか。最後に出てくる前作の登場人物・中山ひとみは、それはそれで無責任な一言を放って終わってしまう。

アニメだから極端なキャラクター付けにしたという思惑があるのかもしれないが、単に古びた価値観を並べるばかりで、今の時代性を反映した部分がほとんどクライマックスに限定されているのが、非常に残念だ。

 

付け焼き刃にしかなっていない社会問題

今作は、政治の不正癒着、ネット上の誹謗中傷、不法入国、外国人労働者、性的少数者(LGBTQ)など、現代社会において顕在化している問題を一通り入れ込んでいる。しかしどうにも、これさえやっておけば現代的でしょと安易に考えている節がある。というのも、どれもただ単に「言及しているだけ」のぞんざいな扱い方をされているのだ。

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強引に展開していくネット描写の不可解さ

旧作『ぼくらの七日間戦争』の時代にはなく、今作『ぼくらの7日間戦争』にはある代表的な要素が、ネットである。しかしそのネットの描写の適当さ加減は、見ていて集中が妨げられるほどだった。

今作ではネットの功罪両方の面を提示しようとしていた点だけは評価できる。ポジティヴな面で言えば、マレットの安否を伝えるSNSのアカウントや、後ろめたい事情を抱えた政治家に「バズり」で対抗する様子によって伝えられるネットの利便性と影響度が挙げられる。「玉すだれ」なる助っ人の存在も、1988年版ではありえなかった。逆にネガティヴに描写されるのが、クライマックスにさしかかる段階で守たちを苦しめるプライバシーの侵害や誹謗中傷の問題だ。個人情報もネットに放たれてしまえば消すことは困難で、匿名性が高いが故に不特定多数に広まり、本人の預かり知らぬところで他人に好き勝手言われてしまう。

たしかにこれらは、特に若者が主軸の作品で、ネットをひとつの題材にする以上は、避けられない話題である。

しかしながら、このネットを用いた展開にはかなりの強引さが見られる。

マレットの両親を探す守たちの策は、信じがたいスピードで成功する。7日間というタイムリミットの中で、即日で寂れた工場に人を寄せ集められるほど情報が普及し、公に姿を見せられない立場の家族を引き合わせるのだ。まず、この作品のネット世界というのは、いちいち若者のいたずらに注目して、当事者に直接会えるわけでもないのにギャラリーが集い、マスコミまで動くほどに平和で退屈な世の中なのだろうかという疑問が浮かんでくる。ネットを活用した対抗というのはいかにも若者らしいが、それに速攻で踊らされるほど、ネットも暇ではないだろうと思う。そもそもそんな手が使えるなら「お前の娘が立てこもっていることを公表するぞ」とあの綾の父を脅せば、手も足も出せなくなるだろう。今作のネット描写はどうにも安っぽく、脚本も熱心に考察した上でこうした展開を描いたとは思い難い。

ネット上で晒されるという展開にしても、あれだけ個人情報と不法行為を拡散されてしまえば、彼らの人生への被害の深刻度ははかりしれないはずだ。「大の大人」がそんなことを考えずに、目先の問題を解決するためにそんなことをするとは到底思えない。そもそも、あの政治家の秘書は、度重なるパワハラに耐えかねてそうした策を思いついたように描写されているのに、綾については冷静で隠しているというのも理解し難い。

そうした脚本の不可解さに追い討ちをかけるようにして、「ネット上の反応」を描く演出も安易だ。ネットスラング混じりの文字を画面上に表示し、それを見た登場人物がショックを受けるという演出は、「自分の感情を口に出して喋る」に並んで観客に想像の余地を与えないため、映画には根本的に向いていない。

宮沢りえ演じる「玉すだれ」さんに「人生、何とかなる」と能天気なフォローをさせ、それを以てしまいにするのも流石に無理があるだろう。「デジタルタトゥー」や「ストライサンド効果」といったネット時代の常識が作品からすっぽ抜けているようにしか思えない。

 

LGBTQの問題について

守から綾への秘めたる想いこそ、彼が今回のキャンプに参加した最大にして唯一の動機である。ところが、その恋は成就することない。

綾が同性愛者、つまりはレズビアンだったという覆しはおそらく今作最大の見せ場のひとつとして設定されているのだろう。親友の香織に対する想いは、友愛ではなく、恋愛のそれだという。LGBTQにまつわる事情は近年その存在感を増しているだけに、ネットや外国人労働者などと合わせて、テーマに組み込みたかったという意図自体は理解できる。

だが、この告白は非常に唐突で、しかも後にも続かない。

綾が香織を好きだったということについての言及はほとんど、中盤、好きな人はいるかと尋ねられた際の「明かしてしまったら元の関係ではいられない」というような台詞のみだ。何なら「これは守についてのことではないか」とも思えるぐらいの、ぼかした物言いである。

香織のことが好きなのであれば、彼女が上記の台詞を語るに至る葛藤や想いの丈を描写してくれないと、こっちとしては彼女の内面に差し迫ることができない。そんな中で、急に「実はあの子が好きだった」と覆されて、どう反応を返せばいいのか。

しかも、バースデーキャンプの発端になっていた守の想いも、報われずに隅に追いやられてしまったように思える。観客としては、守が綾のために行動している話として追っていたのに、ここでその流れをぶった切られたような感覚が強い。「チャレンジすることが大事」という「玉すだれ」の言葉を借りるばかりで肝心の失恋の過程は急展開なので、今回の件から守が何を得たのかがよくわからない。

結果、LGBTQの問題に言及することは大きな意味を持ち得るはずなのに、肝心の綾の心情描写と守の成長がおざなりになっているために、本当に言及した「だけ」のように捉えられかねない描き方になっている。

綾の告白を聞いた他のメンバーが戸惑うでもなく、すんなりと受け入れるように描かれているのも引っ掛かりを覚えてしまう。今作は、現実にはまだ問題が山積だがそれはひとまず置いておき、LGBTQが堂々と恋愛できる世界を描きたかったのだろうか。その割には、上記のような苦悩を綾に語らせているし、今作はネットや外国人労働者、政治家の話など、現代社会とリンクさせる描写があるので、釣り合いが取れていない。

そして極め付けは、マレットが実は女性だったという覆しである。既定の性を超えた関係の理想を描いておきながら、女性だから守に恋愛感情を持ったとでも言わんばかりなアンバランスさを露呈し、単に浅はかなだけと思わざるを得なくなった。

 

不法入国者は見逃してめでたしの存在ではない

家族共々不法入国し、劣悪な環境に置かれていたマレットの存在に至っては、社会派を装っただけのトラブルメイカーにしかなっていない。

今作では高校生の判断によって匿い、そして遂には見逃される。マレット自身の苦境や行動が、今なお苦しんでいる不法入国者と重なり、敷衍して捉えられる展開を当然期待するものだが、そうした映画ならではのアプローチは見る限りほとんどない。道中における彼女の心境は自身の立たされた状況説明に終始し、変容する過程はほとんど描写されていないのだ。

そうなってくると、こちらの印象として、マレットはあの廃工場に人を呼び込み、守たちが大人たちとの攻防を繰り広げざるを得ない原因として用意された側面が強く、結果として暴露大会の時に博人が言っていたように「お前さえいなければ」と思わせかねないキャラクターになってしまうのである。もちろんマレットにとってら不本意極まりないわけだが、現に内面描写が足りていない以上は、脚本がマレットに与えた役割以外に着眼しようがない。

しかも、この不法移民に関する問題は何ら作り手から我々への訓示にすらなっていないから、どうしようもない。最終的に守たちは、「玉すだれ」さんに見つけてもらい、家族とマレットを引き合わせる。そして、放免する。そう、守たちがやったことは、れっきとした不法行為の幇助である。もしかすると高校生の主観で法的な正しさよりも人道を選び取ったと言いたかったのかもしれないが、一体あの家族はどうやって生きていくのだろうか?根本的な問題解決になっていないものを善意だからよしとするにも限界がある。

世界を見渡しても、難民を受け入れは当事国の経済や治安に影響を与え、少なからず自国民へ与える影響が大きいことからずっと議論されている問題だ。国境地帯を超えようとして最悪死亡するケースや入国してきた移民が劣悪な環境に追いやられるといった人権問題だってある。難民の受け入れ数は極端に低いと言わざる得ない日本の現状も考えていかなければならないのは確かだが、だからといって白黒で片付けられる話ではない。

それを今作は子供の視点を言い訳に、単純化した解を導き出してしまう。あの家族は今後どうなるのか、他に居る不法入国者に対してはどうするのか、これを観ている我々はどうしなければならないのか。そうした考慮が全くないままなので、外国人労働者や不法入国についての啓発にも啓蒙にもなりきれていないのだ。

色々不満を述べてきたが、つまるところ、社会問題の描写はいずれも「現代性を演出するための道具」に見えて仕方ないのである。

 

まとめ: 企画書は面白いかもしれないが、全てが中途半端

「子供が大人に反抗して、籠城作戦に打って出る」というプロットそのものの面白さはあり、タイトルにある通りの7日間で日々何かしらのトラブルやイベントが起こることから、退屈はさせない作りにはなっている。

しかし、これだけ様々に社会問題と個人を結びつけたドラマを展開しているにもかかわらず、結末を見届けて得られる教訓は皆無だ。それはどのキャラクターもどのドラマも安易に興味を引きつけるだけの存在に留まっているからだろう。

冒頭、人物描写や舞台紹介を雑に処理した直後、オープニングで性急に流れ出す楽曲は、もろにポスト『君の名は。』を狙ったような「大人の事情」を感じさせてくる。こうした安易さの連続を目にすると、「こういうドラマを描きたい」という動機から発着したリメイクなどではなく、宮沢りえの出世作のひとつとして有名な「懐メロ」を引っ張り出して、「アニメ」というジャンルに当てはめれば、ウケると思っていたのではないかと嫌でも邪推してしまう。

社会問題への言及もとにかく投げやりで、作品なりの解決策や新たな視点を示唆してもいないため、余計にその疑念を深めることになっている。「企画書」は面白いだけに、あまりに安っぽく、何もかも中途半端になっているのが勿体ないと傍観者なからも思う作品だった。

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