アイキャッチ画像: (C)2020「初恋」製作委員会
こんにちは、映画におけるヤクザと言えば『酔いどれ天使』の松永のワタリ(@wataridley)です。
今回は三池崇史監による映画『初恋(英題: First Love)』の感想を書いていきます。
はつこい、とは実に質素な単語です。口に出してもすぐに消えてしまう2語ですが、かわいらしく特別な意味を包み込んでいるような響きがあります。
そんな言葉をタイトルにしている映画とあって、初々しい表情を見せてくれるのかと思いきや、物語にでかでかと登場してくるのは、厳かな顔つきのヤクザ達。窪田正孝と小西桜子のアベックこそ、はつこい、の響きが似合うものの、どうもこの映画全体はそうはなっていないらしいぞと、第一印象の時点で警戒心と好奇心を同時に抱えることになりました。
昨今のフィルモグラフィーは漫画の実写化等が目立つようになっている三池崇史監督も、かつてはアンダーグラインドを題材にした映画を撮っていたため、原点回帰を匂わせる内容でもあります。残念ながら、『狐狼の血』のヒットを除いては、もはやヤクザとは(少なくとも映画においては)時代から取り残されつつある存在です。
けれども、今作はそんな昔気質のヤクザが活躍するばかりではなく、ヤクザを俯瞰する視点を含み、今へと繋がる役目を果たす存在として描いており、とても味わい深い映画となっていました。
以降、ネタバレを含めた感想を書いていきます。未見の方はご注意下さい。
76/100
古きヤクザから若きボーイ&ガールへの継承の物語
ボクシングの実力はピカイチだがどこか情熱を欠いた青年レオは、ある日負けるはずのない試合で不意のノックアウト負けを喫してしまう。脳にある腫瘍により余命幾ばくもないことを知った彼は、新宿歌舞伎町で悪徳刑事に追われていたデリヘル嬢モニカを助けることになる。しかし、この時のレオは、この出来事が彼らの生涯を一変させる一夜の幕開けだとは思いもしないのであった。
物語は、余命僅かな青年レオと薄幸の女性モニカ(ユリ)が交流するパートと、種々様々な理由でモニカと麻薬に翻弄される極道の者達を描いたパートに二分される。死期が近づいていることを知り、気の迷いから刑事を殴ったことにより、レオは図らずも、組織を裏切って生き延びようとするヤクザ・加瀬の計画を狂わせてしまう。登場人物たちの各々の思惑が交錯し、後半で一気に正面衝突し、物語の結末が導き出される。
映画においてこの手の筋書きは定期的に見かける部類であるが、ヤクザとチャイニーズマフィアの抗争という古めかしい概念を展開する一方で、主人公格である窪田正孝と小西桜子の若いアベックの行く末を追わせている。このコントラストが、今作独自のカラーであると同時に、今作の思想が色濃く反映された部分でもある。
『初恋』は、Vシネかってくらいファンタジーなヤクザが多数登場し、目立ちまくる一方で、話の主軸はあくまで窪田正孝と小西桜子の若いアベックの行末になっている。古き映画から今の映画への継承を意味しているのだろうか。
— ワタリドリ(wataridley) (@wataridley) March 1, 2020
古き良きヤクザ像への憧憬
冒頭でも述べた通り、「ヤクザ映画」というものはすっかりその数を減らし、全盛の時代と比べれば鎮火していると言わざるを得ない。レオが働いていた中華料理屋では、実はチャイニーズマフィアであるチアチーが、中国語で仁義を重んじるヤクザが今はいないこと嘆いていたのは、作品の外から眺めていると、映画を取り巻く状況に向けた発言のように思えてくる。
そんな「ヤクザ不況」の世の中ではあるが、刑務所から出てきて娑婆の空気を吸うや否やまずやることはオヤジの墓参りだといい、チャイニーズマフィアとの抗争に際して「売られたケンカを買うのに上の意見もへったくれもねえでしょ」と憤る武闘派ヤクザ・権藤の存在が並行して描かれる。内野聖陽のコワモテだが真っ直ぐな情熱を湛えたルックスは正統派ヤクザといった印象を与え、血みどろで先行き不安な抗争劇の中で、頼もしさすら覚えさせてくれる。
一方で、抜け駆けしようと目論む加瀬と刑事でありながら悪事に加担する大伴らは、組織への忠誠を曲げて、自己保身に走る。抗争が激化しないうちに、デリヘル嬢に全てをなすりつけて自身は軽い罪で刑務所への避難を試みる加瀬は、利己追求のためならば仲間を裏切ることも嘘もつくことも厭わない。計画が狂っていったことで、予想外に手を汚さざるを得ないというバタバタとしたコメディが大いに笑いを誘いつつも、その利己的な性分が寧ろ彼を後戻りできないところに追い込む最大の原因としても描かれる。
皮肉にも、その加瀬の計画によって事態は複雑化し、一触即発状態にあったヤクザとチャイニーズマフィアは、モニカと麻薬を巡って一夜の抗争を始めることになる。両陣営共に縄張りを奪い合い、加瀬と大伴は逃げ果せることを目論見るが、そんな加瀬に復讐を誓う者の姿もある。
特に今作において復讐の鬼ジュリを演じたベッキーのインパクトは大きい。スタイル抜群の下半身をスッポンポンで走り回り、大きな目ん玉をひん剥いて迫ってくる絵は、愛する者を失ったことで人としてのリミッターが決壊してしまった悲劇性をダイナミックに訴えつつ、それ自体がシリアスな笑いを生んでもいる。話がズレるが、加瀬の計画はレオが介入せずとも「ジュリが強すぎる」という時点で破綻していたのも後から思い返して笑えてくるところである。
なにはともあれ、こうした粒揃いのアウトロー達による思惑や俗欲が入り乱れた状況下、権藤とチアチーだけはカタギに手は出さず、筋を通す存在として他とは区別されている。
チアチーはショッピングモールに紛れ込んでいたレオに「カタギか」と尋ね、そうであるとわかれば危害を加えることなく、はやくこの場から離れるように言い放つ。しかし、レオは場を離れないどころかモニカを守るべく自らに立ち向かおうとする。レオに一度は銃口を向けるものの、とうとうモニカ共々彼を放免する。それは彼女が言っていた仁義をレオの中に見出したからにほかならない。
そして最終的に、激戦を制した権藤と、モニカを守り抜いたレオが共に逃走を図るという展開が訪れる。逃走中、権藤とレオが言葉を交わしていると、先の仁義あるチャイニーズマフィアが話題にあがる。「気が合うんじゃないですかね」という言葉の通り、立場が違うだけで、違う形で出会ってさえいればシンパシーを感じられたかもしれない共通項が権藤とチアチーの間には存在している。レオがヤクザではなくカタギだと知った権藤は、深傷を負い、消えかかっていた自身の命を、若者2人の逃走のために使い果たす。
思うに、昔気質の仁義が若者の未来を手助けするという展開には、歴史への情緒が込められているのではないか。単に任侠に生きるヤクザが活躍するヤクザ映画を作るだけではノスタルジーに耽溺するだけの過去に顔を向けた映画になっていたことだろう。しかし今作は、もはやそうした筋を通すヤクザを一種ファンタジーとみなす視点を作中に入れ込み、アウトローとは無関係の若者と相対化することで、今は亡きロマンとして成立させている。更には、それが問題を抱えていた若者が未来へ向かっていく流れに貢献することで、昔から今への継承を描いたのだとも言える。
映画史においても、もっと広く価値観・文化においても、ヤクザの仁義は途絶えてしまったのではなく、こうして役目を終えバトンを渡すかのように今へと繋いだ面もあるのだろう。自分はヤクザ映画にはとことん疎いのだが、外面では気づかない形で、今の映画に影響が残っているのかもしれない。そう考えると、日本における映画の歴史に少しばかりロマンを感じられるような気がする。
アウトローである以上、安泰な末路が待ち受けるわけもなく、権藤は退場することになる。「ヤクザに朝日は似合わねえ」と口にしながら、去るべくして去ったとも言えるわけだが、若者達は無事に夜明けを迎えることができた状況を見れば、死して尚も仁義が繋いだ先は続いていくということなのだろう。
生きることへの執着を得るボーイミーツガール
ここまで、権藤とチアチーというアイコニックな任侠者が若い2人の命を救う物語であり、それこそが今作が描きたい様相であると述べてきた。今度はその反対に着目し、若者達にはどのようなドラマがあったのかを考えるとする。
窪田正孝演じる葛城レオは物語が始まる迄ずっとボクシング一筋の人生を送ってきた。赤ん坊の頃に親に捨てられた彼には何もなかったが、どうやらその腕っ節を周囲に認められて、そのままボクシングを始めたらしいことが窺える。
このエピソードに象徴されるように、レオからはとことん自らの内から湧き上がる執着心や拘りのようなものが見えてこない。ボクシングをやっているのは、記者に語ったところによれば、「それしかないから」である。裏返せば、レオ自身はボクシングを除けば何もない人生というものを親からの育児放棄によって歩まされていたとも言うことができる。やりたくてやっているボクシングではないからなのか、彼は勝利しても喜びの感情を露にすることもしない。レオはただ外部から与えられるがままの自身の境遇に、ただ甘んじているだけなのだ。
ところが、死の淵に立たされた途端、自分の境遇に無頓着ではいられなくなる。もうすぐ死ぬかもしれない絶望は受け入れられず、急な脳震盪は試合でのラッキーパンチが原因だったはずだと混乱し、平穏を極力保とうとしながらも、声は確実に上ずってしまう。生への執着心の無さを示すかのようにして序盤の窪田正孝は淡々としているのだが、それが揺らいだ時に見える素朴な恐怖心の露呈はこちらに実に生々しい動揺を煽ってくる。彼は30を超えているというのだが、『犬猿』で見た時と同様に、こうした幼心を映すことに長けた役者であると実感する。
そんな死への恐怖に直面した折に、たまたま街で占ってもらうことになる。そのあまりの適当な結果に怒りを露わにしつつも、占い師から告げられた「誰かのために何かしたほうがいい」という言葉に引き寄せらせるように、逃げ惑う女性モニカを助け出す。
モニカもといユリという女性は、父親から虐待を受けてきた上に、親が作った借金の肩代わりに客を取らせられるという苦境に立たされ、おまけに体はそんな苦しみを紛らわすために薬漬けだった。当初のレオはそんな彼女を哀れみの目で見ているようではあったものの、両者は確実に近しい存在であった。
なぜなら、ユリもまた生きることへの執着に欠けているからだ。他人から見れば悲惨としかいいようのない境遇に立たされても、怒りや悲しみを主張するのでもない。かつての父親からの虐待のトラウマと、かつて自分を救ってくれた竜司への夢想を抱えたまま、しかし実際的な方面では何も行動を起こすことなく、そこに居続ける。憐憫を露わにしたレオに逃げるよう進言されても、ただ座り込んでいるだけだった。
逃げ出す意思がない彼女を引っ張って、レオは彼女の初恋相手である竜司や家族に会ってみるよう背中を押す。だが、この最期の良心がモニカと麻薬をめぐる危機的状況に結びつく羽目になる。結果として、ヤクザ達の抗争に巻き込まれて命辛々の逃走劇に発展してしまう。
紆余曲折を経てホームセンターに閉じ込められた際に、実は診断を取り違えていたという事実を知ったことで、不可避の死への絶望は取り払われることになる。同時に、レオとユリ共々その命に危険が迫っていることに変わりないという皮肉な状況でもある。
にも関わらず、レオが余命わずかだと誤解したまま、モニカは自らの身柄を差し出し、レオに逃げるように気遣ってくれるわけである。自分だけが死への恐怖に身をつまされている間、彼女がここまでしてくれたとあって、そこではじめて彼は決意を固めることになる。
彼は文字通り命を賭して最初は見逃してくれたチアチーに銃口を向け、襲いかかってきた別のチャイニーズマフィアとも殴り合いを演じる。命をかけて戦ったことにより、初めて生への執着心を肌身に感じたのではないだろうか。そして一度はモニカに救われたことで、彼女を救おうという気持ちも本気の本気へと変わっていったのだ。
そうして、爆然と続けてきただけのボクシングに、ここで初めて情熱が芽生えているように思える。つまりは、レオにとっての「初恋」はボクシングであり、更にそれを活かして守ろうとしたユリでもあるのだ。
チアチー、権藤という仁義に生きる者達の助けも借りつつ、彼らは生き延びることができたわけだが、その果てに偶然にもユリは、初恋相手である竜司と再会する。その傍らには、妊娠した奥さんの姿もあった。ドラッグによる幻覚作用でその幻影を夢見るほど恋焦がれていた相手に出会うことができたとはいえ、現実に彼女はもはや竜司を頼ることのできる身ではないと悟る。彼らの親切を断り、レオと一緒に踏切の向こうへ踏み出す時、ユリの狭義の「初恋」は終わりを告げる。
しかし、一方でユリとレオは、新たな「初恋」をスタートさせる。それは、互いに真っ当に生きることへの憧れだ。レオは再びボクシングのトレーニングに勤しみ、試合に挑んでいく。勝利した際、感極まって叫ぶ彼の姿は、あの一夜以前とは大きく異なっている。そして、ユリはユリで更生施設で禁断症状に喘ぎ苦しみながら誘惑に打ち克とうとしている。土俵は違えど、お互いに先を求めて戦っているのだ。
その果てに彼らが勝ち取ったものが、ラストに映し出される。それは、それまでと大きく趣が変わり、ごく当たり前の風景という感じで捉えられる。なんてことないアパートがこんなにも大きく心を動かす様と、そこに集約されていくあの激しい一夜の対称性は強烈だ。
面白いからこそ惜しむべき馬力不足
これだけ目が離せないエンタメ的側面と、胸に迫るメッセージが込められた作品であるだけに、所々馬力不足を感じさせられるのが惜しいと思わずにいられない。
今作で最も浮いているのが、駐車場から警察車両の軍勢を超えていくアクションシーンだろう。スタントができるだけの製作費や人材がなかったためなのか、あの部分はボルテージが上がる場であるにも関わらず、それまでとはまるで異なったアニメーションで表現される。また、その後に麻薬を散布して警察車両を振り切るシーンに際しても、激しく衝突・横転のする音が鳴る一方で、頑なにそちらはカメラに映らないというもどかしさがあった。やはり、アクションシーンを取るにあたって、様々な制約があったのであろうことは、制作事情にまるで関知しえない自分でも察することができてしまう。
そうした制約の影響からなのかは定かではないが、主人公組の動きが極端に少ないのも気がかりである。「危ないヤクザ達からの逃走劇」としてみると、レオ達がやったことといえば、ユリの実家に帰り、その近くのショッピングモールに閉じ込められた程度で、途中多少のカーチェイスを挟んだぐらいだ。そこに至るまでは自分達の身に迫る危険にも無自覚であり、序盤から中盤は身の上話に終始している。後半ようやくピンチが訪れた思ってもショッピングモールまでの流れは受動的でしかなく、ようやくレオが主体的に動き出したと思いきや店舗中央の戦争には加担せず、よくよく考えて実際には端っこで殴り合いをするだけで終わっている。
また、贅沢な不満かもしれないが、せっかくショッピングモールを舞台にしているのにイマイチ周囲の道具を活用する場面が少なく(ジュリが刃物を調達したぐらい)、あれだけの人数がいるのに、御丁寧にエンカウント方式で各人の戦闘が展開していってしまっている点も惜しいと感じた。
ヤクザ達が巡り巡ってひとつの場所に集結していくというパートこそ、加瀬演じる染谷将太と、ジュリ演じるベッキー等の痛快な演技で魅せてくれるが、寧ろインパクトがそっちに寄ってしまい、レオ達のお株が奪われているとも思うこともできてしまう。
今作の筋書きが導き出す、上から下への継承と、初恋に惹かれる人の有様は心掴まれただけに、映像面でより刺激が欲しいと思ってしまったのが率直な感想である。
まとめ: 三池崇史を見る目が変わった
正直なところ、昨今の三池崇史のフィルモグラフィーは実写化作品が中心であることから、所謂職人監督というよりも、右から来た企画を引き受け左へ受け流していく仕切り屋のような印象を強く受けていた。個々の作品の評価は差し控えるが、ある意味では日本映画の時流に大きくキャリアを左右されている監督と言ってもいいかもしれない。
そんな中で原点回帰かのように極道の世界を描いた今作は先祖返りするのではなく、むしろ逆に現在の日本映画の若い世代への橋渡しとしての役目を背負わせている節が見られるところに、三池崇史の映画観が滲んでいて面白いと思った。古いものは廃れていくのだが、それは着実に今へと繋がっているのだと考えれば、まさに今、三池崇史が手掛けている映画もその大きな輪を構築する1つなのかもしれない。
次回作は5月1日公開予定の『劇場版 ひみつ×戦士 ファントミラージュ! 〜映画になってちょーだいします〜』とのことで、ギャップが凄まじいが、紛れもなく昔の映画から継いだDNAがどこ刻まれているのだろう。たぶん。
今の日本映画界の潮流は、一観客としてネガティヴに見てしまいがちなのだが、三池崇史監督の『初恋』によって、監督共々見る目を少しばかり変えられた気がする。