アイキャッチ画像: (C)One Goose
こんにちは、美味しい昆布茶があったら是非とも教えていただきたいワタリ(@wataridley)です。
今回は田中征爾監督作『メランコリック』の感想です。
監督の名前は存じ上げておらず、それどこかキャストも全員お目にかかったことがない。それもそのはずで、田中征爾監督はこの映画が第1作目。公開規模も当初は全国で数館らしく、メジャー作品というわけではありません。
銭湯を舞台にしている珍しい作品であるだけではなく、そこに殺人というどきりとするサスペンス要素を入れ込み、日常の裏に潜む危険を大きなウリにしているようです。
この作品を初めて知ったのはアップリンク吉祥寺で映画を見た際の予告編で、作品に流れる生々しい空気や実在感溢れるキャストの佇まいは独特でした。銭湯という庶民の生活場を舞台にするのは、大作の映画ではなかなかできないことです。それを殺人の隠蔽に用いるという発想は、寧ろ大手どころではありえなかったのではないでしょうか。そうした興味が湧き上がり、公開しばらく経って観に行きました。
『メランコリック』鑑了。東大卒のフリーターが殺人を隠蔽する銭湯で働くうち仲間と芽生えていく奇妙な連帯感を描く。クライムサスペンスを下敷きに、それとは相反するユーモラスな会話も多々あり、独特なテイスト。総じて見せ方は巧いが、計画殺人を扱っている割には細部の周到さに欠ける点は惜しい。 pic.twitter.com/Rkmst6bS32
— ワタリドリ(wataridley) (@wataridley) September 14, 2019
以降、ネタバレを含んだ感想を書いていきます。未見の方はご注意ください。
68/100
目次
反社会的行為で社会性を得ていく主人公
東京大学を卒業したが定職に就かずアルバイトで日々を過ごしていた鍋岡和彦は、ある日偶然銭湯で再開した高校時代の同級生・副島百合からそこで働くことを勧められる。満更でもない鍋岡は、同じ日に面接を受けた金髪の青年・松本と一緒に採用され、働き始める。しかし、そこは何と夜な夜な人を殺して死体処理と証拠隠滅を図る計画殺人の貸し場だった…。
我々がふだん使う身近な銭湯(といっても自分は日常的に使うことはないが)で、実は殺人が起こっているというシチュエーションがまず面白い。日常に潜む非日常を題材にした作品というと、『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部などを思い出すが、この手の作品では日常生活よいう表面的で卑近な状況で共感を誘っておいて、普段では経験できないような恐怖に引きずり込んでくれる。
実際、銭湯で人が殺されていたらどうだろう。血液や失禁など、つるつるのタイルの上に流れた痕跡はたしかに水で洗い流せそうだ。営業時間を過ぎた後の銭湯は見所もないから、人気もない。この殺人銭湯の主人・東が「明日お客さんが気持ちよく入れないだろう」と抜け抜けと語って今作随一の笑いを提供してくれるが、もしかすると自分たちが気づかないところでこういうことはあるかもしれないと想像させる。
観客をそういう思考に陥らせた時点で、この映画の狙いは成功していると言えよう。映画言えども丸っきりの作り物だと感じてしまえば、自分達とは無関係なこととして急速に熱が冷めていってしまうものだ。しかし、この「もしかすると…」という想像の喚起は、作品世界を身近に感じさせてくれるので、あれやこれや注目せずにはいられなくなる。今作でそうした異質な状況に放り込まれた主人公の鍋岡が、一体どうなってしまうのか?を最後まで目が離せなくなるというわけだ。
殺人を隠蔽する仕事をやらされることになってしまった鍋岡の変化の過程は、現実世界の延長線上でありそうなこととして描かれる。冒頭の階段の踊り場で掃除をするシーンや、母親から浴槽に入るよう促されるシーンを見るに、銭湯で働き始める前の彼は社会的にも心理的にも縮こまりながら生きてきたようである。だが、殺人銭湯で働き始めた彼は、みるみる正気を得ていくことになる。
ふつう、犯罪に加担するとなると、それはもう重大なことだ。心にダメージを負うことだって考えられる。しかし、今作はそうした犯罪行為をまるで社会貢献活動かのように描写するのだから、あべこべな笑いを生む。
やらざるを得ない状況になった鍋岡は、服を脱いで一心不乱に掃除をすることになる。スクリーンに映っていたそれまでの彼に見られる心の迷いや動揺が全くないその働きぶりは、彼の中にある覚悟がありありと見える。一仕事終えてそのリスクに見合う報酬を貰った後、どことなく清々しそうに朝の空気を吸って、落ち着いた感じで父親と会話をし、ついには自室で喜びを露わにする様子を見ていると、働くって楽しそうだなと思えてくるからふしぎだ。やってることは完全に犯罪なのに。
銭湯で働き始めた彼は、社会的な成功…は大袈裟かもしれないが、このように充実した時間を過ごせるまでになっている。自分が誰かの役に立てたという実感が病みつきになったのか、シャンプーをウキウキで補充したり、食い気味に死体処理を申し出るシーンなどは、まるで労働の味を知った子どものようで可愛いとさえ思える。やってることは完全に犯罪なのに。
その喜びの裏返しとして、他人への嫉妬がやってくる。松本がもしかすると自分以上に必要とされているのではないかという時の鍋岡の苛立ちもまた十分に理解できる。これは会社での出世競争や政治における権力争いを汚れ仕事に置き換えているだけなのだから。
だが、互いに互いの大変さを知った時には、仲間内で連帯感が生まれる。裏社会の抗いようのない力関係を知ると、銭湯の主人だって苦労している中間管理職に見えるし、生まれてから殺し以外に真っ当な喜びを知らない同僚もなんだか哀れなヤツに思えてくる。鍋岡の視点から事実が開示されていくにつれて、銭湯という場の社会に慣れ親しんでいく様子が並行して描かれていくので、観客も安心感を覚えられるようになっている。
このように、やっていることは明らかにアンチソーシャル真っしぐらなのに、鍋岡はそこで社会性を獲得して上向いていく。この倒錯感溢れる筋書きこそ、今作最大の見所だ。
愛着が沸くキャラクターを演じたキャスト
また、この映画がかように魅力的に映るのは、間違いなくキャストの功績による。
鍋岡役を演じた皆川暢二は、「東大卒のフリーター」という役を、型にはめるところははめ、外すところは外して、鍋岡という個人を描こうとしているように見える。単に伏し目がちで寡黙という一辺倒な演技にはしておらず、最初の方で母親に極端に大きな声で言い返す時のヒステリックは、声を出し慣れていない人のクセをうまく掴んでいる。かつての同級生と再開した時の同じ反応の繰り返しも、他ならコミカルに寄せがちなところを、見開いた目や固まった姿勢に至るまで怖いとさえ思える感じで表現されている。そしてなによりもこうしたじめっとした青年が仕事を通じて徐々に上向いていく際の表情と喋り方の変化は、実に見応えがある。小寺に対して恐る恐る話しかける前半と、居酒屋で松本が童貞だと知った時に得意な気持ちを滲ませる後半のシーンでは、他人とのコミュニケーションがもの慣れないという共通点を持たせつつ、たしかに変化を感じさせてくれる。こういう変化の過程が自然かつ、きちんと掴み取れるようになっているから、鍋岡に親しみを覚えるのだ。
松本役の磯崎義知は、鍋岡とは異なり、最初は軽薄そうな若者のように登場しては、徐々に内面が明かされていくという役所である。鍋岡を陰とするなら松本は陽という一見すると好対照な役に見えるが、松本自身は明確に変化するドラマがあるわけではないので、第一印象を覆すという点ではけっこう難しい役所ではないだろうか。しかし、染めた金髪、陽気な性格とは反して、中盤のアクションパートではガラッと勇ましい顔を見せ、機敏な動きで敵を往なす。この転調部分がうまく効いていて、以後観客の彼を見る目は確実に変わる。ここを境にして内面的な掘り下げも増え、シリアスな表情を見せるシーンも出てくる。長めの金髪から覗く顔の骨格が意外としっかりしていて頼もしい。一方で、一緒に浴槽に浸かる場面や居酒屋の場面では、人間臭い表情を浮かべ、ほのぼのとした会話を繰り広げるから、まるで気の合う友人といるような居心地の良さを観客も感じることができる。
あと挙げておかなくてはならないのが、今作の小休止パートで登場する副島百合を演じた吉田芽吹だ。高校の同級生にたしかにこんな子がいそうだと思わせる親しみやすい表情と語り。そして耳触りのいい癒し効果の高い声。彼女の存在は、スクリーンの中の鍋岡のみならず、観客にまで心のオアシスとなって映る。だからこそ、この生活が壊れませんようにという心配となって、サスペンスが活きるのだ。
キャストはほかにも、いかにも「銭湯のおじさん」らしい落ち着きと裏社会に通じている腹の据わっている様を両方持つ東役の羽田真も作品に貢献しているし、息子を責め立てずに受け入れてのどかに暮らす両親の役者はどちらも本当に一般家庭の空気をそのままスクリーンに持ち込んでいた。完全なる個人的嗜好として、愛人のアンジェラ役のステファニー・アリエンが色々と気になる。
とにかく全員が役と結びついて切り離せないほどの、一体感を見せていて素晴らしかったと思う。
ディティールはどうしても目につく
作品全体はとても味わいのあるお仕事ムービーになっていて、キャストの好演もあって余計に目が離せないサスペンスもあるから、満足度は高い。
ただ、見終わってみると、なかなか腑に落ちない部分もあったので、それらにも触れておくことにする。大手企業が作った作品ではない今作に対してはやや手厳しいかもしれないが、寧ろ今作が他の商業作品と比べてもまるで引けを取らない映画だからこその不満である。
日常と隣り合わせの非日常というコントラストの薄さ
今作は、「日常的に殺人が行われている銭湯」といういかにも魅力的な舞台装置を活かしきれていたとは思えない。
というのも、一般客が入浴するシーンが序盤で終わってしまっているからだ。鍋岡が清掃を請け負って以降、銭湯は基本的に小寺、松本、東などの身内で話し合う場所になっていて、単なる裏社会の一室となってしまっている。一般客が登場するのは、入場口で受付するシーンで台詞なしで通過していくぐらいだ。
死体処理をした次の日に客が平然と入っている画を見せてこそ、こうした日常と隣り合わせで恐ろしいことが起こっているシチュエーションの異様さが際立つものではないだろうか。また、最終的に銭湯経営というオチに至るのであれば、尚更銭湯を利用している一般客の様子はきちんと描写しておくべきだったように思う。
もっと言うと、今作で描写される鍋岡の日常生活が本筋における彼の行動に影響を与えるわけでもないのが気になってくる。要するに恋人が出来て、仲良くして、別れるというだけの生活風景でしかないので、何とかキャストの魅力で引っ張っているが、話そのものに面白みは見出せない。結果、日常は単に非日常にとっての引き立て役に留まっていて、その非日常部分も後述するようにメッセージが希薄なので、物語全体に深みが見えにくいきらいがある。
道筋を欠いた着地
殺人現場として銭湯を貸し出すことに耐えきれなくなった鍋岡、東、松本は結託して、元凶たるヤクザの田中の殺害を画策する。結果としては、田中を殺害するばかりか、裏切った東までをも手にかけ、銭湯は完全に鍋岡と松本の手中に収まることになる。
結末において、鍋岡はモノローグでなんて事のない日常への喜びを語るのだが、ここがすんなりと頭には入ってこない。それは、このメッセージに至るまでの道筋が欠けていることに原因があるように思う。
後半部分では主人公の鍋岡が、殺人に手を染めなければ死ぬしかないという理不尽な選択をはねのけるために、殺害計画に加担することになる。言ってしまえば、差し迫った状況のために仕方なくやっただけであり、彼の能動的選択というわけではない。最終的に成り行きで銭湯を経営することになった後で、幸福を肯定するメッセージを打ち出されてもいまいち説得力に欠けるし、突然出てきたように感じられてしまうのが正直な感想である。
深読みすれば、鍋岡が最後に手にした幸福な日常は、途中で殺されてしまった殺し屋の小寺と銭湯の主人である東が手に入れられなかったものである。そうした悲劇を乗り越えて鍋岡は手にすることができたという構図は読み取れなくもないが、劇中ではあまりフォーカスされているようには見えなかった。
ついでに、東を殺したことで生じるはずの鍋岡の心理的動揺も後悔も省かれているので、その点も不自然に感じられる。
計画殺人に欠ける説得力
銭湯で人を殺すことで、完全犯罪を成し遂げているという基本設定であるが、これも完璧に納得させられるようにはできていない。
死体を処理する方法が単にボイラー室で燃やすだけ、というのでは白骨は燃やしきれないし、それを更に隠蔽する手段が必要だろう。また、車で殺害対象をわざわざ連れてきて殺すという方法を取っているが、口を塞いでなかったら、それは近所に聞こえているのではないか。完全犯罪をしている割には、戸締りも甘く、劇中2回も鍋岡に侵入されてしまっている。作中では小寺はナイフを使って殺害しているが、松本がしたように最初から扼殺すれば、掃除の手間は省けたのではという突っ込みも思い浮かぶ。
最後に松本と鍋岡が挑む田中殺害計画にしても、白昼堂々3回も銃声が聞こえたら近所は大騒ぎになると思うのだが、不思議なことに人っ子一人も歩いていない。そもそも、東に窓を開けてもらって侵入するなんて回りくどい手を取らなくても、松本と東が一緒に堂々と尋ねて、寝首をかくように不意をついて首を閉めたほうがやりやすいし、隠密にことを運べるじゃないか。
このように、いくらでも釈然としない点が思い浮かんでしまう。一言で、ディティールの詰めは甘い。日本では至難の業である完全犯罪を成立させる方法として良さそうな銭湯を選んだはいいものの、そのワンアイデアで止まってしまっている。いっそフィクションでしか有り得ない突飛な手段などを持ち出して筋を通せばいいのだが、そうした企みも見えないので、やはり単に詰めが甘いということになってしまう。
作中使用されているナイフが明らかに刃が潰れていたり、胸を打たれた際の松本の出血量が生ぬるかったり、銃創を一般家庭で治療できてしまったりするのも、見ている最中に気になった。
まとめ: 商業作品にも負けない個性が光る作品
後半手厳しくなってしまったように、予算や技術が限られる作品では、どうしても細部まで詰めきれないところがあるのかもしれない。
しかし、評価した銭湯という身近な場所での犯罪から充実感を得るという奇抜な感覚はこの作品の持ち味だ。役そのものになりきっているキャストも、大作映画のように下手に大量の利害関係者を抱えていないからこそ、適材適所に配置することができた結果でもあるのだろう。
全国小規模での公開となった今作だが、着々と評価されて公開館数も広がっている。商業映画に負けじ劣らない作品がきちんと熱意と創作意欲のある人たちによって生み出されている。そのことを感じられただけでも儲け物であるし、何よりも鍋岡たちのドラマは楽しかった。
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