昨年11月18日の初日朝に念願叶って鑑賞したアニメーション映画『羅小黒戦記2』。気づけば13回は鑑賞を重ねてしまったので、この辺りで感想をまとめておくことにする。
まごうことなき前作を超えた「続編」
最初に『羅小黒戦記』を観た2019年11月。池袋HUMAXシネマズにて限定上映されていた字幕版を鑑賞して以来すっかり作品の虜になり、そこから原点のWEBアニメ版(2011年から不定期更新中)、外伝的な位置付けの漫画『藍渓鎮』(本国では2018〜2026年まで連載、日本でも2021年より翻訳本が刊行中)を追ってきた。
個人制作から始まりそこから同志が集まって作られていったというシリーズは市場スピードとは無縁なゆっくりとした作品展開ながら、それでも第1作の映画『羅小黒戦記』はそのアニメーションの質の高さ、全編にわたって作り込まれた画面、言葉を交わさずとも作品の精神を伝えてくる演出などから事あるごとに見返す思い入れ深い作品だった。それが数年越しに新作映画が公開されるとなれば期待してやまないが、得てして相応に高いハードルが設けられてしまうものでもある。
続編映画のメソッドとして、前作でヒットした要素を増加させるか、そもそも趣向を前作と変えるといった方法論はしばしば採られる。単に同じことの繰り返しをしても、初めて前作を見た時の観客の刺激を上回ることはないからだ。率直に言って『羅小黒戦記2』に対しても見る前からその種の懸念は抱いていた。
ところが、そのハードルを『羅小黒戦記2』は見事に超えてきた。
まず目を見張ったのは、前作から更に拡張されて描かれる妖精と人間の併存する世界の有り様だ。
前作では森を追われた黒猫の妖精シャオヘイ(小黑/小黒)の目線に同期するかの如く、放浪の旅路の中で同類の妖精フーシー(风息/風息)と出会ったのも束の間、シャオへイが忌み嫌う人間たるムゲン(无限/無限)に攫われ思いもがけずに始まった旅路は、島から都市へと移っていくに伴いシャオヘイの目に映る景色が変遷していった。
そんな前作から2年を経て、ムゲンとの間に種族を超えた絆を結んだシャオヘイの世界認識は拡張され、様々な会館とそこに居合わせる多様な住人がスクリーンに充溢する。映画が始まってすぐシャオヘイが蒼南会館に到着した時点で情報は圧倒的に増加したばかりか、その群衆の一人ひとりがたしかな精彩を放っている。
観光名所と化しているらしい転送門の前で待ち合わせている者、ツアーに参加している者、ペットと戯れている子供、はしゃぐ子供に慌てふためく親や、宙をゆらめく魚のような妖精等、枚挙に暇がないほどに多様な表情と動態を見せる。シャオヘイの姉弟子ルーイエ(鹿野)と初めて会うシーンの前後に出てくる通行人レベルでも終盤に再び映り込んだり、あるいは飛行機事故に巻き込まれる乗客も事故の前後と最中に飛行機の利用目的や座席位置が伺えるように、僅かな出演時間であっても一人ずつ丁寧に設定されていることが読み取れる。
ムゲンが冒頭の襲撃事件の容疑者であることが明かされる会合の場面でも、本題を今か今かと待ちかねている人物の指は苛立ちと共に拍子を刻み、またある者はゲームに勤しみ、またあるある者は扇子を揺らし、はたまた長く蓄えた髭を撫で…と複数の動作が同一のカットに収まり、ごく当たり前のようにその場に居合わせている者の仕草を取る。
通常映画は、とくにアニメーション作品においては、画面の中で被写体は優先順位を施され、高いものだけが集中的に切り取られたり焦点を合わせられ、それ以外のものはカメラアウトするかアウトフォーカスされるのが限られたリソース配分の観点から言って定石である。しかし本作ではそうしたいろはが序盤から早々に打ち破られ、あたかもその世界が本当に存在して、たまたまシャオへイやムゲン、ルーイエといった主要人物にカメラを置いているだけであるかのような錯覚を与えてくる。
冒頭の琉石会館襲撃シーンや、飛行機の救出シーン、はたまたムゲンが転送門広場で縦横無尽に駆け回るシーン等で、特に目を見張るのがそのディテールの凝り様だ。倒れ込んだ妖精・人々や攻撃の余波で大破したオブジェクトに至るまで、目まぐるしいアクションの中で起こった変化は、その後にもきちんとその映り込んでも矛盾しないように作られており、丁寧としか言いようがない。こういった戦闘によって生じる傷や影響を決して抽象化しない画面への拘りは、具体的な空間演出を通じて作品の骨子をより強固に見せる効果がある。決してワンカット、ワンシーンのために作り出された書き割りの背景でないことがわかり、流石会館の負った傷跡や飛行機事故の命辛々の危機に真実味をもたらすのだ。
各地の会館を横断する過程なども、これだけ異なる景色が各地に広がっていることをまざまざと見せつけ、人々が息づいている様子を豊かに映すのも、戦争に陥れば危険に晒される市井を単なる記号として映すまいとする作り手の矜持と受け取ることができる。飛行機事故の大見せ場は見応え抜群の仕上がりではあるが、機内にいる客や酸素マスクや持ち物の揺れ動きを映り込む度に隈無く描写するなど、被写体のバリエーションが前作から大幅に増加したとて、ひとつも疎かにされない。シャオヘイ達を引き立てるために世界が在るのではなく、世界が在ってそこをシャオヘイ達が生きていると実感される。
これらの作り込みだけを指しても映像作品として高く評価するのに十分かもしれないが、そこに留まるのは勿体無い。こうした世界の豊かさはそのまま本作の反戦という精神を語る上で欠かかせない要素になっているからだ。
より複雑さを増した世界
前作では「自然を象徴する妖精と自然を破壊する人間」という対立を軸に、シャオヘイとムゲンがその境界を超える結末を導いていた。前述した夥しい量と質で描かれる世界そのものを用いながら、本作はこの結末のその先を描いたといっていいだろう。
映画が始まると、まず映り込むのは雪の降る草原でトカゲがバッタを捕食する自然の摂理。そこに明らかな異物として銃口が映り込む。自然と人間という二項がファーストカットから印象付けられ、あまつさえそこから起こるのは妖精をその銃で次々と銃撃する惨劇。前作では自然を脅かす人間の存在は、冒頭のショベルカーや台詞上で仄めかされるのみで具体的な形を伴っていなかったが、本作では明確に人間が妖精を襲う。この時点から、本作のスタンスははっきりとしている。
一方で、そうした恐ろしい科学文明の力を見せつけておきながら、本編では多分に人間が作り出した文明の利器が登場し、妖精の世界でもごく自然に用いられる様を描いているのも巧妙だ。
前作で印象的だったワンシーンに、それまでいかにも仙人風なファッションに身を包み超常的な力を駆使していたムゲンが、飲食店でキャッシュレス決済を試みてスマホを取り出す場面がある。初めて羅小黒戦記の世界に触れた身としては、現代を舞台にしているとはいえ、神秘的なファンタジーを扱うロードムービーでおもむろに現代的なデバイスが出てくるギャップに目を惹かれたし、それを皮切りにシャオヘイも目的地の龍遊に近づくにつれて人間の文明を目の当たりにしていく様子が描かれていった。
本作ではそうしたファンタジーとテクノロジーが融合した世界観ははなから前提化され、堂々と提示される。蒼南会館へ向かったシャオヘイがまず目にするのがビルのオフィスで妖精を助力すべく働く人間達であるように、妖精の組織といってもその内実は妖精も人間も入り乱れた場所であることがわかる。個々の描写に目を向ければ、人間を支配するべきだと主張するチーネン(池年)もタブレットで証拠を突きつけ遠方からの連絡にはスマホを用いる。あるいは、ルーイエも人間の住む地域では捜査の足として車を利用するし、転送門が使えない状況下の長距離移動には飛行機を当てにすることになる。はたまた、道教の神をモチーフにしたナタ(哪吒)はゲームが好きで、部屋もスマートホーム化されているぐらいに現代の暮らしに適応している。このナタは前作から続投したキャラだが、考えてもみれば伝承上の神をアイコニックなお団子頭や法宝をスカーフとして身につけたジト目の少年として現代風のファッションとアニメーション文脈に落とし込んでいるのもなかなかおもしろい造形である。
今回人間と妖精の戦争の危機に瀕して、こうした古くからの伝説やアニミズム的な自然崇拝が科学と一体になった世界が提示されていくことで世界がくっきりと分けられるものではなく、複雑かつ分かちがたく結びついて成り立っていることを体感させてくる。現実においても、ひとつの国の中でも様々な文化や思想が混在し、単独で閉じることなく他の国々にも通じて世界全体が成立している様を、人間と妖精が併存する世界に言い換えているようなものだと捉えることができる。
妖精と人類の現実に根ざした「共存」
流石会館の事件によって妖精と人間の共存が危ぶまれる中、中盤に総館長のユーディ(雨笛)と長老達が東屋で交わす共存の在り方をめぐる会話は、各々が見据える現実に根ざして交わされる。
「共存」と一言に言えば、誰しもがそれは異なる者同士が手を取り合うようないかにも理想主義的なイメージを抱くかもしれない。しかし、ここでユーディが唱える共存とは、妖精たちが科学的な技術水準の面で人類に伍していくために必要不可欠な手段として語られている。WEBアニメ版でもアゲン(阿根)の口から語られたのと同様に、宗教に重きを置いた(妖精を実質の指導者とした)国や地域は羅小黒戦記の世界においても存在しているものの、それらは科学の面では後れを取っており、妖精会館は交わる事で発展を選択している実態がある。前作の段階では、シャオヘイが当初目指す居場所の象徴として語られていた会館の実態は(クライマックスの活躍により閉じる選択を下したフーシーと対比されながらも)ベールに包まれた印象だったが、本作において妖精と人間の関係を見据えて現実路線の生存戦略を図る「強大な国家」に相当する勢力であることが明かされる。これにより、妖精会館と人類の緊張関係に、国と国どうしの問題になぞらえる視点がおのずともたらされる。
そうした視点に立つと、今回の事件をめぐってムゲンが容疑者として浮上し館内部の共存社会が脅かされた際、ユーディが取った策からはいまにも崩れかけている均衡を保つための思慮を読み取ることができる。ムゲンが容疑者であるというセンセーショナルな情報はそれが明らかになった時点でただちに人間と妖精の間に深い亀裂を走らせ、憎悪や争いを生み、あっという間に戦争への一本道へ駆り立てると、為政者が憂慮するのは無理からぬことである。それを防ぐために、ムゲンをナタに匿わせることとし、その事実を知る重役や捜査関係者には他言無用の箝口令を敷いている。また、ムゲンの弟子とはいえ事件とは捜査線上に挙がっていないルーイエを会議の場に招集したのも、事件の情報を聞かせた上で独自に捜査するように仕向けたと受け取れる余地を持たせている他、キュウ爺(鸠老/鳩老)とパンジン(潘靖)に押しかけられた際には総館長自らが容疑者の直弟子のルーイエに頼んでしまえ人間を特別扱いしたとみなされやはり衝突が発生しかねない点への考慮も語られている。かように、彼の言動に着目していると、今度の事件でムゲンが容疑者と扱われながらも本気で彼のことを疑っているわけではなく、しかし体裁上の証拠が揃っている以上は会館の総責任者として然るべき処置を取らなければならないという極めて慎重に舵を取っていることが随所から読み取れるのだ。
ムゲンが転送門広場に現れた時点では人間の基地に襲撃を仕掛ける作戦でムゲンが参加するのかと訝しがる執行人達の様子が見受けられたが、もしこうした配慮がなされていなければ、あの段階でも深刻な事態に発展していただろうし、中盤に人間と妖精の間で衝突が発生した時もシームーズが介入したからといって留まることはなかったかもしれない。つまりは、今回の事件をめぐっては、館の統治者達も状況を鑑みながら冷静に対処したことが、事件をきっかけとした戦争の勃発を回避するのに寄与したとみなす事ができる。
その一方で、ユーディがチーネンに流石会館襲撃事件の実行犯の基地を襲うにあたって「指揮官は生け捕りに」するように指示していながら、報復攻撃そのものは言外に黙認しているのは興味深い。いかにも現実的な判断と見えるからだ。妖精会館の支部が襲撃を受けた以上、何もせずにその事態を是認しては更なる脅威を呼び込みかねない。故に、ユーディの語る通り、襲撃事件の実行犯たちには相応の罰を与えるのが合理的ということになる。妖精会館の目指すところは共存と語っても、それは底抜けに幻想を抱く類の理想主義ではなく、あくまで妖精会館が世界の中で生き残るための現実主義が垣間見える。
チーネンが地下施設を崩落させ、歯向かってきた兵士たちを次々と返り討ちにしていく一連のシークエンスは、作画の動きの面でも撮影的なトリックの面でも大いに外連味がある。崩落する基地の内部が寝室やトランプに興じる兵士といった生活感も交えて描写されるところから敵襲を受けるや直ちに臨戦態勢へスイッチし、モニター越しに脅威が近づいてくる人間目線の緊迫感が演出される。チーネンの生成した巨大な土塊が体積をみるみる減らしながら四方八方に柱を突き出し一斉に敵を仕留める攻撃や、片手しか使わずに敵に対処していく様子は冒頭のダーソン(大松)と重なり、容赦ない攻撃を通じて弔い合戦の様相を呈していく。敵が豪快に蹴散らされていく光景には痛快ではある。しかし血は控えられながらも人間が直接殺傷されるシーンであり、長老クラスの妖精には現代兵器では手も足も出ない人間の恐怖を如実に物語るために、甚だ両価的でそれ故感心を誘う場面でもあるのだ。
かくしてこのシーンは冒頭の襲撃事件の報復であると同時に、なぜ襲撃事件が発生したのか(=なぜ人間は妖精を恐れるのか)にある種の説得力を与えている。妖精は人間の科学技術に脅威を感じながらも進歩のために共存を図りながら取り込み、人間は自然を切り拓いて科学技術を発展させていく一方で人知を超えた力を持つ妖精を恐れる関係にある。互いが互いを恐れるが故に脅威となるような行動を取り続ける絶え間ない緊張関係。それは現実における安全保障のジレンマにも符合する。こうした現実の国家間に見られる力の均衡を、あくまで具象化された人と自然の関係や、伝承や伝説と結びつけた超能力バトルという理解しやすい娯楽として変換してみせているのが本作の特筆すべき描写力と言える。
戦争というリアリズムの持つ引力
本作のような異なる種を扱う作品において、人間の支配を唱えるチーネンや黒幕と発覚するリンヤオはともすれば急進的な印象をもたらす悪役として、一方で穏健に共存を謳い戦争の阻止に動くユーディやムゲン、ルーイエのような存在は純粋な善玉としてそれぞれ物語に布置される傾向がある。しかし、本作は先に語ったことも踏まえて考えてみると、そうしたわかりやすい組分けは採用されていない。
ユーディは先のように専ら純然たる道義的責任感から共存を目指しているとは言い切れず、必要とあらば襲撃犯の基地への報復攻撃を承認している。他方で、まだ直接の武力衝突の発生していない国家に向けては政府高官らしき人物との話し合いのチャネルを通じて先んじてメッセージを発信するといった働きかけも行っている。
チーネンにしても人間を脅威とみなす背景として科学の発展に伴う急速な自然破壊や流石会館襲撃事件という出来事があり、更には弟子や力のない妖精たちがそうした事態に巻き込まれていることを懸念していることが窺え、根源的な悪とは見做せない。チーネンが人間を支配すべきだと唱える理由として、このまま人間が並みの妖精を凌駕する力を身につければいずれ戦争は起こる、あるいは既にそうなっている過程にあるのかもしれない、という見解を述べるのは、一定の理があるように思える。「今がその時なんじゃないか」「今がその時だろ」と形を変えて繰り返されるパンチラインは、戦争というものが回避不可能で、だからその時に備え、その時が訪れた際には優位に立ち回るべきだと主張しているのであり、こうした主張は昨今の情勢を見渡しても一定のリアリズムがあるものとして受け取られるかもしれない。
だが、こうした主張に傾倒しすぎるとその果てに待ち構えているのは、脅威とみなした対象から脅威とみなされるというジレンマだ。つまり、戦争による被害を実力行使によって最小化しようとすると、戦争という引力に引き寄せられる皮肉な因果がついてまわる。
この皮肉が敵対者にばかり適用される訳でないところが本作の厚みをより増している所以でもある。というのも、本作の実質的な主人公たるルーイエもこの罠にはまっている当事者だと言えるからだ。
ムゲンの無実を証明すべく独断で事件の黒幕の捜査に乗り出たルーイエは、事件の首謀者に繋がる妖精ジエニーホアン(皆逆荒)を捕えて見えざる敵をおびき寄せる作戦を決行する。一時戦場となった飛行機では不運にもジェットエンジンが大破し、飛行機は誇張抜きの胴体着陸劇によって九死に一生を得る。監修を入れたという各装置や計器などのディテールから、3DCGを駆使した機体描写のみならず、機内の人や散乱する荷物や酸素マスクに至るまで描き込まれたこのシーンは相当な苦心を要したことが制作者によりパンフレットで語られているが、その甲斐あってお世辞抜きに今まで見たことのないスペクタクルたり得ていた。
一人も死者を出さなかったのは不幸中の幸いというべきかもしれない。しかし、シャオヘイはここでルーイエが戦争回避を最優先事項として人々を危険に巻き込んだこと、そして何よりも最悪のシナリオでは死人が出ることもやむを得ないという判断をとっていたことを糾弾し、二人は決裂する。「第一印象最悪な良い人」と、ここまではムゲンを彷彿とさせる雰囲気を醸していた印象から一転、シャオヘイは同門の妖精であるにも関わらず価値観を異にするルーイエという他者と対峙することになるのだ。前作の「その先」を決定づけた局面であるため、シャオヘイにとっては最大の分かれ道といって過言ではない。
ここで、前作のハイライトのひとつに、かつては人間を疎んでいたシャオヘイが電車で巻き込まれた人々を助け、ひとりの少女から感謝される場面が想起される。ちょうど電車がトンネルを抜け光が射すカットで観客もまた転回を実感する。対照的に本作のシャオヘイはジェットエンジンが大破した際に、破片が機内に侵入するのをすかさず阻止するが、それが演出的に強調されることはない。ルーイエが車を徴用した時にも許可は取ったのか尋ねるし、人間を意図的に危険に巻き込んだのと知れば目上の姉弟子であっても憤慨する。ムゲンに弟子入りして以来、規範や道徳を身に着けたシャオヘイが、本作ではその膝下を一時離れて綺麗事では済まない現実に直面する。そのコンフリクトが、わかりやすく悪魔化された「敵」などではなく、同じ師匠を持つ同門の妖精によってもたらされる展開に、自分は大いに唸らされた。その価値観の違いという個人同士の衝突が、そのまま戦争という殺戮を引き起こしかねないのだというメカニズムを形成するのだ。
そのような危険を冒したルーイエが、黒幕のリンヤオ相手に取ったリアクションは、その根深さを物語っているといえよう。たしかに、戦争勃発の果てに生じる夥しい犠牲の数を思えば飛行機の乗客の命を賭してでも未然に防がなかればならないとする「犠牲の論理」には、大多数を優先するのであれば一定の理があるように思える。しかし、その理こそがシャオヘイとの間に不和を生じさせ一度は離別するきかっけを生んでしまった。
一方、流石の事件を問い詰められたリンヤオもまた「犠牲の論理」を持ち出す。いずれ人間が妖精を凌駕し戦争が起きればこちらが大きな被害を受ける。だから未然に行動を起こすのはリンヤオにしてみれば合理的であるし、計画の要であるルオムーを管理しながらも協力を断った流石会館を犠牲に差し出すのもまた合理的なのだ。皮肉にも、リンヤオとルーイエはある種同じ「戦争を止める」という目的を持ちながらも、その手段の相違をめぐって手を取り合うことはできない。流石会館を必要な代償だと聞かされたルーイエがあの局面で憤慨したのも、タブーである同族殺しと、リンヤオに自らの鏡像を見てしまったことからくる嫌悪が背中合わせになっている。かくして、望む望まないに関わらず、誰もが戦争に引き寄せられてしまうという引力が描かれている。
戦争に対する理想主義というリアリズム
ここまで語ってきたように、今作は反戦・非戦の精神を語る上で、いずれ想定される危機を回避するためのリアリズムを行使していくと否応なしに戦争に向かってしまう様相をそれぞれの魅力的なキャラクターに担わせ、そしてスピーディなアクション描写でスリリングに提示するということをやってのけている。それでも戦争を回避するために今作が提示している姿勢とはどのようなものか。
それは、今作の終盤に置かれた展開を見るに、人はみなどうしようもなく戦争に引き寄せられてしまうというリアリズムを認識したうえで、それでもなお真っ向から対峙しようという理想主義のリアリズムなのではないか。
今作ではルーイエ&シャオヘイが事件の黒幕を突き止めて事態の収束を言わば原因療法的に図ったが、その裏で会館の捜索隊は敵基地からのルオムー奪還という対症療法的な解決を図っている。
しかしながら、奪還作戦を任されたチーネンはクロント基地での弔い合戦では歯止めがきかず、強固な防衛力を持った敵基地に呼応するように大きな戦力を投入し、事態はエスカレートする兆しを見せる。その戦争前夜の空気の中で現れたムゲンの存在は、虚構的でありながらもそのまま今作の戦争を止めようとする抗力を象徴する。
あのまま一級執行人数十人が雪山の基地へ向かえば敵との衝突により双方に死傷者が出る最悪の事態に対し、ムゲンがナタと口裏を合わせた上で行ったのは転送門広場で争うという壮大な芝居だった。結果、過熱した空気の沈静化に成功するが、事態を膠着させ、歴史ある転送門が破壊されかねないという目下に迫る危険を見せつけることで、戦争が起きた際の被害を事前に警告したとも言い換えられるのかもしれない。目の当たりにしたからこそ、チーネンはムゲンの出動をやむなく許可するという様子見と保留の判断をくだすことができた。戦争が起こる前は威勢よく流れに身を委ねられるものなのかもしれないが、それがもたらす惨状を十分に考慮することはできず(また起きた後の被害をコントロールできるわけもなく)、その危うやを具体的に直視することでしか止まれない。この一連のアクションシーンからはそうした寓意が潜んでいるように思える。
そうして、弟子たちが肉体に鞭打ちながらやっとの思いでリンヤオを捕らえたシーンの裏側で、師匠であるムゲンが圧倒的な強さで敵基地からルオムーを取り戻すアクション的な見せ場としてのクライマックスが訪れることになる。ここのシーンが見た目からして面白いということにやはり大いに感心させられる。Tシャツにスウェットパンツで雪山の夜空をホバー移動しながら兵器をものともせず突き進んでいくという絵面は、他のアニメーションでは観たことのない面白さを獲得しているし、何よりもそれを見て観客が笑えるということがこの作品において非常に重要なのだ。このシーンでそうした笑いが成立するのも、冒頭の流石会館襲撃や中盤のクロント基地襲撃とは対比されているが故だ。それらのシーンでは(画面上は控えられているにしろ確実に)多くの血が流れていたのに対して、ムゲンは敵の攻撃に一切反撃せず、文字通りの無血開城を実現してしまう。チーネンが基地に大穴を開け崩落させながら突入したのとは異なり、ムゲンは呑噬(日本語翻訳では己界)によって「穏当に」司令室へ到達するのが対照的だ。もしあのまま一級執行人が突入していたら、あるいはムゲンが反撃していたら、死傷者が出てこのシーンはまるっきり笑えないことになっていたはずだ。言ってしまえば、直進して曲がって落下するだけのアクションがこれほどまでに多層的な意味合いと面白さを帯びていることに驚かされる。
ここでのムゲンの強さというのは現実においてはありえないし、しかもそれほどまでの力を持ちながらあくまで平和主義というところまで含めてムゲンの存在は飛び抜けて理想主義的と言える。しかしそれでも尚この光景が現実と重なるのは、実のところ平和という状態は、本来戦争がいつ起きてもおかしくない状況下においても、そうした理性の抗力によってぎりぎりの所で保たれているに過ぎないものであると説いているからなのかもしれない。作中ではこれだけ戦争に向かっていく動きをある種説得力をもってリアルに描いているにもかかわらず、それでももう一方の反戦・非戦という理想主義を追求しなければ戦争は回避できないというもう一つのリアリズムを描いているのだと受け取れる。
振り返ってみると、そうした戦争を止め得た要因は、何もムゲンだけではない。襲撃事件の容疑者ムゲンの扱いについて慎重な判断をくだしたユーディにしろ、人間への敵意から騒ぎを起こしていた妖精を止めに入ったシームーズ(西木子)にしろ、強硬な突入作戦をすんでのところで踏みとどまれたチーネンにしろ、人間たちの死者を出さないように尽力した甲と乙にしろ、黒幕を突き止めたルーイエにしろ、そして姉弟子との間に潜んでいた溝に直面しながらも答えを保留し一先ず助けにいったシャオヘイにしろ、誰か一人欠けていたら今回の事件をきっかけに致命的な危機が招かれていたかもしれないのだ。
事件の収束後にそれまでシャオヘイ達が関わってきた妖精や人間たちが日常を取り戻しているシーンを見て、もし戦争が起きていたら失われていたかもしれない景色なのかもしれないと想像させるのと同時に、流石の件を理由に人間を攻撃していた片角の欠けた妖精もまた紛れもなく市井のひとりであるとさりげなく映している視点の鮮やかさにも驚かされる。戦争はぎりぎり回避されてもそこへと繋がる異なる者同士が抱える不和は日常と地続きなのだ。報告書を読んで眉を顰めていた政府の高官の描写で緊張を纏わせている点も見逃せない。この件で会館側は対外的には黒幕の存在と事件の全容を伏せた報告をせざるを得なかった余波を映しており、未回収のルオムーと合わせて、純然たる平和が取り戻された訳では無いことが示唆される。結局はリンヤオの語る通り、妖精と人間の関係はこの世界で厳しく問われ続けるということだろう。
世代と立場を越えて
戦争を阻止するというスケールの大きい物語をこのように様々な登場人物の視点や、異なる種族同士の共存と対立によって提示する筆致は前作から深化・発展したものだと言えるだろう。だが、それでも『羅小黒戦記』は個の物語を疎かにしない。むしろ戦争と平和という大局観を掲げながら、シャオヘイ、そしてルーイエという「子ども」をそこに与していく存在として描き、物語の幕を閉じる役もまた一個人の目線に委ねられている。
もう一人の主人公とも言えるルーイエは、シャオヘイと同じ妖精でありながら異なる内面を持つ人物として位置付けられている。人間の手によってかつて住んでいた場所を奪われ、初めは強くなるためという打算からムゲンに師事することになる経緯は概ねシャオヘイと同じであり、言ってしまえば前作『羅小黒戦記』の変奏でもある。冒頭のムゲンの下でのシャオヘイの修行と日常のモンタージュは独りで放浪していた前作冒頭との対照であるのと同時に、クライマックスで流れるルーイエのムゲンとの距離感を描いた回想とも対置される。
一つ明確に異なるのは、ルーイエはかつての仲間と師を喪い、その傷を未だに内に抱え続けているところだ。両者は同じ修行を積んでいても、住処や食卓に加え余暇までをも共にしていたシャオヘイと、打ち解けていく部分はあってもそれらを共にしないまま巣立ったルーイエとでは、その足取りは微妙に異なっている。食事シーンでシャオヘイがムゲンの拙い料理を食し続けて上達の兆しがあることが明かされる緩やかなユーモアは、ここにおいて非常にシリアスな両者の違いを浮き彫りにする。冒頭では映画を互いに隣り合って楽しむ師弟の姿がある一方、人里で舞を鑑賞する師を遠くから眺めるに留める弟子の様子、はたまた共に歩いている時の距離感など、とにかく言葉にされない部分でこうした微妙な差異が醸し出される。
そうした心の壁を持っているが故に、シャオヘイとの共闘により事件が決着を見た後になっても、ルーイエは「(もし戦争が起こったら)妖精につく」と宣言する。シャオヘイとの「正しい方につく」というシャオヘイとは意見を違え、飛行機の一件以降露わになった両者の間の溝は結局埋まらないまま、しかし仮初にも思える平和が続いていく。
このシーンにおいては、シャオヘイもまた戦争と隣合わせの世界の一員として描かれているのも印象的だ。ルーイエの土地で戦争を起こした人間達がすでに死んでいたと知るや復讐できないことには素直に怒りを示す。あるいはこうした複雑な状況下においてもなお「正しい方につく」という率直さを見せるが、ルーイエとの埋まらぬ溝を前にすれば今はただ茫然と空を仰ぐことしかできない。シャオヘイの純真さは直ちに世界を救えないどころか、実はそれ自体も戦争の引き金にかけられた指先の一本と取ることもできる。
戦争を止めるため各々が取った行動はすべて戦争へ通じかねない危うさが潜んでいて、最強の執行人たるムゲンとてその力ゆえに妖精からも人間からも恐れられ、例外なくその重力場に囚われている。
しかし、そんなどうしようもない世界の桎梏を見せつけておきながらも、本作は「戦争はいずれ起きる」という諦めに屈服せず、実にささやかな出口を描くよって希望を示していることを私は高く評価したい。
その思いを見て取ることができるのがあのラストシーンだ。シャオヘイは種族の違いを越えてムゲンと共に行くことを涙ながらに伝えていた前作とは対照的に、ここにおいてルーイエは極めてさりげのない別れの挨拶を告げて去っていく。直前、ルーイエは初日に顔を合わせる前にシャオヘイとムゲンの様子を遠目から見ており、そこに自らの幼少の姿を重ねていたことが明かされ、さらに事件を経て改めてその光景を思い出していたことでラストの一言に接続される。
ルーイエはムゲンの下を巣立った後も、独自に能力を開発し執行人として活躍する中で、時折かつての師の姿を視界に捉え、やがて自らも弟子をとる、その長い時間の中でゆっくりとかつての時間を認められるようになっていく様が、セリフに一切頼ることなく、心情に寄り添いながら豊かになっていく劇伴や、抑制された引き画による情景描写やここに至るまで緻密なキャラクターの動き(演舞を見ている聴衆に至るまで息吹がある)、かと思えばここぞという所で焦点を当て機微を拾い上げる表情芝居の妙、それらが時間の経過を省略によって体感させる鮮やかな演出に包まれ紡がれていく。
セリフを介した手法を徹底して回避したことにより、流れていく時間に身を委ねている内にあっという間に現在へと至った主観の感覚が確かに観客にももたらされる。その上で、最後にルーイエがシャオヘイに見出した幻影は、あり得たかもしれないifの姿ではなく、シャオヘイのそれとは形は違えど他者と自信とを重ね合わせられるようになったルーイエの受容そのものだと捉えることができる。払い除けてしまったお菓子や離れ家を建てている時に貸し与えられた工具など、向こうからの歩み寄りはいつもそこにあった。有り体に言ってしまえば、ちょっと遅れたタイミングで、自分もアイスを買ってもらっていたことに気づいたということでしかないのだ。
それは客観的に見れば、ましてや戦争勃発の危機という大きな物語を語った本作においては、あまりにも小さくあえかな気づきなのかもしれない。しかし、異なる者同士にあっても共に過ごした時間を認め、同種であっても異なる考えを持つ次の世代と交わった果てに、ルーイエが告げた最後の一言もまた間違いなくこの世界を形作る歩み寄りなのだと言い表せる。ルーイエが去っていく裏でシャオヘイが再び遊びに来ることをムゲンに尋ねるやり取りからも、次世代を媒介に壁を越えんとする希望を見出せる。
これだけ卓越した演出力、表現力を持ち、かつてない映像表現で戦争に向かっていく危機を娯楽たらしめた本作は、間違いなくそうした文脈上でアトラクティブという意味での面白い作品として名を残しても異論はない。しかしその上で、いかなる時も忘れてはならない人の在り方を希求した本作が、反戦を唱えた多くの偉人たちと共に後年アニメーション史に名を刻むことを祈るばかりだ。最後に交わされたやり取りが戦争という巨大な流れに逆らうささやかな小川であったとしても、その善良さを信じる態度は本作を観た者が持ち帰ることのできるたしかなものなのだから。
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