生理用ナプキンで世界をより良くする男の物語『パッドマン 5億人の女性を救った男』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: © 2018 SONY PICTURES DIGITAL PRODUCTIONS INC. ALL RIGHTS RESERVED.

こんにちは、親知らずを早く抜きたくてしょうがないワタリ(@wataridley)です。

今回はインドからやってきた映画『パッドマン 5億人の女性を救った男(原題: Pad Man)』をレビューします。

監督はR・バールキー、主演はアクシャイ・クマール。公式サイトによるあらすじは以下の通り。

インドの小さな村で新婚生活を送る主人公の男ラクシュミは、貧しくて生理用ナプキンが買えずに不衛生な布で処置をしている最愛の妻を救うため、清潔で安価なナプキンを手作りすることを思いつく。研究とリサーチに日々明け暮れるラクシュミの行動は、村の人々から奇異な目で見られ、数々の誤解や困難に直面し、ついには村を離れるまでの事態に…。それでも諦めることのなかったラクシュミは、彼の熱意に賛同した女性パリーとの出会いと協力もあり、ついに低コストでナプキンを大量生産できる機械を発明する。農村の女性たちにナプキンだけでなく、製造機を使ってナプキンを作る仕事の機会をも与えようと奮闘する最中、彼の運命を大きく変える出来事が訪れる――。

観る前の自分には、このあらすじや監督・主演俳優の名前を見聞きしてもピンと来ませんでした。インドというと、今年に観た『バーフバリ』が血沸き胸躍る傑作だったことで幾分身近に感じられるようにはなりましたが、それでも遠い国で言葉も文化も全く異なります。だから、この題材となった出来事にも馴染みがありませんでした。

しかし、映画を観るとこの考えは一変。いやはや監督、主演、ならびに製作者に拍手を送りたくなる快作だったのです。

結末は決まり切っているため、ネタバレしても魅力が大きく減ることはありませんが、詳しい感想を以下に記述していきますので、未見の方はご注意を。


80/100

ワタリ
一言あらすじ「パッドマンビギンズ」

2時間ちょっとでインドの一般市民が5億人の女性を救うテンポの良さ

今作は、ひたすら退屈から遠ざかったままスタッフロールまでを転がっていく。

これまでの自分ならば生理用ナプキンというアイテムに対して抱く感情は、そもそも存在しなかった。購入したことはないし、ましてや使用する機会もない。墓場に入るまでそれは同じだろう。とどのつまり、全く無関心だったのである。

自分にとってはその程度の代物である生理用ナプキンの開発・販売が、男の周囲どころか世界をも巻き込んだ一大事に発展していく様は雪の日の坂道を転がる雪玉を見ているようだった。

こう書くと、いかにも突飛で出来すぎた奇跡のように聞こえるかもしれない。生理用ナプキンと世界の変革という2つの単語の結び付きなど、この映画の元となった話を知らない限りは、そうそう考え付かない。

だが、映画を観てみるとまったくもって無茶には思えないのだ。それは説得力が今作の堅実で、更に遊び心にあふれた中身に打ち立てられているからにほかならない。

観客の注意を引き付けては小気味よいネタを提供してくれるカット割りや起承転結が明瞭なシーンどうしの繋がりを追っているうちに、ナプキンがいつのまにか世界平和へと繋がるようにできている。

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例えば、冒頭からかかる結婚の喜びをうたう音楽の背景では、ラクシュミの妻との幸福な日常が次々と映し出される。妻が料理をする様子や彼が自転車に乗って工場まで繰り出す日常風景をまず映し、その後妻を喜ばせるためにラクシュミが生活に一工夫を加える様子が流れるようにして描かれている。だから、既に冒頭の時点でこの夫婦が仲睦まじいことが手に取るようにわかる。そしてラクシュミが妻のために知恵を絞っては実行に移す気概溢れる男であると印象付けられ、物語は幕を開ける。

その後、妻に一度はナプキンの受け取りを断られ、医者からの忠告をきっかけに制作に繰り出していくさまも場面転換を細かく行うことで、まったく退屈しないように作業工程は形成されていく。このあまりに簡単に材料集めがなされていく風景を追うと、周囲からの信頼を得ている彼の暮らしぶりがわかるし、おまけにインドにおいて言わばぼったくりの値段で売りつけられていたという理不尽も思い知ることになる。一見単純なカットの連続は観客の飽きを遠ざけ、更には男の日常や社会風習も明らかにするのである。

実際にナプキンの工作機械を作る場面では、4枚に分割した写真によって、観客に達成度を共有させるという非常に親切な演出も見て取れる。一苦労しながらも着々と完成に近づいていく高揚感をおぼえられるのも、この時の軽快なBGMやテンポを促進するカットに加えて、この観客への配慮があってこそのものだ。ついでに、マッサージによって何とか借金を取り付けることに成功するというコミカル描写も良いスパイスとなっている。

更に、インド映画ではお馴染みの音楽やダンスといったものが背景的な心情や状況説明に徹しているため、見ていて待ちぼうけを食らうシーンがない。冒頭の結婚式からはじまる歌や、ナプキンの工作機械の制作過程、インドの村々を回ってナプキンを普及させていく旅路など、どれをとってもラクシュミが触れる様々な経験がそこに入れ込まれていて、1カット1カットがこちらの想像を刺激する。

唯一成人式のミュージカルは唐突さを感じたものの、華やかな映像と音楽に劇場を潤してもらった後に成人した女の子にラクシュミが夜中にナプキンを渡しに忍び寄るというギャップに笑わせられたから、許せてしまえる。

細かく仕切られたカットや流れるようなシーンの変遷の代償として、この映画にはズシンと響き渡るような重量はない。あるのは軽妙に男の道のりに吹いて回る、心地よい風当たりである。

 

スパイダーマン、バットマンに匹敵するラクシュミ=パッドマン

ラクシュミの人物像は気持ち良いぐらいに一貫している。冒頭にかかる歌詞は妻と同じ住処で同じ時を過ごすことのできる喜びを語り、画面には妻をよろこばせるために様々な工夫を生活に加えていく様子が映し出される。彼は機転を利かせ、妻のために自転車の荷台を作り替え、野菜の裁断機を発明する。

ある日、「女の問題」故に妻が一緒に食事も取れなくなり、家の外で過ごすことになる。そんな時に雑巾にするのさえ憚られるほど汚い布を身に着けている事情を知った彼は、「妻に健康でいてほしい」という純粋な動機から、目標実現に向けて直進する。友人から15ルピーを借りてまで薬局に高価な生理用ナプキンを買いに行く時点で「妻のためならなんでもする」意思が感じられる。

彼の意思は時に愚直と言い表すこともできるほどで、周囲からの反発を呼んでしまうこともある。夜中に近所の女の子を顧客第一号にしようとしたり、自らパンティを着用してまで実験を試みたりと、その場面だけ切り取れば変質者と呼ばれても当然である。

妻を救うという想いは周囲どころか、妻にさえ伝わらないというのに必死に彼女のために奔走する彼は傍から見れば惨めで、寄り添うと温かい。

彼が唯一「ナプキン開発」を諦めようとしたのは妻から懇願された時だ。だがここではあくまで最優先である妻の幸福を願って折れている。結局妻想いであることは貫徹しているのだ。

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そんな彼が退路を断ち、一念発起する後半のパートはいよいよ目が離せなかった。仕事をやめ、妻と別れ、借金までして、やることは生理用ナプキン制作である。パリーとの出会いや彼の必死のプレゼンが実って、社会的に認知されるものの、やはり世間の目は厳しい。それでも偏見を覆すために、国中を回ってナプキン普及に貢献する彼の姿はまさしくヒーローそのものだ。

周囲の協力を得て巨大化し、国を救う偉業にまで発展していくその根っこは妻を救うべく立ち上がった1人の男というのは、一見いかにも物語めいている。

しかし、現実の起業家・チャレンジャーはみんなパッドマンと同様、はじめの一歩は実に些細なことで踏み出している。かの名ボクサー故モハメド・アリは自転車を泥棒に盗まれた悔しさからボクシングを始めたなんて逸話がある。任天堂で『スーパーマリオ』や『ゼルダの伝説』といった世界的人気ゲームの生みの親である宮本茂は、京都で過ごした幼少期の遊びからモノ作りの着想を得たと話す。村上春樹なんかは、小説を書こうと思い立ったのは野球観戦の最中の閃きが起こりだったという。

結果だけを取ってみると、パッドマンのインド中の女性の生活・衛生環境の向上はとてつもなく崇高で、像や教科書に載ったって不思議じゃない。だが、その芽は意外と小さなことから始まっている。

彼はスーパーパワーも特殊な技能も持たない人間であることによって、肝心なのは心意気であるというメッセージに説得力が付与されている。

更に言うと、ラクシュミは何も特別な狙いを持っているわけではないということが再三にわたって示されていた。最初は葉にくるんで妻に向けての贈り物として渡していたことから、この生理用ナプキンを一大事業にしようなどとは目論んでいないかっただろう。また、知り合いにナプキンの感想を聞くことができず、女学生に渡していたアンケート用紙には「最低・普通・最高」というちょっと杜撰な選択肢であったことからみても、ひたすら良いものを作りたいだけという単純な思考が見て取れる。極めつけは、パリーに告げられた「普通」に満面の笑みを浮かべ喜んでいたことである。彼にとってみれば、「普通」こそ目指すべきゴールであり、世紀の大発明や崇高な理念など到底持ち合わせてはいなかったことがわかる。

しかし、そんな「普通」に喜ぶ彼だからこそインド中の女性に幸福をもたらす仕組みを提供できる感性を保っていたのだ。発明は特許を取得し、独占するのが常であるにも関わらず、彼はナプキンの工作機械を特別にすることを拒む。特別にしてしまえば、やがて本当に欲している人たちの手に届かないからだ、と。

既存の資本主義のメカニズムでは救いきれない人々を救おうとする背景には、妻の願いというとてつもなく小さく身近な動機が不可欠だった。生理を瘴気とみなし、家の中に入ることも外に出ることもできない苦痛に心を痛めていたから、ナプキンを使ってくれる人々を想像できたのだ。

パリーとの出会いや旅、たくさんの従業員との共同作業、コンペの出場、国連でのスピーチなど夢のような冒険を経て、彼の願いが想像以上に増大したところで、彼は原点である妻の元へ帰っていく。寂しいことではあるが、とうとう原点の願いが叶った彼の顔を見ると、うれしい気分にもさせられる結末であった。

 

問題から目を背ける周囲とそれを直視するラクシュミの対比

2001年のインドでは女性の生理は”瘴気”や“穢れ”として大っぴらに口にしてはいけなかったらしい。ガヤトリはベランダで過ごさせられ、夫であるラクシュミさえ近づいてはいけないと釘を刺される。おまけに市場には安価な生理用ナプキンは販売されておらず、女性たちは不潔な布を使いまわし、更にはそれさえも堂々と干すことができない八方塞がりな状況にあった。

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ラクシュミはこの不便で不健康な現状を覆そうと決心する。

しかし、ことはそう簡単に進まない。

まず第1に妻や周囲がそうした話題を口にすることさえ前向きではない、偏見の問題がある。事故に遭った仕事仲間の止血に用いた際、また別の仕事仲間から生理用ナプキンの使用を咎められる一場面がその風潮を物語っている。

そして第2に、市場で販売されている生理用ナプキンは非常に高価でおいそれと手出しできない経済上の障壁が立ちはだかる。薬局では55ルピーで販売されていた。2001年当時この金額は日本円にして約1100円に相当するらしく、インドの1人当たりGDPなども勘案すれば家庭によっては手が出せない価格である。ガヤトリが激しく受け取りを拒否する背景には、ナプキンを買い続けると生活が立ち行かなくなる逼迫感があったのだ。

インドでまともに生理用ナプキンが出回っていなかった背景には、第1の偏見が寄与していたのは自明だろう。既往の文化風習に対して盲目的に従っていくばかりでは、いかに経済発展を遂げようとも肝心な問題を見逃してしまうものだ。

あるシーンでは、ガヤトリは行列を作るからくり仕掛けの仏体に対し、生理用ナプキンに匹敵する拝観料を支払うことを惜しまない。一方、人だかりができていない僧侶へ行こうというラクシュミの提案は宗教的なご利益を理由に断っている。

この場面に代表されるように、人はみんながいいと言う物を好み、みんなが寄り付かないものは相手にしない。同じ理屈で女性の生理も目を背けられ続けてきたのだと想像できる。だから、科学的に生理用ナプキンが正しいと証明されていても、これまでやってきたことに思考を止めて、悪習に従順になってしまうのだ。

とはいえ自分もその気持ちは大いにわかる。女性の体の、とりわけデリケートな部分に関する話題を人前で大っぴらに口に出すのは恥ずかしい。

しかし、恥ずかしいという一時の感情に囚われ、それを黙秘し続けた先に待つしっぺ返しを喰らうのは外ならぬ自分たちである。

作中の説明によると、インドは世界第2位の人口大国であるにも関わらず、その半数5億人の女性のうち、18%しか生理用ナプキンを習慣的に使用していなかったという。生理周期の度に家から閉め出され、外を出歩くこともままならない。この結果、心苦しい想いをするのはもちろん、健康面での悪影響を受けざるを得ない。更には、学校や職場に行けないことで、機械的損失にも繋がる。それが5億という莫大な数字の中で巻き起こっていたのだから、この映画を観ている最中呆気に取られてしまったほどだ。

問題に対して恥ずかしいから向き合わないという旧来のしきたり、人間のサガに対して、ラクシュミは猪突猛進に立ち向かう。

妻が汚い布を身に着けるのはおかしい。何も悪いことはしていないのに、家からも社会からも閉め出されるのはおかしい。不潔になって若い女性が健康を害する環境はおかしい。普通のことが普通にできない世界はおかしい。

彼の生理用ナプキンにかける情熱は時にから回って、夜中に若い女性にナプキンを手渡したり、神聖な川を汚してしまったりはするのだけれど、周囲の反発に直面するたびに彼の中の火は勢いを増していく。

村を出てまで、借金をしてまで、未経験のジャンルに足を踏み入れてまで、彼は「普通」を目指し続ける。

この周囲から理解されない中で奮闘する姿は、ヒロイックであると同時に、現実の起業家と全く同じである。彼らもかつて社会では非常識だったことを常識に変えるために努力してきた。夜は真っ暗が常識だった時代に光をもたらしたトーマス・エジソンのように、大きな発明というのは社会の景色をガラリと変えてしまうものだ。

ラクシュミが旧来の慣習やしきたりに立ち向かっていく今作は、まさに起業家の物語の王道である。

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ラクシュミのユーモア、インテリジェンス、パッションを凝縮した晴れ舞台

生理用ナプキンを売り歩き、インドの衛星環境を改善する活動が認められたラクシュミが招致された国連で行ったスピーチはこの映画の大きな見せ場になっている。

まず、のっけから通訳をお役御免にしてしまう大胆な頼みから彼の口述ははじまる。その後に喋る英語は誰がどう聞いても上手いとは言い難い。単語を正直に羅列しているし、同じ言葉を繰り返すパターンも多用されている。文法的な誤りを指摘しだしたらキリがない。

だが、これが端的にラクシュミを表現している。彼はここに至るまで、「何かが足りないからしない」ということを全くしていない。生理用ナプキンを作ったことがない彼は、自ら購入した商品を調べ、見よう見まねで材料を調達する。試作品が失敗作だとわかり、テスターもいない状況下では自らがパンティーを着用し、血まで友人に用意してもらうという周到ぶりである。その後も材料を調べるために大学教授の家にまで転がり込むわ、ググった知識で機械を作ってしまうわで、思い立ったら迷わず即行動する。行動力という言葉はこの男のために作られたのではないかと信じてしまうほどだ。

だから、国連という大舞台であっても、英語が下手であっても、懸命に我々に語り掛ける彼の姿は辿ってきた足跡を具現化しているようだった。

彼は生理用ナプキンの制作にまつわる悲喜こもごもを魅力的な話術で伝えてくれる一方、インドを覆う問題についてもきちんと説明する。女性の18%しかナプキンを使用できない現状、生理の間は外に出ることができない障害、不衛生な環境に身を置かされている女性の境遇は、このシーンに至るまで痛いほど目にしていたから、他人事には思えない。

しかし、そうした現実を解決することで広がってゆくインドの未来にも彼は言及する。これが実に論理的で、説得力のあるスピーチであった。

ナプキンを普及させることは女性の寿命を伸ばすことと同義であるとする話は、キャッチーであり、根拠も明確だ。生理の間閉じ込められる日数は家族と過ごすことも働くこともできない時間であり、死んでいるようなもの。だから、それが積もり積もってしまえば、男性の寿命よりも女性のほうがはるかに短いということになる。

その問題を生理用ナプキンが解決すれば、寿命は飛躍的に伸びるばかりか、労働力の劇的増加にも繋がる。これまで働きたくても働けなかった女性が、生理を気にすることなく職場へ行き、学校を休んでいた子供も学び場で勉強ができる。そうすると、労働力は効率的に確保され、また教育を受ける機会も担保され、10億の人口を誇るインドは活力を得られるのだ。

このように、彼の主張はただ単にきれいごとで終わるのではなく、市場に寄与していく実に有益な側面を持っている。有益であるならば、ナプキン市場はどんどん拡大する。ナプキンにまつわる原材料の生産者、ナプキン工場の働き手、ナプキン製造機の部品メーカーは潤い、ナプキン関連以外の市場にも波及していく。こうした経済循環の発端として、彼の行いはとてつもない貢献であると言えよう。インドの好況は、輸出入や労働者の流出入といった形でやがて国境を越え、世界にだって影響する。

国連スピーチは、ラクシュミの人柄がスピーチ会場の今ここに溢れ、更に彼のこれまでが明らかになり、そして未来への広大な可能性を示唆している。人を朗らかにするユーモア、論理的に生理用ナプキンのメリットを説く知性、そして世界を変えるほどの情熱が三位一体となった名場面である。

奇しくも、最近観た『ボヘミアン・ラプソディ』のライヴエイドとも似ている。

 

今作の欠点: 現実離れした描写について

今作において、ラクシュミに手を貸す女性パリーは、どうやら実在しない今作オリジナルのキャラクターである。

先にことわっておくが、彼女のキャラクター自体はとても好きである。現に、演じたソーナム・カプールの健康的でチャーミングなルックス、大人びた表情や言葉の端々から漂ってくるスマートさの融合に自分のハートはがっしりと掴まれた。

しかし、それがかえって今作の結末に対する少々の不満を生んでしまった。

というのも、後半パートに登場する彼女があまりにも魅力的で、ラクシュミにとっても大きなパワーとなったがために、相対的に前半部分でラクシュミの動機となっていた妻のガヤトリが陰に隠れてしまったのである。

実際生理用ナプキンの普及から逆算してみると、ガヤトリはラクシュミの心配を誘った点以外では貢献した部分があまりない。それどころか、彼の考えを否定する場面さえあり、どうにも足を引っ張る存在に映ってしまうのである。当時の生理にまつわる事情を考えれば、彼女の行動は至極真っ当なのだが、いかんせん今作がラクシュミの社会的偉業を追う物語として作られている以上、そうした印象は避けられない。

だから、魅力的なパリーを置いてまで妻のガヤトリに戻る結末にはどうしても説得力が薄く感じられた。

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また、今作のもうひとつの欠点として、時間経過の描写がかなりわかりにくいことが挙げられる。

作中ラクシュミに借金を取り立てる金貸しが「1年経過した」というセリフを告げるシーンがあったが、その台詞でようやくわかった程度である。外見上の変化でこちらに時間をアピールするシーンやカットはほとんどなかったように思う。

偉業の達成には長い間の苦労が不可欠だと思われるが、今作には時間描写が画面を通じて伝わってこない。季節風景が変遷していくカットが挟まれたり、あるいは登場人物の服装が変わるなどがあれば、その苦労が実感を伴って伝わってきたかもしれない。今作のスピーディな展開とあいまって、非常に軽々と成功してしまったという印象は否めないところである。

 

まとめ: ナプキンを笑う者はナプキンに泣く

この映画についての説明を求められたら誰もが「生理用ナプキン」という単語を用いて聞き手に話すことだろう。そうすると、おそらくその人は笑いや軽んじた態度を見せるかもしれない。

しかし、この映画はそういう人にこそ見てほしいと思った。なぜならば、主人公ラクシュミが立ち向かう相手はまさしく事態を深刻に捉えられない世間の目である。

自分が内に抱えていた常識が、こんなにも面白おかしく、それでいて真摯に向き合わせてくる映画はとても貴重だ。

今作はパリーという女性が映画オリジナルであったり、主人公ラクシュミの名前が実際のアルナーチャラム・ムルガナンダムから変えられていたりと、必ずしも事実に即した映画ではない。今作単体で見ても、あまりに軽妙であるためにそのことを察せられる描写もあった。

だが、映画というグリップで興味を引き、この映画はアルナーチャラム氏の偉業を自分に伝えてくれたのもまた事実だ。この世界に普く価値観や想像もつかない異文化を取り持つ仲立ちとして大いに意義はあるし、これまで述べてきた通り単純に面白いひと時を過ごさせてくれる。

スーパーヒーローが活躍するブロックバスターもいいが、普通の人間が普通を実現するために辿った足跡を追ってみることも人生のスパイスになると改めて感じた次第であった。

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