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こんにちは、憧れの俳優は宮口精二、ワタリ(@wataridley)です。
今回は映画『スペシャルアクターズ』をレビューします。
監督は、『カメラを止めるな!』で昨年の映画興行を沸かせた上田慎一郎。3人監督制で製作された『イソップの思うツボ』を除けば、今作が『カメ止め』の実質的な次回作ということになります。一躍時の人となった上田監督にとっては厳しいプレッシャーがかかっていると同時にチャンスでもある位置づけの作品でしょう。
自分としては3人で作ったとはいえ、『カメ止め』に似た「どんでん返し」に傾き物語が疎かになっていた『イソップの思うツボ』に厳しい評価をぶつけてしまっていましたので、はっきりと不安はありました。それに『カメ止め』があまりに高い評価を得ており、その完成度の高さは容易に再現することはできないだろうとも思っていました。
見てみると、今作にも同様の「どんでん返し」がありました。また、『カメ止め』で言うところの撮影クルーのように、今作はクリエイター寄りの立場である「俳優」を主題にしており、順当に作家性を感じさせる装いにもなっています。
ただ、「どんでん返し」にせよ、登場人物たちが浮き彫りにするクリエイティヴなメッセージにせよ、ベクトルは『カメ止め』からしっかりと変えられています。そのため、二番煎じ感はなく、ポスト『カメ止め』のようなコンテクストを抜きにしても、自立した作品になっていたことには評価したいと思います。もっと言うと、この物語が伝えてくれることは、誰しもが夢見ることで、特に自分も共振しながらあのクライマックスを見ていました。
一方で、見終えて頭に浮かんだのは、素直な満足ばかりでもありませんでした。くだんの「どんでん返し」については、賛否が分かれるだろうと見ています。
自分が言いたいのは、大きく分けて2つ。ひとつに『カメ止め』がまぐれ当たりではないということを感じさせる創作への愛。もうひとつが、今作における「どんでん返し」の是非についての考え方です。
以降、ネタバレを含めてそれらを語っていきます。未見の方はご注意ください。
65/100
目次
今度は俳優を通してフィクションへの愛を描く
大野和人(演:大澤数人)は、俳優を志しているにも関わらず、虚弱な精神が祟って土壇場で気絶してしまう体質の持ち主。当然ながら役者で食べていくことは叶わず、しかも勤めていた警備のアルバイト先からも解雇を言い渡されてしまう。そんな時、数年間連絡を取っていなかった弟・宏樹と偶然にも再会し、彼から演技を使った何でも屋を兼ねた俳優事務所「スペシャルアクターズ」を紹介される。映画館や占い師のサクラ、飲食店の抜き打ち調査など、和人は様々な仕事をこなしていくが、ある日事務所は駆け込んできた女子高生から大仕事を依頼される。それは、カルト教団に騙された姉を救い出すため、教団の闇を暴いてほしいというものだった…。
上田慎一郎監督の前作『カメラを止めるな!』が裏方の制作者側目線が強い作風だったのに対して、今作は矢面に立つ俳優たちを主人公に据えている。しかし、今作は単なる映画やドラマの撮影などではなく、「日常で演技をして本物に見せかける」という独自の仕掛けがある。これによって、ひと時でも観客に嘘を本物だと信じ込ませることこそ俳優の本義である、とはっきり再認識させてくれるわけだ。嘘や誇張を交えながらも、それを悟られないよう真実味で飾り付け、俳優は我々を騙す。
弟の宏樹が通りがかりの男女に絡むヤンキーを、通りがかりの男性が逞しい姿を、それぞれ演じることで女性がその人に好感を持つというエピソードから端的に有益性が示される。嘘は嘘でも、信じることで得られる幸福がたしかにあるのだ。それは俳優にとっての主戦場とみなされる映画やドラマ、舞台などを観てきた人々にとってすんなりと理解できることだろう。
対して、今作に登場する「ムスビル」のような詐欺団体は、人を欺くという点は俳優と同類かもしれないが、その目的は騙された側を楽しませることになく、あくまで自分たちの利益にある。
嘘によって人助けをすることを生業とした俳優事務所VS嘘で引き寄せた人々の骨の髄までしゃぶり尽くすカルト教団という対立構造からは、作り手のフィクションに対する愛を感じさせてくれる。
今作の主人公・和人もフィクションを心の拠り所に生きている身である。俳優を志しているというのもそうであるし、「レスキューマン」なるヒーロー映画のVHSをボロボロになるほど見ている日常描写に、彼の心の在り様が手に取るようにわかる。
だが、そんな理想の姿と現実に生きる自分の間には絶大なるギャップがある。和人は、緊張が高まると気絶してしまうという、わかりやすく、致命的な欠点を抱えている。だから、暗闇の中で人知れずポーズを真似て、画面の中に耽溺することしかできないのだ。
そんな彼を見ていれば、今作からはくっきりとした「理想と現実」のテーマが読み取れる。また、序盤のこの段階で「理想が現実になる」瞬間がどこかで訪れるのだろうということも察しがつく。それはすなわち、和人が持病を克服することを意味するのだ。
物語に貢献する役と一体化した役者
悪しき嘘を振りまくカルト教団「ムスビル」を成敗する潜入作戦を通して、和人は俳優として成長していくことになる。この過程で、事務所の個性豊かな面々と協力していく姿は、文化祭の準備に奔走する学生たちのように滑稽で、楽しそうだ。
うだつの上がらない事務所の社長…ではなくボス、声を張り上げて指導に精を出す演技指導係、冷静沈着で実質的なまとめ役のシナリオ係、役にのめり込むあまり拘束や口封じに快感を覚える役者など、とにかくキャラクターの味付けは濃く、性質を掴みやすい。一見するとまとまりのない個性が、ひとつの仕事のために団結するというのは、『カメ止め』を彷彿とさせるし、画面越しに伝わってくる一蓮托生の空気感は、そこらの大作映画ではかえって演出できないものではないだろう。
教団「ムスビル」側のキャストは、胡散臭い臭いがぷんぷんしていて、大なり小なりインパクトを残していく。パーマをかけたノッポな教祖の虚ろな目や、父親の克樹の作為的な善人っぽさは、実際の詐欺団体を見たことがなくてもそれっぽいと思わせるさじ加減。そして色香で信者を引き込む女性幹部の「ヒラメ顔の童貞がキモい」といった感じの台詞は威力があって胸が痛い。
主人公を演じた大澤数人をはじめとした役者は、上田慎一郎監督の当て書きによってキャスティングされたからか、役と一体化しているようにも思える。中には大澤数人=大野和人のように、芸名を多少いじった程度の役名もあり、それを物語っているかのようだ。
主演の大澤数人は、「売れない役者」という設定に一切の疑いを持たないほどに今作では華がない。俳優への憧れという軸を明確に持っているのに、日々それを表に出して果敢に動いていくといったことができないという燻り具合を、薄幸そうで幼い顔つきが体現している。しかしそれは観客を引き寄せ、共感させる卑近さを意味している。オーディションのシーンは見その実力を客観的に不安視してしまうが、暗闇の中でヒーローを見つめるその目には、他人事のように捉えられない憧憬が滲んでいる。
一方で、そんな兄とはタイプが異なる宏樹は、長髪で太い眉や凛々しい目つきなどが、いかにもやんちゃな印象を与えてくる。だがしっかりと兄想いな部分があって、再会シーン、宅飲みや計画の実行前のやり取りから、この兄弟は、気質は違うがだからこそ成り立っているS極とN極の磁石のような絆でもあるんじゃないかなということも読み取れるようになっている。
そうした役と一体化した役者が、きちんと物語に寄与している光景そのものに面白さがある。もっと言うと、その面白さが物づくりの楽しさを例証し、テーマに寄与している。前作がヒットしておきながら、映画全体は明らかに予算がかかっていない作りなのは気がかりではあるが、まだ無名の役者を起用するこのスタイルは上田慎一郎の武器だというほかない。今後もなるべく続けてほしいと思った。
カルト教団の嘘を俳優の嘘で成敗する痛快さ
「スペシャルアクターズ」の面々が、カルト教団「ムスビル」に潜入していく模様は、ストレートにケイパーものらしい。
中盤の集会では、非営利団体「ムスビル」のえげつない商法、それを主導する幹部らの紹介がなされつつ、和人の気絶体質を不安材料として、そこそこスリリングな場面にも仕上がっている。
そこそこと書いたのは、正直なところ、このカルト教団周りの描写がけっこうありきたりであったり、どうしてもローコストな制作背景が目に見えてしまう舞台仕掛け等が理由としてある。裏教典なるデータを盗み出す過程にしても、室内中心で大きなトリックや捻りの効いた演出は特に見られない。
相手取る教団にしても根本的にセキュリティの甘さを感じさせ、登場してすぐに俗物めいた言動を見せてくるし、教団の目的はただの金儲けでしかない。ただ、こうしたありきたりな悪役像や潜入作戦は最後の覆しによって、説明がつくようになっているから、ズルイところである。
とはいえ、和人の気絶スキルを活用して活路を見出していく展開はなるほどと思えたし、同時期に加入した他の信者をミスリーディングとして攻勢に転じるトリックなどは自分も教団幹部と同じように騙された。
そして、最も大きな見どころが、クライマックスにおける「レスキューマン」の現実化だ。あの暗い部屋の中で、台詞を一字一句間違えずに暗唱し、一挙手一投足を真似る姿を観ていたから、和人自身がヒーローになる瞬間は、熱が上がらずにはいられない。血飛沫を吹き、念力で体を飛ばされ、あるいはそれにあたふためく人々の存在は、和人の活躍ぶりを際立たせると同時に、その珍妙な映像がギリギリ笑えるギャグにもなっている。なにより、それまで自力で灯りをつけられなかった和人が、「レスキューマン」のヒロインと重ねた旅館の女将との出会いや、周囲と協働してフィクションを作り上げた先に、フィクションへの愛を爆発させて、嘘を悪用する教団を倒すというのは、痛快である。
偶発的にスーパーパワーを得て、ヒーローになっていく物語はこの世に溢れている。しかし、今作はそうしたヒーローへの憧れを扱うことで、作品舞台を我々と地続きの世界に置き、俳優という職業が提供してくれる夢物語や御伽噺の楽しさを再考させてくれる。
上田慎一郎監督は、劇中で映画のサクラ仕事をしているシーンで上映されていた短編映画『恋する小説家』でも、自身の創作物に救われる小説家の姿を描いている。このように、作風としてフィクションやクリエイターへの目線が強く、『カメラを止めるな!』はその成果だ。次回作となった『スペシャルアクターズ』では少しやり方を変え、「物づくりの苦楽」からやや観る側目線な「フィクションから得られる勇気」をドラマとして描いているが、いずれにせよ根底にあるのは創作への愛だ。
3人監督制で作られた『イソップの思うツボ』では、この作家性が露骨に薄れているような気がしてしまい、不安を抱えてしまっていたが、今作を以て上田慎一郎監督はまったく一発屋ではなかったことを証明したと思う。
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あのラストをどう取るかによって評価は分かれる
ここまで描いてきたように、今作は創作への愛をひしひしと感じる物語、キャスト陣、仕掛けが寄り集い、評価はともかくとして、温かみを感じられることに違いない映画だ。
和人が「レスキューマン」となり、持病を克服した姿をもって幕が下りたのなら、気持ちよく劇場を出ることができただろう。
ところが、最後の最後に映画は急旋回する。単刀直入に言えば、弟の宏樹との再会から「ムスビル」を成敗するまでの出来事は、すべて「スペシャルアクターズ」によって仕組まれた物語だったという。
そして、この「どんでん返し」によって、最終的に映画が伝える物語は「憧れのヒーローを現実に召喚し、勇気を得る」というものではなくなる。この映画で起きたことはすべて嘘なのだから。よくよく考えてみると、裏教典なる詐欺の証拠を警察に突き出せば問題は解決していたであろうところを、あのヒーローショーを上演した時点で、和人のために仕組まれていたものだということが導き出せるようになっている。
ここが大きく評価を揺るがす部分である。これまで熱を上げてやってきたことがすべて仕組まれたものなのだとしたら、あの「スペシャルアクターズ」の面々との共同作業を通じて芽生えたであろう連帯感や、そしてあの悪の組織「ムスビル」によって苦しんでいた人々を救ったという事実も、無に帰すではないか。
唯一本当だったのは、弟の宏樹が兄の和人を慮っていたということだけである。つまり、今作の物語の正体とは兄弟愛ということになるわけだが、果たして振り返ってみてそれに見合う過程が描かれていただろうか。
自分が記憶する限りでは、宅飲みしているシーンで「レスキューマン」を話題に挙げたり、大仕事の前日に「兄貴に憧れて後を追った」という励ましをかけていた部分、そしてクライマックスの「行け!ヒーロー!」ぐらいである。細かいところでは彼の会社名に「レスキュー」という名前もあるが、これらだけでは、全体尺からはそれほど訴求力を持った描写になりえず、したがって弟から兄への心情も伝わりづらい。更には、家庭内で問題を抱えているらしいことが示唆されている和人が、数年間音信不通だったという宏紀のことを如何様に考えていたのかについてもあまりフォーカスされていないので、兄弟愛を描く映画としては物足りないと言わざるを得ない。第二幕あたりの潜入のシークエンスでは、宏樹と和人のやり取りは少なく、単なる潜入ものっぽくなってしまっているきらいもある。
あとは、そもそも「こんな回りくどいことして治療する必要あるか?」という疑問も浮かんでくる。「起業したいって言ってなかったっけ」という冒頭のやりとりが実は伏線で、スマホで検索すると宏樹はきちんと起業して成功していたことが明らかになる。だから、資金面では心配ないということらしいが、今作における「治療」はかなりの大人数を動員し、色々と設備や道具に金をかけまくっている。兄のためという動機からそんなにひょいとお金を出せるほど成功したのなら、親族の耳に入るのではと思ってしまうし、そうでないならなぜ決して小さくはないはずの身銭を切ってまで兄を助けようとするのかもわからない。物語がやけに和人に都合のいいように動いていくというのはたしかに「どんでん返し」で説明はつく。だが、和人がスマホで「ムスビル」のことを検索していたらバレるじゃないかという突っ込みもあったりして、「どんでん返し」では補い切れていない面もあるのだ。
露骨に兄弟の描写に傾いてしまうとタネがバレる懸念があったためかもしれないが、ともかく終盤の「どんでん返し」によって表出する兄弟の関係性は薄口で、そのために納得し難い部分があるというのが初見時の率直な感想だった。
それでいて、そういったドラマをじっくり見せるような編集がなされている箇所もあるが、今作の見せかけの物語に対しては不釣り合いにも思えた。宏樹とのやり取りや旅館の女将との対面する場面はかなりスローに見せるのだが、こっちとしては「ムスビル」をどう打ち負かすかに注意を割いているので、観る側の興味と場面の尺一致していないのは否めない。見せかけの方の物語を最初の30分程度で済ませていた『カメ止め』に対して、最終盤まで種明かしがお預けの今作は、その点では後退してしまっているとも思った。
ただ、考えてもみると「全てが仕組まれていた」という構造自体は、全ての映画にあてはまる大前提である。仮にこの映画が「フィクションからパワーを得る物語」だったとしても、結局のところそれすらフィクションに過ぎないのだ。もしかすると上田慎一郎監督が今回用意したこの「どんでん返し」は、そうしたフィクションの脆弱性も指摘しようとして仕組まれたものではないかと見ることもできる。「色々うまくいったけど、現実はそんなうまくいくわけないでしょう?」という悪戯っぽいニュアンスが、あのラストカットでドアに描かれたマークのウィンクで示さされていたのかもしれない。
要するに、暴かれてしまったことに着目すれば今まで見てきたものの儚さに頭を取られてしまうが、一方でそれだけ物語にハマっていたのだとメタ認知することで虚構の楽しさを身をもって味わえる。そういう意味で、賛否両論も納得の作品構造だ。
しかし、どちらにせよあのラストシーンを終えた後に、もう1つフォローは欲しかった気はする。気絶したあの和人は、果たしてきちんと再起できるのだろうか…。
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まとめ: 上田慎一郎監督のフィクションへの目線が光る一作
『カメラを止めるな!』が想像を超えてヒットしてしまったがために、金銭的に潤うと同時に、求められるハードルも劇的に上がってしまった状態にあることは、全くの傍観者である自分にも容易に察せられる。上田慎一郎監督は、それこそ和人のように気絶するほどのプレッシャーに襲われたのではないだろうか。
そんな苦しい状態にある俳優を主人公に据えて、それでもフィクションがもたらしてくれる楽しい時間を描き、きちんと驚きも最後に与えてくれる今作は、上田慎一郎監督の前向きな作家性が発揮されている。
それにしても、『カメ止め』があれだけヒットしたにも関わらず、相変わらず安上がりなルックは一観客としてかなり気になってしまう。上田慎一郎監督が単なる一発屋、『カメ止め』が単なるまぐれ当たりにさせないようにする上では、資金を供給する側にも大いに責任があると思う。
最後の「どんでん返し」を中心に甘さを感じてしまう部分があったものの、上田慎一郎監督の創作への目線の鋭さと、それを驚きに変換するアイデアには、再度舌を巻いた。今作を見て、この人にはずっと映画を撮って欲しいという思いが強くなった。
評価、興行、利害関係など、人気に火がついたが故に頭を悩ます要素が増えたと思うけど、一観客として素直に次回作も楽しみにしています。
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