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こんにちは、サノスの顎と紅茶花伝のペットボトルの下部はたしかに似ているとしきりに思うワタリ(@wataridley)です。
今回はマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)の第22作となる映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』をレビューします。
監督は『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』『アベンジャーズ/インフィニティ・ウィー』などのアンソニー・ルッソ&ジョー・ルッソ。MCUのフェーズ2以降に参加し、大いに貢献してきた2人が今までの総決算の指揮をとります。
前作『インフィニティ・ウォー』にて衝撃的な敗北を喫したヒーロー達によるサノスへのアベンジを期待し、公開日の4/26(金)に観に行きました。
筆者とMCUの距離感はそれほど密ではありません。発表された作品すべてをカバーしているわけではなく、『アベンジャーズ』までのフェーズ1を劇場で観た記憶もない。ここ5年で余暇を映画鑑賞に使うようになってから、MCUの作品も観るようになってきたぐらいです。熱狂的なファンではないという冷静な気持ちがいくつかあるのと同時に、でもヒーロー映画にあるキャラクター、精神性、アクションを楽しむ心も持っている。そんなスタンスでMCUを観てきました。
『エンドゲーム』は、そんな自分の体温を上げてくれる瞬間がたくさんありました。あのキャプテン・アメリカが、あのアイアンマンが、これまで経てきた出来事とそこから得た変化を戦いの中で散開させてくれる。その様子を追うと、体は反射的に反応してしまうものです。劇場では笑いが起きた他にも、あるシーンでわっと沸いたり、あっと驚いたりする場面も見られました。
しかし、どっぷりと浸かったわけではない自分も巻き込ん情動の渦を起こす一方、一本の映画として見ると中々歪な作品になってもいるとも思いました。これは自分がMCUと密に接してこなかったことに原因があるのでしょう。実際作中ではヒーロー達のバックボーンはいちいち説明してはくれず、過去作の引用やセルフオマージュは多い。明らかに11年間を共にしてきたファンに向けた構造になっている。それが自分にとってのいくつかの不満となり、また作中で単独作として自足し得ない欠点を生んでいました。
帰路につくよりも前、映画を見ている最中にも疑問符が頭にうかぶことがありました。見終えた後に供給されたエネルギッシュな映像に疲労感を覚えつつも、その疑問符がぐるぐる回り続けていました。言ってしまえば、『エンドゲーム』は大きな満足感とわだかまりの鬩ぎ合いを与えてきたのです。
したがって本レビューは絶賛というわけではありません。楽しめたポイントとそうでなかったポイントを切り分けて、なるべく冷静に批評していきたいと思います。
以降、ネタバレを含めた内容になっていきます。未見の方はくれぐれもご注意下さいませ。
76/100
目次
縦軸の歴史と横幅の多様性をドラマに込めたユニバースものの頂点
MCUはそれぞれ異なる作品の人気ヒーローが同一の世界に置かれ、『アベンジャーズ』等の作品で盛大に結集する壮大なシリーズであり、今年で11年目となる長い歴史を持っている。
2008年公開の第1作『アイアンマン』ではスーパーマンやバットマンに比べて当時は映画界でマイナーだったアイアンマンをロバート・ダウニー・Jrが演じ、その個性とスーツに込められたアイデアが大衆に受け入れられてヒット。近い時期に公開された『インクレディブル・ハルク』なども含め、以降MCUに類する作品が継続的に作られ、キャプテン・アメリカ、ソーといったヒーローのオリジンが描かれることとなった。そして、マーベルスタジオの社長にしてシリーズのプロデューサーであるケヴィン・ファイギのかねてからの構想が結実し、2012年に『アベンジャーズ』が公開。スパイダーマンやウルヴァリンといった原作の人気キャラクターを使用できない足枷ももろともせず、『アベンジャーズ』は世界的に大ヒットし、世界歴代興行収入で3位(当時)になった。以降、ブランドとして成功したMCUは他の追随を許さないほどに飛躍してきた。
興行面で成功により発掘されてきた多様なヒーロー達は、この世界には様々なユニバースがあるのだと実感させてくれる。小さくなることを武器にした『アントマン』シリーズや宇宙のならず者チームが平和を守る『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズなど、既往のアメコミ映画ではまずフィーチャーされないであろうタイプのヒーローがスクリーンで堂々と活躍してくれるのはMCUならではのこと。昨年には黒人キャストが勢揃いの『ブラックパンサー』、今年にはシリーズ初の単独女性主人公作品『キャプテン・マーベル』が公開されるなど、意欲的な作品も数多く製作されてきた。
2018年4月に公開された『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』では、それまでに登場した多種多様なヒーロー達が強敵サノスに挑む戦いが繰り広げられた。しかし、ヒーロー達の奮闘は打ち砕かれ、宇宙の人口の半分が塵に消えた。
『インフィニティ・ウォー』をサノスが数多ものヒーロー達を打ち倒して自身の大義を成し遂げる映画と位置付けるのなら、『エンドゲーム』はその逆にヒーロー達がサノスの野望を打ち砕いて地球に平和をもたらすアベンジを遂げる映画となっている。
11年間で構築してきた壮大なユニバースのほとんど全域をこの1本に込めているという点で見て『エンドゲーム』はMCUの総決算的作品だ。
横軸に分布するバラエティ豊かなヒーロー達
『シビル・ウォー』の事件以来自宅で軟禁されていたクリント・バートンことホークアイ、『アントマン&ワスプ』で量子世界に取り残されてしまったスコット・ラング=アントマン、そして『キャプテン・マーベル』で宇宙へ旅立ったキャロル・ダンヴァースが、今作からサノスとの闘いに身を投じる。
『インフィニティ・ウォー』を経て変わってしまった状況に彼らが出くわしていくことで、事態が変わっていく予感を強く抱かせる。
特にスコット・ラングの視点は映画において有効に機能していた。『シビル・ウォー』でキャップにヒーローとしてスカウトされたものの、元々の彼はというと日常的な苦難に悩む卑近な人間である。刑務所暮らしの経験があり、バツイチで、娘とのひと時を大事にするスコットの目線から人口が半分になった世界を捉えさせることで、観客はその重大さを思い知る。初めて見る宇宙からの来訪者に対する呆然とした表情といい、緑の大男から受け取る親切への戸惑いの顔といい、ポール・ラッドのパフォーマンスが見所になっていた。
一騎当千の強さを誇るキャプテン・マーベルが宇宙をさまようトニーとネビュラを地球へ連れ戻すシーンは、あっさりと深刻な状況を解決できる彼女の頼もしさを実感できた。そのあまりの強さから、今まで安易に参戦させられなかったであろうことは想像に難くない。
前作では所在が触れられるのみだったホークアイに関しては、『エイジ・オブ・ウルトロン』で明かされた家族の存在が冒頭の掴みとなって、『インフィニティ・ウォー』の余波を『アントマン&ワスプ』に引き続き提示していた。
ロケットがキャプテン・マーベルの髪型を揶揄したり、サノスの件から精神的に鬱屈していたソーをジョークで外に出してあげたりと、細かなやり取りにもキャラクター性が反映されている。MCUを追ってきたファンほど「あのキャラとあのキャラが喋っている」という楽しさが高まることだろう。
何より、生き残った面々がインフィニティ・ストーンで生き返った者たちと合流し、最大規模の「アベンジャーズ アセンブル」の号令がキャップの口から発されるシーンは、この映画のみならず、これまでの映画でも屈指の熱量を持っていた。
空を飛ぶヴァルキリーやアイアンスーツを装着したポッツ、巨大化してあたりを蹂躙するアントマン、画面を埋めるアスガルド人、ワカンダ人、魔術で災害を食い止めるストレンジなど、それぞれに背景がある人物たちが混み合い、共通の敵に立ち向かう構造はMCUでしか生み出せない絵画である。
また、ここではガントレットをリレー式に手渡して駆け回るヒーローたちの姿が活写される。オリジナル6の一員であるホークアイから、国王ティチャラ=ブラックパンサーの手に渡り、若きピーター・パーカー=スパイダーマンの糸で回収され、キャプテン・マーベルら女性ヒーロー達が彼を援護するという一連の流れには、脈々と受け継がれていくヒーローの精神を見出すことができる。全く容姿も境遇も能力も異なる彼らがひとつのアイテムを受け渡す絵に、ユニバースの豊かさが溢れていた。
縦軸のMCU史をダイナミックに回顧するタイムトラベル
もはやMCUは単に沢山のヒーローが出てくるだけのクロスオーバー作品ではない。そのことを作中では、タイムトラベルを通じて我々の目に訴えかけてくる。
これまでのMCUの11年はインフィニティ・ストーンを巡る戦いが背後にあった。2012年の『アベンジャーズ』ではニューヨークにてチタウリの軍勢に対抗するアベンジャーズが登場し、ロキが所有していたセプター=マインド・ストーンとテッセラクト=スペース・ストーンを一時的に確保する。また、その時サンクタムにいたエンシェント・ワンが持つアガモットの目にはタイム・ストーンがあった。2013年の『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』ではエーテル=リアリティ・ストーンがジェーンの体内に吸収されてしまい、彼女はアスガルドに連れられる。そして、2014年『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の冒頭における惑星モラグではピーター・クイルがオーブ=パワー・ストーンを盗みに入っていた。『インフィニティ・ウォー』まで惑星ヴォーミアに存在していたソウル・ストーンと合わせ、アベンジャーズは、時間泥棒作戦によりこれまでのインフィニティ・ストーン争奪戦を再体験することとなった。
これらの時間旅行は、紛れもなくMCUが辿ってきた歴史を可視化するためのシーンである。当時の人物達の目を搔い潜って石を手に入れるケイパーものの装いをしているが、随所に変化を感じさせる場面がある。制御不能に暴れまわるハルクを見た後に理性を保ちながらハルク化を遂げたブルースが適当に暴れるシーンなどがそれにあたる。現代の価値観に対してカルチャーギャップを抱え、堅物な面が強かったキャップは『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』を経て、バッキーの名前を口にすることでかつての自分を払いのける。また、ロキの手でスターク・タワーから突き落とされたトニーが地面すれすれのところで装着できたアイアンスーツのマーク7に対し、マーク85はナノテクがトニーの体を覆い瞬時に装着が完了する。トニーの元へ飛んできた別機が本人確認のリストを読み取って…という過程さえなく、スムーズに行われる装着シーンにアイアンマン史の進歩が見て取れるのである。
ニューヨークの他にも、アスガルド、モラグ等で印象的なあのシーンが再現される。ピーターが音楽に乗せて踊っていた最高のオープニングが客観的に捉えられることで完全なコメディと化す一幕もあった。
アベンジャーズの時間旅行を通じて歴史を振り返っていくと、MCUがいかに多くの事件を経て今があるのかが再認識できる。これらは懐古主義に留まっておらず、寧ろ過去を見返すことで我々が立ち会っている「今この時」への祝辞になっている。
時間という縦軸の不可逆な流れの中で、各々のヒーローが誕生し、そして活躍することでこのユニバースの歴史のひとつとなり、壮大な流れに組み込まれていった。そして『アベンジャーズ』シリーズにおいて、「今この時」に多様なヒーローをアセンブルさせる。
だが、観客にとっては「今この時」は単なる点ではない。『エンドゲーム』という点は過去から伸びてきた到達点だ。その流れは途切れることなく続いてきた。アイアンマンという点、キャプテン・アメリカという点、ソーという点…これらの点が重なりひとつの線となった。シリーズを追ってきた者にとって『エンドゲーム』とは、過去と繋がり、そして未来へと続く線なのである。
だから今作のアイアンマンの終盤の行いを見れば、「その命を無駄にするな」というインセンの言葉がフラッシュバックする。また、キャプテン・アメリカの遂げた変化を見れば、若くしてヒーローとして祭り上げられ戦地に赴いた彼の激動の人生が自ずと再生される。
彼らだけではない。ソーも、ハルクも、ブラック・ウィドウも、ホークアイも、沢山のヒーロー達も、これまでを経てきたから「今この時」があるのだ。
アベンジャーズのフィナーレに込められたメッセージ
マーベル・スタジオ関係者の間では2008年の『アイアンマン』から2019年の『アベンジャーズ/エンドゲーム』までを「インフィニティ・サーガ」と呼称しているそうだ。タイトルの「エンドゲーム(最終段階)」や公式からアナウンスされているように、今作はこれまでのMCU22作品の締めくくりなのだ。
一旦の最終回という場で、アベンジャーズは我々に何を伝えたかったのだろうか?
先述してきたように、MCUは多様性という横軸と11年の歴史という縦軸が合わせて我々に豊かな世界を見せてくれた。しかし、それは作品の表層的な魅力に過ぎない。
出演時間や描写の比重からして、主にトニー・スタークとスティーヴ・ロジャースの2人に今作の重点は置かれている。ソーやナターシャ、ホークアイ等にも各々の心情描写の書き込みはあったが、今作の結末が2人の終着点と重ねられていることからみても自明である。
そこで2人のドラマを解釈し、今作の主軸を自分なりに明らかにしてみたい。
アイアンマン:ヒーローではなかった人間がヒーローに
トニー・スタークは、第1作の『アイアンマン』時点では、軍事企業スターク・インダストリーズの社長であり、会社は武器を製造販売していた。戦争を支援する側の人間だったのである。
しかし、アフガニスタンを視察した際に彼はテロリストに拉致されてしまう。危機を脱するために居合わせたインセン博士と共にパワードスーツを隠れて開発する。これがアイアンマンの初号機であり、アフガニスタンから生還した後に我々がよく知る赤と金の後継機を次々と開発する。トニーは自身の会社が売っていた武器が悪用されていることを省みて、今度はヒーローとしてアイアンスーツを着ることを決意する。ここれがアイアンマンのオリジンである。
やがてアベンンジャーズが結成されて以降、トニーは『エイジ・オブ・ウルトロン』にて自らが開発したウルトロンが人類に牙を剥き、その阻止に奔走することになった。そして『シビル・ウォー』では、ヒーローとしての力の使い方を巡って盟友のキャップと対立し、アベンジャーズは分解してしまう。
トニーはヒーローになれるスーツを装着できても、内面的には周囲との摩擦を生みかねない独り善がりな部分やスーツに依存する精神面の弱さが露呈することがままあった。この点、アイアンスーツほど本体に耐久力・攻撃力を持たないが、精神的に安定したキャップとは相反している。
地位も財力も高い知能も持ってはいるが、その力を他者のために使うようになったのはキャップよりも後発であり、このことがシリーズ通しての彼の変化点にもなっている。
その彼が最終的に行き着いたのは、インフィニティ・ストーンを揃えて自らスナップするという行為であった。サノスやブルースがスナップした時の反応から見ても、常人の肉体では耐えられない負荷がかかることはわかっていた。それでも、彼はサノスにインフィニティ・ストーンを奪われそうになった状況の中、最も近くにいた自分自身が迷わずスナップすることを選んだ。結果的に、これが致命傷となって彼は息絶えることとなる。この行為は、利己的な面があったトニーが命をも投げ出して世界を救ったことを意味している。
最初にスコット達からの提案を断ったように、家族を理由にしてこの戦いの前線から回避することはいくらでもできたはずだ。だが、密かにタイムトラベルの研究をし、世界を元通りにする希望を見出した彼は、キャップに盾を渡して共に戦うことを選んだ。そして、最後には命と引き換えに世界の平和を守った。インセン博士に告げられた言葉の通り、命を無駄にすることはなかったのである。
ヒーローになる要件とは、スーツではなく自分以外の誰かを救う意思なのだと、その身をもって語り継いだといえよう。
キャプテン・アメリカ:ヒーローだった男が1人の人間に
トニーとは対照的に、スティーヴ・ロジャースは強い精神力と正義感を持ち合わせている。超人血清を打たれる前から、肉体的に貧弱でも自分よりも大きい相手に立ち向かい、他の男達が慄く中で1人だけ爆弾に向かっていけるだけ彼の心は強かった。
一方で、若くして両親を失い、戦争の時代に生まれた彼には平穏な時間に浸る余裕は与えられない。兵士として志願しては不合格となった末に、エイブラハム・アースキン博士に目を掛けられスーパーソルジャー計画の被験体となった。大衆向けの戦意高揚のマスコットを務めた後、戦場へ出てからは本格的にヒーローとして身を捧げた。
だが、レッドスカルとの戦いの末に世界の平和を守り抜いたのと引き換えに、ペギーとの約束を果たすことは叶わなかった。『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』で描かれるオリジンの時点で、スティーヴは自己犠牲と他者貢献を履行していたものの、彼自身の人生は波乱に満ちていたのである。
続く『ウィンター・ソルジャー』では親友のバッキーと思わぬ形で再会を果たし、『シビル・ウォー』ではそのバッキーを巡って盟友のトニーと対立。自らの正義と矛盾するソコヴィア協定に反対したこともあって、スティーヴは国際指名手配を受け、行方を眩ませる。
彼はあくまで世界のために戦い、命を賭してきた。根底にあった強固な利他の精神は『シビル・ウォー』では情勢と矛盾し、『インフィニティ・ウォー』ではそれが結果的に人類の消失に繋がってしまった。
このようにキャプテン・アメリカはどこまでも自身の正義感を貫いており、そこはブレることがない。それが人を救う反面、自身に不利な状況に追い込んでしまう危うさもあった。
どこまでもヒーローであっても、どこまでも恒久的な幸せを掴むことができないのである。
今作のラストでスティーヴが下した決断は、今まで傷つきながら戦ってきたヒーローとしての役割から自らを解放し、安息を与えた。そこに至るまでにはアベンジャーズと共に戦ってきた日々と、トニーが最後に見せた勇姿が理由にあるのだろう。老いたスティーヴはトニーから自分の幸せを追い求めるように言われていたと話していた。どこまでも利他的な人間が、自分勝手を知る人間の言葉を受け入れて、ようやく穏やかな時間を過ごすことができた。
強大な力を持ったヒーローは責任を負い、人々を助けるものであるとされている。しかし、誰かを救うばかりではなく、自分の幸せを求める人間らしさだって誰もが持っているものなのである。そんな当たり前のことを壮大なシリーズの幕切れに語る大胆さと、彼を追ってきたからこそ染み入る救いに唸らされた。
巨大なキャラクタームービーが生んだ見過ごせない影
上記に述べてきたように、今作は11年続けてきたことによる歴史、魅力的なキャラクターが集結するお祭り要素という土台の上に、トニー・スタークとスティーヴ・ロジャースというヒーローの変化を決定的に描くドラマを展開していた。
しかし、これらを内包する作品全体を傑作と賞することができるかと問われると、素直に首肯することはできない。
主な理由は3つある。一つにMCUの完結作として見たときの各キャラクターの描写への不満。二つに今作で重要なタイムトラベルについてのパラドックス。三つに『インフィニティ・ウォー』から続くサノスとアベンジャーズの軽んじられてしまった二項の正義について語ることにする。
描写的に不満だったキャラクター
こうしたお祭り作品では、多数のキャラクター達の間で描写の密度に偏りが生じるというのは理解できる。ゲームではあるが『大乱闘スマッシュブラザーズ』や『キングダムハーツ』などの人気作にも同様の問題点は見られ、完全な解決を図ることができない永遠の課題となっている。だから、多少の不均衡が生じたとして、それを声高に欠点と指摘することには慎重になるべきだ。だが、明らかにこれまでの描写とのバランスが取れていない場合はその限りではない。
『エンドゲーム』の直前に公開された『キャプテン・マーベル』を観た人であれば、誰もがキャロルの活躍を期待することだろう。自分としても、映画そのものにはあまり乗れない部分はあったものの、彼女が地球へ帰還してフューリーの安否を尋ねるシーンを観て否応なく『エンドゲーム』が待ち遠しくなった。
今作のキャロルは、そうした期待とは裏腹に序盤あっさりと登場する。どうやら『キャプテン・マーベル』のラストの映像は既に起こったこととして流され、一気にトニーの所在を掴むところまで進んだらしい。そして、その後もアベンジャーズの面々と多少の会話をしてすぐに、サノスへの急襲に向かうことになる。序盤のサノスとの戦いは特に見所がない。戦意も戦力もない老後の生活を営む人物を多数で襲いかかっただけである。
そして、宇宙の広域を回っていることを理由に出番は終盤までお預けになる。遥々宇宙の彼方から駆けつけてきた目的であるニック・フューリーの名は、自分が記憶する限り彼女の口から一度も発されることはなかった。終盤、彼が生き返っても会話を交わすこともない。1995年の陽気なエージェントから厳かな軍人になったフューリーに対する反応だとか、久方ぶりの再開についての喜びは全くないのである。
それどころか、今作のキャロルは本筋に全く絡んでこない。アベンジャーズが失われた人々を取り戻す方法を模索し、インフィニティ・ストーンを回収するために時を超える最中も、彼女はご都合的に物語からはフェードアウトしたままである。
サノス軍との戦いの最中、巨大な戦艦にフォトンブラストを喰らわせる形で「ヒーローは遅れて登場する」を体現するかのような登場の仕方をする。しかし、キャロル自身はそれまでの物語には関与していないし、サノスとの因縁であるはずのニックは全く言及されないので、映像の盛り上がりや迫力と反して、全くテンションが上がることはなかった。むしろ、美味しいところだけかっさらって行くような印象さえ受けてしまって興ざめだった。
在るべきドラマの欠如は、あっさりハルク化を遂げたブルースにもあてはまる。彼は『インフィニティ・ウォー』の冒頭にサノスと一対一の戦いで敗北して以降、ハルク化することができなくなってしまう。「単純な戦闘力ならアベンジャーズ最強クラス」という設定の彼を倒したサノスの強さを印象付ける役どころであったが、一方で彼自身が再度ハルク化に成功してサノスにリベンジすることが予想できた。サノスのインフィニティ・ストーンがあと1個で揃ってしまうという局面に至るまでもハルク化できないことに嘆く描写を見れば、自然とそれが前振りであることは理解できる。
しかし、リベンジは全く果たされることはなかった。ハルクになることについても、5年が経過してあっさりと成功していることが語られる始末である。そもそも今作においてハルクが戦闘面で活躍する描写自体が見当たらないため、戦闘要員としての存在意義さえ危ぶまれる。こうした描写の代わりに、ナターシャを喪った悲しみに力点を置くのかと思いきや、それもガントレットを装着してスナップするシーンであっさり済んでしまっている。『インフィニティ・ウォー』のやり取りは何だったのだろうかと思うほど、ドラマが足りていないのだ。
犠牲となるナターシャや、彼女と自己犠牲を取り合うホークアイのドラマも描写不足が目立つ。
彼らが惑星ヴォーミアにて、自らの命を差し出し合うアクションシーンの意図は明白である。かつてサノスがガモーラを犠牲にして、ソウル・ストーンを手にした場面との完全なる対比となっており、ナターシャとホークアイの間にある家族愛が浮き彫りになるというわけだ。
だが、ナターシャは犠牲になるべくしてなったのだろうか?確かに今作では、アベンジャーズのことを家族も同然と発言するシーンがあったり、ホークアイが不道徳な行いに手を染めていることを知って、5年後もなお過去に後ろ髪引かれている様子を見せてはいた。これらの描写をもって、ナターシャが死に向かうほどの動機とみなすには少々説得力に欠ける。ブルースとの関係など、これまでに匂わせていた件も、彼女の口から語られることはなかった。
また、5年間犯罪行為に手を染めていたホークアイが作中不問とされているのは理解しかねる。何故そのような行為に走ったのかについても、全く語られることがない。概ね家族を喪った精神的不安が理由なのかもしれないが、ナターシャに連れ戻されて以降は何ら問題なくアベンジャーズの面々と会話しているので、やはり内情が見えてこない。
ソーがコメディリリーフめいた言動にやたらと見せるのも、個人的には気がかりだった。そもそも彼は『マイティ・ソー』3部作でアスガルドの王としての自覚を萌芽させ、最終的にムジョルニアがなくともアイデンティティを確立していたのではないだろうか。前作に引き続きそうした成長がまるでリセットされたかのような振る舞いを見せ、あまつさえこの5年で堕落しきった描写に執拗な尺を割いてしまっている。今作で幕を閉じたアイアンマン、キャプテン・アメリカと異なり、ソーの物語は続いているのかもしれないが、今までの経緯を軽んじられているようで、今作限りでは納得し難い扱いであった。今後の補足に期待する。
最後に、前作で犠牲となったヴィジョンがほとんど言及されないことについては、不満よりも心配の方が勝る。サノスに追い詰められ、世界を救うために恋人のワンダに殺されるという非業の死さえもタイム・ストーンで無に帰されてしまい、殺された挙句に石を奪われた末路が特に上書きされることなく終わってしまったため、ワンダとヴィジョンの両名のファンには苦い結末ではないだろうか。
タイムトラベルにまつわるパラドックスについて
我々がよく知る『ドラえもん』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、「(タイムトラベル先の)過去で起こした出来事が未来に影響する」という場面が描かれている。これが最もポピュラーなタイムトラベルの概念かもしれない。
しかし、今作のタイムトラベルはブルース曰く「過去を書き換えても、今は変わらない」とされている。また、エンシェント・ワンが言うには「インフィニティ・ストーンを未来へ持ち去ってしまうと、インフィニティ・ストーンが存在しない世界が分岐して生まれてしまう」ようである。以上のことを解釈すると、過去に働きかけるとパラレルワールドが出来ていくという類のものらしい。裏を返せば、どれだけ過去を改竄してもタイムパラドックスは起こりえないということになる。
我々がいる世界をAとし、その過去をA’としたとして、A’に干渉してAに戻ってもAは不変である。しかし、A’は干渉されたことで別の歴史に変わり、世界B’が出来上がるということだと考えられる。そして、B’の時が進み、Aと同じ時間のBとなっても、双方の世界は交わることはない。
現に、作中では過去からインフィニティ・ストーンを持ち出しても、現在は相変わらずサノスの手で人口が半減したままの状態であった。上記の『ドラえもん』型のタイムトラベルならば、持ち出されたインフィニティ・ストーンはサノスの手に渡ることなく、世界は人口が減らされることなく済んだという風に現在が変化するはずである。
つまり、作中に説明されていたように赤ん坊のサノスを殺しても、死んでしまった人の死因を取り除いても、現在には影響がない。タイムトラベルをすれば、万事がうまくいくというわけではない。このあたりは、一貫して人の死を不可逆に描いてきたMCUらしい解釈だと言える。
だから、トニーは過去に戻って父のハワードを救うことは出来ない。キャップもまた過去を修正してペギーとの失われた日々を取り戻すことは出来ない…はずだったのである。
しかし、老いたスティーヴ・ロジャースの登場が、上記の説明を素直に納得させてくれない。
終盤、エンシェント・ワンが危惧していたインフィニティ・ストーンが失われた世界の分岐を防ぐために、キャップは単身で過去の、石を持ち去った地点に石を返却しにいく。そして、量子世界を通じて戻ってこなかったと思ったら、順当に時を経験した彼が「そこにいた」のである。
この描写は上記の説明と矛盾している。スティーヴは石を返し、過去に留まった。すると、過去は「スティーヴが2人いる世界」へと分岐し、我々が見ている現在とは交わらないはずである。実際には、過去に飛んだスティーヴは現在まで生き、サムに盾を継承した。
これだと、タイムパラドックスを許してしまうことになるのではないだろうか。過去に及ぼした影響(=キャップが過去に留まったこと)が現在にまで及んでいる。つまり、上記ではあり得ないとされていた「赤ん坊のサノスの首を絞める」も有効ということになる。そうなると、ある人物の親を殺せば、その人物は存在できないという矛盾も考えられてしまうのである。
クライマックスにおける2014年からのサノスの出現も、どこか引っかかる。未来のネビュラからの記録映像を通じて過去のサノスは未来のアベンジャーズの企みを知った。そして、その計画を阻止すべく2014年のネビュラを送り込み、自身も現在へタイムトラベルを遂げる。
だが、どうやってタイムトラベルできたのか。それについては全くわからない。ネビュラから奪った1往復分のピム粒子ではサノス達がやってくる分までは足りない。更に、その用法をどうやって理解したのか。そもそも、サノスの襲来は過去に及ぼした影響が現在に波及しているということになり、上記の分岐説が成り立たないのではないか。このように、疑問符が次から次へと浮かんできてしまう。
さりげないワンカットではあったが、テッセラクトを持ち去ったロキの所在も触れられずじまいであった。あれでは、2012年のニューヨークで「ロキがスペース・ストーンを使って逃げた世界」に分岐するはずだ。トニー達が1970年代の研究所に行って回収しようが、過去は未来に影響しない。ニューヨークを襲ったロキがテッセラクトを持ち去り、世界が分岐したという重大な事実がほとんど触れられることなく、終わってしまったのはいいのだろうか。
製作者側の設定の上で、これらの現象を矛盾なく説明することは可能なのかもしれない。しかし、鑑賞している最中に納得感を持って追うことができたわけではない。その上、上述してきたタイムトラベルに纏わる説明はそのままキャラクターの口調で語るか、既往のSF作品から代わり映えしないビジュアルで見せられてしまっている。今までのMCUの軌跡をキャラクターに追わせる展開を創出する点に注力した結果なのか、矛盾を無視してでも見入ってしまう驚きが見られなかった。
言ってしまえば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にだって矛盾や疑問はいくらか思い浮かぶものではある。しかし、同作がこれまでに評価されてきた背景には、マーティやドクといったキャラクターのコミカルな掛け合いや、炎のタイヤ痕を残すほどに加速するデロリアンといった印象的なビジュアル、そして過去を修正して未来へ戻るというシンプルでいて興味惹かれるプロットなどで、タイムトラベルを誰もが楽しめる娯楽に落とし込んで映像化してみせた点にあるのだろう。
その点では、『エンドゲーム』におけるタイムトラベルの理屈はそのまま画面の変化に乏しい口頭の台詞等で説明してしまっているし、既往のSF映画に見られる以上のビジュアルはほとんど何も無かった。矛盾や気になった点を観客自らが解消する動機は映画にはなく、それこそMCUの熱心なファンでなければ見出すことは困難である。
IWを経ていないサノス、放棄された正義のぶつかり合い
個人的に『インフィニティ・ウォー』を経ていないサノスを倒してそれでおしまいとする展開には甚だ受け入れがたい部分もあった。
サノスがインフィニティ・ストーンを集める理由は、全宇宙の支配や搾取のためではなく、宇宙に均衡をもたらすことにあった(と『インフィニティ・ウォー』では語られていた)。アベンジャーズとの戦いや娘ガモーラの喪失を経て、その意思はより堅くなっていき、遂には目的を達成するに至った。スナップをした瞬間に見た光景も出会った時のガモーラの幻であり、単純に悪と断じられない厚みがサノスには与えられていたように映った。「Thanos will return.」は、彼が一面的な悪ではなく、意思を持って動く主体的な存在であったことを如実に示すラインだったはずだ。
しかし、今作のクライマックスでアベンジャーズが対峙するのは、そうした経験も記憶もないサノスである。『インフィニティ・ウォー』で目的を果たしたサノスは穏やかに農作物を育てて暮らしていた所をアベンジャーズに襲われ、ソーによって命を絶たれる。その時の彼は最後まで自身の大義を貫く発言に終始している。石を用済みとして、すべて破壊したことが彼の大義を補強する。
そして、ソーをはじめアベンジャーズの面々は失意に襲われ、5年が経過。物語は解決の糸口の発見を機に前に進んでいくことになる。
ここにサノスの存在はない。彼は既に亡き者であり、物語の誘引力は強大な敵の存在などではなく、石を集める道中の過去作の振り返りそのものである。前述した通り、ここはシリーズを追ってきたファンには感涙に値するかもしれない。
だが、一度実力においても正義の履行においても敗北を喫した相手であるサノスへのアベンジは、物語から抜け落ちてしまっており、個人的にはここが引っかかった点である。
ようやくクライマックスに登場したサノスは、決定的に『インフィニティ・ウォー』の彼ではない。アベンジャーズとの因縁もこの時点では薄く、自身の未来を記録映像で急遽知ったという程度であるため、燃え上がるには圧倒的に燃料不足のように感じられた。アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソーとの3人を相手取った勝負にしても、キャップがムジョルニアを持ち上げた瞬間など部分的な興奮はあっても、全体では『インフィニティ・ウォー』における各3人との勝負ほど盛り上がりがなかった。もっとも、これはこの勝負がのちに控えているアセンブルの前哨戦でしかないということもあったのかもしれない。
過去のサノスであるため実力勝負のぶつかり合いが『インフィニティ・ウォー』から連なる作品に期待していた熱を帯びていなかった点をよしとしても、サノスが掲げていた「犠牲を払ってでも手に入れる均衡」に抗する主義主張が全く見られなかったのは、非常に残念でならなかった。
かつてキャップは「犠牲を出さない」という主義を貫こうとして、ヴィジョンのマインド・ストーンを除去するようワカンダへ赴いた。ワカンダを巻き込んでいいのかといったツッコミどころはあったものの、ヴィジョンという1人に焦点を当てれば、キャップの理にかなった行動である。
それが失敗に終わった今となって、一体何が変わったのか。それも観賞にあたっての着目点であった。
しかしながら、物語は「犠牲を出す以外に平和をもたらせるのか」というサノスの問いに対する答えを出さずに終わってしまった。原因として考えられるのは、過去のサノスがそうした問いを出すほどの人物として描かれていないせいである。彼は地球を滅ぼすことに快楽を覚えるといった発言を放ち、ワンダに追い詰められた際には味方を巻き込んででも砲撃命令を下す矮小な面を露わにしている。
それ以上に、アベンジャーズの行動に深い思索が見て取れないという問題もある。彼らは不可逆な死を受け入れてきた存在とあって、地球の生物が半減したという衝撃的な事件すらも5年でその環境に適応している姿が淡々と、しかし克明に映されていた。救えるとわかってからの展開は見るからに加速する。助けられるのであれば、助けるべきだという考えそのものはその通りだと自分も思う。だが、時間泥棒作戦の決行の裏では、サノスが提唱していた犠牲の上での平和がほとんど無視されてしまい、結局『インフィニティ・ウォー』における投げかけが宙に浮いたまま、展開してしまっている。それどころか、惑星ヴォーミアでは捧げるのは己の命とは言え、ナターシャという犠牲を払ってソウル・ストーンを入手している。最終的にはアイアンマン自らも自己犠牲を払い、サノス軍は消滅する。
あのサノスがヒーロー達に訴えかけていた犠牲論とこれらの犠牲の間の境目はどこにあるのだろうか。サノスは自ら死ななかったとはいえ、愛する娘を差し出すという行いはしている。
出されたはずの問いに直接向き合わなかった結果、単純な悪の打倒に終始してしまっている印象は拭い去れなかった。
まとめ: MCUはヒーロー映画の可能性を拡張した画期的シリーズだ
MCUはこれまでに多くのヒーローを輩出してきたが、これからもヒーロー映画の可能性を切り開いていくのだろうと思わせられる、壮大な一作であった。
映画シリーズにおいて、同一世界に異なる作品のヒーロー達を同居させるなどという発想は、2000年代まではまるで見聞きしない発想であった。サム・ライミ監督の『スパイダーマン』やクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』など、どれもシリーズは独立した世界観を構築しており、それ故にまとまりがあった。反面、拡張性には乏しかったのは否めない。いくらヒットしても、それはシリーズがナンバリングを重ねていくだけであり、フォロワーが増えても交わることはない、一種の寂しさはあった。
そうしたヒーロー映画に同一のユニバースという概念を持ち込み、それぞれが独立していながらも、お互いに接点を持ち得る賑やかな宇宙を作り上げたMCUはエポックメイキングという言葉が相応しい。『アイアンマン』が成功したことにより、実写映画ではマイナーだった『ソー』や『キャプテン・アメリカ』などがメジャーに活躍するようになり、女性や有色人種のヒーローも台頭するようになった。アジア系のヒーローが活躍する企画もあるようで、今後もさらなる多様化が期待される。
今やユニバースを作ろうという試みはしばしば見られるようになったが、ここまで成功したのはMCUをおいて他にいない。『エンドゲーム』はそのことを著名なキャストとゴージャスな映像、キャッチーな音楽、心を掴むヒーローというアイコンで証明していた。
一本の映画として見た際の欠点は気になるところであった。3時間という尺を余すことなく有効に使えていたかというと、無駄は多く見られていたし、単純に見せ場と見せ場でないシーンの落差も大きい。上記に挙げたように描写不足や矛盾などもあり、故に「完璧」には遠い。
ただ、何度も言ったように、この膨大なヒーロー達をひとつの作品に纏め上げたというだけで、賞賛されるべき大仕事である。ルッソ兄弟は、ひとまずMCUから離れるとのことだが、心から彼らを労いたい。
これからもヒーローの活躍を楽しみにして、MCUの過去作を今一度振り返って見たい。
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