燦々と陽が降り注ぐホルガ村は新鮮だが、中身は同じ手法の繰り返し『ミッドサマー』レビュー【ネタバレ】

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こんにちは、生まれも育ちもコンクリートジャングルのワタリ(@wataridley)です。

今回はアリ・アスター監督作『ミッドサマー(原題: Midsommar)』のレビューとなります。

アリ・アスター監督の前作『ヘレディタリー』は公開当時に映画館に観に行きました。当時の感想はこちらからどうぞ。

 

『ヘレディタリー』が長編映画のデビュー作だったということで、新人監督が撮ったとは思えないホラー演出の数々とトニ・コレットやアレックス・ウルフら役者陣が生む息苦しい空気は、たしかに映画館という箱でこそ映え、それらが評価されて、全米でもヒットしたという事実はある程度納得できるものです。

とはいえ、自分は「家族」という「逃れられない絆」をホラーに転化して語る切り口に驚かされながらも、恐怖心を煽り立てる演出やあからさまな伏線(もはや伏線とすら呼べないレベルのもの)はいずれも単調に感じられ、振り返ってみると理不尽な状況全てに説明がついてしまうオチに落胆していました。そういうわけで、同作については、世評とは異なり、はっきりと苦手でした。

『ミッドサマー』も鑑賞するかどうか迷っていたのですが、公開されていたビジュアルが前作のそれとは著しく違った様相を見せていたことから、前作と違う内容を期待して観に行きました。

しかしながら、やっていることはほとんど前作と変わらず、退屈に感じる時間が多くを占めていました。確かに、主人公が悩まされている人間関係が家族から恋人へとシフトし、燦々と日光が降り注ぐホルガ村の華やかな舞台美術とその裏で着々と進行していくおぞましさのギャップといった面でモデルチェンジはなされているのですが、映像演出とストーリーテリングの手法が前作からまるで進展していないのです。

以降、ネタバレを含んだ感想を書いていきます。未見の方はご注意ください。


40/100

ワタリ
一言あらすじ「失恋の傷は、復讐と共感してくれる仲間で癒す」

あまりに多すぎる、同じことの繰り返し

『ヘレディタリー』と今作との間には、多くの共通点が存在している。それはひとえに作家性によるものなのかもしれない。しかし、単純に手法そのものが被っているために、同じことを繰り返しているだけになってしまっているように感じる。

 

物語を俯瞰させる冒頭

まず、今作の物語は、ファンシーな音楽と共に扉絵が表示されてスタートする。この絵は、後の展開が描かれているであろうことは、誰しも察しがつくことであろう。そうしてしばらく観客に見せつけた後に絵が真っ二つに分かれて、寒天に見舞われた景色が映ることで物語が動き出す。

自分は、この時点から既に『ヘレディタリー』との重複を感じていた。『ヘレディタリー』の幕開けも、まず抑制的なカメラワークによって家のミニチュアを捉える。そして、徐々にクローズアップしていき、シームレスにミニチュアの内部が現実の寝室へと変わったところで、登場人物達が会話を交わす。

つまるところ、両者共に、物語の外側から見つめさせ、これから起こることは、たとえどれほど残酷であっても、小さな物語に過ぎないという含みを持たせている。だが、そのやり口はどちらも直喩的だから、もしかして前と同じことを繰り返すのではと不安になる。せいぜい映っているモノがミニチュアから一枚絵に変わっているだけであるし、しっかり時間を取って見せつけるという手法もそのまま継承されてしまっている。

 

アップデートが間に合っていない

近年では公開規模がそれなりに大きい映画ともなれば、多くの人の目に触れる。それは、レーティング制限がある今作であっても例外ではない。そして、残念ながらこの物語は配慮以前に、無理解からくる描写を行なってしまっているため、この点について批判せざるを得ない。

のっけから精神不安に陥っている妹、そして薬物に頼りながら精神を安定させようと試みるダニーが出てくるように、不安定さをアピールするための格好の道具として精神疾患が用いられている。これもまた、前作『ヘレディタリー』において、トニ・コレット演じる母親が夢遊病に悩まされていたというネタに近いものを感じる。尚且つ、両者ともに近親者の死をトリガーに精神面でいっそうの混迷を極めていく部分も、全く同じである。

精神疾患をホラー映画における悪因とするのは、それ自体が安直な発想であると言わざるを得ない。その上、そもそも実際に精神疾患に悩まされている人に対して偏見を助長しかねないリスクがあり、慎重さが求められる部分である。

しかし、両作ともに精神疾患についてステレオタイプな描写を重ねているばかりで、主人公を窮地に追いやるための格好の道具としてそれを徴用しているようにしか見えないのだ。そこに面白みを見出すことは個人的に厳しいものだった。

更には、今作の女性性の描き方に、前作から引き続き、疑問を呈さざるを得ない。

主人公ダニーは最終的に家族の死と失恋によって生じた穴につけ込まれる形で、ついにはホルガ村のメイクイーンとして祭り上げられる。しかし、このコミュニティは、作中に見られるタペストリーや両親による性行為の管理といった風習、そして例のセックス描写から見るに、女性の妊娠能力は自発的に行使できず、あの組織が存続するためにつくづく利用されている。

遺伝子の多様性を保つため、外部から連れてきた男と交わらせ、子供を産む役目は支配されて持たされているものでしかない。一方で、外部からやってきた女性のダニーはメイクイーンとして歓迎され引き入れられるが、祝祭が終わればこのシステムに組み込まれることになるだろう。そのため、ダニーは解放されたどころか、新たなしがらみに取り込まれているだけだ。結局のところ、被支配者としての女性性が描かれるだけで、それに対する批判的な視点が今作には全く存在していない。

さも当たり前のように、母親故に子供の事情に関して理不尽な仕打ちを与えられる『ヘレディタリー』から、ジェンダー観がまるでアップデートされていないのは率直に残念である。上述の安易な精神疾患の描写と合わせて、注目を集めるクリエイターだからこそ、自分が指摘せずとも反発を招くことになるのは免れないだろう。

 

チャージ時間に見合わない種明かし

次いで、今作に頻繁に見られる演出上の間延びもまた、そのまま前作からアップデートがなされているようには思えなかった。今作の物語がホラー映画として加速していくのは、周知の通りホルガの村に到達してからだ。叙々に学生達が餌として呑まれていくこの過程には、どうにも溜めるため「だけ」のシーンが多い。

例えば、初めてダニー達がホルガ村の残酷なしきたりに触れる崖のシーン。「崖側に立った2人の人間」という情報から容易に察せられる事の顛末を、あたかも予測不能な事態かのようにして、着々と進行していく儀式と、それを見守る崖下の人々の様子にじっくりとした時間を割いている。しかし、結果として起こる出来事は特に予想の範疇を超えず、その結果を待つ間にダニー達側から特段のアクションもないために、ただ単に引き延ばされた印象が強くなってしまっているのだ。

このシーンにおけるダニーの立ち位置としては「これから何が起こるのかわからず、ただ待ち惚けている」というものであるが、観客にそのシチュエーションを共有させきれていない上に、映像面でも特筆すべき演出が見られない。最初の落下シーンは呆気なく映すのと同時に、ダニー達の衝撃を訴えるためなのか部分的なスローを交え、役者のリアクションにその事態への恐怖の表現を委ねているが、いずれもあれだけ待ち時間に見合った映像にはなっていないように思える。

死体を大写しにするカットに至っては、それを引き立てる前段が存在せず、あっさりと挿し込まれているのが勿体無く、この点は『ヘレディタリー』で転換点となるシーンの方が上手かったとさえ思えてくる。

空撮で捉えられた食卓の風景も飽きるほど繰り返される。この村の根底に流れる同調圧力のような空気を視覚に示す上でうってつけの映像であることは間違いないのだが、1度や2度流せば済むものを作中3、4回は流している。そしてそのひとつひとつが、まるで初めてお披露目するかのように尺を取っている。これまた食事を思うように取れない登場人物達の待ちぼうけ感を共有させたかったのかもしれないが、単に退屈な待ち時間に留まっており、映像作品としてなかなかの悪手を打っている。編集によっていくらでも省略しつつ、そうであったことを言外に示すことができるというのに、「待たされていること」をそのまま時間をかけて直接に表現するのは、寧ろ非映画的ですらある。

見た目には清々しく整然としていて、故にどこか病的な気質を匂わせるホルガ村の舞台美術は、たしかに旅行気分を味わうには申し分ないものの、次第に飽きてくる。何しろ、2時間半ある上映時間のうち、この村に対する見方が最初から最後まで変化していくことがない。

まず1つ言えるのが、そっくりそのままの意味で、景色のバリエーションに乏しいという点である。これはホルガ村を「逃れられない場所」と定義づけようとする演出の意図に由来するのだろうが、前述した「待ち時間をそのまま時間にする」という手法に似ていて、この無変化ぶりに対する言い逃れのように思えてしまう。ひとつの狭っ苦しいロケーションを舞台にしている作品であっても、やはり上映時間の内にその表情を変えていくものでなくては、単純に飽きてしまう。

今作は、ダニーが失恋していく過程を本筋とし、所々に村の景色や生活風景が映ってくるが、いずれも白装束を纏った村人が規則的な動きないし配置を取っているだけで、そこに多層的な意味合いは見えてこない。要は、同調と共感が支配する社会だという匂わせを延々と続けているだけなのだから。しかそれは2時間半近くの上映時間を費やしてまでやることでは到底ない。

ずっと眩しい景色が続く白夜といった現象や男女共用の白いドレスといったものに当初感じていた新鮮味も、寧ろ種明かしと共に尻窄んでいく。一見美しいが、悍しいことが隠されているというコントラストは、そもそもこの映画を見ている時点で想定されうるものだ。

しかし、あきらかになってく情報は、いずれもが「外部から入ってきた人間を抹殺ないし取り込む」という閉鎖性や、「幹部達が創作した宗教的価値観と規範により村人を支配する」という封建的な組織政治といったレベルのものに過ぎない。つまり、この手のムラ社会を扱ったミステリーやスリラーで一度は見たことがあるものを、美しい村風景で希釈しているだけで、未知性を感じられない。

全編に渡って冗長な溜めの演出で何かあると思わせておきながらこれなので、節目節目で肩透かしをくらっていた。

 

伏線というよりもひけらかし

思うに、今作の意外性の欠如の原因となっているのは、脚本レベルのものに加えて、とても雑な伏線である。

今作の冒頭に映り込む一枚絵は極端な例のひとつだが、劇中にも似たような手法でダニー達の運命が明示されている。寝室の壁にあった燃える熊の絵、食事に経血や陰毛を混ぜて結ばれて行為に至り妊娠する様子を描いた絵などは、もはや伏線と呼ぶにはあまりに軽率なやり方である。『ヘレディタリー』においても、意味不明瞭な文字を画面に映すことで後の展開を示唆する演出があったが、画面上に直接伏線(と呼ぶにはあまりにひけらかしすぐているが)を映す手法に変化がない。

こうしたわかりやすい匂わせをする一方で、本筋となるダニーの人間関係も冒頭時点でのカップルの状況や、要所要所のズレを感じさせるコミュニケーションから、失恋が終着点にあることが露骨にわかるため、いっそう予定調和な印象を強めている。総じて、後続の展開がはっきり予想できてしまうことにより、実際にそうなった時の驚きが間引かれてしまっているように感じられた。

 

ホラーあるあるに留まる不可解な人物描写の数々

冷静に話の骨子を拾い上げてみても、すべてありふれたホラー映画のネタで出来ているとしか言いようがない。

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人の生き死にが関わる重大な問題を目のあたりにしておきながら卒論でモメる危機意識のなさや、村の文化に対して敬意を欠いた無神経ぶり、危なっかしいコミュニティの規範を破る軽率さなど、ホラー映画において格好の餌食になるような行いに平然と乗り出している。しきたりのために老人を殺害するような集団との共同生活で仲間が失踪した際にも、ほとんど焦燥を見せることがないまま、ずるずると村の策謀にはまっていく。

こうした行動を見ていると、劇中の登場人物達の心理には根こそぎリアリティが感じられない。まるであの終盤へと続く一本線を彼らに無理に突っ走らせているようであり、作劇上の都合が大いに透けて見える。超常現象を交えて強引に収束させていた『ヘレディタリー』から、この辺りの人物描写の不可解さも相変わらずという印象だ。

浮ついたことをしようだなんて思えないあの状況下で、村娘の誘惑にハマるクリスチャンの一連の描写に関しては、思考パターンがそこだけギャグ漫画の登場人物のようであり笑ってしまうほどだった。

 

全て仕組まれていたという安易なオチ

挙げ句の果てには、「実はすべて仕組まれていたことだった」という種明かしがあるが、これに至るまでもやはり『ヘレディタリー』と同じである。『ヘレディタリー』におけるあの超常的な存在が、ペレとホルガ村のコミューンに変わっただけで、話の内実は主人公達一行を生贄として引き入れる話という点で基本的なプロットは重複している。

ホラー映画とは、得体の知れなさがある種の恐怖の根源たりえると思うのだが、既視感を覚えさせてしまっては、すべてご破算ではないだろうか。アリ・アスター監督が取っているアプローチはいずれも、前作からさほどの変化も成長もなく、ただ単に同じことを繰り返しているだけであり、そこに浅はかさを感じてしまう。その時点で、ホラー映画たる今作の魅力がごっそり自分には感じられなくなってしまうのだ。

そもそも、作品を重ねたのに無変化というのは、ジャンル特有の評価軸を抜きにしても、新鮮味がない。金太郎飴を切って世に出す行為と、未知の領域に踏み入って開拓する行為とでは、明らかに後者の方が価値が高いと見做されるはずだ。

 

失恋をした人が願う復讐を絵にした作品

今作が失恋をテーマにしているのは自明である。というか、それ以外に取りようがない。

冒頭、精神不安に陥っている妹を憂慮し、自身もまた精神安定剤を服用するほどに取り乱していたダニーは恋人のクリスチャンを頼る。だが、彼もまたそんなダニーに愛想を尽かし、友人達になかなか彼女に別れ話を切り出せないでいる現況を相談していたのだ。のっけから、破裂寸前の状況が描かれる。

しかし、妹が両親共々無理心中を遂げてしまったことにより疲弊しきったダニーにクリスチャンが別れ話を告げられるわけもない。大切な家族を失ったダニーが直面する地獄が示されるのと同時に、望まぬ形で恋人としての役割をやらされるというクリスチャンの地獄もあり、この状況を俯瞰する者にとっても先行き不安なオープニングシークエンスとなっていた。

互いが喋っているとき、一方は画面に直に映るが、また一方は鏡に映るという演出技法が、さりげない形ではあるが、その状況の噛み合わなさを訴えてくる。スウェーデンに行くという話をするタイミングがなかったのだというクリスチャンと、なぜ言わなかったのだと責めるわけではないながらも苛立ちを隠せないダニーの間には、直接的に顔を突き合わせられないようなズレかあるのだ。

また、ダニーが言わば慰安目的でクリスチャン達についてくるとなった時には、ソファーに腰掛けた友人達の本心を映した後に、そのままダニーが鏡に映る形で画面に登場していく。同じカットの内に、人間の裏と表が変わる様を直視させてくるのて、異様に居心地が悪い。

『ヘレディタリー』の時にも感じたが、こういう日常的な会話の中に不愉快さを隠すアリ・アスターの手法は、散々批判してきた自分も認めざるを得ないところである。寧ろ、こうした日常にある気まずさや冷ややかな情感こそが彼の手腕の発揮どころであり、小津安二郎『東京物語』やリー・アンクリッチ『ウエディング・バンケット』のように、この世に遍在する苦しみを描く方が肌に合っているのではないかと勝手に思っている。

ダニーと周囲との間に生じていたクレバスは、その後もドラッグを全員で吸おうという同調的なやりとりや、忘れていた誕生日祝い、順風満帆なカップルへの祝いの言葉といった極めてありふれた景色の中で、さらりと描写されていく。

今作では、他の仲間が排除されていく様子が、ホラー映画としてはだいぶ淡々としているが、これはダニーに課せられた軛が外れていく過程と捉えれば、ある程度の納得はいく。なぜなら、仲間達はそれぞれが罪を犯して、罰を与えられ、ダニーの眼前から退場しているとも言えるからだ。卒論の材料集めに熱心だったジョシュはその強欲により、村の文化に対してリスペクトを欠いていたマークはその傲慢により、殺害されるに至っている。

そして、最終的にメイクイーンと相成ったダニーによって、クリスチャンは9人の生贄のうちの1人として選ばれてしまうことになるわけだが、彼は村娘との性行為、つまりは不倫行為を働いたことが直接の原因となっている。言わば色欲を象徴しているように、ダニー以外のメンバーはおおよそ人間の悪徳を担っているというわけだ。

ダニーが生贄としてクリスチャンを選び、最終的には嬉々とした表情に至ることが出来たのも、ホルガ村の人々が彼女の心の生じた穴を埋め合わせる存在たりえたからだ。彼女は帰るべき家を失い、更には恋人にも裏切られたことで、寄りすがるものがなくなっていた。そこに、共感してくれる人が表れれば、それはもう頼もしくて仕方ないことだろう。おまけに、自信を裏切った恋人への復讐を幇助してくれる。

失恋の経験をもとにダニーに感情移入させ、誰もが失恋相手に一度は考える復讐行為を映像にしたのが、この『ミッドサマー』なのだ。恋への未練を断ち切るためなら、人はダニーのように相手を抹殺したいと願うものであるし、その痛みを理解してくれる者がいてくれたら、晴れやかな気分で次のステージへ進めるのではないかという夢想が込められていると卒直に感じた。

 

ホルガ村がついている嘘

今作のホルガ村は、まさしく現実にカルト教団が行っている手口でダニーを取り込んでいる。

カルト教団に入る者の心理は、そもそも自分がカルト教団に入ろうだなんて思っていない。社会的に満たされない者が居場所を求めてたどり着く場所が、たまたまそこだっただけだ。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で知る人も増えたであろうマンソン・ファミリーも、引き入れられたヒッピーの少女達は、家庭に問題を抱えており、拾われる形でコミューンに入っていったという。育ての親の不在を埋め合わせてくれるからそこに入るのであって、リーダーの思想や組織の理念といったものへの共感は下手すると二の次だったかもしれない。

この村は、他人の感情を分かち合い、みんな同質であろうという空気に満ちている。食事は同一のタイミングで取り出すし、歌や踊りも歩調を合わせる。セックスの際には共に喘ぎ、失恋した女性と一緒に泣いてくれる。家族と恋人を失ったことでダニーの心に空いた穴は、こうした共感の仕種と姿勢によって埋められ、結果としてメイクイーンに仕立て上げられている。

冒頭に描写される家族のエピソードは振り返って見ると、ホルガ村への慰安旅行を後押しするきっかけとして機能し、以降もドラッグによる幻覚作用や目撃した出来事から受けたショックのあまり妹や両親を幻視するシーンもある。

また、ペレの存在が村に馴染む上で潤滑油として有効に機能してもいた。彼は最終的に明らかになるようにハナからダニーをメイクイーンとして仕立てる目的があったようである。だから、仲間がダニーの同行を裏で嫌がっていた中で唯一友好的な態度を示していた。村へ辿り着いてからは、クリスチャンとダニーを引き剥がすためなのか、誕生日の件をダニーがいないところでクリスチャンに告げ口していたり、関係に悩むダニーに自身が描いていた絵をプレゼントして寄り添う姿勢を示していたりもする。メイクイーンになった際には、彼女にマウストゥマウスでキスをしていたが、辛うじて交際関係が続いているクリスチャンから決定的に遠ざけようとしていたのではないだろうか。

ダニーがメイクイーンになったことは、彼女自身にとって喜ばしく、喪失から立ち直る契機となっていたようであるが、しかしペレの件や作中の描写を見ていくと、全て仕組まれてこうなっているのだとわかる。

そもそも、この村で行われている祝祭とは90年に1度の頻度ではないらしいことが、端々に匂わせられている。作中で催されていた儀式は、外部から遺伝子を取り入れるための格好の機会だったと思われるが、その際に近親相姦以外で子供を産む(人口を増やす)のだとすれば、明らかに村にいる子供の数が多く、このあたりは説明がつかない。就寝の時間には、最近生まれたらしい赤ん坊の鳴き声も響いている。近親相姦により生まれるのは、あの聖書を作っていた人であり、それ以外の子供はどのようにして生まれているのかを考えれば、この事が推測できる。

老人に身を投げさせ、生贄の調達を行った人間自身も生贄として名乗り出ているのを見るに、この村はどうやらもっと高い頻度で不都合な内部の人間を間引いて、人口を増やすためにこのイベントを催しているのではないかと思えてくる。間引く人間には、「生命の循環」や「儀式のための名誉ある死」という幻想を植え付けているが、それを強いている側はそんなことが嘘っぱちだと気づいているのではないだろうか。燃やされる前に鎮痛と精神安定作用があると与えられていた薬にはまるで効き目がなかったシーンは、この村の風習がすべて嘘で塗り固められているということを示唆しているように見受けられる。ペレが「自分の両親は焼死した」と語っていたのも、この儀式で体よく殺害されたのだろう。

つまりは、このホルガ村の風習はすべて幹部の人間が支配のためにでっちあげたものであり、作中の儀式は人口を保つためであるのと同時に老化したメンバーの整理、真実に気づきかねない人間を抹殺するための計画的な犯行だったと思われる。一見喪失を埋めわせてくれるセラピーとしての側面をあからさまに見せておき、裏では利己的な目的が渦巻いているというのもこれまた現実のカルト教団に近く、巧妙な風刺と言える。

 

まとめ: 2時間半もかける内容ではない

今作に対する批評を率直に長々と述べてしまったが、端的にまとめれば「長すぎる」の一言に尽きる。今作の全てがはまらなかったわけではなく、一見幸福のイメージが付き纏う家族や恋人の負の側面にフォーカスするアリ・アスター監督の作風には、いくらか光るものはある。

特に冒頭のシークエンスにおいてそれがはっきりと感じ取れるのだが、本筋たる村の儀式に入っていくと、暗澹とした人間関係というメインディッシュを取り上げられて、非常に意図の読めやすい陳腐なホラーが蔓延する。その間の人物描写は、散々述べたようにホラー映画あるあるのネタばかりで、露骨に引き伸ばされたワンカットワンシーンが更に退屈さを助長してくる。

自分の感情の波は、文中でも述べたとおり、監督の人間関係に対する不信感に満ちた視点で高まっているので、次回作は寧ろわかりやすいホラー・サスペンス描写を控えて、そっちに注力してくれた方がよいのに、と思う。『ヘレディタリー』『ミッドサマー』とたて続けに見てきても、ホラー描写に関しては、露骨に大衆が想像しやすい「狂気」や「恐怖」を並べているだけで、自分には凡庸なものに映る。

この映画を観て、ダニーのように救済されたとは思わないのは、救済を描いてやろうという意図が明け透けに見えるからだろう。そして意図がわかりきった映画を2時間半も見続けることほど、苦痛なことはない。わかりきった結論に進むだけで、道中予想外のことが何もないとなると、いたずらに時間を浪費させられている感覚に陥る。

映画の上映時間は、内容に見合っていないと著しく評価を下げる要因になるのだなと再認識させられる作品だった。

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