こんちには、炭酸飲料が美味しいのは所詮一口目だけではないかという疑念を最近抱き始めたワタリ(@wataridley)です。
今回は6月1日に公開された「バーフバリ 王の凱旋 完全版(原題: Baahubali 2: The Conclusion)」のレビューをしていきます。
前編「バーフバリ 伝説誕生(原題:Baahubali: The Beginning)」が2015年、完結編「王の凱旋」が2017年に本国で公開され、日本でも遅れる形で2本ともが2017年に輸入されてきました。
ところが、これまで日本で公開されたバージョンは国際編集版でした。本来の尺からいくつかのシーンやカットが削られいたのです。2017年末に「王の凱旋」が公開されて以降、日本でオリジナルを見られる正式な手段はありませんでした。
今回のオリジナルテルグ語版は、ファンにとっては待望の完全版です。国際編集版が141分であったのに対し、完全版は167分。インドで3人に1人が観たバージョンを見られるというのだから、バーフバリファンには必見の作品でしょう。
今回のレビューはその完全版において、国際編集版から追加・変更された点について振り返っていきます。
前回書いたネタバレ無しのバーフバリ記事は以下からどうぞ。
94/100
目次
完全版の名に恥じぬ無欠の物語だった
26分もの追加シーンに対する私感を端的に述べると「これぞ完全版」。
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基本的には既に国際編集版で存在していたシーンの補完が多く、大きな変更点はありません。尺で言えば、デーヴァセーナとその侍女たちによる演目「かわいいクリシュナ神よ」が最長の追加シーンでした。
しかし、物語の骨子は変えないながらも、細かな追加シーンや追加カットにより受ける印象が変わった場面多数。
テンポ感は国際編集版に比べてやや劣る反面、繋ぎの部分において登場人物の腹の内が示されていたり、段階的に次のシーンへと繋がっていくクッション的な役割を持つシーンもあったりして、作品世界への没入感はこちらの方が上回っています。
以下に、自分が注目したポイントをひとつずつ語っていきます。
シヴドゥという名
愚鈍な男を装ってクンタラ王国宮殿に勤めていたアマレンドラ。猪狩の際、デーヴァセーナに素性を疑われしまい、急遽取り繕った名前がシヴドゥでした。
奇遇なことにシヴドゥという名は、彼の息子マヘンドラが素性を知らされずに付けられた名前と同じです。
ヒンドゥー教の神シヴァに因んだ名前である名を父のアマレンドラ、そしてマヘンドラが名乗るというところに運命めいた繋がりが見て取れます。
シヴドゥの名で己を語るシーンは前編「伝説誕生」ではマヘンドラからアヴァンティカに対して行われていました。アマレンドラも同様に、この名を自分のものとして恋情を仕向けるデーヴァセーナに語るわけです。
2つの状況を見比べてみると、率直に自分をさらけ出そうと(自分がまだ王族であることを知らずに)シヴドゥの名を用いるマヘンドラ、自分を包み隠すためにシヴドゥの名を使うアマレンドラが対照的です。
結局両者とも愛する相手と結ばれることになりましたが、押せ押せにアプローチを仕掛ける息子と、立場を弁えながら接近していく父の間にパーソナリティの特徴が出ています。
完全版におけるクンタラ王国のシークエンスでは「シヴドゥ」の一言を追加することで、運命的な父と子の繋がり、そして彼らの違いを感じ取ることができました。
コメディリリーフたる存在感が増したクマラ・ヴァルマ
クマラ・ヴァルマは恐らく追加シーンがカッタッパに次いで多かったと思います。
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前半のクンタラ王国でのシークエンスは、次期国王のバーフバリが身分を隠しながらもその才覚で注目を集めてしまうというシチュエーション柄、コミカルな作風になっています。
殊更、その滑稽さを強調してくれるのがクマラ・ヴァルマです。容姿端麗でその上武芸にも秀でているデーヴァセーナの従兄でありながら、何かにつけて小心者で俗っぽい気質の持ち主である彼。
国際編集版では、部下の兵士たちと妹君のデーヴァセーナがピンダリを次々とやっつける中、独りだけ攻撃の届かぬ場所に佇み、カッタッパを驚かせるというなんとも可笑しなシーンがありました。それを見た自分もカッタッパよろしく、初登場の彼のキャラクターを即座に掴むことができました。
完全版ではカッタッパの驚きの後にも続きがあり、実は上から部下たちに指示を出す軍師を務めていたとわかりました。かといって、戦況を御しきれているわけでもなく、寧ろ混乱気味に従う兵士の姿が見え、余計に甲斐性の無さが目立つ結果になったと思います。
デーヴァセーナがマヒシュマティからの婚礼話を断った一報を受けて、自分への家族愛の表れだと解釈してしまう姿も妙に可愛く映りました。些細ながらも、従妹への愛情や自尊心が窺えて、キャラクターの肉付けに厚みが増しています。
悦ばしい表情浮かべながら肩に添えられたクマラの手に触れるカッタッパにもニヤついてしまいました。カッタッパは過ぎるぐらいにクマラに対し従順で、もはやバーフバリの身分を隠すための演技とも思えぬ域に達していました。クマラのことをカッタッパが褒めちぎるシーンも執拗になった結果、国際編集版に比べて2人の距離がやけに近くなったように思います。双方好きな自分には可笑しくてたまりませんでした。
デーヴァセーナに睨みつけられて肩に添えられた手を除けるカットもカッタッパの可愛らしさが発揮されていました。
クンタラを舞台にした前半部分は、追加シーンのおかげで、クマラに一層の親近感を抱けるようになっていました。
これらの些細にも思える描写は、確実に物語における印象を変えている部分があります。クンタラ珍道中における愉快で穏やかな雰囲気が、後半との落差に繋がっているのです。あんなに生き生きとしていたクマラが謀略にはめられ最期を迎えてしまう末路には、とてつもない悲壮感を覚えました。
惹かれ合う2人を描いた「かわいいクリシュナ神よ」
挿入歌「かわいいクリシュナ神よ」は、完全版の豪華な新規シーンでした。
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ヒロイン デーヴァセーナの雅な踊りとそれを囲う侍女たちが作り出す華やかさは、元のバージョンには全くない色味であり、見とれました。
相手を癒すための子守歌であるため、振り付けが丁寧です。線の綺麗な手と指の動きは目で追っていると安らぎます。夜の落ち着いた雰囲気に合う彼女たちの淑やかな表情も新鮮。彩り豊かな祈願の服装に、純白なクリシュナ神の像も、豪華な作り。
バーフバリは、この後のピンダリ退治やクライマックスの王国奪還戦争などで激しい印象を与える映画になっていますが、こうしたひと時の憩いも胸に落ちてきます。ダイナミックなシーンばかりではなく静けさにも力が入っていたことを知り、感嘆するばかりです。
怪我をして寝込んでいるバーフバリに向けて、デーヴァセーナがそれとない心遣いを伝える歌詞は、物語のロマンスを深めています。
マヒシュマティからの婚礼を拒否したのは、一方的な態度に腹を立てた事に加えて「もしかしたら既にバーフバリへの恋情を募らせつつあったのではないか」と取ることも出来るようになりました。
国際編集版ではこの「かわいいクリシュナ神よ」がオミットされたことによって、2人が接近するきっかけが「3本矢のレクチャー」に置き換わっていたように映ります。
しかし完全版では、ピンチを救ってもらった際のつり橋効果的な感情からバーフバリに惚れ込んだわけではなく、非論理的なレベルで惹かれていたというニュアンスになっていました。わかりやすいきっかけでほれ込んでいくより、徐々に徐々に接近していくこちらの方が、互いの関係がより強固だと感じます。
学者としても優れるアマレンドラ
自分は「バーフバリ 伝説誕生」を見て、ひとつだけ引っかかる台詞があったんですね。
逞しい青年へと成長を遂げたアマレンドラとバラーラデーヴァ。カッタッパがそのことを賞賛する際、彼らを学者としても秀でていると言っていたのです。
確かに、そのシーンの前に識者と思しき聴衆を前に、バーフバリとバラーラデーヴァが演説をする様子が映し出されてはいたのですが、とくに彼らの頭脳が物語の上で披露される機会がなかったのです。
「伝説誕生」「王の凱旋」を見終えても、これが自分の中で解消されずじまいでした。
完全版ではそのことについて、すとんと腹に落ちる描写が追加されていました。
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宮殿を追われ、民衆と共に生きることとなったバーフバリが、彼らの過酷な労働環境を見るに見かねて、とある設計図を作成。そのミニチュア模型を組み立て、民に図示する。遂には、巨大な破砕機を完成させ、労働効率と安全性を確保。彼の頭脳明晰ぶりを印象付けました。
バーフバリは決して強健な肉体だけが取り柄なのではなく、知勇兼ね備えた人物であるということを理解させられます。民から慕われる説得力も増しており、「バーフバリのような男が近くにいてくれれば」と想像せずにはいられない人格者の理想像です。
カッタッパの王家への忠誠
先祖が王家への忠誠を誓ったために、自らも奴隷として仕え続けていたカッタッパ。
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国際編集版では、アマレンドラの生涯を語り終えた後は、目立ったシーンがほとんどありませんでした。デーヴァセーナを再び拉致され己を見失ったマヘンドラを諭す場面を最後に、彼が重要な役目を果たすシーンはなく、バラーラデーヴァとバーフバリの直接対決の勢いの陰で、フェードアウトしたような印象を受けました。
しかし、やはり完全版では、カッタッパにもきちんと蹴りをつけるシーンがあって、とてつもない満足感と爽快感を覚えました。国際編集版の時から抱いていた気掛かりが見事に解消されました。
王家(=バラーラデーヴァ)に忠誠を誓っていたはずのカッタッパがマヘンドラに寝返った動機は、語られずとも察することはできたのですが、追加されたビッジャラデーヴァとの会話で熱い言葉にしてくれたのが本当に素晴らしかったです。
25年前に国母シヴァガミがマヘンドラの即位を宣言していたため、彼を真の王とみなし、忠誠を誓うのだという彼の言葉は一見論理的に思えますが、実は彼の個人的な解釈によるところが大きいですよね。
既にバラーラデーヴァは公に戴冠式を行い、正式な手続きを経て国王になっていました。
一方、アマレンドラは一時は次期国王に指名されはしたものの、最終的には国軍最高司令を経て王家から追放、身分的には臣民に成り下がっていました。デーヴァセーナも同様です。
その息子であるマヘンドラがいくら国母の宣言とはいえ、王であるというのは理屈として罷り通るかと言われるとちょっと苦しい。国母にどれだけの権限があるのか、詳細にはわかりませんが、順当に考えれば国の最高意思決定権を持っているのは国王であるバラーラデーヴァでしょう。
いくら偽りの身分を演じていたとカッタッパが告げたところで、バラーラデーヴァに25年間忠実に仕えていたというのもまた事実。
このように、カッタッパがマヘンドラを擁立する根拠には、いくらでも反論の余地があります。
しかし、ですよ。この言葉にある矛盾や不当といったものは、まさしくカッタッパの中にある根源的な自由意思を表していると自分は思いました。
カッタッパの奴隷的な扱いについては、食事の場が宮殿の外であったり、「傍にいるのも不敬」という彼の言動の端から見て取れます。剣を振れば生娘が集まってきたと冗談気に語ってもいましたが、作中彼の伴侶などは描写されていません。小鳥を食料とみて、アマレンドラに引かれるというやり取りは一見コミカルではありますが、奴隷であるが故に、結婚や恋愛も自由ではなかったのだと読み取ることもできます。王家の所有物には、人並みに自由な生活や発言も許されていないのだとわかります。
その奴隷である彼が、あろうことか現国王の父君であるビッジャラデーヴァに対して、不合理ともいえる言葉を投げつける。そして、拳さえも喰らわせる。
その行為は、所有物であるはずの奴隷らしからぬ反抗心に裏付けられたものと言えます。それまで王家に従うがままであった彼が初めて王家の人間に盾突くというこの直接的な暴力は、脱奴隷の儀式を描いています。
カッタッパが二代のバーフバリへ向ける愛情と尊敬、そして自らの意思で行動を決定している彼の尊厳が画面に現れる清々しいシーンでした。
尺が短い国際編集版も見やすくはありますが、影のヒーロー カッタッパが1人の人間に成るドラマが描かれる完全版の方が自分の好みです。
バラーラデーヴァがデーヴァセーナを縛り続ける意味
「何故バラーラデーヴァはデーヴァセーナを殺さずに生かし続けるのか?」という疑問は誰しも抱くでしょう。
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「伝説誕生」において彼はカッタッパに対し「死は解放である」と語っていました。
この世に遍く苦痛は生きているからこそ受けるものであるが、死んでしまえばそれで終わりだというのならば、確かにそれは救いの意味を持ちます。
この台詞に照らし合わせると、最後の最後までビッジャラデーヴァが生き残っていることが印象深いです。彼は、ある意味この物語の元凶とも言える存在なのですが、バーフバリが王位奪還を成し遂げた後も、その戴冠式では召使いとして怯えた表情で同席しています。最愛の息子が死に、嫌悪していたバーフバリの息子が国を治めるとなった彼の苦衷は、容易に察することができます。生きて仕え続けるという行為は、ビッジャラデーヴァに課せられた報いと言えるのではないでしょうか。
バラーラデーヴァは、デーヴァセーナに対しても同様のことを行っています。尊厳をすっかり奪い去った上で、鎖でつなぎとめ、枝を拾わせ続けることで、終わりなき苦しみを与えているのです。
デーヴァセーナ自身も、自らの尊厳が脅かされることに対しては敏感になっている節がありました。バーフバリと共にマヒシュマティへ行く際にも、彼に誓わせたほどです。尊厳を奪われるという何よりもの苦痛を生かされたまま味あわされた25年は、それこそ地獄のような時間だったでしょう。
とはいえ、バラーラデーヴァがデーヴァセーナに抱く感情というのは、苦しみを与えてやろうという害意以外にもあることが窺えます。完全版では「お前が憎むことができるのも、愛することができるのも私1人だ」という台詞で言明にされています。
バラーラデーヴァはそもそも最初はデーヴァセーナに惚れていました。それがバーフバリとの間に決定的な亀裂を生み、更には彼から王位を奪うための隙にもなってしまいました。
戴冠先では冠と王座を得たにも関わらず、民衆からの支持と恋するデーヴァセーナからの愛を得られたのはバーフバリであって、バラーラデーヴァではありませんでした。
彼の苦節を考えると、デーヴァセーナに対する屈折した感情の源には一方的ながらの愛があり、だからこそ関心を引くために痛みつけるという手段に出たのではないかと思います。
デーヴァセーナの心を掴み自分の物にしたかったバラーラデーヴァの胸中が、追加の台詞によって浮彫になり、バラーラデーヴァというキャラクターの立体感も強まりました。極悪非道な悪役でありながら、実に人間臭い一面を覗かせる描写です。
エンドクレジットにおける語り
エンドクレジットでは、作品世界の見方を変えてしまうようなセリフがありました。
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子どもらしき声が「マヘンドラの息子が次の国王になるの?」と問い、すかさず老人らしき声が「そうとは限らない。世の中は常に変わりゆくのだから」と告げる会話は、バーフバリがあくまでひとつの物語として綴じられたという印象を強くしています。
「伝説誕生」「王の凱旋」の2部作で我々観客はこれでもかという程に英傑バーフバリの活躍を目にし、熱狂しました。
彼を英雄視し、入れ込むほどに没頭した我々に、最後は現実世界の諸行無常のことわりを提示することで、バーフバリは決して絶対不変の存在ではないという視点をもたらしています。
その視点は、バーフバリの物語を広い世界・雄大な時の流れの中で起こった1つの出来事に過ぎないのだとし、数多くのドラマや伝説が人類の歴史上で紡がれていくのだという考え方に繋げ、自分を壮大な大河の中に放り込んでくれました。
これから出会うであろう、まだ見ぬ物語への期待が膨らみます。
まとめ
国際編集版を最初に日本で公開した意図は、十分わかります。尺が長いということは、それだけでも鑑賞のハードルを上げてきますし、日本ではまだ馴染みのないインド映画なら猶更でしょう。
それだけに、「バーフバリ 王の凱旋 完全版」が、編集されたバージョンを観た人々の熱い支持によって実現し、遂に公開されたという経緯は自分にとって驚くべき事件です。
面白いものは売れる。それは当たり前のようではありますが、マーケティングの手段も娯楽も多様化した昨今では、昔以上に単に面白いものを作っただけで売れるとは限らない現実があります。
日本の映画界では、邦画(とりわけ長編アニメ)が幅を利かせ、洋画など海外から輸入された新作が大ヒットするというのは珍しくなってきました。金曜ロードショーのラインナップを見ても、自分が子供の頃に比べて宣伝目的外の洋画の放送回数は明らかに減っています。
コナンがアベンジャーズが打ち破ったように、海外から切り離されたような傾向がある日本市場において、インド映画のバーフバリが(自分含め)多くのファンの琴線に触れたということは、「真に良いものは文化圏を飛び越える」という実感になり、とてもうれしいです。
黒澤明の「七人の侍」は海外で評価されている映画ですが、自分にとって「バーフバリ 王の凱旋」はインド版七人の侍といってもいいぐらいの傑作です。
完全版にて、その全貌を知ることができ、たいへん満足しています。
バーフバリのヒットを皮切りに、もっと面白い映画を見られるような流れになってほしいと切に願います。
S・S・ラージャマウリ監督をはじめ、関わった全てのキャスト、全てのスタッフ、そして日本に届けてくださった配給会社ツインに拍手を送ります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
※以下、ブログで書いたバーフバリの記事になります。あわせてどうぞ。