愛する人は選ぶことができる『ぼくの名前はズッキーニ』レビュー【ネタバレ】

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こんにちは、ワタリ(@wataridley)です。

今回取り上げるのは「ぼくの名前はズッキーニ(仏題:Ma vie de Courgette)」というスイス・フランス合作のストップモーションアニメーション作品です。

ストップモーションというと本ブログでは以前に「クボ/KUBO 二本の弦の秘密」を扱ったことがあります。人形を少しずつ動かし、それをコマ撮りし、繋げることであたかも生きているように見せかける手法自体に驚きがありました。その上ストーリーとキャラクターの立体感や奥行きも素晴らしく、クボはお気に入りの作品のひとつです。

そのクボと打って変わって、このズッキーニはファンタジーでもなければ、冒険もありません。舞台になるのは児童養護施設、スポットライトが当たるのは親と離れ離れになった訳ありの子供たち。設定だけ聞くと薄暗く、湿っぽい。子供こそ出てくるものの、子供を喜ばすイメージを持つドールアニメには適さないように感じます。

ところが、鑑賞してみると最初から最後までこちらの琴線に触れるような映像の連続で、見終えた後には全ての人に薦めたいと思える作品でした。ワンシーンワンシーンにキャラクターの感情が滲んでいて、画面に釘付けになります。手作りのストップモーションだからこそ表現される歪な動きや暖かな表情から、思わずキャラクター達の胸中を探りたくなるのです。

前置きはこの辺にして、具体的にどこに胸を揺さぶられたのかについて語っていきます。

ネタバレを含んだ内容になっていますのでご注意を。


84/100

ワタリ
一言あらすじ「児童養護施設に送られた少年が体験する出会いと別れ、そして新たな絆の形成」


虚構によってリアルを紡ぎだす意義

冒頭述べた通り今作は人形を使ったアニメーションです。出てくるキャラクターは人形であって人間ではありません。
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©RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

現実にいる我々はこんなに皿のように丸い目ではないし、頭だってこんなに大きくはない。鼻や耳だってこんな極端に色づいている人はあまりいません。挙句の果てには、指は4本しかない。こう書いていくと、いかにこの人形が非現実的な造形をしているかがわかることでしょう。

しかし、だからこそリアリティが引き立てられているのです手作り故の不完全さが、人間が誰しも抱える欠陥をそれとなしに訴えていると言えます

主人公のズッキーニは、その大きな瞳の動きによって心情を訴えかけていました。印象的なのは、施設にやってきた最初の夜のシーン。彼は子供たちのリーダー的な存在シモンからのちょっかいの的になってしまい、逃げるようにして一人眠ったふりをする。その時、他の子たちがロージーからおやすみのキスを貰う中で、ズッキーニの瞳に浮かぶ戸惑いと期待の色は、記憶に強く残りました。過酷な扱いを受けていたはずの母親への憧憬とそれを埋め合わせたいという孤独感が瞳というパーツで表現されていたのです。

警察での聴取を受けるシーンでは、伏し目がちに応え、目は泳ぐ。この先どうなるのかという不安や知らない大人と空間を共にする緊張が伝わってきます。

また彼は微妙な角度で首を縦に振るという動作を作中いくつか見せているのですが、自分の肯定的な感情を示す不器用さがここに表れていると思いました。冒頭に見せる唯一の母親とのコミュニケーションは謝罪と否定です。そこに自分の前向きな意思を主張する余地はなく、ズッキーニは自分の部屋で絵を描いたり、凧を飛ばしたり、勝手に集めた空き缶を積んで独り遊んだりする、きわめて閉鎖的な暮らしぶりでした。不器用な首肯にはそうしたバックグラウンドが関係しているのではないでしょうか。

こうしたぎこちなさや不器用さの表現は、当然のことながら実写作品でも多いです。所謂絵のアニメーションやCGアニメでもキャラクターはしばしば人間味のある動きをします。しかし、そこには作り手による一種の作為が介在するため、人が意図した歪みでしかありません。この作品を見て、人形という虚構に頼ることで生じる自然な歪みというものは、作り手の意識を超えた人間らしさを演出することが可能になっていると感じました。

キャラクターの動きや表情は100%思い通りにはならないでしょうし、コマ撮りである以上カメラで映した動画のように切れ間のない映像には決してならない。この不完全さが登場人物の持つ人間らしさに寄与し、結果としてあたかも実在し生きているような錯覚を起こすのです。言葉としておかしいですが、今作が映し出すキャラクターの感情は実写では表現できないリアリティがあります。製作者が、虚構で現実を作り出す意図はここにあるように思います。

 

彼らには人生がある

手作りによるぎこちなさが、施設に生きる子供たちや彼らを見守る大人たちの奥行きを生み出していたことがとても良かったです。些細な情報からも彼らの人となりや背景が探れます。

主人公の少年の本名はイカール。冒頭、壁中に描かれた絵や散らかった部屋を見るに、親から口うるさく言われているわけではないということがわかります。でも、その慎ましい挙措からは、母親に対する恐れみたいなものが見えて、健全な関係ではないようです。不幸にも、その関係が終わりを告げて、物語は幕を上げます。

ズッキーニは母親からの呼び名。これって考えてみるとおかしな話で、実子を本名じゃなく野菜の名前で呼ぶというところに普通とはちょっと違った親子関係が見えるんですね

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©RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

ズッキーニの家には父親が出ていった時までの背比べの跡がありました。父親が「雌鶏を追って」出て行くまではきっと愛情を注がれていたのだろうと思います。母親のアルコール中毒やネグレクトもそこから始まったのでしょう。

ズッキーニ命名の経緯は語られていませんが、野菜で呼ぶというのは、シモンが当初彼をイモと呼んだように、蔑みのニュアンスがあるように思います。それでもズッキーニは施設に入ってもその名前で呼ばれたがる。彼は、母親からは真っ当な愛を受けずとも、彼女から貰い受ける物をたいせつにする少年なのです。捨てたはずのビール缶だって拾い上げて遊びの道具にするし、死んでから尚も形見として持ち続ける。人の悪意すら愛情として喜び受け入れるズッキーニの健気さが愛おしくてたまりません。

ズッキーニは、父親のことを憎む素振りも一切見せません。彼が好んでいたという若い雌鶏(女性のこと)を凧に描いて、飛ばしてあげたりもします。施設にやってきた日、収納箱に父親の絵が描かれた凧と母親が好んでいたビール缶を一緒に置くあたりからも、彼は父親と母親に仲良くいてほしかったんじゃないかなと思わされますね。

不健康そうなブルーの瞼は、不幸な表情にも見えるけど、不幸に晒されながら良心を忘れない優しいパーツにだって見えてきます。傍観者でしかありえない自分も彼の幸せを願いたくなります。

当初はズッキーニに意地悪をするものの、ある事件をきっかけに打ち解ける子供たちのリーダー シモンにもドラマがあるように映りました。彼は当初はズッキーニに対して「どうせ親から捨てられたんだろう」と残酷な言葉を投げかけるんですが、その後に明らかになる事情や頭にある傷を見れば、彼自身が愛されていない傷を負っているというのが伝わってくるんです。

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最初は施設の事をムショと言い、ズッキーニに執着していたシモン。凧の一件でズッキーニの胸の内を悟り、呼ばなかった名前を口にし、歩み寄っていく彼の姿は、子供ながら大人びた一面を持っているのだと、はっとさせられます。

そして最後にズッキーニを送り出すための背伸びが、痛ましくも感慨深い。最初は彼が去っていくという事実に向き合えず、大音量の音楽で掻き消してしまおうとする。しかし、ズッキーニがせっかく掴もうとしている幸せを手放すことを口にすると、自分の願望よりも友を優先する。気恥ずかしさを紛らすために、警察とヒーローのハグを茶化すところにシモンらしい擦れた性格が窺えます。

施設にやってきた女の子カミーユとズッキーニの間にある特別な関係性にも心をくすぐられました。彼女を初めて見たときのズッキーニの表情はとても印象的でしたし、バスでした密かなキスを知っていると告白された時にも真正面から彼の顔を捉えていました。ズッキーニは正面から向き合って会話するとき、目を伏せがちなのですが、彼女とはしっかりと向き合うのです
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©RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

ズッキーニが大切にしているビール缶だってシモンから取り戻してもらった後、彼女へのプレゼントに舟にしてしまう。誕生日はとうに過ぎていたけれど、愛情を与えたくて仕方のない心意気が表れています。

初めて来たとき、親から捨てられた経緯をジョークでごまかしていたカミーユ。しかし、本当は重い事情を背負っていました。そんな中でもズッキーニのビール缶をシモンから取り返したり、アリスの髪の毛を整えて瞳と心を開かせる彼女の強さには自分も頭が上がりません。その一方で、ズッキーニたちに出会えてよかったと語る彼女。与える側でもあり、与えられる側でもあったという人間関係の喜びを噛みしめているようです

カミーユに限らず施設にいる子供たちはみんな、親の都合に振り回され、傷ついています。通過儀礼的に誰もが幼少に経験できる愛情を受けることすらままならないのです。だからこそ、彼らがその空白を埋め合わせあう様子は微笑ましいし、子供でありながら相手のためになるよう動く姿が一層大人びて映ります。

そんな彼らを見守る大人たちにも感心させられました。
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©RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

喧嘩していたズッキーニとシモンを咎めるシーンでは、公平で毅然とした園長が投げかける瞳が記憶に残ります。その奥底には、面倒ごとに対する愛想の尽きではなく、彼らへの思いやりを感じます。

子供たちにとっての母親代わり的存在のロージーも、やってきたばかりのズッキーニにも親切で、分け隔てなくキスをしてあげる母性に憧れますね。

ポール先生は勉強を教える一方で、DJの趣味があり、ノリノリな一面を覗かせるのが意外でした。子供たちからちょっとビックリするような言葉を投げられても悪意に取らず笑い飛ばすところも人柄の良さを感じました。

そして自分が一番肩入れしてしまったのがズッキーニを取り調べて施設へ送った警察官レイモン。親を亡くしたズッキーニに、落ち着いた声で寄り添うように視線を投げる姿には安心感を覚えました。母親からの呼び名を尊重してあげたり、凧について質問したり、相手の関心ごとに興味を持って接してあげる姿勢には静かに感嘆しました

施設へ送るシーンではズッキーニが抱えている凧を飛ばしてもいいよと言います。サイレンを鳴らして、速度を上げて、ズッキーニの凧は空高く昇ります。僅かなひと時の間に父性を発揮してくるものだから、思わずホロリとくるシーンでした。

ズッキーニとカミーユを連れて遊園地へ遊びに行った時に自分の子供と勘違いされ、戸惑いながらも否定しないレイモン。この時の微妙な表情の移ろいが可笑しくも愛らしい。暖かな気持ちでレイモンのことを応援してあげたくなりました。

定期的に会いに来るのは職務上の仕事なのだろうか?とズッキーニも自分も感じていました。でも、彼は会いたいから来るのだといいます。別れ際には、またすぐ来ると言い、届いた手紙もしっかり読む。そこまで肩入れする背景には、息子に逃げられてしまったという過去がありました。ズッキーニに見せる表情は温かいけど、どこか寂しい。彼の抱える内面を改めて探りたいと思いました。

 

選択できない子供が選択するまで

ズッキーニや施設に預けられている子供たちはみんな漏れなく親からの愛を受け取れていませんでした。

親子というものは一般に強い絆を結ぶ間柄とされていますが、それに当てはまらない人たちだっています。子供は親を選ぶことができず、大人に比べ肉体が未熟であるがゆえに、不幸にも従属物のように扱われてしまう子も確実にこの世には存在します。子供にとっては理不尽極まりない話です。

ズッキーニは父親に逃げられ、母親は毎日酒浸り、まともに構ってもらえない。

カミーユは両親の仲の険悪さが悲劇を招き、叔母に虐げられる。

シモンもアメッドもジュジュブもアリスもベアトリスも、自分ではどうしようもない親の不義によって離れ離れになってしまった身です。

スキー場で転んでしまった子供を親が心配するという一幕を凝視する彼らの心を思うと、こちらの胸まで締め付けられます。なんてことのない行動ですが、彼らはそれが欲しくて羨ましくて仕方がない。直前にはしゃぎながら雪上を滑っていた彼らが、一斉に黙り込む様子は、今まで友人たちとの同居で忘れていた孤独が急激に襲ってきたことを示しているのでしょうね。いくら物理的に近い仲間がいても、根本的に親の愛に代えることはできないのですから。
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©RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

そんな理不尽な境遇にいるズッキーニ達は、自分の家族を選択できないか弱い存在です。しかし、カミーユとの恋、シモン達との友情を通して、相手に尽くすことを知る。自分を愛してくれる人間は自分では選べませんが、自分の意志で他人に歩み寄ることはできるのです

この映画は児童養護施設にいる訳ありの子供たちを悲惨に描くわけでも、底抜けに明るく描くわけでもありません。ただ淡々と自分の置かれた状況を理解し、諦めるのでも抗うのでもない子供たちが出てきます。そこにやってきたカミーユは叔母から逃れるために明確な抵抗を選択します。この出来事を通じて、彼らの絆が浮き彫りになり、ズッキーニとカミーユの恋心が実り、それを見守るレイモンがお互いに新たな家族を形成することを「選択」するのです

レイモンはズッキーニとカミーユを引き取ることを決めましたが、最終的な選択は彼らに委ねます。シモンは引き留める気持ちを抑え、ズッキーニを送り出すことを選択します。親に見放された子供たちと、子供に逃げられたレイモンが同じ道を選択する時に育まれた愛はきっとちょっとやそっとでは壊れない強固なものなのではないでしょうか。

カミーユが最後に見せた涙は、初めて自分で選び、経験した愛に押し出されて零れたものだと思っています。

 

青空の下、浮かぶ凧

ズッキーニ達が去っていった後に生まれた赤ん坊を、施設の子供たちは興味津々に見守ります。「臭くなっても?」「醜くなっても?」とロージーに問いかけるのは、内に潜んでいる恐怖心が漏れ出したからでしょう。でも、赤ん坊にこれほどの関心を注いでいる子供たちや、穏やかなロージーを見ているとそんな不安は杞憂に終わるに違いないと思います

曇りや雨で覆われていたオープニングとは違い、晴れた空に浮かぶ凧には、集合写真が貼られていました。凧は糸に繋がれ、糸は持ち手に繋がれています。彼らの絆はこれからも離さずに持ち続けられる。そんな予感を胸に劇場を去りました。

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