アイキャッチ画像: (C)2019 日本すみっコぐらし協会映画部
こんにちは、休み時間は机に突っ伏して過ごす系のワタリ(@wataridley)です。
今回は『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』の感想を書きます。
今作は、「リラックマ」などで有名なサンエックスが近年生んだキャラクター「すみっコぐらし」を原作とした初の劇場アニメとなります。
横溝友里がデザインしたすみっコ達は、その名が示す通り、隅に集まり気を落ち着ける性分の持ち主ばかり。見る側はやわらかな太い曲線で形作られたキャラクターを可愛がるもよし、フィジカルな「隅」をメンタルの「隅」に置き換えて自分に重ねるもよし、という二段構えのコンテンツのようです。
今作はそうしたすみっコの性質に強い力点を置いた作品になっていました。また、物語の冒頭には、はじめて「すみっコ」に触れる人にも配慮した親切なキャラクター紹介もあり、1人でも入りやすい喫茶店のようでした。
以降、ネタバレを含めた感想になります。未見の方はご注意ください。
64/100
目次
後ろ向きなすみっコを前向きに捉えた物語
『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』は、部屋の隅が落ち着くという者の特性を可愛らしいキャラクターに委ねながら、そんな自分をポジティヴにみとめられる寓話になっている。以下に、その物語を紐解いていこう。
隅にいたい者たちが主役になってしまうギャップ
冒頭には、すみっコに親しくない自分のような者でも楽しめるようにと、丁寧なキャラクター紹介が挿し込まれる。一般的にこの手のゆるキャラが持つのどかな癒しをキャラクターデザインで訴えてはいるが、どことなく生身の人間にも通ずる俗っぽさに、興味を抱かずにはいられなかった。
人見知りで寒がりの「しろくま」。自分がペンギンなのかどうか確信が持てない緑色の「ぺんぎん?」。与えられた役割の通り、食べてもらいたいと思っている「とんかつ」と「えびふらいのしっぽ」。ブーケになることを夢見る「ざっそう」。恥ずかしがり屋で気弱な「ねこ」。本当の自分を隠している「とかげ」に「にせつむり」。タピオカミルクティーの余り物の「たぴおか」。それぞれが人間のネガティヴな一面をオブラートに包んでいる。
部屋の隅っこでおとなしく過ごしたいすみっコ達だったが、ある日行きつけの喫茶店で絵本の世界へと引き込まれるところから、今作の物語はスタートする。絵本の中ではかの有名な日本の昔話「桃太郎」や、グリム童話の一編として知られる「赤ずきん」、アンデルセンの著書「人魚姫」「マッチ売りの少女」、はたまたイスラム圏の説話「アラビアンナイト」といった世界が広がっていた。どれも誰もが知る物語である。
部屋の隅が落ち着く彼らが、否応無く物語の主役になってしまう展開はいかにもコミカルだが、一方で少し苦みを感じる。みんなの注目を集めるようなことや、責任を伴うことが嫌で嫌で仕方ないから隅にいっていたというのに、それが避けられないというのだから、本人達からすれば悲劇である。もちろん、中にはとんかつとえびふらいのしっぽのように、注目の的となることを望んでいる者もいるが、みんな結局は主役の座を降り、脱出した先の島の隅に集まっていく。
主役にならない彼らは後ろ向きなのかもしれない。しかし、彼らが最後にしたことを見れば、絵本の隅にいたあの「ひみつのコ」を救う上ではなくてはならない弱さだったとも思えてくる。
ひよこ?を救う想像は、すみっコだからできること
そんな望まぬ主役を与えられるすみっコ達との対比となるのが、どの物語の真ん中にも隅にも登場しない灰色の「ひよこ?」である。自分がどの物語の登場人物なのかもわからないひよこ?は、望んで隅を目指すすみっコ達とも異なり、居場所を見出せていない孤立した存在だ。
様々な物語の世界を経由してたどり着いた先、「みにくいアヒルの子」の舞台からも、ひよこ?は疎外されてしまうことになる。
しかし、「みにくいアヒルの子」は、アヒルだと思われていたみにくい雛が見事な白鳥に成長するという筋書きであり、根本的にひよこ?のようなはみ出し者を救う物語ではない。それを考えれば、ひよこ?が白鳥ではないという残酷な展開は、そっくりそのまま現実の有様を映していると言える。
更に厳しいことに、ひよこ?は絵本の世界で誰かが書いた絵であったために、次元を超克して現実にやってくることができない。その生まれによって、すみっコ達と共に生きる選択肢をとれない。あらゆる問題で八方を塞がれていて、ひよこ?自身の力ではどうすることもできないのだ。徹底して救いがない。
今作はそんな白鳥の雛ではない者に手を差し伸べてくれる。そしてこれが実にすみっコ達らしい解だった。
絵本の落書きであるひよこ?の居場所を最後にはすみっコ達が与え、新たな物語を創出する姿が描かれる。古今東西、物語は常に世を映すか、想像を形にするか、人々を啓蒙してきたが、時代や文化によっては、その適用範囲から漏れてしまう人も出てくるものだ。
それが今作においては、ひよこ?だった。そしてすみっコ物語を作り変えることで、手の届かないはずのところへ影響をもたらし、ひよこ?を救っている。物語を現実に持ち込むことは叶わなくとも、救いを与えたいという動機をもとに物語を変えることはできる。
こうした他者への思いやりには、想像が要る。そして想像にはきっかけが要る。すみっコ達自身も理想の自分像を抱えながらも実現できないという点において、ひよこ?と同じである。一見するとネガティヴにも思える「隅が落ち着く」という気持ちもまた、確実に同じ誰かを救うきっかけになるというわけだ。だから、これはすみっコ達だからたどり着いた解だったと言える。
このようにして、『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』は、残酷な現実を絵本に映した一方で、その解は現実で誰もが行使できる想像力に委ねようという物語を紡いでいる。その想像力の源泉には、隅にいたいという気持ちの尊重があるから、内に潜むすみっコも悪くないと思えるのだ。
穏やかな空気を醸成し、抑える所は抑えるナレーション
井ノ原快彦による温かい声で物語は進行する。言葉を語らないすみっコのリアクションや思考をわかりやすく観客に伝えてくれる役目はもちろん、彼の声の穏やかなトーンがこの緩やかな空気を引き立ててくれていた。このナレーションにおいては、傍観者という距離感はなく、むしろ徹底してすみっコ達を見守る父性に満ちており、この上なく納得のいくキャスティングだった。
一方で、絵本の中で聞こえる本上まなみのナレーションは、イノッチとも異なるテイストだ。異世界に迷い込んだすみっコ達の困惑、混乱といった感情はよそに、そそくさと物語を進行させていく。ともすれば、機械的かつ事務的になってしまいかねない役所であるが、絵本の読み聞かせにふさわしいなだらかな語り口調も忘れていない。
イノッチと本上まなみの両者の、妙な噛み合わなさが、まさにすみっコ達が物語に取り込まれてしまうというギャップそのものを演出していたように思う。
自分の中で賛否が分かれたのは、全体を通してナレーションが隈なく説明してしまう部分だろうか。喋らないすみっコの心情は画面上に文字を表示するか、逐一言葉にするかで表現されるが、映像作品らしい観客による解釈の許容範囲を狭めていることは否めない。
しかし、隙間のない説明も、クライマックスの絵本からの脱出シーンではきっちりと抑えられる。過剰とも取られかねないナレーションではあるが、局所的に弁えることによって、他とは異なる味わいをもたらしていた。ひよこ?の悲哀と決断を映像で見せてくれたからこそ、幕切れの際に挿入されたイノッチのナレーションがひときわ沁みわたった。
良くも悪くもテレビシリーズを見ているかのようなライトな感覚
ここまで述べてきた通り、『映画 すみっコぐらし』は、疎外された者を救う道標を立てている映画となっている。難しい説教を垂れるのではなく、有名な物語を用いてひよこ?の悲哀を感覚で理解させた上で、すみっコ達にしかできない手の差し伸べ方を提示する。シビアな現実を可愛いキャラクターに転換しておきながら、現実にもこうありたいと思わせる手腕は見事だ。
その反面、提示された結末に至る過程に、映像、演出、構成のあらゆる面にそこまでのパワーを感じられない問題がある。
もっとも惜しいと思うのが、すみっコ達それぞれの個性が物語に活きる場面が存外少ないことだ。ひよこ?をめぐるドラマは、自身のアイデンティティに対する疑問という点でぺんぎん?こそ強い共感を示す描写はあれど、他のすみっコ達が個々に本筋に与していく積極的な描写はみられない。
各自が絵本の中でドタバタする様子は、言ってしまえば緩い単発ドラマを並行して映している印象が強い。昨今では観客を長時間拘束するコンテンツはーーとくに今作の主要なターゲットたる子供たちにとってはーーあまり好まれないために、こうした構成、かつコンパクトな上映時間に繋がっているであろうことは想像に難くない。
しかし、道中で繰り広げられる個々の騒動が、終盤の展開との連続性を欠いているとなると、短所として指摘せざるを得ない。一例として、とんかつやえびふらいのしっぽが狼に食べてもらうよう懇願するコメディは、よくよく考えて、その場の笑いや和みを演出はしても、直接的にひよこ?を巡る物語に繋がってこない。辛うじて狼が助けに来てくれる展開があるだけで、こちらも仲間になる動機が緩やかな作風でそれとなしに済まされてしまっている。他にもアラビアンナイトの世界で絨毯に乗る体験や、マッチ売りの少女の世界でソリに乗って飛躍していく展開も、仲間達との合流という表象に繋がるのみで、心理の転換は希薄に思える。
こうした構成の結果、終盤に訪れるカタルシスも応じて薄味に感じられる。今作のキーパーソンであるあのひよこ?を救うという結末に対して、ぺんぎん?以外がそこに向かっていく動機が「隅っこを好む」という冒頭からわかりきったキャラクターに依拠しているからだ。
何よりこのショートムービーを連続させる寄り道のような構成が、十把一絡げに「すみっコ」という総体がひよこ?を救う話として極めてシンプルな形に留めてしまっている。ねこやしろくまはこの事件を通じてどのような考えを抱いたのか?終ぞ食べてもらえなかったとんかつとえびふらいのしっぽの苦悩はどうなったのか?といった、サイドの物語に展開はみられない。何度も見返したくなる多層性が不足しているのだ。
故に、今作を見終えたあと、映画らしい疲労感はなかった。むしろテレビで流れている短編アニメーションを観た心地の方が強い。この上映時間で、多数のキャラクターを見せ、持ち帰ることのできるメッセージを伝えた点ではかなり健闘していたのは間違いない。
だが、ただでさえ迫力やダイナミズムを抜き去った緩い画面の中で、中盤を短編に等しい構成としてしまうと、最後に訪れるカタルシスは必然的に小さくなる。事実、終盤の転換が急に感じられ、そこから導き出された結末に感心はしつつ、重みに欠ける結果になっていた。
まとめ: 前向きではない心から生じる親切を描いた寓話
簡素な点で描かれた目を持ち、太くて柔らかな曲線で形づくられたすみっコ達の外見は、誰でも和やかな気持ちを抱けるデザインであるために、感覚的に理解しやすい。今作はナレーションをはじめとして、有名な物語を下敷きにした冒険風景や、複雑性を排したプロット、短時間に留めた時間尺など、特に幼児層にもわかるように、しんせつに作られてる。
一方で、とっつきやすい話の弊害から、物語への没入感において映画というよりテレビアニメに近く、カタルシスが薄れてしまっているのは、残念だ。もっとすみっコ各自の行動が終盤に寄与していく道筋を書き込めていたら、と思わずにはいられない。
とはいえ、ネガティヴな感情は、切り捨てるのでも、蔑ろにするのでもなく、必ず困っている誰かを救うきっかけになってくれるのだと教えてくれる結末は、幼少期の言いつけに留まるものではない。
今は、強いヒーローが活躍する映画が流行っているように、前向きな強さばかりがもてはやされがちな世の中だ。そんな中、たまにはこうした後ろ向きな気持ちが力を持ち得る物語があってもいいじゃないかと思わせられる。こうした物語が作られることで、誰かの気持ちを上向かせることだってあるだろう。それはまさにすみっコ達がひよこ?にしてあげたことと同じはずだ。
関連記事: ゆるい日常のくらしと想像力を描いた映画たち
▼穏やかな学園生活を描いた「学校ぐらし」映画『がっこうぐらし!』
▼高校生カップルが同居生活を送る「ふたりぐらし」映画『L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。』
▼未来の猫型ロボットと少年達が想像力で未来を切り開く『映画ドラえもん のび太の月面探査記』