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こんにちは、夜中にレッドブルを飲みながらこれを書いているワタリ(@wataridley)です。
今回はピーター・ファレリー監督の『グリーンブック(原題: Green Book)』の感想になります。主演をヴィゴ・モーテンセンが務め、旅の相棒をマハーシャラ・アリが演じています。
今作は日本公開前のアカデミー賞にて、作品賞・助演男優賞・脚本賞の3つの部門で最優秀賞を獲得したとあって、早く見たいという気持ちでいました。
マハーシャラ・アリは、『アリータ: バトル・エンジェル』ではパッとしない役どころが逆に印象に残ってしまっていたのですが、今作では彼の低音ヴォイス、抑えめな表情の中の確かな移ろい、スマートな出で立ちでこちらを魅了し、大きく名誉を挽回。ヴィゴ・モーテンセンもいけ好かない感触を徐々に変えていき、遂には親しみやすく頼もしい友人のように感じさせる絶妙なアクトでした。
この魅力的な2人を見守ることが神髄であり、そこから自ずと主題も見えてくる作品です。細かなエピソードの連続の中に、それぞれのパーソナリティと変化を見出すうちに、どんどん作品世界に引き込まれていきました。
今作の持つ魅力を語ります。例のごとくネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。
81/100
ことばと行いから見えてくるふたりの気質
腕っぷしが強く口もよく回るイタリア系のトニー・バレロンガと学も富もあるストイックなピアニストのドクター・シャーリーは、人種も境遇も性格もまるで異なっている。そんな2人が同じ車に乗って黒人差別も色濃く残っていた1962年のアメリカ南部を旅するというのだから、タダで済むわけがない。
幕開けから幕引きまで、人物描写が丹念になされている。そのおかげで、時代を越えた異国にいる自分が彼らの知己にでもなったような気さえしてくるのだから不思議なものだ。
“トニー・リップ”の近寄りがたい第一印象
冒頭の音楽パブのコパカバーナに勤めているシーンから、トニー・“リップ”ことトニー・バレロンガは店内で起きたトラブルを拳で荒っぽく解決し、自作自演の帽子紛失騒動を解決することでお偉い方への恩も売りつける。拳に物合わせ、達者な口でうまく立ち回る男。それがトニー・リップであることを初っ端から理解させられた。トニーが暴れる男をつまみ出す際も、バーで歌っていた男性歌手は相も変わらず歌い続ける。その様子から察するに、どうやらこれがトニーの日常らしい。
冒頭に彼がどういう人物なのか?ということを示すヒントが張り巡らされており、おかげで話の導入からトニーが起こすアクションの意図を明確に捉えることがでるようになっている。
続くエピソードでも、彼の粗野なライフスタイルはひっきりなしにお披露目されていく。上司を殴ってクビになったという話が親戚たちとの食事で出たように、やはりなかなかの厄介者であることがわかる。また働き先のコパが休店の間には、ホットドッグ早食い競争で太っちょな男に勝利し、なんとか日銭を稼ぐ。ある時はバーで男たちから、具体的な内容を明かさない危険そうな仕事を斡旋されそうになることだってあり、どうも安定した生活を送っていたわけではないらしい。ペンはくすねるわ、他人のタバコにも集るわで、手癖も悪い有様だ。
それに、黒人の配管工に出されたカップはゴミ箱に放り込むことだってするし、口の上では偏見は無いと言いながらもいざ深く関与しなくてはならないとなった時には仕事を断ったりもする。時代背景やイタリア系の親族との連帯感故に仕方ないところはあるのかもしれないが、先入観や偏見にも無批判な姿勢を取っている。
こうして、みるみる自分とトニーの間に距離が作られていく。彼は差別的な考え方を省みはしないし、利己のために暴力やイカサマも厭わない。正直、現実で彼と対面してしまったら、何事もなくその場を済ませてしまいたくなること請け合いだ。演じているヴィゴ・モーテンセンの奥目が最初の頃は怖く見える。
だが、ドクター・シャーリーとの旅を続けるにつれ、その窪んだ瞳はどんどん味わい深いものへと変わっていくことになる。
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ご高名の裏に孤独を抱えるドクター・シャーリー
ドクター・シャーリーは才気あるピアニストであり、カーネギーホールの上にある絢爛な飾り物がたくさん置かれた部屋に住んでいる。使用人まで遣わし、高価そうな衣に身を包んで登場するや否や、彼の口から出てくる言葉のイントネーションや発音は、トニーのそれとはちがってエレガントである。言葉遣いからして、2人の間には大きな隔たりが見て取れる。
しかしもどかしいことに、前半部分ではトニーの人物像が明確に描かれる一方で、このドクの心情や背景は前半のうちはなかなか見えてこないという構成を取っている。彼は差別が激しい南部へコンサートツアーに挑むものの、その目的はわからない。更に言うと、彼が辿ってきた経緯や現状すらも雲に隠れたまま、トニーとの2人旅を始めることになるわけだ。
旅だってすぐの車内における会話では、彼がアルコールのカティサークを部屋に持ってくるよう指示する理由はまったくわからないし、一緒に飲もうかというトニーの提案も取り下げてしまう。
わからないことだらけだったドクター・シャーリーの人物像は、トニーの目線を介して徐々に明かされていく。
最初にシャーリーの内面を窺ったのは、ピッツバーグのホテルでの一幕だろう。女性たちと楽しげに声を弾ませるオレグやジョージを、彼はひとり酒を手に静観していた。
ステージに立つと、そうした寂しい姿とはかけ離れたプロの顔を見せる。丁重な挨拶から入り、いざピアノに手を載せると、場の空気を一変させるパフォーマンスを発揮する。彼はスタンウェイしか引かないし、ピアノの上には物を置かないという拘りを見せるほど、高いプロ意識を持っている。
しかし、ツアーを進めていくと、ステージ上で注目を浴びる一方で、陰では多くの問題に直面していふことがわかってくる。当時は当たり前のようにあった人種差別のせいで、夜間外出もバーで飲むこともままならない。服飾店で試着するなんてことさえ拒否されてしまう。こうした数々の理不尽を前に、彼が取る行動は決まって忍耐である。
更には、白人から受ける差別に限らず、同じ黒人からも階級の違いから迎合されることはない。トニーの言うように「宮殿暮らし」の彼は、道中見かけた農園で働く黒人たちとは隔たりがあるのだ。ピッツバーグにおける最初の演奏会でも、中に入れない使用人の黒人たちとトニーがギャンブルに興じることを好意的には見ていなかったことのも、こうした心理が働いていたのだろう。
そんな苦境に置かれてもなお、彼は暴力を振るってしまったトニーを咎め、尊厳こそが唯一の勝利なのだと口にする。変えようのない人種という属性で差別されようとも、暴力で訴えることだけはあってはならないとする彼の高潔な精神は、とても眩しい。ケンタッキー州でリンチされた翌日のコンサートでも、そのことを恨むのでもなく、歓迎への感謝を堂々と表明する姿には、トニーも同様に感心していた。
だが、これは捉えようによっては、消極的な態度であり、一種の諦めと言い表すこともできる。彼の家族についてのエピソードでは、特にそのことが伝わってくる。
自らの家族についても打ち明けたドクは、結婚歴や兄との仲について口にしていた。彼は妻ジューンとはピアニストと夫の両立が困難だったため離婚に至ったと言い、またピアニストであることで兄との進路が分かれ、疎遠になったのだとも言う。そこに憧憬のようなニュアンスはとくに読み取れず、ドクは淡々と語っていた。しかし、後にトニーから「自ら歩み寄らなければならない」とアドバイスされていたように、ドクは本当は兄との関係を修復したかったのである。
差別を受けてもひたすら耐え、家族と離れ離れになってもアクションを起こすことはなかった。そんな寡黙な男が、敢えて差別の激しい地帯に足を踏み入れたことは、勇気をもって今の自分から脱却したかったからなのかもしれない。
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しがらみから解き放たれる2人
彼の妻ドロレスは、トニーの性格はそうそう変わらないと考えていた節がある。捨ててあったコップを拾い上げてつくため息には、怒りよりも呆れの方が多分に含まれているようであったし、その件を本人に告げることもしない。ドクターが黒人と知ると、彼女も親戚も運転手は続かないだろうというのが大方の見方であった。
だがトニーは、その性格の大部分は変えないままに、ドクター・シャーリーとの出会いをきっかけに一部分を変容させていくことになる。
当初は、黒人はみんなフライドチキンを喰らい特定の音楽を聴くと決めつけ、ドイツ人に対する過激な発言をあけっぴろげに口にする浅はかなこの男は、ドクと同じ車に乗ってコンサートを成功させるという共同作業を通じて、柔軟な見方を身に着けていく。
ピッツバーグの演奏会では人種の垣根を超えてヴィルトゥオーソと褒め称えられるステージ上の彼を目にし、大いに感心しながらそれを見守る。ドロレスへ送っていた手紙の中でも早々に彼の演奏技術を賞賛していた。
その手紙の内容からは、徐々にトニーへの理解が進んでいく様子が伺えるのも面白いとも思う。最初はトニーを天才だと認めつつも、彼の心の奥底までは見通せない不安を毎日のハンバーガーやケチャップで味付けられたパスタといった食べ物で表している。1通目、2通目と文章の調子も滑らかになっていき、途中ドクと一緒に手紙を書き始めることになる。手紙で彼の胸中を語らせ、やがては2人の共同作業となっている。
だが、旅は順風満帆とは行かず、ドクへの風当たりは強くなっていく。ある時はボロピアノを充てがわれ、ある時は野晒しのトイレを案内され、またある時は演奏する会合の場で食事をとることも許されない。仕事をやり遂げるドクは、トニーの目からは紛れもなく人間そのものと映っていたはずなのに、世界は彼を白人と同等には扱わないのだ。
ドクが執拗に受ける攻撃を持ち前の対応力で回避する中、トニーは我が事のように彼の苦衷を察せざるを得なくなる。
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この映画がロードムービーとして優れているのは、人物描写と旅を通しての変化の両面を精細に描いていることにある。それでいてどちらか一方通行にはなっておらず、相互に影響を与えあう積み重ねになっている点が心憎い。
トニーは、それまで無自覚にしてきた差別を自覚し、そこから抜け出してゆく。だが、旅路では相変わらず厄介ごとを解決する腕は活かすし、その腕で養っている家族への愛情はドクの心を動かすことになる。
トニーに手紙や発音矯正を教える時の暖かいやりとりは、ドクにとっても安らげるひと時だったのだろう。
ある日、警察からの連絡からYMCAで男と出会っていたことが露呈してしまい、塞ぎ込んでしまったドクは、その後のホテルに到着しても恥じらいからトニーの気づかいに応じることができなかった。ギクシャクした心持ちでいる時、たまたまトニーが知人と再会し、そこでイタリア語の会話を耳にしてしまった彼は、居ても立っても居られなくなり、トニーを正式な世話役として雇用することを提案する。
対人関係において中々素直になれないドクの切実な踠きが現れているシーンである。「友人だから」ではなくあくまで契約関係の枠組みで話を持ちかけるところが、見るからに不器用だ。だが、トニーは彼のセクシャルマイノリティーにも理解を示し、損得勘定からすれば逸れた判断を下す。この時点で2人は、表ではぎこちなさが残るものの、底では通じ合っていることを実感させられた。
このシーンからわかる通り、ドクは対人関係において、自らが望む方向に素直に進むことができない人物として描かれている。兄は自分の住処を知っているから、向こうから来てくれるはずだと思っている。だが、そんな彼にトニーは「自分から歩み寄らないと」と背中を押す。愛のことばを拙い文法と語彙で一所懸命に綴っていた彼だからこそ、投げかけることのできるアドバイスだ。
無学な男から愛にとってたいせつな積極性を学んだトニーは、その次のシーンで明確に変化の兆しを見せる。車はVIP待遇を受けるのに、今夜ピアノを弾くドク自身は物置小屋に案内されるという皮肉な状況に置かれても彼はいつものように耐えていた。だが、自分のために怒りを露にするトニーを目の当たりにした彼は、我を通して会場を後にする。
かくして相手を理解し、尊敬し合う2人はしがらみから解き放たれた。トニーとドクは黒人と白人でも教養人と庶民でもなく、1対1の人間同士である。どこの誰だかわからない奴が打ち立てたしきたりなんざ蹴飛ばして、嫌な奴からの仕事をバックれて、2人でカティサークを飲み、フライドチキンを食べる。上流階級の料理なんかよりも、もっと美味しく楽しい時間がそこにあったのだ。
また、このシーンではドクが初めて仕事仲間以外の人間と協奏を遂げている。モーテルでひとり酒を飲んでいる時にゲームの誘いを断り、自らをはぐれ黒人だと称していた彼が、音楽を通じてバーの聴衆たちと同居する。ここに、かつてのはぐれ者の姿はいなかった。
そして映画のクライマックスではドクからトニーへの働きかけが描かれる。クリスマスイヴの夜にトニーの家族たちが賑やかにパーティを楽しむ一方、物は多く置かれているのに静寂に包まれた部屋で1人きりとなったドク。1人部屋で緑色の石をドクが見つめるシーンに、もう終わってしまった旅に想いを馳せる心情が滲み出ていた。
孤独はやはり寂しい。自ら歩み寄るんだというトニーの言葉をその身に受けていたドクは、彼のパーティに訪れる。
こうしてトニーは自らの差別意識を、ドクは孤独を取り払うことができた。両者とも、実は他人を切り離して生きていたという点で共通していたのかもしれない。差別は些細な理由で人を遠ざけ、孤独もまた塞ぎ込むための動機に使われうる。それらを克服した2人は、最後には同じクリスマスパーティにたどり着き、友人となった。必然的かつ、暖かな着地である。
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緑の車の中で
トニーとドクは、外界と仕切られた車の中でコミュニケーションをとる。ピッツバーグ、カルフォルニアといったアメリカ南部を旅して回る中で、車はある意味で彼らの定住場所と言えるだろう。
この狭い空間には、2人の関係性がそのまま映し出されていく。
旅立ちの初日には、互いの考え方の違いから露骨に会話は噛み合わず、片っぽだけがムシャムシャとサンドイッチを喰らう。トニーが吸うタバコの煙は、車内の空気を二重に淀ませる。
石を盗んだ時には、サービスエリアで停車して腰を落ち着けて2人で語り合うものの、真っ直ぐに視線を向けるのはドクだけ。トニーはそんな彼の目を背中で気まずそうに受ける。背中越しに説得されてようやく石を返すものの、トニーの扉の開け閉めは乱雑で、明らかに不服そうだった。
2人が互いを理解していなければ、車内も楽しげには映らない。そして、後半になるにつれて、これがひっくり返る。
運転中の散漫な注意を咎められていたトニーは、ドクの仕事を間近で見ているうちに、手をハンドルの10時と2時の位置に置いて運転するようにもなる。タバコを吸うことはなく、寄って買ったケンタッキーもドクと共に齧り付く。旅立ちの前には、ドクの使用人に荷物を収納させてはいたが、ケンタッキーに着く頃には荷物を自然とトニーへ渡す姿が見られる。とてもさりげない描写の数々に彼らが旅で育んだ信頼関係みたいなものが見えて、想像力を刺激される。
車を取り囲む天候も、彼らが置かれた状況に呼応して変化している。激しい雨に見舞われた夜には、警察官から疑いの目を向けられる。また、その後のドクとトニーがお互いの感情を発露するシーンでは、あたり一面の暗闇がドクの行き場のない苦しみを浮き彫りにする。
ラストでは雪が降り、車はいよいよ旅の最後の目的地に近づいているのだと知らせてくれる。
最後には車を媒介にして、ドクとトニーの契約を越えた友情が描かれており、自分はここがとても好きだ。
旅の初めに「クリスマスイブに着けるか?」と問うていたトニーに対して、ドクターは他愛のない返事をする。前後に本番のピアノはスタンウェイを用意することや、夜にはカティサークを1本自室に持ってくるように指示を出したり、タバコの火を消すように頼んだりと、ビジネスライクな会話に遮られ、イブの件は流れてしまう。
イブに着くかどうか怪しいという頃合い、豪雪の中を進むうちに眠気がさしたトニーの代わりに、ドク自らが初めて運転する。
ドクにとっては、イブに到着する必要性は全くない。しかし、この時は友人が暖かく明かりに満ちた家に着けるよう、彼自らが手助けをする。ここに金銭や契約といった打算はない。確かに、ドクからトニーへの素朴な思いやりに溢れたシーンだ。
場所から場所へ移動していく中で2人の居場所は首尾一貫して緑の車だった。最初は財布を持って出るぐらい用心していたはずのトニーは疲れても車内で安心して眠ることができるようになっていた。終わり際には、彼らにとっての第2のホームと化していたのだ。
最後はトニーの奥さんに電話越しにした約束の通り、彼を無事に送り届けた。2人の旅の締めくくりに相応しい帰郷と言えるだろう。ついでに、看破されていた手紙の件はトニーとドクの凸凹な関係を窺わせ、余韻を爽やかにしていた。
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まとめ: 旅に同行したような心地
『グリーンブック』は、時代と社会のしがらみから2人が解き放たれるまでをユーモア交じりに語り、深刻になりすぎない塩梅で見守り続けられる作品となっていた。
疑いようもなく人種差別を主題に扱っているものの、当時の苛烈な差別描写は見やすく中和されている点において、若干賛否が分かれるとは思う。実際、実話にインスパイアされたといっても、地に足ついたリアリティよりも、フィクション特有のふわりとした浮遊感はある。
だが、そうしたフィクション的な技巧がありとあらゆる面で発揮されたことにより、観る者をロジカルに引き込む優れた映画となっている。音楽やカメラ、小道具の使い方などの細かな要素も評価しつつ、やはり最大の見どころはトニー・リップとドクター・ドン・シャーリーのキャラクターだ。個性をぶつからせる彼らの会話や、各々が垣間見せる機微に見入り、途中から心底肩入れしてしまった。
まるで彼らのことを近くで見守っていたようなちょっとした徒労感と安堵がじわりと広がる心地の良い映画だった。