アイキャッチ画像: (C)2019 Legendary and Warner Bros. Pictures. All Rights Reserved.
こんにちは、初めて入手したゴジラグッズはゴジハムくんだった思い出が今甦るワタリ(@wataridley)です。
今回はハリウッドが日本生まれの怪獣ゴジラを引き入れたユニバースであるモンスターバースの3作目『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ(原題: GODZILLA KING OF THE MONSTERS)』の感想になります。
監督は『X-MEN アポカリプス』などのマイケル・ドハティです。
今作が属するモンスターバースは、ゴジラやキングコングといった著名なモンスターを同一の世界線上に置いたユニバース。近年、『アベンジャーズ』で知られるマーベル・シネマティック・ユニバース(略称: MCU)の歴史的成功に追従するかのような流れが見られ、ワーナー・ブラザースのDC・エクステンデッド・ユニバース(略称: DCEU)や、ユニバーサルのダークユニバース(構想)等、クロスオーバー作品は以前と比べて目新しいものでもなくなりました。このモンスターバースも例外なく、そうした流れの中にある作品群です。
今作では、前作『GODZILLA』の正統続編に相応しく、東宝怪獣でお馴染みのモスラ、ラドン、ギドラらが参戦し、大怪獣バトルを繰り広げるという筋書きです。耳にするだけで怪獣ファンには垂涎ものの内容でしょう。日本由来のゴジラがハリウッドムービーの中で堂々たる存在感を放ち、更にゴジラと激しい戦いを繰り広げる怪獣たちも日本由来。
そんな怪獣映画の妄想を形にしたような企画とあって、本編はこれまで製作されてきた怪獣映画の中でもひと際ゴージャスな映画に仕上がっていました。メインで活躍する4体の怪獣は、予算的・技術的制約も取っ払って、地球規模で大暴れしてくれています。
一方で、怪獣の再現と活躍にばかりリソースが偏っているのではないかと思うほどに、粗雑な個所も散見されます。
以降、ネタバレありで感想を語っていきます。未見の方はご注意ください。
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目次
東宝怪獣、夢のメジャーデビュー
子どもの頃に見たゴジラをはじめとしたモンスターが存在し、世界を蹂躙する。着ぐるみを用いた特撮ではどうしてもぬぐい去れない嘘が徹底的に排されて、怪獣たちがスクリーンに現れてくれるというだけでも『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の存在意義は大いに感じられることだろう。
黒々しい巨体から無数に伸びる棘が悍ましい怪獣王ゴジラ。3つの首が各自の意思を持って暴れる黄金龍ギドラ。およそすべての生物を包み込んでしまえそうな羽を持つ巨大蛾モスラ。ソニックブームを引き起こすほどの膂力で飛行する大翼竜ラドン。それぞれで1本ずつ映画が作れてしまえそうなほど魅力と特徴を備えたアイコンが、1本の映画の中に集結し、ぶつかり合う。
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冒頭に登場するモスラの幼虫形態は、巨大ながらも丸っこいボディと幼さを感じさせる鳴き声で愛嬌が伝えられる。これが後半に華麗なる成虫へ変態するというところを見届けさせてくれるものだから、モスラという怪獣への愛着が湧き上がってくる。しっかり蛾の外見でありながらも、円らな瞳に穏やかな性質を忍ばせたデザインも秀逸だ。
そんなモスラとは異なり、当初はモンスター・ゼロと言われた三首の龍ギドラは、終始凶暴な性質をその表情へと露わにし、トライデント(三叉槍)を思わせる左右対称の美しいシルエットに反して、暴力的な叫びや身振りに徹する。まさに人類最大の敵にして、恐怖を具現化したような存在というに相応しい造形である。
火山を住処にしていたラドンが、人間の住処など気にも留めずに破壊しながら飛行する様子も、自然を前にした人類の文明の脆弱性を如実に表しているようだ。巨大な鳥が羽ばたくだけで我々の街は荒れ果て、人は必死に逃げ惑うしかないのだ。乾いた空気の中に見えるラドンの赤い翼は、災いの象徴のように映る。
これらのアクの強い怪獣たちと怪獣の代表格たるゴジラがコラボレーションするといのだから、とんでもない画面が出来上がるわけだ。ゴジラが放射する熱線を交わし、ギドラが光線を返すシーンひとつとっても胸から騒めきが沸き起こるパワーに溢れている。最終決戦では、ボストンのフェンウェイパークを両者ともに踏み躙り、人類のスポーツ文化の栄華をも矮小化するほどのバトルが繰り広げられる。ラドン、モスラまでもがビル群をテーブルかのように扱い、火炎が広がるボストンで激突する。この辺りの映像の強度は、日本の『ゴジラ』シリーズを突き放すレベルだと断言出来よう。
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更には、怪獣映画から想起される冷や汗を誘発するような恐怖や混乱とは裏腹の人間味をゴジラ達の表情に見いだすこともあった。ゴジラがギドラと対峙したときは、強い目力で睨みを効かせるものだから、台詞がなくとも侵略者に対する敵愾心を読み取ることは容易い。片やオキシジェンデストロイヤーを喰らい再生も追いつかずに倒れていた“彼”の表情は、さながら病床に臥す人間のような弱さを放っており、怪獣を労いたくなる不思議な感覚にすら襲われるほどであった。ラドンと衝突するや、温厚だった瞳が怒りに染まるモスラも見ていて面白いと感じさせる。怪獣たちが表情を浮かべ、それを読み取って心情に想いを馳せるということがはっきり出来たのは新鮮な体験だった。
怪獣たちは何のために戦っているのかという疑問
怪獣たちの造形美だけでも楽しむことができる上に、それらが暴れまわる舞台装置も事欠かない。非現実的ではあるが世界中の怪獣たちを操るオルカや、怪獣たちがそこかしこで眠っている地球、あろうことか共存を目論む組織モナークなどを見るに、今作ほど怪獣を暴れさせることに腐心した映画はそうそう見かけないだろう。
しかし、これらが同時に今作への評価に大きな影を落としてもいる。
白状しよう。自分はこの映画における怪獣たちの戦いが何を意味しているのか。終ぞ理解できないまま劇場を後にすることになった。
映画に限らず、あらゆるフィクションにおいて、登場人物達の取るアクションや作品世界における現象には意味が込められている。あるシーンで雨が降れば、誰かが暗い気持ちになっているのかもしれない。あるいは、登場人物の着ている服装が華美になっていけば、その人物は恋をしているのかもしれない。表象の裏にドラマを見出した時、我々は作品の持つ多層的な構造を理解し、簡単には忘れられなくなる。
例えば、『ゴジラ KoM』と同じく混沌とした世界を描いた『マッドマックス Fury Road』はどうだろう。どうしてこの作品は何故公開後多くの支持を得、興行的にはメガヒットとはならずとも、名作としての地位を築くことができたのだろうか。
それは荒野の世界で改造車を猛スピードで駆け回って爆煙を散らす派手な映画だから、ではない。この説明では明らかに作品の持つ魅力を語り切れてはいない。
自分が思うに、この作品の面白さというのは、世界は現実に生きる我々の営みを核戦争により荒廃した世界に映しているところにある。
簡略的に買いおくと、『マッドマックス FR』は資源が枯渇した荒野の世界で、ある砦の支配者イモータンジョーに反旗を翻した大隊長フュリオサと、たまたま居合わせた元警官のマックスが結託して、車に乗って遠くへ逃げる、シンプルなシナリオである。
しかし、「逃げる」という単純明解な物語構造の中には、幾多も現実への結節点が見て取れる。
まず、この大隊長フュリオサという人物は典型的な被支配者である。イモータンジョーという砦の主の下につき、決定された役目に従うことを余儀なくされた彼女は、自由意思を抑圧されている。だから、自らの故郷を目指して死の危険をも冒して脱走する姿は、誰もが持つ外圧から逃れんとする欲求を代わりに実現してくれている。
それでいて、人道的な救済者としての顔も持っている。単に現状を脱したいと願うなら、ただひっそりと姿を消せばいいだけだ。ジョーの妾達を連れて行くのは、彼に不利益をもたらしたいという意図があったのかもしれないが、真意がどうであれ、フュリオサは同じく自由意志を剥奪された者たちを救い、結託して敵の手から逃れようとする。同じ境遇にいる者同士で、共通の敵にあらがうのだ。
このように、大半が激しいアクションで彩られた脱走劇の裏側には、圧倒的な支配者に抗するという現実にも似たバックグラウンドがある。
その背景があるからこそ、アクションシーンは幾多もの意味を持ち得る。フュリオサが執拗な追跡を受ける様子を見れば、それは現実に虐げられし者の受ける苦痛もリンクする。そして、それを跳ね除けてでも先へ進もうとするフュリオサ達は、まさに基本的な自由を希求して突き進む人の強さを思い知らせてくれる。初めて出会ったマックスが彼女たちと当初は利害関係で結びついておきながらも、やがては掛け値なしに助けるようになる姿も“献血”という行為ひとつで明確に読み取ることが可能だ。
単に改造車で暴れるだけではない、多層的な意味付けが施されているから、我々は別世界の出来事を我が事のように受け取ることができる。劇中、為政者らしく振舞うイモータンジョーが、実際には協力関係にあるガスタウンから資源を奪ってくると市民に宣言する「政治的演出」が描かれるが、これはまさしく現実の政治シーンにもありふれた光景である。また、ある場面でフュリオサがイモータンジョーに吐く「私を覚えているか?」というセリフは、強者はいちいち多数の弱者を虐げたことを記憶しないが、虐げられた側は怨恨を持ち続けるという支配や搾取の縮図を見事に言い表している。女たちを”properties”、つまりは自らの所有物と呼ぶ思い上がりにしても、呆れるほど見覚えがある。
フィクションにおいて、魅力的な表層はもちろん重要だ。ゴジラで言うのであれば、怪獣たちの迫力がそれにあたる。しかし、『マッドマックス FR』のように、深奥に更なる意味を見出すことができれば、作品から得られる情動も一段と強まるものだ。
しかしながら、ゴジラにはそうした裏のドラマが薄弱極まりない。はっきり言って、怪獣たちの壮大なバトルに水を差しているとさえ思う。
一応、怪獣パートそ補強したいとでも言いたげな、それっぽい理屈はいくらか並べられてはいる。人類をウイルスとみなし地球が自浄作用をもたらしているのだというガイア理論や、怪獣は人類の身勝手さ故に生まれた罪の成れの果てといった言説が作中では提唱されている。だが、こうした問題が怪獣たちの衝突とリンクしたか?と言われれば、それは否定せざるを得ない。
まず、怪獣たちのお膳立てをするはずの人間パートにおいて、登場人物はみな理解不能な行動に打って出る。息子が死をきっかけに地球全土を巻き込んで自然の摂理に委ねようとする母親の存在はその端的な例である。その母親と結託する環境保護テロリストも、確証もないのに人類は生き残るなどと宣い、怪獣たちを呼び起こす。
一方で、そんな彼らと対立する機関モナークの中心人物の言動も理解に苦しむ。登場から退場まで、芹沢博士はしきりに怪獣たちとの共生を訴える。明らかに人類にとっては制御不能で、危険をもたらしかねない存在とどうやって共生しろというのか、具体的な策は一切提示されない。更に、彼はゴジラを妄信する一方で、ある伝承を理由にギドラを王と認めようとしない。何の根拠があって正当性のジャッジをしているのかは不明で、明らかな偏りを感じさせる。しかし、作中の登場人物は誰も反論しないのだから、ただ呆れるばかりである。
このように、論理的に飛躍した主張をする狂人ばかりが目立つ。とにかく怪獣を暴れることのできる舞台装置のために存在しているかのような人物造形は、恐ろしいほど共感を誘わない。共感を欠いた状態で魅せられる人類の危機や家族の再生といったドラマが琴線に触れることはなく、冷静な目を向けざるを得ないのだ。
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そんな狂人たちの主張を怪獣たちが象徴しているかというと、そういうわけでもない。怪獣たちはただオルカによって目覚めさせられ、本能的に行動しているに過ぎない。ゴジラがギドラと敵対したのは、作中確たる描写がないので推測に過ぎないが、単にテリトリーを荒らされたからというようなものであり、先ほど挙げたガイア理論や人類との共生は全く頭にはないだろう。
怪獣たちの戦いを裏付けるはずの人間のドラマはそもそも論理的におかしく、説得力不足で、更には怪獣たちとは全く繋がっていない。つまり、いくら怪獣たちの映像が大迫力で繰り広げられようとも、そこに意味はないのである。
その証拠に、地球環境や人類との共存といったテーマを放棄して、突如としてギドラが地球外生命体である可能性が明らかになる。おかげで、それまでもっともらしく装ってきた問題提起はすべて蔑ろにされ、物語の構図は「地球VS地球外生命体」という安易な勧善懲悪と正当防衛の戦いに舵を切っていく。
また、今作では、中盤に登場するオキシジェンデストロイヤーをはじめ、芹沢博士の最期、バーニングゴジラなど、『ゴジラ』シリーズのオマージュらしき描写が散見されるが、これらもただ拾い集めただけで今作限りでは殆ど軽薄なファンサービスにしかなっていないように感じられる。
1954年公開の初代『ゴジラ』においてその存在そのものが危惧され、芹沢博士によって頭の中の設計図もろとも沈められたのが、オリジナルのオキシジェンデストロイヤーだった。それを単に威力の高い爆弾のような扱いで登場させ、躊躇もなく放ってしまうのは無神経であると同時に、そもそも展開的にも唐突感が強く雑である。芹沢博士の最期に至っても、彼が担うべきだった核への警鐘や自然との調和といった主張がほとんどないまま、何故か犠牲になりにいく流れが不自然極まりなかった。自らを傷つけた悪魔との和睦について語った直後、核のスイッチを押す役目を担う芹沢博士を見ていると、今作の核兵器に対する扱いから殆どデリカシーを感じることができない。ただただ、芹沢博士という同名の人物を対比させたかっただけ。自分にはそのように映った。
ギドラという宇宙からの侵略者を倒す方向に進んでいく安直なシナリオは、ある意味こういったうわべだけのオマージュに相応しいのかもしれない。結果として、怪獣たちとの共生という芹沢博士らモナークの主張は有耶無耶に終わらせられる。どうしてゴジラが人類にとっての味方なのかといった根本的な疑問も解決されないまま、「ゴジラが怪獣たちを監視」「ゴジラが通った後は自然が回復」といった情報がエンドロールであっさり語られる。もはや怪獣王という名前から想起される威厳はどこにもなく、ゴジラは脚本上便利な存在に堕してしまう。
本編の映像の質が高いだけに、核心であるストーリーのチープさが際立っていた。非常にいたたまれない気持ちで劇場を後にするとは観る前は思ってもみなかった。
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テーマを抜きにしてもノイズがひどい
単純にツッコミどころが多すぎるという問題もみられる。突如として登場しますオルカが巨大な怪獣たちを操ることかできるという設定に凄まじく違和感を覚えるものだが、こんなものは序の口に過ぎない。
研究者であるはずの芹沢博士を筆頭にモナークの重要人物が揃いも揃って危険な前線に身を置く度に、こいつらは科学に精通しても、リスクマネジメントという言葉を微塵も知らないのではないかと思わせられて辟易した。挙句の果てには、貴重な人材であるはずの芹沢博士があっさりと捨て身の作戦に名乗りを上げ、周囲も粛々と送り出す。悪策を打つと地球がギドラに支配されかねず、一切の妥協が許されない状況にあるというのに、何故代わりの効かない人間を送り出すのだろうか。そういうのは軍人とかが担うべきだろう。オマージュを抜きにしても、疑問が絶えない場面であった。
人類にとっての脅威になりかねない怪獣たちを管理しているモナークの警備も全体的に杜撰で、内通者がいたとはいえ、過激な環境保護テロリストにいとも簡単に侵入され、重要機密に到達されてしまう有様は滑稽である。と思いきや、そのテロリストも管理下に置いたオルカを年端もいかない少女に持ち去られるという失態を犯している。明らかに母親の行動に反発していた様子を見ているにも関わらず、警備の1人もつけず、オルカを誰もいない部屋の中に放置する判断能力は、正常な判断能力では考えられないため、当初は罠であることを疑ったほどである。
先ほど核兵器に対するデリカシーのなさを指摘したが、それはテーマを語る上だけではなく、シミュレーションの甘さにも表れている。とにかく放射線と強い結びつきがある生物であるゴジラに人間たちは生身で近づく。体内でメルトダウンを起こした状態であるバーニングゴジラが放射能熱線を放ち、原子爆弾と変わらないような爆発が起こったシーンでも、マディソン達は悠長にそれを眺めている有様だ。あんなにはっきり視認できるような距離で見ていたら手遅れだろう。
映像だけはシリアスなのに、やっていることは子供騙し。これでは、せっかくの映像にも浸ることができない。
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まとめ: 肉体と精神の二兎を追ってほしい
今作はビジュアル面では申し分ないクオリティである。来年3月には単独作を描いた上で、いよいよゴジラとコングがぶつかりあう『ゴジラVSコング(仮題)』がアメリカで公開予定であるという段階で、東宝怪獣をアセンブルさせる作品とあって、邦画が背伸びして手を伸ばしても届かない程の資本と技術が投じられている。
肉体的な面では恵まれているかもしれない。しかし、外見を磨く筋力トレーニングにばかり注力した故なのか、精神的な部分では2016年夏本邦公開の『シン・ゴジラ』の方が熟達しているように感じられた。
『シン・ゴジラ』におけるゴジラが何を意味するのかは観客に委ねられていた。それは今日の日本においては、記憶に新しいあの震災かもしれない。思い思いの恐怖をゴジラに当てはめて観てみると、明朝体の文字で紹介される官僚組織や政治機構の奔走は、有事の際のシミュレーションかのように映る。その中で、形式主義への冷笑や、個人よりも組織が重んじられる日本の組織政治の特性が浮き彫りになっていく。故に、ちょっとローカル色の強いゴジラ映画ではあるのだが、作品はゴジラという存在を中心に重層的な構造をとっていた。
映像の強度だけをひたすらに高めた映画というのもたしかに視覚面で楽しむことは可能だ。しかし、観る度に異なった意味や新たな発見が得られる作品と比較して、どちらが有意義な映像体験と言えるだろうか。ルックスに拘るからといって、何も精神性を犠牲にすることを意味しない。それは多くの作品が証明してきたことである。だからこそ、モンスターバースもなるべく貪欲に二兎を追ってものづくりをしてほしいと思う。
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