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こんにちは、むかし持っていたウッディの人形がどこに行ったのかわからず、ちょっぴり苦味を覚えているワタリ(@wataridley)です。
1990年~2000年代に子供だった人々、いや世界中の元子供達にとっても『トイ・ストーリー』というシリーズは、お友達に近い親近感を覚えさせてくれるものではないでしょうか。このシリーズが扱うオモチャは、幼少の頃に誰もが触ったことがあるであろうアイテムであり、人によってはそれこそ親友のように接していたかもしれません。その感覚はどうしても『トイ・ストーリー』にも重ねてしまいます。
だから、そのお友達が一旦は『トイ・ストーリー3』で区切りをつけた後にやっぱり戻ってくることになった時の心境って、嬉しさと不安の両方が入り混じるものだと思うんです。かくいう自分も、あの空模様で始まった『トイ・ストーリー』から空模様で締めくくられた『トイ・ストーリー3』に、今更続きなんてあり得るのかという複雑な気持ちで公開日まで過ごしました。それと同時に、あの慣れ親しんだオモチャ達が舞い戻り、いつもの調子で喋ったり、動いたりするのを見たいという気持ちだって抑えられません。
しかし、鑑賞を終えて、この『トイ・ストーリー4(原題: Toy Story 4)』は大いに作られる意義はあったと感じています。
1回では整理しきれないほど頭の中は様々な感情で混み合っていますが、今作で描かれた結末によって、1〜3だけでは救いきれていない人々に『トイ・ストーリー』は到達しうるはずだ。これだけは確信しています。
以降、『トイ・ストーリー4』の感想をネタバレ含めて語っていきます。また、『トイ・ストーリー』シリーズの1〜3についての詳細な内容にも触れています。未見の方はご注意ください。
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目次
『トイ・ストーリー4』は作られるべき作品だった
前作で終わったはずの話に続きが作られる意義は大いにあった。自分はそう思う。
『トイ・ストーリー』シリーズは、これまで一貫してウッディ達が「オモチャであること」を重んじてきた。しかし、この『トイ・ストーリー4』は、一転してウッディが従来のオモチャの生き方からはみ出ていく結末が描かれる。
思うに、これは矛盾ではなくシリーズが投げかけてきたオモチャの存在意義とウッディ自身の幸福とをどちらも実現している包括的な状態だ。
これまでのシリーズが語ってきたこととを振り返ってから、今作が語っているオモチャの存在意義について見直してみよう。
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シリーズで一貫して遊ばれることが生き甲斐だったオモチャ達
第1作『トイ・ストーリー』では、新参者のバズに自分の立場を揺るがされることで、ウッディがアイデンティティを肯定するか否かのドラマが生じていた。バズもまたオモチャという限界を知ることで、自らの役割を自覚して受容する姿が描かれていた。
本物ではないから空を飛ぶことができないという彼の挫折は、人間誰しもが直面する現実の壁そのものだ。『トイ・ストーリー』シリーズにおけるオモチャとは、人が自ら選択することができず、外部的、あるいは先天的にもたらされたペルソナや職業、あるいは社会的身分といったステータスを意味することが読み取れる。 オモチャである以上、ウッディのように持ち主のお気に入りの対象から外れてしまうことはあるし、バズのように自らの能力の限界を知ることもある。
それでも2人は、そんな自分のアイデンティティを受け入れ、「格好よく落ちているだけ」という前向きな諦めを口にしながら自らの居場所へ戻っていく。それは、まだ大きな挫折も知らない子供の自分にさえ、バズやウッディが抱える苦悩が晴れやかに消化される名シーンに映った。かくしてウッディとバズはアンディのオモチャとして幸せに暮らすのであった。
しかし、そうした役割が未来永劫続くわけではないことを『トイ・ストーリー2』は突く。秤にかけられた「遊ばれないが永久に保存される展示品」と「遊んでもらえるがいつかは捨てられてしまうオモチャ」という2択のうち、ウッディは後者を選ぶ。
この展開は、前作で語られた「役割を受け入れること」とは似て非なる。ここでは、「博物館の展示品」というもう1つの具体的な役割が示されているからだ。前作と同様に「オモチャであること」を受け入れる一方で、選ばられることのない未来がある。
あくまでウッディは今必要としてくれるアンディに遊ばれることを選択した。この二者択一を描いているからこそ、役割が単に「与えられて、受け入れざるをえないもの」ではなくなる。ウッディの『トイ・ストーリー2』における選択は、自分に与えられた役割と自分の心の在り様が一致した時にこそ、真に居場所が得られることを浮き彫りにしている。
上の選択肢における展示品とは、人の例に当てはまるのであれば、不老不死といった完全無欠の状態を思わせる。たしかに「永遠なる存在」は魅惑的で、いつの世も人の心を掴んで離さない。だが、それは不完全であるが故に発展してきた人と社会を否定しかねない。誰もが不完全だからこそ、役割を分担するのであるし、だから分担された役割にはいずれも価値がある。ウッディがアンディに必要とされるのは、たしかに人生の限られた時間に過ぎないだろうが、その刹那であっても互いを必要とし、相互に補完しあう。アンディはウッディで遊ぶことで楽しい時間を過ごすことができ、ウッディはアンディに遊んでもらうことで彼に貢献し充足感を得る。互いが互いを利して、どちらも損をしない理想的な社会の形である。
刹那であったとしてもウッディは必要とされる場所にいく。その決意によって『トイ・ストーリー2』の幕は閉じる。
しかし残酷なことに、役割の終わりは避けられない。『トイ・ストーリー3』では、アンディがオモチャを必要としない年頃まで成長し、更には大学進学のために家を出る状況の変化をきっかけにドラマが展開していく。役目を果たしてしまったかのように見えたオモチャ達は、成り行きでサニーサイド保育園に引き取られ、新たな居場所を見つける。
ところが、そこにいたロッツォはヒエラルキーを形成し、上から下への命令でバズ達は過酷な仕事を押し付けられてしまう。この一連の流れは、さながらリストラされて転職を余儀なくされた人々のようであり、特に労働市場の流動性が互い本国アメリカでは他人事とは映らなかっただろう。熊のぬいぐるみの形をしているが、ロッツォハグベアは紛れもなく過酷な労働を強いて労働者から搾取する資本家そのものである。バズ・ライトイヤーがスペイン語を話す描写は、国境を越えて労働に従事するメキシコ人労働者、という見方もできる。
ロッツォがなぜこのような上下構造を作るのかという疑問は、彼自身のバックボーンが解を出している。自身が必要とされなくなり、いとも簡単に他のロッツォに役割を取って代わられたという絶望に見舞われた彼は、同じく元いた場所で役割を失い寄付されたオモチャを虐げることで、皮肉にも支配者という別の役割で心の穴を埋め合わせる。社会から不当に扱われたという感覚は悪循環を起こし、他者に害をなすようになってしまうのだ。
そうした負の感情に支配された者にさえ、ウッディは救いの手を差し伸べる。負の循環を断ち切ろうとし、居場所を求めて諦めない彼は、最後にはボニーという新たな居場所を得ることになる。アンディとの黄金時代が終わりを告げても、場所を変えればボニーという少女には必要とされる。どんな役割もどんな人も、必ず必要としてくれる居場所があるということを、最終作、かのように当時は思えた『3』は描ききったのである。
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子供部屋の外に見出された幸福、ウッディの救い
そこにきてこの『トイ・ストーリー4』という作品は、そうしたオモチャとしての役割を常に第一に置いてきたシリーズの文脈から、外れた所に着地した印象は否めない。『トイ・ストーリー』でバズとの喧嘩を経て自身の立場を受け入れ、『トイ・ストーリー2』でやがて終わりが来るとわかってながらもアンディのオモチャであることを選択し、『トイ・ストーリー3』でその終わりと新たな始まりを迎えたウッディが、遊んでもらうオモチャとしての役目ではなく、ボーと世界を見て回ることを選択したのである。
ただ、この一見すると矛盾しているウッディの決断、ここに『トイ・ストーリー4』が3の後に作られた理由がある。
ウッディはこれまでアンディ、そしてボニーのことを見守ってきた。それは身を粉にしてといっても過言ではないほどであった。今作の冒頭において、ウッディはボニーに遊ばれなくなってしまってもなお、彼女がフォーキーといられるように取り計らう姿が描かれる。
しかし、これらのウッディの努力の先には、自分自身の幸福は待ち受けていない。どれだけ奮闘しても、選びとられるのはフォーキーであり、ウッディではない。遊びの時間の中でも、ウッディはもはやボニーから興味をもたれず、保安官バッジだけを取られて自身はクローゼットの中に置かれたままだ。今作におけるウッディとボニーは、先述したウッディとアンディのような「互いが互いを利する理想的な関係」たりえないのである。
そんな日々の中、訪れた旅行先でかつて恋仲にあったボーの面影を見つけたウッディは、ボニー達のいるキャンピングカーを背にして、そちらへ歩み出す。このシーンを境にして、ウッディ自身の欲求が徐々に露になっていく。
『トイ・ストーリー』では、気にくわないとしながらもバズを連れてアンディの元に帰ろうと奮闘していたし、『2』でも『3』でも常に持ち主であるアンディの存在が彼の行動原理にあった。また、シリーズは常に物語の始まりと終わりの舞台を「持ち主の元」にしていたことから見ても、オモチャ達の動向は持ち主の幸福に還元される存在と定義づけられていた。
そんな持ち主の幸福を何よりも第一に考えてきたウッディに与えられた憩いが、ボーとの再会である。ボーもまた、持ち主に手放され、2、3年もアンティークショップのショーウィンドウに飾られ続けるという苦渋を味わったことが語られる。そんな彼女は1個の持ち主に縛られるより、広い世界を見て回る喜びを提示する。オモチャであるがための理不尽によって生き別れたボーと、オモチャであるがために持ち主の変化によって辛い役目を負わされたウッディの2人が、移動式遊園地とアンティークショップで美しい景色を共に見て、子供部屋の外に生き方を見出す過程は、それだけに救いなのである。
役割故に浮かばれないウッディの内面に迫ったことにより、シリーズ通して絶対に守られてきたオモチャの役目に、今作は新たな道を拓いている。前作からより一層クリアになり、実写と見紛うほど微に入り細を穿つ3DCGは、ウッディが抱えるエモーションを増幅させていた。雨が降りしきる中で引き裂かれるウッディとボーのシーンからして、激しい雨と容赦なく濡れる体が悲哀の写し鏡に思えてならなかった。また、ウッディがボニーのためにフォーキーを救おうとすればするほど、どうしようもなく彼自身や周囲が傷ついていく部分も逃さず描かれている。だから、少々展開的に強引さを感じつつも、役割から解放されるウッディの肩に手を置きたくなる。
これまで役割に翻弄されてきた彼が、やっと役割から解放されて、自分勝手な幸せを手に入れるのだ。所有されない迷子のオモチャとは、これまた奇妙な存在であり、現実社会で言えばはみ出し者、傾奇者だろう。しかし、己を犠牲にしてでも役割に従事して苦しむくらいなら、いっそ気の向くままに生きたっていいじゃないか。それこそウッディが十分すぎるくらいにオモチャの使命を全うしてきたことは我々が24年のうちの歳月で見てきたのだ。
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これまでの『トイ・ストーリー』を包括し、無限の彼方へ広げる物語
役割によって不憫な目に合うこともあったウッディを役割から解き放った一方で、今作はこれまでのシリーズで描かれてきたオモチャの存在意義を無下には扱っていない。それどころか、今作のウッディはその従来のオモチャの幸福のために行動を起こしている。
まず、自分のことをゴミだと認識していたフォーキーにオモチャの幸せを説いたのは紛れも無いウッディである。常に持ち主の幸福のことを考える一方で、ウッディはオモチャにとっての幸福をきちんと考えている。
考えてもみると、このフォーキーという新参者のオモチャは、第1作『トイ・ストーリー』におけるバズを彷彿とさせる。元々立場が危うかったウッディであるが、フォーキーの登場によりその役割がさらに縮小される。しかし、今度はバズの時とは違って、自身の不遇に文句を垂れずに、フォーキーを見守る。ここにウッディの人間的な成長を垣間見られると共に、持ち主にとってのオモチャの役割を重視する彼の考えが表れている。
フォーキーの誕生のきっかけも、オモチャの存在意義を印象付けている。ボニーが幼稚園で寂しさを紛らわすためにゴミから作り出し、フォーキーと名付けたソレが、突然自我を持ち始める。このエピソードからわかるように、オモチャは必要とされた時に役割が生じ、そしてそれは命の萌芽となる。持ち主に遊ばれることがオモチャにとっての従来の存在意義であることは、序盤に提示されているのである。
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それに対して、オモチャとしての役割を果たせないギャビー・ギャビーは哀しい境遇に置かれている。彼女は生まれつきボイスプレイヤーが故障している不良品であり、それ故に棚に飾られたまま誰にも購入されることはない。この設定は人間に置き換えれば、無残な話になる。どの程度かは各々に委ねられるが、望んでいる職に適さない体や心の状態にあって、叶うことのない夢を見続けて日々を過ごすようなものだからだ。
ウッディはそんな彼女にボイスプレイヤーを渡すが、残酷にも店主の孫娘ハーモニーには受け入れられない。自分を必要としてほしいという誰もが抱える欲求は、必ずしも叶うとは限らないという現実がここにある。しかし、『トイ・ストーリー3』が描いていたように、誰かに手放されるとしても、必ず自分を必要としてくれる人はいる。それが終盤における迷子の女の子だ。孤独感に襲われた子にとって、ギャビーの存在は救いになる。ちょうどボニーがフォーキーを作ったのと同じで、オモチャは誰かの心の友達になるために存在している。
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ウッディがフォーキーとギャビーの背中を押すのは、そうしたオモチャの存在意義を理解しているからに他ならない。ボー、ギブル、カブーン、バニー、ダッキーといった野良オモチャ達に対しても、「忠誠心(loyalty)」といった言葉を用いて自身の行為の正当性を訴え、他の何よりもボニーのためにフォーキーの奪還に固執する。持ち主への忠誠心こそそれまでウッディが捉えてきた自身の存在意義なのである。序盤において、フォーキーを説得する際、無意識にアンディの名前も飛び出てしまうが、これもひとえにウッディの未だ消えぬかつての持ち主への忠誠心によるものである。
だが、ウッディはその後ボーの言葉を借りて、失意のギャビーに「子ども達はたくさんいて、ボニーもその1人だ」と説く。ギャビー自身はハーモニーという個人に囚われていたという点において、実はウッディと共通項を持つキャラクターだ。その彼女により広い「子ども達」の概念を持ち出すことは、ウッディの中にある「子ども」がアンディやボニーといった特定の個人を指す狭義から、世界中の子ども達を包括する広義に発展したことを意味している。
だから、ボニーという少女の幸せのためにフォーキーを取り戻し、遊んでもらいたいというギャビーの気持ちを尊重して迷子の子のもとへ送り出したウッディは、オモチャとしての役目を更に拡張したと言えよう。更には、ウッディが最後に選択した道は、ボーと一緒にいたいという個人的な願いを叶えたのと同時に、世界中のオモチャと子ども達を結び付けるという社会貢献を見事に両立している。
エンドクレジットに挟まる映像では、移動式遊園地で残り物になっていたオモチャを子どもたちに引き合わせていた。ウッディとボー達はこれから、まさに無数のオモチャと子ども達と出会っていくのだろう。もしかすると、ウッディは再び誰かのオモチャになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。オモチャを送り届ける中で仲間たちが増えるのかもしれないし、ならないのかもしれない。可能性は無限大だから、予想もつかない。まさしくウッディ達は「無限の彼方へ(To infinity and beyond)」旅立ったのだ。
トイストーリー4、ギャビーギャビーの○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○に納得がいかないという感想に対して。○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○続き https://t.co/PdFyCS6vZu
— ワタリdley🕊 (@wataridley) July 20, 2019
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まとめ: 『4』は『トイ・ストーリー』シリーズを普遍化する一作だ
シリーズ1作から3作目まではオモチャという役目に十分すぎるほど向き合った。そうしたオモチャの原義を含めつつ、ウッディというオモチャの功労者が新たな道を切り拓く『トイ・ストーリー4』は、シリーズの魅力を損ねないどころか、最大限に尊重して、あの『トイストーリー3』に連なる見事な真の締めくくりを成し遂げた。
今、自分が持てる役割を持っている人は3作目までのウッディ達に自分を当てはめ、辛いことがあればこの『トイ・ストーリー4』が少しでも安息になるかもしれない。今作を以てシリーズ全体をユニバーサル化し、誰でもシリーズ4作品を通じてウッディ達の選択に共振することができるようになったと思う。
このように、自分は『トイ・ストーリー4』は決してシリーズ過去作を否定したとは思わない。たしかに着地点は過去作と真逆であり、それを指差して批判する事は容易い。しかし、ウッディを見守ってきた歳月は作中でも現実でもかなりのものだ。また、シリーズを通して苦楽を共にしてきた。時と共に人の考え方や生き方は変節するように、ウッディだって変わったのだろう。まるで『トイ・ストーリー』シリーズを介して、ウッディの人生の片鱗を見たかのような感覚がその捉え方を可能にしている。それだけ自分がウッディに肩入れしているということでもあるのだろう。
ともかく、今はウッディを労いたい。グッドラック。
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