埼玉県人にはこの映画でも観させておけ『翔んで埼玉』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

こんにちは、東京生まれ東京育ちのワタリ(@wataridley)です。

今回は埼玉県を題材にした酔狂な映画『翔んで埼玉』をレビュー。

『テルマエロマエ』などの武内英樹が監督を務める同映画は、魔夜峰央による同名の少女漫画作品の実写化であり、なんと発表から30年もの時を経てのメディアミックスとのこと。

埼玉県をはじめ、他県の事情を特に気にしたこともない自分でしたが、公開後の評判を耳にして鑑賞に至りました。

※今回の記事を書く前に、「カゲヒナタの映画レビュー」の管理人で映画ライターのヒナタカさん(@HinatakaJeF)と映画の感想を語り合いました。よろしければこちらも合わせてどうぞ。18分25秒ごろからネタバレあり。

以降ネタバレで、今作のバカ真面目な茶番劇とそこから見えてくるテーマについて書いていきます。


70/100

ワタリ
一言あらすじ「埼玉県は住みやすくていいところ」

美貌でぶん殴ってくるGACKTと二階堂ふみ

『翔んで埼玉』を観て、まず度肝を抜こうとしてくるのがキャストの装いである。連載されていた80年代の香りがする少女漫画の王侯貴族の格好を現実世界にブッ込んでくるあたりに、意欲的な姿勢が見える。

キャストは、その現実離れした服装を大胆にも着こなしている。映画を見ているうち、一種の催眠術にかかった自分には、40代のGACKTが高貴な高校生に映り、女性の二階堂ふみが女性的な美貌を持った美少年に思えてならなかった。

GACKTはパブリックイメージから連想されるように、大人の魅力を持つ男性である。恐ろしいことに、高校生である麻実麗を演じるにあたって、彼はそうしたオーラを包み隠すような真似はしていない。飛行機から降り立つその時から、学生が到底持ち得ぬ美の暴力をかましてくるのだ。セリフを発する時も、逐一艶のある響きが込められる。ピーナッツを鼻の穴に入れられそうになる場面においてですら色気を感じさせる。伊勢谷友介との接吻に至っては、スクリーンから漏れ出てきたエロスの香りが劇場に充満していた。

お前のような高校生がいるか。当初はそんな想いを胸に見守ることになるものの、周囲の高校生役を突き放す美貌と浮世離れした存在感が、違和感を帳消しにする。そうして、ありえるはずのない「貴族風の格好をしたやけに色っぽい高校生」をあるがままに受け入れることになる。

現実離れの甚しさは、二階堂ふみだって負けていない。壇ノ浦百美は、女性のような名前に華奢な躰つきを持つが、名家の生まれを誇る男性である。お前制服はどうしたと言いたくなる全身白の貴族服に身を包むセンスのみならず、きりりとした瞳に金髪ボブというルックスも目を惹く。序盤に見せる埼玉県民への高飛車な態度といい、所沢という地名に対するオーバーなリアクションといい、彼女の言動もいちいち突っ込みを入れてしまいたくなるものばかりだ。「埼玉県民は草でも喰ってろ」と罵るシーンの、心底埼玉県民を見下している顔は、真に迫りすぎて本当に都道府県の話かこれ?と思わずにはいられない。

しかし、誰もそのことに正面切って突っ込むことはないし、最後には埼玉県に対する偏見を覆しはすれど、当の本人は何ら自らの言動自体を顧みることはない。それどころか、世界埼玉化計画の集会前にノリノリで麗と優雅なダンスを踊る。『翔んで埼玉』の世界において、百美はこの上なく堂々たる面持ちで存在しているのだ。

非実在の様相を包み隠すことのない百美は、二階堂ふみという実体を媒介にして、コテコテの80年代少女漫画の法則を当然のこととして現実世界にも適用しにかかる。お陰様で、埼玉への侮辱をはじめとした、百美たちの言動を切って捨てるべしなどとは思えず、寧ろ自分が異なる世界に迷い込んだアリスのような気分になってしまう。

架空の存在をバカ真面目に現実世界へ引き連れ、独自の価値観をも鎮座させるキャストたちは、『翔んで埼玉』世界を見事に構築してくれた。だからこそ、彼らと我々の間にあるギャップが一層大げさに感じられ、それが楽しさを生んでいる。

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

 

こだわられたディティールと適度な脱力感

今作は東京、埼玉、千葉などを舞台に登場人物たちが四苦八苦するコメディ要素が目玉になっているとあって、舞台装置を矮小なコントレベルに押し留めることだってできたはずだ。

しかし、GACKTと二階堂ふみにあんなことやこんなことをさせる力の入れ具合と同様、やたら舞台装置や小道具も凝っていた。

貴族でも住んでいるのかと見紛う高級な作りの白鵬堂学院には、緩やかにカーブした階段や社長室に見える生徒会室などがある。白馬に乗って学校前を通る生徒が確認できた他、くっきりしたアイラインを引いてめかしこんだ女生徒たちは、張り上げた声色で華とプライドを振りまく。思わず「宝塚か」と突っ込みを入れたくなるところである。埼玉県民に対するヒステリックな反応を示す際の白目は、完全に古き時代の少女漫画の白目表現だった。

体育館のシーンひとつ取っても、スペースにゆとりのある生徒達の並びや座席の配置が気品を感じさせる。このシーンでは、ガキの使いのききシリーズや芸能人格付けチェックを貴族風にグレードアップしたような「東京テイスティング」が執り行われるが、その空気入れの容器もやけに格式高い。いったい幾らの値打ちものなのだろうか。もはや、学校の設備の域を超えてるだろう。勝負に敗北した百美が運ばれた先の保健室らしき場所(我々の想像する保健室のそれとは異なるため「らしき」とつけるしかない)に備えられた華美なソファーや日差しをロマンティックに通しては風に靡くカーテンまでもが、一般庶民は触れられそうにないソレである。

こうしたディティールへのこだわりは、全体に貫かれている。加藤諒演じる貧しい埼玉県民たちは、白鵬堂学院において、日本国憲法25条も真っ青な劣悪な学習環境下におかれ、病を治すためにそこらへんに生えた野草を食べることさえ厭わない。全くお茶らけることなく、心底苦しそうな表情を浮かべて耐える貧民の姿に、笑いという名の涙が溢れてしかたなかった。

「サイタマラリヤ」なる病気にかかってしまった百美を治すべく現れた祈祷師も、出番は一度きりだというのに、やたらめったら風格がある。あれなら確かに病気も治るのではないか…と一瞬は思わせておいて、いやここは本当に現日本なのか?というノリを与えてくれる。

はたまた、草加せんべいで踏み絵をするという徳川家康による禁教令下のキリシタン弾圧を思わせるシーンでは、背景にキリスト教会がさりげなく映りこむ手の込みようだ。この映画は単なるバカや悪ふざけに、よりにもよって大の大人たちが金に物言わせ、手塩にかけて作っちまった末の産物なのだ。

それでいて、拘りすぎて隙がないという不愛想な作品にはなっていない。東京に侵入してきた下等の埼玉県民を取り締まる隊の者達は、「小学生が5分で考案した」と言われればそのまま信じ込みそうなほど安っぽい制服に、銃に見立てたドライヤーを身に着けている。また、野草を食べようとする薄汚い埼玉県民に対して、高い香水の匂いがぷんぷんしてそうな麻実麗が渡すのは、ただの錠剤であり、見た目とのギャップが凄まじい。終盤では大人数を動員した迫力の映像を繰り広げる中で、出身の芸能人を自慢しあうくだらないマウント合戦を繰り広げたり、都庁へ突撃する埼玉・千葉連合軍の突撃にしれっと東京マラソンの映像を混ぜるようなこともしている。

この通り、息を休めてリラックスできる緩さがあるおかげで、締まるところは締まるわけだ。全体を通して、緩急が利いた中で丁寧に埼玉ネタが織り込まれているおかげで、飽きがこない作品に仕上がっている。

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

 

卑下を通じて卑近に思える埼玉県

この映画は、吉幾三並みに埼玉県には「何もねェ」と言って憚らない。

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オープニングにおいて、島崎遥香演じる菅原愛海は近く結婚して東京へ引っ越すことを楽しみにし、一方では自らの生まれ故郷を小突く。ブラザートム演じる彼女の父の菅原好海は、不満を垂れる彼女に反論し、険悪なムードが漂いもする。そうこうしているうち、都市伝説と称して流れ出したラジオに一家全員で耳を傾ける…という現代パートで幕は上がる。『翔んで埼玉』というタイトルがでかでかと田んぼに描かれる幕開けは、埼玉県に対する最高の皮肉となっている。しかも、菅原愛海と好海の名前にある「海」は埼玉県にないというのだから、これまた渇いた笑いが出てきてしまう。

こんな調子で、埼玉県に対するダイレクトアタックは容赦がない。初っ端から東京都民を都会指数の高い貴族とするならば、埼玉県民は草でも食ってるのがお似合いだと描写されている。現代においても尚ボットン便所を使っているらしい台詞やまともな医者がいない様子までもが映り、通行手形がなければ東京に立ち入ることさえ許されない虐げられっぷりだ。所沢に至っては、百美から「名前を言ってはいけないあの人」レベルの扱いを受ける。

フィクション的な誇張表現を抜きにしても、歴代総理大臣に1人も埼玉県出身がいなかったり、パッと思い浮かぶ名産品が草加せんべいと深谷ネギぐらいと言われてしまったり、女性の貧乳率の高さをネタにされるなど、無いものを語る上では何かと事欠かない。ブラザートムと麻生久美子の埼玉VS千葉の口論では、普段はまったく気に留めていない、大学の所在地といった事細かな強みを列挙する。

とはいえ、何もないと言われるばかりではやはり悔しいというのは当然の心理である。だから、ムキになってしまうのだ。加藤諒が演じた男子生徒にしても、当初は自身の置かれた境遇を甘んじて受け入れながら、東京にすり寄ろうとしていたものの、麗による「ださいたまラッシュ」を聞いて、居ても立っても居られず、奮い立つ。

「何もなくたって住みやすくていいところ」と言い、東京への戦に身を投じる姿は、まさしく祖国のために戦う兵士である。どんな環境であれ、生まれた土地に対する愛は少なからず持つことができ、それを媒介に他のコミュニティーと繋がっていくこともできるのだ。ただ虐げられる一方だった埼玉が、最終決戦にきて、千葉とお互いに貶していた点を称えあうやり取りは、周囲からの評判ではなく自らの捉え方によって如何様にも短所を長所とすることができる一縷の希望を示している。

埼玉から拡大を続けるコンビニエンスストアのファミリーマートやガリガリ君で我々の胃袋に潜り込んでいる赤城乳業、安さがウリのしまむらといった埼玉県の確かな成長性を示した後に、「何もない」ことを親しみやすいイメージとして語ることのできるラスト付近は、ネガティヴな見方をポジティヴに変えていたと言えよう。春日部に住むことになった愛海も結局、世界埼玉化計画の集会にいたので、住めば都ということもあるかもしれない。

そういえば、流れ弾を喰らって見せ場が回っていた千葉県や東京と癒着していた神奈川はともかくとして、完全に未開の奥地と化していた群馬や納豆やチバラキいじりしかなかった茨城県に関しては、考えようによっては埼玉県より悲惨な役どころと言えよう。これは、『翔んで茨城』『翔んでグンマー』を制作し、大いにフォローを入れる必要があるやもしれぬ。

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

 

グローバルなテーマをローカルに物語る

東京、埼玉、千葉をはじめ、関東地方を題材にしたローカルな物語であると同時に、これは世界規模のでもある。

劇中では、東京に入るには通行手形が必要とされており、また埼玉と東京の間にある経済的格差は見るからに大きく描写されていた。何せ草を喰らうぐらいである。

脚色が多かれ少なかれあるにせよ、地域間に存在する差異というものは、そのまま国や宗教、人種といったユニバーサルな属性に置き換えることもできるだろう。通行手形は未だに根深く残っている移民の問題を彷彿とさせる描写であり、東京内においても高級住宅街在住の者を優遇し、他県の者を冷遇することも心当たりのある光景のはずだ。終盤では、東京と強く結びついた神奈川県が賄賂や忖度によって関係性を堅持し、千葉はただ利用されていただけという状況も、現在進行形で国際社会に同様のものが見られる。

もし、神奈川県が差し出していた賄賂が崎陽軒の醤油差しでなかったら、きっとより生々しい印象を受けたであろう。

そう、この映画はそんな薄暗い政治的・社会的な問題を、この映画は埼玉県とその周辺地域というオブラートに包んで、能天気に楽しめるコメディ的表層を形成しているのである。学校にまともに通えない貧困の問題は、埼玉県という我々が良く知る土地の名前のおかげで、深刻なルックスであっても笑いを誘う。また、キリシタン弾圧に用いられた踏み絵も、それが草加せんべいに差し替わっただけで、一気に滑稽になっていた。せんべいを踏むのがGACKTという画力もあって、負の歴史は強烈なエンターテインメントとなる。

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

しかし、ただ軽いノリでは終始しない。虐げられし埼玉県民は、地位を向上させるべく解放軍を組織し、奮闘する。埼玉の卑下による笑いから端を発した『翔んで埼玉』は、クライマックスでは埼玉版フランス革命とでも言える様相を呈す。東京都への攻め入りは、自分が生まれた場所をひどく貶されれば不愉快にもなり、際立った取柄の有無にかかわらず愛情があるのだ、という基本的な考えを証明の場であったと考えることもできる。虐げられし者が人権を得るために革命を起こすように、埼玉県民は埼玉への愛を持てるように闘争を起こす。何事も無抵抗でいるばかりでは改善されないのだから、強い働きかけが必要であるという社会の理に則ったクライマックスである。

この戦に至るまで、観客にとってはお笑い事に映った数々の”埼玉ディス”も、当人たちにとっては深刻な問題だったであろう。千葉県がブランド価値を得るために東京と名の付くものを作って威張るという可笑しな風刺は、国レベルでも同じようなことが行われていたりする。

笑うことができるのは、その対象が「埼玉県」という親しみやすく、国に比べて想像がつきやすいためだということは、島崎遥香の役どころが端的に語っている。彼女は、今作の物語をフィクションとして、一歩引いたところから聞いている。故に、埼玉と千葉のくだらぬ言い争いには、基本的に部外者であり、当人たちの怒りの根源を丸ごと理解しきれない。

彼女と同様、我々も外の世界のいざこざをくだらないと思うことはある。しかし、それは今作の埼玉県民、千葉県民のように、本人たちは至って真剣だったりする。この文化間ギャップに起因する冷静な見方を表しつつ、観客がフィクションに乗り込む手助けをしてくれているのだから、島崎遥香の愛海はなくてはならない存在である。実際、ずっとGACKTと二階堂ふみの濃厚なキャラクターを見続けていたら、気持ちの整理がつかなくなっていたであろうことは想像に難くない。

つまるところ、『翔んで埼玉』は国や宗教、人種といった大規模なレベルで起こる深刻な問題を、これほどまでにわかりやすく、かつ面白おかしく換言している作品だ。単なるおバカコメディと見るもよし、誰もが抱える帰属意識の問題を語った社会派な一面に着目するもよし。茶番を謳う宣伝に偽りはないが、茶番の中に誰もが共感を見出せるようになっている。

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

 

まとめ: サイタマラリヤはどこまで感染するか

原作は30年以上前、しかも未完だという。それなのに、実写化にこぎ着け、バカ真面目に作ってくれる制作者に巡り合えた『翔んで埼玉』はまさしく輝かしい飛翔を遂げた作品だ。冒頭に出てきた魔夜峰央氏も、こんなことは予想だにしなかっただろう。

表層では気軽に笑うことができるユーモアで楽しませてくれて、深層には郷土愛から連想されるナショナリズムや排外主義といった負の側面を描かれてもいる。そして、自らの生まれを誇れるように奮闘するドラマを経て、最終的には帰属する共同体をポジティヴに捉えたいとも思わせる。

埼玉をはじめとした関東圏を題材にしているとあって、なかなかそれ以外の地域の人にはオススメしづらい短所は否めないが、今年の暮れに自分はコメディ映画の五指に今作を入れていると予想する。

聞けば、公開週における埼玉県の観客動員数が全国トップだったというので、サイタマラリヤの感染の予感もしてきた。今後の動向も楽しみだ。

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