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こんにちは、ポップコーンブロガーと化したワタリ(@wataridley)です。
今回は『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生(原題: Fantastic Beasts: The Crime of Grindelwald)』を鑑賞した上でのレビュー。
『ハリー・ポッター』といえば、誰もが一度はその名を耳にしたことがあるであろう大人気児童文学およびその実写化映画です。自分も幼少の頃より『ハリー・ポッターと賢者の石』からリアルタイムで展開を追ってきました。
いったんのシリーズ完結後にスピンオフとして始まった『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』も胸をときめかせて公開日に観ました。こちらはハリーとヴォルデモートの対決の数十年前、1926年を舞台にしており、ニューヨークで魔法動物たちが巻き起こす騒動とその解決に奔走するニュート達の賑わいは本流『ハリー・ポッター』とはまた異なった趣があります。
しかし、そんな前作のある部分において眠気を誘発されてしまうことがありました。それはクリーデンスとグリンデルバルドにまつわるドラマ部分です。上記の「魔法動物探し」と対比的に陰鬱気味なトーンで語られるクリーデンスの身の回りの不幸は、ニュート達のドラマを一時停止させてはぶつ切りに挿入され、おまけにニュート達とどのように関りがあるのかも掴めない。終盤で一気に合流し、魔法界にとっての脅威グリンデルバルドの正体も明らかになるものの、振り返ってみると面白かったのは主にニュート達一行と魔法動物に関する物語に偏っていました。
今作ではそのクリーデンスとグリンデルバルドに抗するべく、ニュートがフランスのパリへ向かうという筋書きになっています。更に『ハリー・ポッター』において重要な役割を担っていたダンブルドアも若き姿で関与してくるというのですから、前作以上にシリアスな作風に転じていかざるを得ないことは観る前からわかりきっていました。
鑑賞した感想として、今作は前作以上にシリーズ化を意識した話運びとなっており、そのせいで非常に中途半端な作品となってしまっていました。単刀直入に言って『黒い魔法使いの誕生』は映画の核たる物語を欠いており、ニュートと魔法動物がかえって邪魔になってすらいるように見受けられました。
以降、この結論を導く要素を書き出していきます。ネタバレしていますので、鑑賞後に読まれることを推奨します。
48/100
目次
そもそもニュートは蚊帳の外にいるから主人公たりえない
ハリー・ポッターは物語の主人公だった
いきなりここで自分語りをさせてもらう。自分が『ハリー・ポッターと賢者の石』を見たのは、小学校低学年かそのあたりだ。ハリー役のダニエル・ラドクリフは当時11歳とあって、年齢的には同じ子どもにカテゴライズされる。
だから、自分にはハリーが全くの他人には見えなかった。彼の不遇な生い立ちにしたって、自分のコンプレックスや嫌な思い出と重ねて無意識のうちにそれを親近感へ換えていた。そうして彼がハグリッドによって魔法界へと導き入れられる様をあたかも自分の見ている景色と思えたし、それが映画の長所である作品世界への没頭の原体験となった記憶もある。
ハリーは変わり者の人々と出会い、摩訶不思議な生物や魔法に触れ、成長していく。しかし、待ち受けていたのは幸福ばかりではない。そのうち魔法界に潜む問題や「名前を言ってはいけないあの人」といった過酷な現実にも直面していく。言ってしまえば魔法ファンタジーらしくはない生々しさを見せつける場面もあった。だが、ハリーという男の子のはじまりから終わりまでを眺めていたからこそ、そうしたシリアスな問題にも一緒に立ち向かっていくことができた。
第一作目の時点でハリーの額の傷や実の両親が不在であるという境遇、魔法界で特別視される様子を通じて、宿敵ヴォルデモートとのドラマに彼が重要な役目を持っていることが示唆されていた。
前後編に分かれた『死の秘宝』を除いて、全8作の映画それぞれにおいて、ハリーの1年に起こった事件を描いている。学校の噂にある「秘密の部屋」探し、危険な囚人が脱獄したという騒ぎ、魔法学校の対抗戦といったそれらは「ハリーとヴォルデモート」のメインプロットを下敷きにしつつも、それぞれ魅力的な1話完結となっていた。魅力的だからこそ、追っているうちに自然と本筋も頭に入ってきたのだ。
『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』には、観客に対してこうした主人公への感情移入やメインプロットへの誘いがあったか。
答えは否だ。この物語においてニュートの肩を持ちたくはならないし、ニュートがグリンデルバルドとクリーデンスに立ち向かうことを応援する動機付けも全く見当たらない。
もちろん、「生き残った男の子」で所謂選ばれし者だったハリーのキャラクターをそのままニュートに転用するわけにはいかなかっただろう。スピンオフとして作られている状況からして、ニュートはハリー・ポッターの世界において本来スポットライトを当てられる存在ではなかったことが逆説的に証明されてもいる。ニュートがハリーに比べて特別ではないこと自体、何ら問題は無いのである。
しかし、物語をリードするか主題を提起する立場(Protagonist)にある以上、全く本筋に絡まないという道理はない。
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主体性のない主人公ニュート
『黒い魔法使いの誕生』のあらすじはこうだ。
魔法動物を保護するために世界各国を回るニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)は、ある時母校の校長ダンブルドア(ジュード・ロウ)に脱獄した闇の魔法使いグリンデルバルド(ジョニー・デップ)の野望の阻止と彼がつけ狙う青年クリーデンス(エズラ・ミラー)の救助を依頼される。一度は断ったものの彼の巧みな誘導に乗せられ、また彼が恋慕するティナ(キャサリン・ウォーターストン)に会ってある誤解を解くためにという動機から、クイニーと仲違いしてしまったジェイコブ(ダン・フォグラー)を伴ってニュートはパリへ向かう……。
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このメインプロットにおけるニュートの動機は不鮮明だ。「恩師であるダンブルドアから頼まれたから」では、魔法動物学者であって戦闘員ではないニュートが、危険なテロリストとの戦いに身を投じるほどの理由としてはあまりに薄い。
そこで今作はもうひとつのドラマを彼に託すことでその違和感を覆い隠そうとしている。雑誌の誤報(これも無理やり感が強い)によって疎遠になってしまったティナとの関係修復である。更には魔法使いとノーマジの恋愛というタブーに端を発したジェイコブとクイニーの間の亀裂も乗っかってきて、やっとニュートはパリへ向かう。
つまり今作のニュートはそもそもグリンデルバルドと敵対する動機が薄いために、無理くりにティナ、クイニー、ジェイコブとの痴話喧嘩を動力源に動いているに過ぎない。そして、その動機はグリンデルバルドの野望とは密には繋がらないというのだから、本筋にとってみるとただの無駄なのである。闇の魔法使いが今にもダンブルドアを殺すための計画を講じているというのに、ニュート達はそんなこと知ったことかと言わんばかりに恋煩いに勤しんでいる。
この本筋とニュートの距離感を象徴しているのが、パリにやってきてからの目的不明瞭で行き当たりばったりな捜索劇だろう。ポートキーを介してパリに着くや否や、ニュートはグリンデルバルドでもクリーデンスでもダンブルドアの旧友でもなくティナを探し始める。そして、羽を追った先でユスフ・カーマと出会い、ティナの元へと案内してもらう。ついていった先ではティナは捕らわれの身で、自分たちもまんまと閉じ込められる。それも難なく解除し、グリンデルバルドに植え付けられた寄生虫で意識を失ったユスフを尋問しようとするも、いきなり近くに現れたズーウーを捕獲する。そして、ダンブルドアから貰ったカードが示す地点に気づき、そこへ向かう……という具合だ。
これらの捜索からは、グリンデルバルドかクリーデンスに迫っている実感がまるで沸いてこない。追っているのはティナであり、彼女もまたクリーデンスの行方を知らない。しかも、目的が毎シーン変わっていくので、軸がぶれている。後に重要な語り部となるユスフもクリーデンスとの関係を初登場時に非常に簡素な台詞で済ませてしまいヒントはそれ以上ないため、重要人物として認識しようがない。威勢のいいことを言っておきながら簡単に寄生虫を植えられている間抜けさも思わず苦笑いするしかない。
そう、これらのパリ道中が示すようにニュート達は本筋から離れた場所で魔法生物を交えたどんちゃん騒ぎを行っているに過ぎない。ユスフを尋問しようとした際に登場するズーウーはその好例で、物語の進行を妨げる存在でしかない。いくら大暴れして画面を迫力で満たしても、ノイズが大きくなるだけだ。
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いや、ニュートの親友であるジェイコブとクイニーの間にある婚姻問題はグリンデルバルドの掲げる人間界の支配が影響を与えうる問題じゃないか、という指摘はあるかもしれない。その通りだろう。しかし、ジェイコブとクイニー2人の問題をグリンデルバルドの壮大な陰謀に結び付ける必要性はあっただろうか。そもそも、クイニーの結婚に反対したというティナ達家族の反対、しいては異種族間の差別は十分に描写されていたのだろうか。
答えは、どちらもノーだ。ジェイコブとクイニーは互いに相思相愛であり、結婚などの社会制度・風習を除くと関係を保つための障害は存在しない。彼らが仲違いする決定的な契機となったのは口論であり、あくまで私人間で解決すべき問題である。また、ティナ達が反対したという情報は台詞でのみ発され、その後ティナがジェイコブを邪険にみるといった様子も見せない。ジェイコブとクイニー以外に種族間の距離を示すサンプルも提示されないため、社会的な問題に映るほどの重大性がここに見えてこないのだ。
『ハリー・ポッター』におけるハリーだってヴォルデモートと直接関係のない些細な人間関係の悩みを抱えていたじゃないか、という指摘もあるかもしれない。確かにそうだ。だが、『ハリー・ポッター』における些末と思えるエピソードのひとつひとつはハリーの学園生活を彩る装飾として機能していた。『炎のゴブレット』におけるロンとの不和や『不死鳥の騎士団』のチョウとの恋愛模様は無くても「打倒ヴォルデモート」のメインプロットが綻んだりはしないだろうが、そうした人間的な悩みがハリーのキャラクターを立体的に描き出し、クライマックスで命を賭した戦いに挑んでいくというのだから感情を移入せずにはいられなかった。
今作において登場人物が後半まで引っ張っていたサブストーリーはどれもメインストーリーに寄与しないものばかりだ。ティナとニュートの単なる誤解は、グリンデルバルドの唱える平和を大義とした人間界の支配にとって何の意味も持たない。ジェイコブとクイニーは繋がり得たものの、内容が不足しているのでやはり繋がらない。クリーデンスに寄り添うナギニに至っては今作限りでは何の役割も持っていない。
テセウスやリタに関しても描写不足だ。ニュートが兄テセウスに少なからず抱えているであろうコンプレックスは、魔法省に侵入した際の普段の憂さ晴らしをしてやったというコメディでしか消化されていない。そうした劣等感やリタの問題を置き去りにして終盤共闘してしまう様には冷めた心持になってしまった。ホグワーツ時代に仲が良かったニュートとリタの微妙な距離感にしても、思わせぶりに提示しておきながら、物語において何の役割も持っていない。てっきりリタがティナとニュートの恋の障害になるのかと思いきや、本当に誤報の一件でしか意味をなしていないのだ。
ニュート達に尺をあて過ぎた皺寄せは重要人物であるはずのクリーデンスにも向かってしまう。終盤の展開を見るに、この物語は肉親がわからず精神不安に陥るクリーデンスの危険性を描きつつ、観客の興味を引く要素として彼の出自を核にしたかったのだと推測できる。残念なことに、それは全く実っていない。
クリーデンスの出自を明らかにするパートはニュートの視点、クイニーの視点、ティナの視点、リタの視点、ダンブルドアの…といった具合に多すぎる場面転換のうちの1つとして横並びにされてしまい、どれほどの重きを置いているのかが曖昧になってしまっている。それが終盤まで続いた結果として、クリーデンスの真実は説明不足のうえで2転3転することになる。「Aだと思ったらBだった。と思いきや実はC」という覆しが行われるにも関わらず、Aの部分、すなわちクリーデンスそのものの描写も物足りない。
前作から引き続きクリーデンスのパートは薄暗く、明瞭な楽しさがない。ニュート達が笑いを交えたやり取りをし親しみやすいと思わせる一方で、クリーデンスはリタ、ユスフとの関係性もあいまいなまま、ただ彼の悲痛な様子が映される。これでは、彼に肩入れするほうが難しい。前作において、魔法動物たちを捜索するパートが面白かっただけに、そのコントラストはクリーデンスのキャラクターを掴ませる上での躊躇を誘発させてしまっているのだ。だから、こっちとしては彼の出自云々は興味を持つべき対象ではない。しかし、物語上は彼の出自の真相こそがマクガフィンである非常に歪な構造である。
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ニュートが本筋と絡めない存在ならば、本来無関係なはずのクリーデンス達の種明かしに居合わせて、無理にでもメインキャラクター然と振舞うしかない。この真相を明らかにする場面では、説明台詞の窮屈さもさることながら、主役であるはずのニュートが観客と同じく全く口出しできない立場に堕してしまっている点に多大な違和感を覚えてしまった。申し訳程度にリタに励ましの言葉をかけるが、ニュートにとってのリタがどのような存在だったのかも定まり切らないため、かつて恋焦がれた女性への心からの言葉なのか、重たい空気のその場を和ませようと努める言葉なのかすらはっきりとはわからない。
メインストーリーとニュートが強い結びつきを持たない以上、導き出されるのは『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』においてニュート・スキャマンダーは不要であるという酷な結論にほかならない。
ただのマスコット、ただのその場しのぎな魔法動物
『黒い魔法使いの誕生』のプロットは、お互いに手出しできないダンブルドアとグリンデルバルドが、ニュートとクリーデンスを介して代理戦争を繰り広げるというものであったはずだ。それならば、ニュートはダンブルドアに従うべき相応の動機が必要であるし、またクリーデンスと相対すべき資質も問われる。しかし、ここまで述べてきたようにニュートには強大な闇の魔法使いを斃す物語をリードする能力はなく、ただ目の前の状況に対処するか周囲に流されるかのどちらかで、主体性を欠いたキャラクターである。魔法に関する才にしても、前作から引き続き突出していることがわかるシーンがない。
そんな不要であるはずの彼を立ち回らせる理由に魔法動物が使われているものの、それらは使役者が物語において不要であるがゆえに、どれも物語と自然な融合を果たしていない。今作の魔法動物はどれも、それがノルマだからと言わんばかりに機械的な登場を遂げる。
『ハリー・ポッターと賢者の石』におけるクディッチやチェスといった一見枝葉に見える競技は、彼らの個性をアピールしていた。クディッチはハリーの優れたる魔法の才を、チェスはハーマイオニーの敏き頭脳を。これによって、年端もいかない子どもたちが自分の持てる力を振り絞って事態を解決していくことへの説得力があった。
『黒い魔法使いの誕生』における危機的状況の解決手段は、主に魔法動物だ。しかし、それが魔法動物である必然性は薄く、また彼らの活躍の場は本流からほど遠いところで行われる。ニフラーとピケットは、ほとんどマスコット要因に留まっている。一見するとピケットは牢屋のカギをこじあけ、ニフラーならばティナ探索に一役買っている。ところが、考えてもみるとこれらはグリンデルバルドが与り知らないシチュエーションとなっている。ティナを探すこともユスフが彼女を捕えていたことも、枝葉でしかないのだ。そんな状況下で魔法動物たちが技能を活用しても、その場限りの面白さしか生まれ得ない。
前作『魔法使いの旅』では、ニュートが逃してしまった魔法動物たちが人命を奪ったのではないかという嫌疑をかけられる形でたしかに本筋のグリンデルバルドの企みと結びついていた。しかし、今作の魔法動物は冒頭のベビーニフラーに代表されるように、物語に密な関わりを持つことはない。
カッパ、ケルピー、オーグリーに至っては出てくるだけ出てきてこれといった見せ場もないという有様である。
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ズーウーはグリンデルバルドの手下が従える動物たちを巻くのに一役買ってはいた。また、正確にはニフラーはグリンデルバルドから血の誓約を盗むことに成功していた。しかし、ズーウーの大暴れは画面が激しい割に物語におけるそのシーンの重要性は全くない。現にこのシーンをすっぱ抜いたところで、前後のシーンは成立してしまうのである。クリーデンスの真相とニュートが根本的に無関係であるために、こっちとしては数少ない魔法動物の見せ場が空しく映る。ニフラーに関しては、マスコット的キャラクターにそんな重要な役目を負わせていいのかと思うと同時に、たかが動物に宿敵を抑止する切り札を奪われてしまうグリンデルバルドに間の抜けた印象を持たせてしまってもいる。
まとめ: 中途半端に幕切れしたから1本の映画たりえない
以上のことから考えても、この物語においてニュートが主人公である必要性は皆無だ。彼が使役する魔法動物の活躍の場も末梢的な状況下でしか与えられない。
その極みが終盤において蚊帳の外に置かれたニュート、魔法動物そっちのけで展開するラストバトルである。
先に述べた通り、今作はダンブルドアVSグリンデルバルドという構図をニュートとクリーデンスが代行するかのように語られている。だからこそ若い世代同士の思想を明らかにし、その対決に至るプロセスを濃く描く必要があるのだが、それは作中まるで試みられる気配がない。その痕跡すらない。
おそらくは次回以降に持ち越しということなのかもしれない。しかし、それならば本筋のほうは散々長話や設定のお披露目に終始した今作の価値は単体としては、非常に低いと言わざるを得ない。今作にはダンブルドアとグリンデルバルド、そしてニュートとクリーデンスという明確であるべき対立構造すら描き切れていない上に、散逸的に展開されたサブストーリーさえまともに解決されないまま幕を閉じてしまっている。次回作への布石を打つだけ打ってお終いとなると、物語の魅力は皆無だ。
シリーズにおいて次回作へバトンを渡す作品というと『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』を思い起こす。たしかにこちらもハン・ソロの身柄が拘束されたまま終わってしまうし、それに伴ってレイアと彼の恋愛成就も次回に持ち越しとなっている。また、ルークも衝撃の事実を知って次にどう出るのか?というのは気になって仕方がなかっただろう。
しかし、これらは旧三部作全体を包んでいるメインプロットの問題であって、『帝国の逆襲』中で展開されるドラマはきちんと完結していた。レイアとハンという反目しあう2人が危機的状況の中で胸中を打ち明けることによって、2人の冒険の成果は描かれている。ルークにしても、ジェダイになるための修行を通じて弱さに向き合い、ベイダーに誘惑された際にはダークサイドを振り切ってあくまで戦う意思を見せることによって成長を見せつけていた。
それに比べると、今作には独自の物語がほとんど存在しない。あったとしても、ニュートとティナの世界の危機にとってはおよそどうでもいい仲違いや、説明不足すぎて何がしたかったのかよくわからないティナが自らの過去と向き合うエピソードぐらいだ。その他はすべて中途半端に持ち越されている。
自分は、裏の主人公であるダンブルドアとグリンデルバルドがかつて結んでいた只ならぬ関係や、演者ジュード・ロウとジョニー・デップのダンディズム、最強の魔法使い同士の対立という緊張状態に関しては惹かれるものがあった。だからこそ、そのメインをもっとお膳立てしてほしかった。そのためには、申し訳ないが、ニュートやその他総勢はもっとおとなしくしてもらうべきだったと考えてしまう。
ここまで酷な感想ばかりだったが、ハリー・ポッターというコンテンツは相変わらず好きである。願わくば次回作以降で温まり切ったはずのエンジンを活用して、物語を大胆にドライヴしてほしいと思う。